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2010年6月

ゲーム、良いか悪いか

 ゲームは子どもの成長にとって良いのか悪いのか。

 私にはわからない。どちらの理由もたくさんみつかる。
 ただ、ここで一つ、私の体験を参考に挙げたい。

 私は、大のビデオゲーム好きである。これまで、人生で一番熱中したのは、「ウィザードリーⅠ」をやっていたときで、1ヵ月、食事とトイレと睡眠以外はコンピュータの前に向かっていた。PC9801の時代である。フリーターのような生活をしていたのをフルに使った。
 コンピュータのプログラミングやソフトいじりも好きで、腕前はたいしたことはないが、すぐに熱中した。

 それでも、50歳を過ぎるとさすがに頻度も継続時間も減る。60歳の現在では、たまにしかやらなくなった。
 その50歳代での話である。

 そのころ、ウィンドウズにオマケでついている「スパイダー・ソリティア」に熱中していた。おもしろい、奥が深い。すぐに時の経つのを忘れる。

 そのスパイダー・ソリティアをやっているときに、いつのまにやら昔の恨みをしょっちゅう思い出していることに気が付いた。私に対してとんでもない仕打ちをしたアイツやらアイツやらに対する憎しみである。いつのまにか、アイツのことをリアルに思い浮かべては「くそーっ、それでも人間か」とつぶやいているのである。
 こんなことにこだわるとは、私も人間ができていない、と押さえようとするのだが、多くの方がご存じのように、これはなかなか止まるものではない。

 おや、スパイダー・ソリティアをやると憎悪・怨恨が湧くのかな、と思った。関係があるかもしれない。
 そうなるかどうかやってみよう、とやると、やっているうちにちゃんと、アイツやアイツに対する憎しみでいっぱいになっているのである。別に、生活に特に事件があったわけでもない、いつもと違うストレスがあるわけではないから、スパイダー・ソリティアが引き金であろう。

 憎悪・怨恨がかんたんに止まるものではないのは、人間の常であるが、スパイダー・ソリティアをやっているときに憎悪・怨恨が湧き出るというのはわけがわからない。

 ちょうど、クリシュナムルティの著作を読んでいて、いったい何を言っているのかがわかってきたころだった。クリシュナムルティの言うことは、「いかなる権威にも知識にも頼らずに、自分のあるがままをみつけなさい。どんな言葉も使わずに直接認識しなさい」、というだけのことである。
 こんな高級なことがおいそれとできるわけはないのだが、それがちょっとできただけでも安定と幸福感がやってくることを、おぼろげに感じ取れてきたころだった。

 あるがままを見つけるなかでも、自分の中のネガティブな感情を見つけるのは、比較的たやすいのである。それは、招かれざる客であって、ぜったいに自分のでっち上げではなく、追い出そうとしても居座っているのだから、「いまあるもの」を見つけるには、ちょうどいいのである。

 ある日、ぜったいに見つけてやる、と思って、体調のいいときにスパイダー・ソリティアを始めた。そうしたら、わかった。

 やっていてしばらくすると、実は飽きてくるのである。身体全体のほうは、そろそろいやだ、やめたいというモヤモヤしたものを発している。ところがスパイダー・ソリティアは純粋思考ゲームであって、途中でやめたらすべてがパーになってしまう。
 思考が、生きることの全体の中でも独立性が高くなるように、われわれの教育と文化ができているのであろう、私もそれで生きてきたからであろう。思考が動き出したら、途中で止められるものではない。

 しばらく、身体はもう嫌だといっている、思考は熱中しているという状態が続く。そのうちに、身体のほうが「いつまでも、いうことを聞いてくれない」ことに嫌気がさし、理解してくれないことを憎み出すのである。
 まず、憎しみがある。子どもの時と同じように身体全体で生きている部分が、聞き入れてもらえない憎しみでいっぱいになっている。しかし、私はそれを聞き入れず、「このカードをここに移したら‥‥」
しか考えていない。

 出口のなくなった憎しみは、独特のやり方ではけ口を見つける。それが、アイツやアイツの過去の仕打ちを思い出して憎むことなのである。私は、「やはり、こっちのカードをこうして」と考えながら、「アイツは、一つのことしか見えない低能である」と考えている。主語だけ換えて、自分のことを言っているのである。
 主語だけ換えて言いたいことを言って、「別にあんたのことを言っているんじゃないんですが」と相手に伝えようとするのは、動物的な知恵であって、われわれのよくやることである。それを自動的にやっているのである。
 心理学的に言えば”投影”なのであるが、”投影”のメカニズムはまだ説明されていない。じつは、このように自分が聞き入れてくれない場合の、主語入れ替えなのであろうという仮説を立てている。

 しかし、とにかく現象としては、私はアイツに対する怨恨でいっぱいになりながら、スパイダー・ソリティアをやっているのである。
 嫌になりながらやっているのであるが、嫌だということは自覚されていない。そして、終わったときの達成感はあまりに大きい。そこで、またスタートボタンをクリックするのである。

 そういうことだったのか。
 なぜ、他のゲームではそれが起こらず、スパイダー・ソリティアでは起こるのかというと、スパイダー・ソリティアは1ゲームにかかる時間が長いためである。20分くらいかかる。普通のソリティアやマインスィーパーだと、もう嫌だというのが憎しみにまで高まるまえに、ゲームが終わるのである。ドラゴンクエストやファイナルファンタジーだと、純粋思考ゲームではなくて、音楽や映像から訴えてくる総合芸術のような面も持っているし、局面が単調ではないから、飽きにくいのだと思う。しかし、どこかでは飽きているはずだが、飽きたという声はか細い声なので、聞こえないのである。

 たぶん、「もう飽きた。やめたい」という感覚が敏感ならば、何をやっても害はないのであろう。ネガティブな感情が自覚されて、ほどほどのところで止まる。
 しかし、われわれは、ネガティブな感情から逃れ、楽しさにひたりたいからゲームをやるのである。たいていは、「もう嫌だ」に気が付かない。

 ゲームだけではない、虚栄心、地位、新聞・テレビ、株式相場、ゴシップ、セックス、イデオロギー、ありとあらゆるものから、われわれは喜びを絞り取ろうとし、「もうたくさんだ」の感覚を無視する。それを止めたときには、空虚感に襲われる。その空虚感から逃れるために、またいっそうつかの間の喜びを求めるのである。

 唯一の出口は、「もう飽きた。もう十分だ」の声に耳を傾けることができることである。
 しかし、これは、教育によって徹底的に無感覚にされているのである。

 そのときの観察いらい、私はスパイダー・ソリティアを自然にやらなくなった。今はハーツをちょっとやるくらいである。ハーツだと、1ゲームが1分以内に終わり、そのときには、私は、何か「もうたくさんだ」という嫌悪感を感じていて、自然に止まるのである。

 同じような嫌悪感を、自分の虚栄心やら、白日夢やら、イデオロギーやら、ゴシップやら、権威への同調やらに感じ取れれば、私は自然なバランスを取り戻し、世の中でもっとも幸福な人間になれるであろうが、まだそこまでは自分の生を生ききっていない。

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「だめじゃないか、危ない、違う」ではなく

 人間が傷つくのは、いつも耳元で「だめじゃないか、危ない、違う、みっともない、ああしろ、こうしろ」という声がしているときです。

 これは、はじめは、子どもに関わっている大人たちの声です。
 そのうちに内面化されて、一人でいるときも、こういう声が頭の中で鳴り響くようになります。

 それは、恐怖を元にした条件反射の体系であり、知性としてはもっとも単純なものです。野生動物は、恐怖を元にして、型にはまった生活をしていることが知られています。「危ない、違う、みっともない」で生きることは、野生動物と同じ生活なのです。

 「だめじゃないか、ああしろ、こうしろ」の生き方を身につけさせるためなら、とくに体系的な教育は必要ありません。伝統社会のように、大人たちに交じって子どもたちを育てていけば、社会的慣習は子どもたちの中に自然に内面化されます。長いあいだ、人間はこのやり方で社会を維持してきました。

 そうではなく、探究精神を燃やし、どうなっているのかを吟味し、つねに新たな答えを見出していくのが、人間の知性というものです。そのような知性に基づいたとき、人間には焼き尽くすような幸福感があります。
 近代の教育が、いささかではあっても、この人間らしい知性を育ててきたから、われわれは、これだけの物質文明を享受することができています。

 学校教育が、あるいは学校でなくてもかまわない、子どもたちの学びのための場と機会を用意することは、「だめじゃないか、危ない、違う」から人間を解放するためにあります。命令と叱責を、理解と感受性に置き換えること、それが教育です。

 しかし、学校教育はすぐに、「~をできるようにさせた」、「ちゃんと挨拶できるようにさせた」に全力を挙げてしまいます。学校は、ある目に見える結果を出すために、すぐ子どもを脅したり、競争させたりしてしまいます。
 学校の教育方針を決定するのが、政治家や、官僚や、経営者たちになっているからではないでしょうか。口先でなんと言おうとも、彼らは子どもの発達を見ている人たちではなく、政治や経済の利害にからめとられている人たちです。政・官・実業界の人たちが主導してできた法律と教育内容に従って、校長も教師も教育を行っています。

 教育者たちと親たちが、そしてある程度の年齢になったら子どもたちもまじえて、教育を決定できるようにすることが、教育にとって根本的に大切なことだと思います。

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ほんとうに教育の論理ですか?

 不登校というのは、会社勤めしている人が大きなストレスにさらされて心身が限界に達したのと同じ状態です。

 会社勤めだったら、とにかく休みます。
 それから、元の職場に戻るか、会社に配慮をお願いするか、その会社を辞めるかします。それは、それぞれの事情によります。一律に職場復帰しろと言うのは無理です。

 不登校も、それと同じに考えればいいことです。ただそれだけのことです。その子その子に合わせて柔軟に考えればいいだけのことです。学校を絶対視するのは無理です。

 しかし「学校教育法」という法律に就学義務が書いてあります。
 先生は個人的に「無理だな」と思っても、「学校に来なくてもいいよ」とは口が裂けても言えない立場なのです。先生たちは公務員です。公務員は法律を尊重しなければいけません。

 でも先生が法律を持ち出して「来なければならない」と言ったら、「あなたはまるで公務員です。教育者ではないのですか」と非難されます。
 だから、ほんとうは法律に制約されているだけなのに、先生たちはいろんな理屈を作りだしました。

  ─ 怠け癖をつけてはいけない

  ─ 社会に出たときのために我慢できないといけない

  ─ 子どものいいなりになれば、子どもは安易に流れる

  ─ 子どもの将来が閉ざされる

 というような理屈をたくさんたくさん作り出しました。なんと無慈悲な。

 これらは、ほんとうに教育者としての論理なのでしょうか。学校に来させなければならない公務員の立場が生み出した言い訳ではないのでしょうか。
 たくさんの子どもが追い詰められました。

 90年代に文科省が「不登校は誰にでも起こりえる」という通知を出してから、先生は「休んでもいいよ」と言えるようになりました。それから、不登校の子どもの追い詰められようは、軽くはなりました。
 でも、学校が絶対であることは変わりません。「しばらく休んでもいいよ。でも元気になっても戻らなかったらズル休みだよ」なのです。

 学校には「病気以外休んではいけない」という不文律があります。ズル休みを防ぐためです。
 学校はつまらないところです。誰もがズル休みしたいのです。だから、病気以外で休むことはぜったいに許されないことだ、という学校文化ができていました。

 学校は、就学義務の上にあぐらをかいています。いくら内容が悪くても、利用者が逃げ出せないのです。

 学校を創る自由と選ぶ自由を認めて、強制力で成り立っている学校が自然淘汰されるようにすべきです。
 学校を創る自由と選ぶ自由は、基本的人権なのです。教育を健全なものにするために、基本的な知恵なのです。国際的条約になっています。

 前回と同じ引用をもう一度。

「いかに多くの大人たちが、役人のように官僚的に考えるかに気づいたことはないだろうか?
 もし彼らが教師なら、彼らの考えはその役割に限定される。
 彼らは、生と共に脈動している人間存在ではない。文法の規則や数学、あるいは歴史を少しばかり知っているが、しかし彼らの思考はその記憶、その知識によって限定されるので、彼らの知識は彼らを殺していくのだ」 (「未来の生」 J.クリシュナムルティ)

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