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2010年9月

発展途上国型から成熟社会型へ

 教育を大きく歴史的、世界的に見て、三種類あると思う。

1 伝統社会型

 家庭、共同体の中で、子どもは大人と関わりながら育つ。教育機関は、自然発生的。

2 発展途上国型

 国が義務教育を定め教育機関を設置し、国家と経済の発展のために子どもを訓練する。進学競争が学ぶ動機付けの中心になる。

3 成熟社会型

 高度な産業社会と民主主義をもとに、一人一人の発達と幸福を目的とする。教育機関が中心となる。

 日本は、2の発展途上国タイプの教育で大成功した。しかし、大成功したためにかえってそれに捕らわれて、3の成熟社会型への転換が遅れているのだと思う。

 日本の1947年教育改革は、伝統社会と門地門閥から人々を解放し、人々の大きなエネルギーを引き出した。この時点では、欧米よりかなり進んだ教育システムができていたと思う。
 しかし、日本は高度成長に自惚れてしまい、すっかり型にはまってしまった。いわゆる「学力」めざして頑張らせることから抜け出せなくなってしまったのである。

 現在、多くの人が望むのは、もっともっと一人一人を大事にして、それぞれに合った教育を提供してくれることだ。「だれができて、だれができないか」ではなくて、「その子の学びを助ける」ことなのだ。
 それは決して、個人教授のみが行われるということではない。学校では、個別学習と、一斉授業、共同の活動がうまく組み合わされるタイプになるだろう。

 これは、非常に根底的な変革である。
 日本の教育機関を、学習指導要領遂行機関から、人々の手に取り戻すということなのだ。
 日本の学校は、教育機関としては、たいへん官僚機構化しているのである。教育は本来、先生と生徒の関係の中から生まれてくるものであり、文化として人々が担っていくものなのだ。教育というのは、あたりまえのことではあるが、たいへん人間的なものなのだ。
 それは、行政機関が運営できるようなものではない。現在、教員たちは、たいへん公務員的であるし、学校マニュアルにすぎないものに法的拘束力が課されている。

 その中で、子どもとよく通じ合った教育をしている人たちもいるのだが、個人的な努力と資質に負っていると思う。それが広がるくらいなら、とっくに広がっていると思う。

 現在、「地域との融合」、「家庭との協力」が大きなテーマになった。
 これは、2の発展途上国型教育を温存しつつ、1の伝統社会型を呼び覚まそうとしているのである。
 あまり可能性のある道ではないと思う。少数の成功例で終わると思う。学校の体制がそのままだし、受け皿になれる地域は多くない。

 「なぜ、いま、こうなのか」、を考えればよいのだ。現在教育システムを成り立たせているものは、

  入試制度

  官僚統制

 である。
 この二つを徹底的に検証することだと思う。それは、実際に人々がこの2点で動機づけられているからである。
 保護者と子どもは、結局、入試のための学力にからめとられている。
 先生たちは、結局、行政機構の課した枠に縛られている。

 それが現実ではないのか。
 現実を見ないままだと、いくら理念、理想を掲げても、空回りする。

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勉強を好きになる七つの道

 朝日新聞2010年7月20日朝刊に、元巨人軍投手、野球評論家の桑田真澄氏が、「野球を好きになる七つの道」を提案していた。スポーツでの不合理な精神主義、訓練主義に疑問を出したものだ。
 やっとこれを言ってくれる人が現れたと、桑田氏に心からの尊敬を感じた。その七つの道というのは、

 一、練習時間を減らそう
 二、ダッシュは全力10本
 三、どんどんミスしよう
 四、勝利ばかり追わない
 五、勉強や遊びを大切に
 六、米国を手本にしない
 七、その大声、無駄では?

 ちょうどそのとき、文部科学省が主宰してネット上で「熟議カケアイ」という議論の場があり、その「未来の学校」というエリアでこの「野球を好きになる七つの道」が紹介されて話題になった。

 私もその「熟議カケアイ」に参加していたので、じゃあ、とさっそく、勉強でのバージョンを作った。好評だった。
 それじゃあと、信濃毎日新聞のコラムに、「勉強を好きになる七つの道」を書かせてもらった。それも、読者からよい反応があった。
 このようなものである。

一、勉強時間を減らそう
 学校のことはなるべく学校で済ませよう。子供は全身全霊をあげて現在に生きている。内発的な探索本能と、スキルを向上させる欲求が、子どもを動機づけている。子どもの脳は、そのような構造になっている。”勉強”だけが学びではない。

二、計算や漢字練習は全力10分
 反復練習が必要な分野もあるが、ほんとうに集中できる時間と回数は、そう長いものではない。小学校低学年では、10分でも無理である。分量だけやらせても、何も残らない。果たして何分が適切であるかは、年齢差や個人差が大きいので実証的な研究が必要だが、とにかく現在の指導は非科学的である。

三、どんどんミスしよう
 ミスを怖れると、自分で考えなくなって、権威者に頼り正解だけ貯め込もうとする。子どもがミスをすると指導者が叱ったり皮肉を言ったりしているのは、「学び」がわかっていない証拠。

四、点数ばかり追わない
 点数至上主義になると指導者が手段を選ばなくなる。時間や分量ばかりこなさせる、勉強以外のことを制限する。結果だけ詰め込む。これらは子どもが一人の人間であることを忘れている。

五、ぼんやりや遊びを大切に
 こどもがよく、何もせずテレビも見ず、ただぼんやりとしている。これは、刺激を避けて、自分の内面に根付こうとしているのである。子どもにとって、活動と休息、集中とぼんやり、お祭り騒ぎと静かな手作業、そのような両極の間を動くリズムが大切。

六、頑張り屋を手本にしない
 たまたま頑張れるタイプもいるというだけのこと。「○○ちゃんはあんなにやっているのに、なんでお前は」は最悪。他人と自分は、違うに決まっている。誰だって、他人と比較されるとやる気をなくす。

七、その小言、無駄では?
 小言が多いのは、子どものことを見通せていないとき。いくら言っても、子どもは変わらない。それより、子どもとの生活を楽しむこと。

 目標を押しつけ、やたらと時間を投入させ、失敗すれば叱りつける指導なら、素人でもできる。しかし、苦しませたわりに結果は出ないのではないか。副作用も大きい。それは、スポーツでも学びでも同じである。

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「やる競争」と「やらされる競争」

 教育で、競争は子どもをよく動機づけるのか、それとも子どもの動機を破壊しているのか。

 私は、学びに競争を持ち込むな、という論である。なぜなら競争で、すべての者を伸ばすことはできない。かならず負け組を生み出してしまうからだ。
 たしかに競争で伸びる者もいるが、競争で伸びるような者は、他の手段でも動機づけできるからだ。

 中学生たちに私塾で教えたが、唖然とするほど、「デキない」生徒たちがいる。ゲームを攻略したり、イタズラをする知能を持っているのに、なぜ? と思うのだが、勉強となると青菜に塩をかけたみたいになる。
 中学の成績付けが、基本的には順位づけ、つまり相対評価になっているせいだと思う。有形のものもあるし、生徒たちの間に生じる暗黙の順位づけもある。いちど落ちると、なかなかはい上がれないのである。

 高校受験のように、全員参加で競争をやらせるのは、愚かなことをしていると思う。学びのエネルギーを、点数獲得競争にしてしまう。

 しかしである、私は教育における競争をすべて否定しているわけではない。子どもたちが駆けっこをして、悪いことなどなにもない。クイズで競争を楽しむことはけっこうなことだ。そのような競争が悪いはずがない。

 では、良い競争と悪い競争があるのか

 重大な違いがあるのである。
 それは、「やる競争」なのか、「やらされる競争」なのかである。

 子どもが楽しみにし、いい刺激になっているのは「やる競争」である。やる競争はかならず任意参加である。負けるに決まっている者は、参入しないですむ。負けたら歯をくいしばるような者だけが参入してくる。

 「やる競争」は、かならず、ルールと場を取り決めて、その中だけの競争にしている。それは人間の本能のようなものだ。勝とうが、負けようが、そのルールでの勝ち負けにすぎないし、その場だけですむことなのだ。

 「やらされる競争」は、人間性と将来の生活すべてに関わってしまい、全盛活を賭けてやらなければならないものが多い。入試などがそうである。
 ストレスを感じながらやる者が多いし、第三者からみていてもかわいそうだ。5,4,3,2,1の相対評価もそうだった。「みんな頑張りましょう」と言っておいて、だれかが上がれば誰かが落ちる仕組みを作っているのである。よくあま、あんな教育学上意味のないことががまかり通っていたものだ、と思う。

 「○○ちゃんに負けないように頑張りましょう」と親に言われて、気分のよい子がいったいいるのかと思う。

 「やらされる競争」は、本人の意思にかかわりなく、全員が投げ込まれしまうのである。ストレスが大きい。トップ層以外は、誰もが「これでいい」ということがなくなる。トップ層だって、いつずり落ちるかわからない状態に置かれるのである。
 競争をやらせているほうは、自分は腕組みをして、みんながあがいているのを見下ろし、「負けないように頑張れ」と言っていればいいのである。なんたる不道徳と思う。

 学びというのは、本来は、なにかがわかるとか出来るようになることであって、それがこなせたか、身についたかの絶対評価しかあり得ないはずである。学びが相対評価になるなど、どうかしている。

 競争を肯定するときは、たいてい「やる競争」を持ち出して、それがいかに刺激的で能力を伸ばすかを言う。そして、「やらされる競争」まで、肯定してしまうのである。
 「やる競争」と「やらされる競争」を混同してはいけない。

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