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無農薬教育とは

 無農薬教育。
 いま、私が作った言葉である。殺虫剤や化学肥料を使わない農業には、”無農薬農業”という言葉が用意されていてる。賞罰や競争を使わない教育にも、一言でそれとわかるような言葉があっていい。

 とりあえず無農薬教育と呼ぼう。他にどんな名前でもいい、強制力や賞罰を使わず、生徒の感受性と理解力を信頼する教育のことである。

 農業では、殺虫剤と化学肥料を大量に使う農法が広まっている。このやり方をすれば、誰でも無難にかなりの収量をあげることができる。しかし、農薬それ自体は人体に有害であるし、環境を汚染し、生態系を破壊する。

 教育でも、勉学を強制し家庭での時間まで投入させ、ご褒美で釣り罰で脅す教育が主流である。このやり方をすれば、どんな生徒を相手にしても、そこそこの学力をつけさせることができるものだ。しかし、このタイプの教育は、人間を浅薄にする。

 教室内の農薬散布がある。
 先生がつまらない授業をしている。生徒たちが集中しない。すると先生が、集中しない生徒の誰かをターゲットにして、「お前、そんな態度で大人になったらどうするのだ。将来はフリーターだ、ニートだ...」と、吊しあげる。一人を相手にしているようであるが、実は教室全員を罰している。殺虫剤をまいているようなものだ。
 朝礼で校長がつまらない話しをえんえんとやり、それでも生徒が我慢して立っているように訓練する。私語を交わしたり列を乱した生徒は厳しく叱責する。これも農薬散布の一種だ。

 誰か一人をめちゃくちゃ誉めあげて、「みんなも○○さんに負けないように頑張りましょう」と言う。こういうふうに競争心や嫉妬で動機付けをするのが化学肥料である。「きみの人生がかかっている」と入試に向けて頑張らせる。それも化学肥料である。点数はそこそこ取るが、自分が何をしたいかがさっぱりわからない人たちの大群を作る。

 賞罰と競争で駆り立てる教育から脱却したい。多くの人がそう願っていると思う。
 私自身が農薬型の学校で育てられた。今になってわかる。大事なところにたくさんの恐怖と条件反射を植え付けられてしまっている。別な教育があり得たはずだと。

 子どもをムチとニンジンで走らせる競走馬扱いしたくない。子どもの自発性と理解力を大事にしたい。親たちにも、教師たちにも、それを願う人は多いと思う。

 ところが、ところが、問題はここからなのだ。願ってできるくらいなら、とっくに実現している。
 新しい教育をあえて無農薬農業になぞらえたのには理由がある。農薬を使うのは使うだけの事情がある。それを知らずに、ただ農薬をやめればいいくらいに思っていたら、とんでもない目にあうのである。

 無農薬農業は簡単ではないのである。
 意欲的な農家が、農薬を使わずに農業をやりたくて実行する。そうすると、たちまち作物に病気が出る、害虫の食い荒らし放題になる。収量の半減くらいならいいほうで、畑が全滅することもザラである。やっとできた作物も、見てくれが悪くてたいした値段がつかない。
 無農薬教育も簡単ではないのである。子どもが自分で学ぶ力を大事にしたいから、と授業に強制力を使うのをやめると、とたんに子どもはおしゃべりのし放題、互いに悪ふざけをする、まじめな子が授業を聞こうとするのが妨害される。授業内容はさっぱり身についていない。

 新任の先生で、希望に燃えて、強制力を使わずに授業をすることを目指す人たちもけっこういるだろうと思う。
 おそらく半年後には、学級崩壊させているだろう。

 すると経験豊かな先輩が優しく諭すであろう。「きみの理想はよくわかるよ。でもね、もっと現実を知るべきだ。ほっておけば、子どもは安易なことしかしないのだよ。いつもこなすべき課題を与え、信賞必罰を心がけなければいけない。達成する喜びを感じさせろ。小さな悪さは、日頃、芽のうちにしっかりと摘め」
 先輩のいう通りにすれば、経験不足の先生でもなんとかやっていけるようになるだろう。
 そこで、「子どもは本来怠惰であり、強制力なしに教育は成り立たない」と信じる教師が、また一人誕生する。

 無農薬農業を成功させた人たちは、かならず悪戦苦闘している時期がある。農薬は使うだけの理由があるのである。使わなければ、たちまち病虫害にやられる。それでも無農薬農業を成功させるには、植物を知り、土壌を知り、生態系を知り、たいへんな観察と知恵を働かせなければならないのである。

 私も、教育での無農薬を目指した一人である。
 専門学校で非常勤講師をしていた。そこで「試験の点数は保障するから、のびのびとやれ」という授業をやってみた。ほんとうの学びを引き出したというにはほど遠いものだった。学級崩壊同然も経験した。授業というのは、プロフェッショナルな知識と経験が必要なのだと思い知った。

 補習塾を開き、「誰に言われなくても子どもがやりたがることに教育上の最も重要なものがある」という教育哲学を掲げて、自由時間だらけにしていた。授業もやっていたが、いっさいの強制、辱め、競争、賞罰を使わないことにした。うまくいったり、いかなかったりだった。無農薬がどれほどたいへんなことなのかは、したたかに経験した。
 自由の匂いをかがせるくらいのことはできたと思うが、週に1回、2時間程度では、匂いをかがせることしかできなかった。

 教壇にも立ち、塾もやってみて、逆に、先生たちが農薬を使う必然性がよく理解できた。自分の小中高校の先生たちがなんであんなふうだったのかも、その立場になってみて、よくわかった。今になって思う。あの人たちも、けっこう良識ある普通の大人だったのだ。

 不登校の人たちのためのフリースクールもやった。学校を嫌がった甥をうちに居させ、ホームスクールもやった。失敗ともいえないし、「こうすればできる」と示すほど成功したわけでもない。
 健全な学びが発展するためには、どれほどいろんな条件があることか。アンチ学校だけで、別な教育を作り上げられるものではない。

 そんな次第で、無農薬教育というのは簡単なものではないということだけは、身に沁みさせられた。

 無農薬農業をやるには、生態系がカギである。土の中のバクテリア、ミミズ、いろんな雑草、さまざまな虫、その虫を食べるクモや鳥。それらのバランスを見つけ、うまく調節することができたから、無農薬でも作物を作れたのである。

 無農薬教育も同様である。賞罰や競争を使わないなら、人間がどのように学んでいるかを徹底的に知り、何かがまずいとき、どうしたら自然な回復力が働くようになるかを見出さないといけない。

 文科省主導で「ゆとり教育」が言われた。しかし、無農薬農業が研究熱心な篤農家でないとできないように、ゆとり系の教育は、現場の研究熱心な教育家たちが自発的に取り組まないとできない。上からの号令でいっせいにやれるような性質のものではない。
 そもそも、入試制度をそのままにして、たいして「ゆとり」が生まれるはずがない。

 賞罰系の教育なら文科省や自治体の主導でもできる。官僚世界の運営原理を手直しするだけのことだからである。マニュアルを作り、学力試験を課し、目標を掲げていればできる。しかし、ゆとりや個性尊重系の教育は官僚主導ではできない。
 案の定、「学力」の大合唱が起こって、教育の潮流は昔の訓練主義へと回帰していった。

 志ある人たちが自由に教育を作れるようにしないといけない。学校があんまりひどかったら、自分たちの教育を作れるようにしないといけない。それは市場原理でもわがままでもなく、基本的な人権問題である。
 教育では一斉改革をやってはいけない。教育をよくする特効薬があるかのごとく思うのが、幻想なのだ。

 自然の生態系を回復させるように、教育を学問や技術や文化の領域として、内容や方法は自律にまかせることだ。それは学びの生態系を回復させるためにどうしても必要だ。

 カギは学校自治と、教育を作る自由にある。
 制度整備をしただけで無農薬教育を作れるということではないが、制度的に自由度を大きくしないと、人々の創意と工夫がただ砂の中に吸い込まれていく。

 それを言いたくて4年前に本を出した。 「変えよう!日本の学校システム」 (平凡社)である。
 ぜひ、この本を読んでいただければと思っている。
 

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コメント

本を読んでみようと思います。
ホームスクールの考え方を支持していましたが教育に全員に効く特効薬のような方法はないのだということがわかりつつあって今は再来年が長女の小学校入学ですが彼女の様子を見ながら支えていくべきなのかなと考えています。最終的に経済的にも精神的にも自立させることを考えると非正規雇用があふれる現在の社会ではますます競争の性格の強い教育に偏っていきそうです。ヨーロッパはもともと教育と競争が結びついていないそうで羨ましいとは思いますがどの国にもなにかしらの悩みはあるのでしょう。とにかく他国の教育に関してでも何に関してでも今の私には本を読んで勉強するしかできることはない。私自身が偏差値教育で育ってしまっている。その弊害を子に伝えてしまわないようには勉強するしかない。その勉強に逃げる姿勢そのものが一番の毒である可能性があるのに私は読書に答えを求めてしまう。偏差値教育の弊害が何なのか、はっきりとはわからないのだが、ぐんぐん伸びていた偏差値の伸びが止まった頃から無気力感に少しずつ蝕まれてしまったように回想する。良い結果を

投稿: ayatin | 2010年3月 9日 (火) 11時57分

途中で投稿してしまいました。
良い結果を期待すると本来の勉強になぜか手がつかなくなっていったのが私の記憶です。

投稿: ayatin | 2010年3月 9日 (火) 12時00分

アメリカのホームスクール母スミコです。
知り合いに、ジョージという元パイロットだったオーガニックのお百姓さんがいます。「今年はトマトが全滅しちゃったよ。でも、いい年と悪い年があるし、あせらず楽しみながら、育ててるよ。もっと研究が必要だな。ハハハ。」なんて、のんびりしているんです。
ホームスクールの子どもがちょっとつまづいたりすると「ほーら、学校も行ってないからだ」と攻められたりします。虫がついていて、でこぼこ野菜でも甘くておいしいのが、ジョージの育てた野菜。通り道しながら、失敗しながら、学んでいく我が家の8歳男児。農薬かけちゃえば、らくちんかもしれないけど、このまま無農薬ボーイを
楽しみながら見守ろうと思っています。

投稿: Sumiko | 2010年3月11日 (木) 01時05分

この考えはすばらしいですね!
人としての生き方についてこのところ似たようなことを考えていました。

数年前に出会った自然農の考え方が生物としての人の生き方に寄り添っているようで、とても好きです。(自分のwebではないのですが詳細は以下で)

http://iwazumi2000.cool.ne.jp/tizu/osirase6.htm

生物界の仕組みはそのまま人の生き方の根本であるのだなあと漠然と考えていましたが、それを教育までになぞらえていませんでした。

改めて、そういった視点から自然農の基本の理を 読みかえしてみると、とても興味深いと思いました。

無農薬という言葉の響きは、すでに農薬が存在することが前提で、それに対するNOの意識をより強く感じてしまうので、より軽快な発想の 自然農教育なんていうのはどうでしょう。


投稿: saya | 2010年3月14日 (日) 02時27分

教育に関わる仕事をしております。
古山先生の理念には賛同できますが、
この「無農薬教育」という用語は、非常に残念に思います。

 先生も文のまんなかあたりで、このようなことを書かれているのだから、理解されてのことでしょう。

 けれどもあえて言わせていただけば、無農薬農業は本当にたいへんです。日本の農業を支えているのは、いわゆる「さんちゃん」や「兼業農家」です。
 こういう現場では、農薬を使わざるを得ません。決して楽をするためでもありません。1年かけて育ててきたものが、台風でダメになり、虫がついてダメになり、そうしたことをできるだけ少なくするためです。
 農薬や化学肥料を散布するのも大変です。できればやりたくない。
 私の父も兼業でしたから、朝5時におきて散布し、風呂に入ってから仕事にいきました。私も何度か手伝いましたが、つらい仕事です。
 私も農薬を賛成しているわけではありません。でも使っている方々は注意も払っております。私の故郷では、農薬を散布しても、蛍が飛び、川には清流の魚もおります。

 先生のこの文章からは、「農薬=手抜き、悪」「無農薬=努力、善」という図式しか見えません。
 無農薬という言葉は、非常に耳に良い言葉です。この言葉を使うだけで、先生の教育がよいものに見えるでしょう。
 でも、こういう文脈で「無農薬」という表現をしかも教育の比喩として使われることは、非常に悲しく、非常に残念に思います。

投稿: ドラゴン | 2010年9月17日 (金) 20時56分

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