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ゲーム、良いか悪いか

 ゲームは子どもの成長にとって良いのか悪いのか。

 私にはわからない。どちらの理由もたくさんみつかる。
 ただ、ここで一つ、私の体験を参考に挙げたい。

 私は、大のビデオゲーム好きである。これまで、人生で一番熱中したのは、「ウィザードリーⅠ」をやっていたときで、1ヵ月、食事とトイレと睡眠以外はコンピュータの前に向かっていた。PC9801の時代である。フリーターのような生活をしていたのをフルに使った。
 コンピュータのプログラミングやソフトいじりも好きで、腕前はたいしたことはないが、すぐに熱中した。

 それでも、50歳を過ぎるとさすがに頻度も継続時間も減る。60歳の現在では、たまにしかやらなくなった。
 その50歳代での話である。

 そのころ、ウィンドウズにオマケでついている「スパイダー・ソリティア」に熱中していた。おもしろい、奥が深い。すぐに時の経つのを忘れる。

 そのスパイダー・ソリティアをやっているときに、いつのまにやら昔の恨みをしょっちゅう思い出していることに気が付いた。私に対してとんでもない仕打ちをしたアイツやらアイツやらに対する憎しみである。いつのまにか、アイツのことをリアルに思い浮かべては「くそーっ、それでも人間か」とつぶやいているのである。
 こんなことにこだわるとは、私も人間ができていない、と押さえようとするのだが、多くの方がご存じのように、これはなかなか止まるものではない。

 おや、スパイダー・ソリティアをやると憎悪・怨恨が湧くのかな、と思った。関係があるかもしれない。
 そうなるかどうかやってみよう、とやると、やっているうちにちゃんと、アイツやアイツに対する憎しみでいっぱいになっているのである。別に、生活に特に事件があったわけでもない、いつもと違うストレスがあるわけではないから、スパイダー・ソリティアが引き金であろう。

 憎悪・怨恨がかんたんに止まるものではないのは、人間の常であるが、スパイダー・ソリティアをやっているときに憎悪・怨恨が湧き出るというのはわけがわからない。

 ちょうど、クリシュナムルティの著作を読んでいて、いったい何を言っているのかがわかってきたころだった。クリシュナムルティの言うことは、「いかなる権威にも知識にも頼らずに、自分のあるがままをみつけなさい。どんな言葉も使わずに直接認識しなさい」、というだけのことである。
 こんな高級なことがおいそれとできるわけはないのだが、それがちょっとできただけでも安定と幸福感がやってくることを、おぼろげに感じ取れてきたころだった。

 あるがままを見つけるなかでも、自分の中のネガティブな感情を見つけるのは、比較的たやすいのである。それは、招かれざる客であって、ぜったいに自分のでっち上げではなく、追い出そうとしても居座っているのだから、「いまあるもの」を見つけるには、ちょうどいいのである。

 ある日、ぜったいに見つけてやる、と思って、体調のいいときにスパイダー・ソリティアを始めた。そうしたら、わかった。

 やっていてしばらくすると、実は飽きてくるのである。身体全体のほうは、そろそろいやだ、やめたいというモヤモヤしたものを発している。ところがスパイダー・ソリティアは純粋思考ゲームであって、途中でやめたらすべてがパーになってしまう。
 思考が、生きることの全体の中でも独立性が高くなるように、われわれの教育と文化ができているのであろう、私もそれで生きてきたからであろう。思考が動き出したら、途中で止められるものではない。

 しばらく、身体はもう嫌だといっている、思考は熱中しているという状態が続く。そのうちに、身体のほうが「いつまでも、いうことを聞いてくれない」ことに嫌気がさし、理解してくれないことを憎み出すのである。
 まず、憎しみがある。子どもの時と同じように身体全体で生きている部分が、聞き入れてもらえない憎しみでいっぱいになっている。しかし、私はそれを聞き入れず、「このカードをここに移したら‥‥」
しか考えていない。

 出口のなくなった憎しみは、独特のやり方ではけ口を見つける。それが、アイツやアイツの過去の仕打ちを思い出して憎むことなのである。私は、「やはり、こっちのカードをこうして」と考えながら、「アイツは、一つのことしか見えない低能である」と考えている。主語だけ換えて、自分のことを言っているのである。
 主語だけ換えて言いたいことを言って、「別にあんたのことを言っているんじゃないんですが」と相手に伝えようとするのは、動物的な知恵であって、われわれのよくやることである。それを自動的にやっているのである。
 心理学的に言えば”投影”なのであるが、”投影”のメカニズムはまだ説明されていない。じつは、このように自分が聞き入れてくれない場合の、主語入れ替えなのであろうという仮説を立てている。

 しかし、とにかく現象としては、私はアイツに対する怨恨でいっぱいになりながら、スパイダー・ソリティアをやっているのである。
 嫌になりながらやっているのであるが、嫌だということは自覚されていない。そして、終わったときの達成感はあまりに大きい。そこで、またスタートボタンをクリックするのである。

 そういうことだったのか。
 なぜ、他のゲームではそれが起こらず、スパイダー・ソリティアでは起こるのかというと、スパイダー・ソリティアは1ゲームにかかる時間が長いためである。20分くらいかかる。普通のソリティアやマインスィーパーだと、もう嫌だというのが憎しみにまで高まるまえに、ゲームが終わるのである。ドラゴンクエストやファイナルファンタジーだと、純粋思考ゲームではなくて、音楽や映像から訴えてくる総合芸術のような面も持っているし、局面が単調ではないから、飽きにくいのだと思う。しかし、どこかでは飽きているはずだが、飽きたという声はか細い声なので、聞こえないのである。

 たぶん、「もう飽きた。やめたい」という感覚が敏感ならば、何をやっても害はないのであろう。ネガティブな感情が自覚されて、ほどほどのところで止まる。
 しかし、われわれは、ネガティブな感情から逃れ、楽しさにひたりたいからゲームをやるのである。たいていは、「もう嫌だ」に気が付かない。

 ゲームだけではない、虚栄心、地位、新聞・テレビ、株式相場、ゴシップ、セックス、イデオロギー、ありとあらゆるものから、われわれは喜びを絞り取ろうとし、「もうたくさんだ」の感覚を無視する。それを止めたときには、空虚感に襲われる。その空虚感から逃れるために、またいっそうつかの間の喜びを求めるのである。

 唯一の出口は、「もう飽きた。もう十分だ」の声に耳を傾けることができることである。
 しかし、これは、教育によって徹底的に無感覚にされているのである。

 そのときの観察いらい、私はスパイダー・ソリティアを自然にやらなくなった。今はハーツをちょっとやるくらいである。ハーツだと、1ゲームが1分以内に終わり、そのときには、私は、何か「もうたくさんだ」という嫌悪感を感じていて、自然に止まるのである。

 同じような嫌悪感を、自分の虚栄心やら、白日夢やら、イデオロギーやら、ゴシップやら、権威への同調やらに感じ取れれば、私は自然なバランスを取り戻し、世の中でもっとも幸福な人間になれるであろうが、まだそこまでは自分の生を生ききっていない。

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コメント

はじめまして。
何でもバランスの問題だと思います。
ゲーム特有の悪い点や良い点は数少なく、人に対する影響も少ないでしょう。

問題は、ゲームに限らず「ばかり」をするところにあるのかと存じます。
外で遊ぶのも、本を読むのも、スポーツに励むのも、それ「ばかり」では、というところです。

ゲームは的になり易く、家の中での遊びの部分に属するので、色々標的になりますが、外での遊びも、本を読むのもスポーツをするのも、そしてゲームで遊ぶのも、それぞれバランスよくやれば、よく言われるゲーム悪論などは「大人の責任放棄」に他ならないと結論付けられるでしょう。

投稿: とん子 | 2010年7月 9日 (金) 18時15分

こんばんは。
いじめや学級崩壊のメカニズムにも繋がりそうなお話ですね。
やたらに口やかましい担任のクラスでいじめがあったりするのは、子どもたちの「先生の小言はもういやだ」が個人攻撃、だれかを憎しみの対象にしているのかもしれません。

口に押し込まない教育、心静かに子どもと向き合う教育が望まれます。

投稿: 希望 | 2010年7月30日 (金) 00時22分

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