« 教育の整備から学びの保障へ | トップページ | 話が耳に入らないとき »

心はどこにあるのか

 最大の教育問題。
 人々が、自分の心を見失っていること。社会が死んだ慣習と、虚栄と教条の巣窟になっていること。
 べつに、紋切り型で世の中を嘆いているのではない。ちょっと、常識を飛び越したい。

 自分の動機は見えないものだ。自分が虚栄につきうごかされていることに気が付いている人がどれだけいることか。自分の嫉妬に気が付いている人が、権力欲に気が付いている人がどれだけいることか。
 とりわけ、自分を突き動かしている恐怖を自覚できている人がどれだけいるだろうか。

 他人からは、その人が何で動いているのかがよく見えるのである。あいつがあたりさわりのないことしか言えない小心者であるとか、こいつの本音が強がりであるとかいうことは、誰だって一目で見抜いている。
 しかし、本人は自分の動機が見えていない。見えずに、自分の思想、信条、言語化された体験を、自分だと思っている。それで、社会は虚栄と教条の巣窟になる。

 なぜ自分のものは見えないか。
 ここからが本題である。

 結論から言うと、こういう虚栄やら、嫉妬やら、権力欲やら、恐怖やらは、身体の感覚や気分として存在しており、言葉の形になっていないためである。身体の状態や気分に対する正確な感受性を持っていないと、わからない。言葉で自分自身をいくら内省しても、探索の網の目にひっかからないのである。
 感情は脳にあると考えられがちである。もちろん、脳は感情に対して欠くべからざる機能を果たしている。しかし、感情は、身体に存在し、身体で感じられるものである。
 身体から発信されているものに感受性を持っていないと、さまざまな感情や意思は、容易に無意識の領域に追いやられてしまうのである。われわれは、言葉になったものにのみ反応するよう、学校でも、社会の文化としても、教育されてきたのである。

 無意識と呼ばれるもののほとんどは、身体の感覚として存在している。もし、われわれが注意深ければ、それがどのように作用しているか、十分に知覚できるものである。
 言語化は難しい。しかし、明瞭に把握できる。

 身体を通じて恐怖を感じ取りそうになると、たちまちのうちに条件反射的な思考が現れて、その思考に注意が向けられる。それで、本人はその恐怖を意識できないのである。
 そのとき本人は素晴らしいことを思いついたように感じているが、そういうときの思考は、必ず以前に仕込んだ言葉の繰り返しである。独創性などありはしない。

 もし、自分がやけに言い訳がましくなっているとき、自分の身体の状態を敏感に感じ取れたら、心細さのようなものが胸から腹にかけて漂っていることに気が付くだろう。全身がかじかんだような状態であり、呼吸が浅いことに気が付くだろう。

 自分の身体全体でその瞬間瞬間を感じていること、自分の五感で感じていること、それを歪めず、解釈を加えず、あるがままを受け取ること。外界に対しても内界に対しても、起こりつつあることをトレースしていること、これが知恵と呼ばれているものの正体である。そのとき、明晰さがあり、的確な行動がある。そのときにわれわれは、条件反射に突き動かされてお決まりの思考を繰り返すパターンから解放されている。そこに、解放感があり、おのずからなる愛がある。
 言葉でいっぱいになっていることが、愚かということなのである。

 心は、身体にある。われわれが、羨望や恐怖にかられて「あのようになろう」という思考に従いはじめたとき、われわれは心と切り離されてしまうのである。思考が本来の役割を離れて、身体に対する命令者になったとき、われわれの恐怖と不安の生活がはじまる。

 心というのは、身体の瞬間瞬間の状態そのものなのである。心を充実させる必要があるからこそ、子どもは身体全体で生きるのである。人間には長い子ども時代があって、大人のように考えることはできないまま生きている。これは、重要なことなのである。この子ども時代を尊重しないといけない。身体全体で生きている中に、思考がゆっくりと、権威的でなく、あらゆる感覚と連動して、育っていかなければならないのである。

 権威に頼ったり、生徒の野心や競争に訴えて、結論を注入していくだけの教育は、人間の無意識の闇を大きくしてしまうのである。それは、権力欲や嫉妬のはびこる社会を作る。

 子どもが育つときに、ただ覚えればいい知識の部分ももちろんあるし、練習によって身につける部分ももちろんある。しかし、それは人が育つなかでの、ほんの部品である。人を健全に育てようとするなら、なんらかの結論や技能を子どもに強制してできるようにさせて喜んでいてはいけない。そのとき、子どもを自分の心から切り離し、自分が何をしているかの自覚のない人間にしてしまうのである。

 その現実を知ったら、子どもを強制的に机に座らせておくことの害や、機械的な型にはまった体操をやらせることの害は、自然に理解されるだろう。
 このことは、知識として覚えられてはいけない。それでは、ドグマを増やすだけだ。われわれの感受性によって、それぞれの人によって、発見されなければならない。教師を養成するコースのかなりの部分は、教師の感受性の開発に向けられなければならない。

 教師が、「心」と呼ばれるものの、このような実態に気づくことができたら、教育全体が変容をとげる。教師が、マニュアル人間ではなくなるのである。

 そのとき、「誰々を見習いなさい」、「誰々のようになってはいけません」が、本人の感受性に基づかない、結論の押しつけであることが理解されるだろう。「心のノート」など、見向く人間すらいなくなるであろう。

 官僚機構が教育内容まで決定することや、法律が倫理・道徳にまで立ち入ることが、いかに馬鹿げたことであるかは、自然に理解されるであろう。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  応援クリックのためのバナー

|

« 教育の整備から学びの保障へ | トップページ | 話が耳に入らないとき »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/209056/47491287

この記事へのトラックバック一覧です: 心はどこにあるのか:

« 教育の整備から学びの保障へ | トップページ | 話が耳に入らないとき »