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2010年5月

役割に限定された思考

 次の文は、クリシュナムルティの著作からの引用です。(「未来の生」 春秋社  p186)

「いかに多くの大人たちが、役人のように官僚的に考えるかに気づいたことはないだろうか?
 もし彼らが教師なら、彼らの考えはその役割に限定される。
 彼らは、生と共に脈動している人間存在ではない。文法の規則や数学、あるいは歴史を少しばかり知っているが、しかし彼らの思考はその記憶、その知識によって限定されるので、彼らの知識は彼らを殺していくのだ。」

 これは、鋭い批判に見えます。
 しかし、批判ではないのです。これは「あるがままを見ませんか」と言っているだけであり、だからどうしろとかこうしろとかはまったくありません。
 この文章は、ここで話題が転換し、だからどうしろ、という話が発展するわけではありません。

 それがクリシュナムルティを理解するカギなのです。また、実際に人間に変容が起こるカギなのです。
 深く、あるがままを感じ取ったときにだけ、ほんとうに変わるのです。
 ああしなければならない、こうならなければならないとかいうのは、いわゆる「頭ではわかってるんだけど」になり、葛藤を引き起こしているだけです。

 「あなたはこうなのだ。だから、こうしなければならない」
 それが官僚的思考なのです。

 クリシュナムルティは難解だと言われています。それは、クリシュナムルティが、何か固定した論点から演繹したり、それを主張しているのではないためです。

 クリシュナムルティは、「こうなっているんじゃないですか、ご自分で見ていただけませんか」と言っているだけです。クリシュナムルティの著作は、自己観察の手引きとして使ったときにだけ、意味が見えてきます。

 もしわれわれが教師でないならば、教師たちが官僚的であることがよく見えます。
 教師らしく振る舞おうとか、あれをわからせようこれを理解させようとか、生徒の授業態度の善し悪しとか、任務としての思考なのです。

 では、自分について、そのような官僚的思考、つまり「あなたの現状はかくかくであり、目標であるしかじか目指して努力しなければならない」が、自分や他人に対する権力行使であることを、それが生じた瞬間に見ることができますか。

 大人はそれを見ることが難しくなっています。でも、子どものうちに適切に教育すれば、野心や教条を持たない人間に育てることができる。
 というのが、クリシュナムルティ教育の精髄なのです。

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眠らないこと

 がんばることについての小話。人から聞いた実話です。

  子ども 「ぼく、きょう学校の社会の時間ですごくがんばったよ」

  母   「そう、えらいわね。何をしたの」

  子ども 「うん、すごく睡たかったけど、がんばって眠らなかったんだ」

 話は急に変わってしまいますが、別な意味の、睡くても眠らないことついて。

 私は、十代の頃けっこう頭がよかったときもありました。好奇心が強く、当意即妙で受け答えし、学校の授業を聞いただけですべて習得している。家庭学習など一切しない。なんにもがんばらない、なんの目標も持たない。

 大人たちが、「古山は勉強しなくてもそんなにいい成績を取るのだから、勉強したらさぞかしすごいだろう」と思いました。

 とんでもない。
 私が勉強したら、なんの取り柄もない人間です。
 私は、知識を貯め込もうとしない、何の欲もない、先入観もなく、好奇心まかせで生きていたから、いつも物事を新鮮に受け止めることができてただけでした。

 その後、人並みに何かを得ようとする人間になり、成績は急降下するし、心は人並みに不幸になりました。

 いまじゃ、勉強しないと何も入らない、残らない。
 頭の中は言葉だらけ。胸の中は恐怖だらけ。

 がんばって眠らないので精一杯。
 もちろん、知性が眠りこまないことです。

 他人が、パターン化した思考にとらわれたり、言葉に陶酔しているのを見るのは、やるせないやら気の毒やらに感じるものですが、私も平気でやってます。でも自分のそれを、なんとか眠らずに感じ取ると、推測でもなく結論でもなく感じ取ると、何かしら美しいものがひとりでに流れ込んでくる。

 はは、偉そうに言っちゃって。
 でも、ほんのひとかけらでもそれができると、知性というのは蓄積できるものではなく、自分がやっている言葉でのでっちあげに気づくことそのものであることがわかります。

 学校でのいい授業は、実物の検証や討論を通じて、そういうでっちあげを子どもたちに気が付かせます。
 学校で子どもに、恐怖や不安に訴えてなにかをやらせるとき、子どもは思考やイメージに取りすがって、でっちあげの世界を作ります。

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愛を求めてのもがき

 ここのところ、このブログに「オレはあきお信者になんかならないからな」というようなコメントをいくつかいただきまして、「お、そんなに有名になれたのか」と嬉しくなって調べたところ、どうも私のこととはぜんぜん関係ありませんでした。2チャンネルで、どこかのあきおさんをコキおろすスレッドがあって、その余波のようでした。残念。

 当ブログに対するコメントではないから、バッサリ削除。

 2チャンネルのそのスレッドを読んでみましたが、「臭い」とか「うんこ」とかそのテのものでした。悪質ないじめの可能性がある。でも、学生同士のふざけ合いなのかもしれない、判断がつきませんでした。いずれにしても小学生並み。

 自分が、高校や大学の時代、友人たちとコキおろし合いをやって、遊んでいたのを思い出します。どれだけお互いの悪口を言えるか、それで仲の良さを確かめていました。「お前みたいなチンチクリンに届くかよ」、「おい、デブ」みたいなこと平気で言い合います。

 でも、それと同じ感覚で、あまり仲のよくない人にも接していた。ずいぶん、傷つけていたこともあるだろうなあ。相手と場所をわきまえていたつもりではありますが、他に仲良くなる方法を知らなかったから、いろいろとやらかしていたと思います。
 考え見ると、人の悪口を言い放題言っているときは、学校に適応できてました。

 大人になってみて、子どもたちのいろんな姿に接してみて、ああいうコキおろし合いで仲良くなっている集団があると、かならずいじけている集団があるんです。平気で悪口を言い合っている”勝ち組=適応者”と、自分の世界にこもる”負け組=不適応者”に分かれている感じです。両者が接するところに生まれるタイプのいじめがあります。悪意がないだけに、やったほうの自覚がないのが困る。
 「ナニ傷ついてんだよ、ナルシストめ」
 みたいなこと、平気で言いますからね。

 その後私は、向こうで人が笑っただけで、自分のことを笑ったのだろうと感じるとか、何を言われても言い返す言葉が浮かばなくて、ニコニコと卑屈な笑いを浮かべているだけとか、そんな立場も経験しました。

 どちらも、勝ち組の無神経も、負け組の神経過敏も、競争させられている社会で起こるんだ、と今は思っています。
 「おまえはすごい」、「おまえはダメだ」、「おまえが頑張れ」‥‥‥
 で、いつも自分の証明をしていなければならない。
 それが自我肥大そのものなんです。いつも頭の中で立派なことを考えて、自分を証明している。あるいは、自分を批判しつづける。とにかく、ある評定の対象としての”自分”。

 いばる、ひけらかす、いじめる、攻撃する、自責にかられる‥‥‥

 けっきょく、愛なき世界での、もがきなんですね。
 もがいたなあ。

 愛は決して方法ではありません。努力でもありませんし、自己改善でもありません。どんな作為でもありません。
 それを承知して、あらゆる偽善や自己欺瞞を払いのけたとき、突然どこかから現れる一筋の光なんです。

 そんな風に、愛って、愛そうと思って愛せるものでもないのですが‥‥‥。

 でも、でも、学校での子どもたちの、愛を求めてのもがきって‥‥‥、
 かわいそうだなあ。

 小学生でも、大学生でも。

 ただ、ただ、涙滂沱。

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憲法26条は深いのだ

 きょうは、憲法記念日です。

 教育に関して直接述べている憲法条文は、一つだけです。

第26条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。

 特に、第2項をよく読んでください。保護者が「学校に行かせる義務を負う」と書いてありますか?
 違いますよね。保護者が「普通教育を受けさせる義務を負う」と書いてあります。

 違いがないって?

 いえいえ、普通教育というのは学校とは限らないんじゃないですか。
 家庭で行う普通教育もあり得ます。
 私塾で行う普通教育もあり得ます。
 憲法は、すごく可能性を持っているんです。

 今は普通教育を行うと法律に書いてあるのは学校だけですが、ちょっと、法律に学校の他にも「~は普通教育である」と書き加えれば、それも立派な義務教育になるんです。保護者は子どもを教育する義務を負っているのであって、その教育を保護者が手配すればいいのです。


 家庭で育てる普通教育もありとしたら、学校に行くか行かないかは、親が決めればいいことです。たいていは学校に行かせるでしょうけれども、それは唯一無理矢理の道ではありません。

 そうしたら、学校は選んだものなのです。無理矢理行かされたのではないのです。親は、学校を選んだ人間として学校に要望してよいのです。

 そうしたら、親と学校は、対等の契約関係になります。学校は、就学義務の上にあぐらをかいて、何をしたって生徒と親は来続けなければいけないんだ、なんて言えなくなります。親としても、自分で選んだのだから、責任ある行動をします。

 そのとき、学校が本当によくなってくるんじゃないでしょうか。

 とにかく言いたい。
 「公立学校は就学義務の上にあぐらをかいている」

 公立学校が義務教育の独占者であるからそうなります。憲法の可能性を最大限生かしましょう。

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