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2010年7月

千と千尋の神隠し ブタになったパパとママ

アニメ「千と千尋の神隠し」をみたとき、たまげた。
こんなに的確に、われわれの深層心理を描き出している作品があったのかと。

あの場面、あのキャラクターと、語りだせばキリがないのだが、「やった、描き出してくれた」と感動したものの一つに、「ブタになってしまったパパとママ」がある。

千尋とパパとママが、別世界の町に入っていくと、中華料理ふうの料理屋がある。店の人が誰もいない。そこで、パパが食べ物に手を出す。ママも手を出す。二人とも、おいしいおいしいと食べはじめ、だんだんガツガツと食べるようになり、そのうちにブタになってしまうのである。

そこから、千尋が一人で冒険を始め、最後はパパとママと助けるのであるが、この「ブタになったパパとママ」は日本の精神状況を見事に描き出していると思う。

多くの人が、夫婦そろって、享楽的な生活を送っている。対象は、食べ物かもしれない、服かもしれない、他人のゴシップかもしれない、パチンコかもしれない、とにかく感覚的な楽しみに没頭している。そうすると、子どもが孤独になるのである。両親の感覚が、人間が生きることそのものに、焦点を合わせていない。子どもは、自分のほうを向いてくれていない感じがするのである。

こういう親の享楽は、ほんとうの喜怒哀楽と違うのである。働き、生活する中に、おのずと喜怒哀楽というものがある。それは、子どもにもよく伝わるものであり、生き方の指針を示すことができるものなのである。
ところが享楽的な楽しみは、出来合いのものであり、真実味がない。何が起ころうが特定の感覚を呼び出して、すがりつくのである。子どもとの共感も生まれにくい。

いつもゴロゴロして、テレビを見ている生活。そして子どもに「勉強しなきゃだめだよ。そうでないとカアちゃんや、トウちゃんみたいになっちゃうよ」と言うのである。
これは、子どもの魂を傷つける。深く傷つける。

子どもに「こういうふうに生きるものなんだよ」と身を以て示せるものがない親に、子どもの魂は路頭に迷ってしまうのである。決して娯楽が悪いわけではない、楽しみを持つのが悪いわけではない、しかし、子どもには、真実味が必要である。

「千と千尋の神隠し」の中では、娘がこのパパとママを助け出す。
たぶん、現実でも子どもは、パパとママを助けようとする。それは、パパとママをリアリティに引き戻そうとする行動だろう。子どもは、親を喜ばせようとするかもしれない、注意を引こうとするかもしれない、困らせるようとするかもしれない。それらはみんな、「ほんとうのパパとママ」に声を掛けようとしているのである。

子どもといっしょに暮らす喜びというものがある。喜びだけとは限らないが、それはでっち上げられたものではないリアリティそのものである。それが、親を助けているのである。

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きみの感覚でいいんだよ

 いわゆるお勉強ができない子、教えても教えてもザルで水をすくうような手応えの子、何人か相手をしました。

 こういう子たちは、アタマが悪いんじゃないんです。
 それだったら、ゲームであんなに上達することはないだろうし、友達とあんな風に臨機応変に遊べるはずはない。

 アタマが悪いのではなくて、自分の感覚でモノを言っても、ロクなことがないと感じているのです。それが条件反射になっています。
 間違える危険を避けるために、自分で考えずに、聞きかじったことばかり言う。それでまた間違いばかりになり、けっきょく考えることを放棄するのです。

 いちばん伝えたいのは、「きみの感覚でいいんだよ」、ということです。

 できるに決まっている問題を出して、「できたね、できたね」といっしょに助走するのをよくやりました。それからだと、けっこう考えてくれます。

 でも、「このくらい大丈夫だろう」というのをうっかり出したら、すっかり立ち往生して、どうしようもなくなってしまうことがあります。それは、私のミス。

 安全を求めて、いろんな知識を集める。難しそうなものほど、合っていそうな気がする。
 それで、けっきょく、間違えるんです。

 あなたの感覚でいいのです。

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口に押し込むこと

 保母をしている人と話をしていた。

 上司にあたる人が、昼食時に、叱りつけてでも口に押し込んででも子どもに全部食べさせるという方針の人で、その人の指示に従わなければならないことで、苦しんでいた。

 別な保母さん。
 子どもに無理にでも食べさせなければならないことは、見るのさえつらかった。食べたくなければ無理させない方針の園に就職できて、ほっとしている。

 食事もそうだし、勉強もそうだが、何を注入すべきか決めて、子どもが嫌がっても押し込むのがよいと信じている人たちがいる。

 私は、それを見ているだけで辛くなる人間の一人である。

 嫌がっているのを押し込むべきではない。それは間違っている。 

 こどもの感覚が破壊されてしまうのだ。
 自分の感覚を信じることができない人間にしてしまうのだ。

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「ゆとり教育」はなぜ行き詰まったのか

 「ゆとり教育」が言われた時期があった。

 反動を招くだけだろうと思った。
 「ゆとり教育」はいい理念だし、失敗を願っているわけではない。しかし、入試と官僚運営に触れずに、いったいどうやって「ゆとり」を生み出すのか、私はクビを傾げてしまうのだ。

 日本の学校の病根は深い。「ゆとり」など、そんな高級なことは、生徒の動機付け、教師の能力とモラル、学校の運営方法、すべてに深いメスが入らないと実現できっこない。足許を見ずに、けっこうなことを結果だけ求めようとしているから、混乱するだけだと思っていた。

 じっさい、そうなった。
 うまくいかなくて、「学力」に復帰していった。

 強制力で成り立っているところがただ強制力を弱めれば、崩壊する。

 強制力で生徒たちを動かしていると、生徒たちの自主性が衰弱するものなのである。そこで強制を弱めたからと言って、衰弱した自主性がそう簡単に息を吹き返すものではない。
 享楽的な遊び、揚げ足取り、自己顕示、他者支配などが跳梁跋扈するのである。これらの悪徳は、他律に慣れ、自分自身の感覚に根付くことのできなかった人間たちの、やみくもな試行錯誤である。

 もう一つ、強制力を弱めるべきは中学と高校である。それなのに、中高は緩めず、小学校を緩めた。これは、逆である。

 ほんらい中学高校は、もう大人の仲間入りをする年齢であり、若き市民たちとして遇しなければならない年齢である。任せどころの年齢なのである。
 しかし、中学高校は、入試が控えているので、緩めようがないのである。
 競争入試制度を廃止せずに「ゆとり」を言っても、ゆとりが生じるはずはないではないか。

 小学生年齢は、ある程度集団の規範を大人が作り維持していたほうがよい。これは、賞罰主義や訓練主義の意味ではまったくない。子どもが、面倒なことは大人に依存できて、自分のやりたいことに熱中できるようにするためである。
 それなのに、小学校は子どもの言うなり状態をたくさん作った。これは、学校と教師によってものすごくバラツキがあるのだが、平均的には、言うなりになるほうに動いた。

 そして、「学力」の大合唱が始まった。
 「学力」はけっこうな衣をまとうが、実体は受験主義と点数主義への回帰である。前が何も見えないから、過去の成功の模倣へと逃げ込んで行ったのである。

 その回帰も、そろそろ弊害が噴出してくる頃であろう。前に進めないので後ろを向いただけのことだから、昔の弊害がまた姿を現す。

 こんどはまともな改革をやるためのポイントが三つある。

・ 競争入試の廃止。資格さえあれば願書だけで入れる方式への移行。それで運営している国はたくさんある。

・ 学校の官僚統制の廃止。官僚運営は、無謬でなくてはならず、前例と規則が大事であり、文書ばかりがたくさん作られるのである。教育のことは、専門家と現場に任せるべきである。

・ オルタナティブ教育の解禁。国家主導教育は、「社会が何を求めているか」から教育内容を決めていく。そうではなく、「子どもの発達のためには何が必要か」から発想する教育が存在し、影響を及ぼしている必要がある。 

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