« 心はどこにあるのか | トップページ | 教師と一般公務員の違い »

話が耳に入らないとき

 会合に出席して、私が他人の話をほとんど聞いていないときがしょっちゅうある。他人がしゃべっているときに考えごとをしているためだ。もし私が指名されて、「あの人の発言はどういう内容でしたか」なんて尋ねられたら、私はしどろもどろして立ち往生してしまうだけだろう。私はまるで学習障害児だ。

 誰かが先生に指されてしどろもどろしていることが、小、中、高校とよくあったなあ、と思い出す。あまりに頻繁にあった。
 誰かが先生に、かんたんなことを聞かれる。ところがその子は、まったく答えられない。そんなかんたんなことなのに、と不思議になるほどのことなのに、しどろもどろしている。すごく頭が悪そうに見える。

 あの子たちの状況は、私が会合で話しを聞いていないのと、きっと同じだ。いわゆる「理解力がない」という現象は、じつはこの「先生の話がまったく耳に入っていない」という状態のことではないか。

 そう思ったから、どういうときに私が他人の話を聞いていないかを、とにかく観察することにした。

 誰が発言者であるかしだいだ。声の質によって、聞きたくなる人と、聞きたくない人がいる。人間そのものの暖かさみたいなものがある。親しめる人と親しめない人がいる。

 抽象論をしゃべる人がだめだ。どこかで聞きかじったけっこうなことをつなぎ合わせている発言もだめだ。自然に、耳の中のシャッターが下りてしまう。体験談を気持ちを込めてしゃべる人が現れると、とたんに話しを聞ける。

 自分の発表を控えているときがだめ。何をしゃべろうかばかり考えていて、他人の言うことなど聞いていない。

 初対面の人が多い場だとだめだ。緊張がとれない。

 殺風景な部屋だとだめだ。壁がむきだしの安い公民館を使ったようなとき。

 疲れているときがだめ。椅子が硬かったり、まわりがざわついているときもだめ。

 などなどだ。
 自分の状態はというと、しばらく注意を向けていると、キューン、キューンと内臓が収縮するような感じが存在しているのに出会う。それを名付けるのは困難だが、恐怖というかパニックというか、そんなもののようだ。

 こういうことだと思う。
 なじめない、親しめない状況に出会うと、子どもの中に生理的な恐怖反応が起こっている。そして、その恐怖をまぎらすために考え事をしているのだ。恐怖を感じないようにするための思考は、条件反射として自動的に起こるから、理由がわからない。
 外部からこの現象を見ると、「注意散漫」、「ふまじめ」、「理解力がない」と見える。極端な場合は、学習障害と分類される。

 臨床教育学や、心理学を研究する人たちが読んでくれていたら、ぜひ、お願いがある。次のような実験をしてデータを出していただけたら、有り難い。

 いろいろと条件を変えては、被験者に向かって話しをし、「いま、どんなことが話されたでしょうか」と尋ねるのである。まるっきり内容を把握できていないことが、しょっちゅう起こるはずである。それは、どういう時であるかをデータにしていくのである。
 脳波、心拍数など、生理状態の計測と組み合わせると、状態を客観的に把握できる。とくに、恐怖を示す生理状態と、他人が言っていることを理解できることの相関関係が大きいだろうと思う。

 たぶん、この研究から、ものすごくいろんなことがわかると思うのだ。子どもをむやみに非難しなくなる思うのだ。「話しを聞け」と怒鳴る先生がいなくなると思うのだ。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  応援クリックのためのバナー

|

« 心はどこにあるのか | トップページ | 教師と一般公務員の違い »

コメント

私にもこんな状況がよくあります。
1月に古山先生をお訪ねしたときでさえ、自分の考えをまとめようとして、先生のお話を聞けずにいることがありました。
(先生、その節は大変お世話になりました)

授業をしていると、子どもの中に同じ状況だろうな、と思う子が何人もいることがあります。大抵の場合は、自分の授業がおもしろくないからだろうと反省します。

でも、中には、確実に聞いているはずなのに聞けていない子もいます。「音楽室に行きましょう」と言った次の瞬間に「先生、みんなどこに行くの?」と訊く子もいます。
そういう子のためには視覚で示してやる一手間も必要です。聴覚だけでは不十分なのだと、発達障害等の勉強をして少し分かってきました。耳が聞こえないわけでも、ましてやふざけているわけでもないことがこの頃やっと分かってきました。
特別支援教育の分野では、そういう困難さに対する研究も進んでいて手立てもいろいろ紹介されていると思います。
通常学級の担任はもっとそういう知識を得て、正しく子どもと接することが大事だな、と思います。「さっき、言ったばかりだろ!」などと怒鳴らずに・・・。

しかし、先回りして、子どもの困難さを取り除いていくことばかりが、いいことではないとも、この頃実感しています。音楽室の例をとると、周りの動きに合わせて行動してみることが必要なこともあると思います。

上の例で言うと、不必要なのは先生が「怒鳴ること」です。でもなぜ怒鳴ってしまうかというと、効率よくことが進んでもらわないと困ることが学校現場にはいっぱいあるからです。

学校がもっとゆったりとして、多様性に対応できるものに変わっていけばいいなあと思います。

投稿: N | 2010年2月14日 (日) 07時15分

Nさん、ほんとうに学校がもっとゆったりするといいですね。
今回の記事では、特別支援教育には触れませんでした。感覚がまったく違う子どもたちもいるのだと思います。

投稿: 古山明男 | 2010年2月15日 (月) 18時51分

私も人の話に集中できず、意識が飛んでしまいます。
話し相手には相づちを打っていても、
すべて聞き取ることはできず、上の空に
なりやすいのです。
関心がない話の時は特にその傾向が強い
ような気がします。

学校時代は、指名され答えられずに恥を
かくのを恐れつつ、心は遥か遠くにあったものです。

夫にも「人の話しを聞かない!!」「返事してたくせに!」と
しばしば非難されます。
相手の声は聞こえても脳では言葉として認識されずに、
メロディー(環境音?)として認識し、聞き流し
てしている感じです。

夫の言葉を理解してうなづくのではなく、
言葉のリズムに反応して無意識に
(夫に脊髄反射と呼ばれています)うなづいて
いるのかもしれません。

投稿: まさに私のこと | 2010年2月16日 (火) 22時22分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/209056/47552090

この記事へのトラックバック一覧です: 話が耳に入らないとき:

« 心はどこにあるのか | トップページ | 教師と一般公務員の違い »