« 2010年2月 | トップページ | 2010年4月 »

2010年3月

教師農民論

 ここのところ、無農薬教育の話しをしてきたが、そもそも教師という職業は農民に近いと思う。
 拙著「変えよう!日本の学校システム」に書いたことから引用する。
 私自身は私塾だったが、やはり、子どもを相手にすることは農業に似ているなあ、とよく思った。

======== 引用 =========

 教師は固定した相手に継続して長い期間関わる。このような専門職は珍しい。医師や弁護士なら相手が問題を抱えているときだけ関わる。音楽家や俳優なら、上演ごとに聴衆が入れ替わる。

 そこで、学校の教師たちの仕事は、それぞれの農地を持っている農民の仕事に似てくる。教師には自分の受け持ちの生徒がいて、その教師が手塩にかけて育てている。作物を種蒔きから収穫まで年単位で世話する農民と、生徒の成長に年単位で付き合う教師は、立場が似ている。

 教師も農民も生命を相手にするのが仕事で、なかなか思い通りにはならず、いつも知恵が必要だというのも似ている。

 学校の正体は、自営農民の集まりに近いのである。大学が、教授たちの共同組合的になっていくのも、学校の本来の性質からくるものである。学校は農民団体に近いという性質を無視して集団化すると、社会主義国における集団農場のようなものができてしまう。「言われた通りやればいいんでしょ」という、やる気のなさと無責任の巣窟になってしまうのである。
(p147)

======== 引用終 =========

 いまの学校システムは、この教師という専門職の性質を間違えていると思うのである。子どものことを知らない人たちの指揮権が大きすぎると思う。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  応援クリックのためのバナー

| | コメント (6) | トラックバック (1)

教育での農薬と化学肥料

 戦後日本で行われた農薬と化学肥料を多用する農業と、戦後日本の教育がよく似ていると思う。基本的な考え方が共通している。

 病虫害を防ぐために農薬を撒くのと、授業を乱す者を出さないために規律と訓練を徹底させるのがよく似ている。

 化学肥料を使って作物を成育させることと、進学競争を使って勉強させることがよく似ている。たしかに、どちらも目先はよく伸びる。

 ついでに言えば、作物の泥を落としワックスをかけて出荷するのと、生徒に挨拶を叩き込み服装を正させるのが、よく似ている。市場での見栄えが最優先である。

 さらに似ているのが、農薬や化学肥料を使わずに農業をやるのも、叱責と競争なしに教育をやるのも簡単なことではなく、たいへんな観察眼と技術を必要とすることである。

 しかし農業と教育でたいへん違うことがある。
 農業ではすでに農薬と化学肥料の弊害は認識されている。残留基準も存在し、やむを得ず使っているのだというコンセンサスがある。
 それに対し教育では、規律と訓練、受験勉強で動機付けることが、当たり前だと思われている。”無農薬農業”、”有機農業”に相当する言葉すら、教育ではまだ存在していないのである。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  応援クリックのためのバナー

| | コメント (0) | トラックバック (1)

農薬漬け教育

 生徒への脅しや辱めに依存している教育を”農薬漬け教育”と呼びたい。

 ある人の体験談から引用する。
 中学生のとき学級委員をしていた。ある日、担任に学級を仕切るよう命じられたために、全校の評議委員会に遅れてしまった。すると、評議委員会の担当教師が

 全校の学級委員の前で大剣幕で、
「テメエ何遅れてんだ! お前が自分勝手に遅れて来たせいで、みんなにどれだけ迷惑がかかったと思ってんだ! 
謝れ! このヤロー! 迷惑かけたみんなの前で土下座して謝れ!」
「遅れて申し訳ありませんでした」
先生はすかさず学級委員たちに向かって
「皆さん、どうですか? こんなんで許してもらえますかね? ほら、許して下さるってヨ。
さっさと席に着け、オラ!」
http://ameblo.jp/feijoahills/entry-10473418680.html#cbox

 その担当教師に対してすかさず、「事情を聞いてください」と言えばよかったろうって?
 その人は言えなかった。言えるものじゃないです。
 言える文化を、学校は作ってきてない。

 この人には、後遺症が残ったそうだ。農薬中毒に似ている。

 話しは私自身のことになるのだが、私が後悔や心配でいっぱいになっているとき、身体がすくんでぎごちないような感じがある。それは、自分が怯えている状態なのだとやっと最近わかった。今の私は、それなりの社会的スキルはもっているし、どんな状況でもやっていくことはできる。でも、根っこに怯えがある。その怯えは、どうも幼児体験より、小学校体験なのだと思う。それが農薬漬け教育の後遺症である。
 身体がすくんで、動きがぎごちないような感じは、小学校の低学年のときに生じたものであることをよく覚えている。

 そのときは、これが恐怖だとはわからなかった。身体的な、言うに言われぬつらさがあるだけである。ただその中にどっぷりと漬かっていただけだから、比較の対象もないし、言葉にもならない。親にそれをわかってほしかったが、親は学校の味方をして、我慢させようとした。親を信頼しなくなった。

 私の場合、特定の先生によってダメージを受けたのではない。小学校の強制的、訓練的な雰囲気全体が身体に合わなかった。私は農薬には過敏だった。学校では、もっともいうことを聞かない子どもたちに合わせてしょっちゅう農薬散布が行われるのである。やさしく教え諭せばそれでわかる子たちは、フラフラになり、怯えているのである。

 自分個人の要因も、家庭要因もあり、すべてを学校のせいにしては申し訳ないと思う。しかし、もっとましな学校があり得ると思う。

 もし私が全権を握った校長だったら、自分の学校で絶対に農薬を使わせない。そのことに心から賛同してくれる教師たちだけを採用する。また、教師の採用にあたっては、候補者を子どもと遊ばせたり授業をさせたりして、子どもと親しめる人か、子どもへの感受性を持っている人かどうかを実際に見る。ペーパーテストの点など、どうでもよい。
 とにかく、学校をもっと家庭的にする。校舎を住居に近づけて、子どものくつろぎ場所や隠れ場所ができるようにする。休み時間を多くする。子どもというのは、敏感なんだ、脅したら条件反射を作ってしまう、それは知性の破壊なのだと、教師たちにいつも頼んで歩く。
 子どもがまずいことをしたなら、まずいと言えばいい、しかし罰を与えてはいけない、それを教師たちに徹底させる。
 子ども同士を比較するような言葉を言わないでくれ、それは暴力なのだということも、繰り返しワークショップを開き、教師たちに体得してもらう。
 テストをするときは、教師の教え方を評価しているのであって、子どもを評価しているのではないことを徹底させる。
 子どもに対して「頑張れ」と言ったら、それは教師の教育技術の未熟を生徒のせいにしているのであり、教師の恥なのだという共通理解を作り出す。

 生徒を侮辱する教師は、クビである。サービス業で、お客さまを侮辱する社員がクビになるのと同じである。

 とにかく、子どもたちが安心できる場を作るために手段を尽くす。
 学力というのは、子どもたちが安心できたときの、最後のおまけのようなものである。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  応援クリックのためのバナー

| | コメント (1) | トラックバック (1)

« 2010年2月 | トップページ | 2010年4月 »