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ほんとうに教育の論理ですか?

 不登校というのは、会社勤めしている人が大きなストレスにさらされて心身が限界に達したのと同じ状態です。

 会社勤めだったら、とにかく休みます。
 それから、元の職場に戻るか、会社に配慮をお願いするか、その会社を辞めるかします。それは、それぞれの事情によります。一律に職場復帰しろと言うのは無理です。

 不登校も、それと同じに考えればいいことです。ただそれだけのことです。その子その子に合わせて柔軟に考えればいいだけのことです。学校を絶対視するのは無理です。

 しかし「学校教育法」という法律に就学義務が書いてあります。
 先生は個人的に「無理だな」と思っても、「学校に来なくてもいいよ」とは口が裂けても言えない立場なのです。先生たちは公務員です。公務員は法律を尊重しなければいけません。

 でも先生が法律を持ち出して「来なければならない」と言ったら、「あなたはまるで公務員です。教育者ではないのですか」と非難されます。
 だから、ほんとうは法律に制約されているだけなのに、先生たちはいろんな理屈を作りだしました。

  ─ 怠け癖をつけてはいけない

  ─ 社会に出たときのために我慢できないといけない

  ─ 子どものいいなりになれば、子どもは安易に流れる

  ─ 子どもの将来が閉ざされる

 というような理屈をたくさんたくさん作り出しました。なんと無慈悲な。

 これらは、ほんとうに教育者としての論理なのでしょうか。学校に来させなければならない公務員の立場が生み出した言い訳ではないのでしょうか。
 たくさんの子どもが追い詰められました。

 90年代に文科省が「不登校は誰にでも起こりえる」という通知を出してから、先生は「休んでもいいよ」と言えるようになりました。それから、不登校の子どもの追い詰められようは、軽くはなりました。
 でも、学校が絶対であることは変わりません。「しばらく休んでもいいよ。でも元気になっても戻らなかったらズル休みだよ」なのです。

 学校には「病気以外休んではいけない」という不文律があります。ズル休みを防ぐためです。
 学校はつまらないところです。誰もがズル休みしたいのです。だから、病気以外で休むことはぜったいに許されないことだ、という学校文化ができていました。

 学校は、就学義務の上にあぐらをかいています。いくら内容が悪くても、利用者が逃げ出せないのです。

 学校を創る自由と選ぶ自由を認めて、強制力で成り立っている学校が自然淘汰されるようにすべきです。
 学校を創る自由と選ぶ自由は、基本的人権なのです。教育を健全なものにするために、基本的な知恵なのです。国際的条約になっています。

 前回と同じ引用をもう一度。

「いかに多くの大人たちが、役人のように官僚的に考えるかに気づいたことはないだろうか?
 もし彼らが教師なら、彼らの考えはその役割に限定される。
 彼らは、生と共に脈動している人間存在ではない。文法の規則や数学、あるいは歴史を少しばかり知っているが、しかし彼らの思考はその記憶、その知識によって限定されるので、彼らの知識は彼らを殺していくのだ」 (「未来の生」 J.クリシュナムルティ)

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コメント

不登校の原因が「ストレス」で,原因は子どもを追い詰めるひどい教師というステレオパターンでしか考えられないんでしょうか。本当に教育について研究されているんですか。

投稿: kazukitea | 2012年6月18日 (月) 17時48分

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