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2010年2月

無農薬教育とは

 無農薬教育。
 いま、私が作った言葉である。殺虫剤や化学肥料を使わない農業には、”無農薬農業”という言葉が用意されていてる。賞罰や競争を使わない教育にも、一言でそれとわかるような言葉があっていい。

 とりあえず無農薬教育と呼ぼう。他にどんな名前でもいい、強制力や賞罰を使わず、生徒の感受性と理解力を信頼する教育のことである。

 農業では、殺虫剤と化学肥料を大量に使う農法が広まっている。このやり方をすれば、誰でも無難にかなりの収量をあげることができる。しかし、農薬それ自体は人体に有害であるし、環境を汚染し、生態系を破壊する。

 教育でも、勉学を強制し家庭での時間まで投入させ、ご褒美で釣り罰で脅す教育が主流である。このやり方をすれば、どんな生徒を相手にしても、そこそこの学力をつけさせることができるものだ。しかし、このタイプの教育は、人間を浅薄にする。

 教室内の農薬散布がある。
 先生がつまらない授業をしている。生徒たちが集中しない。すると先生が、集中しない生徒の誰かをターゲットにして、「お前、そんな態度で大人になったらどうするのだ。将来はフリーターだ、ニートだ...」と、吊しあげる。一人を相手にしているようであるが、実は教室全員を罰している。殺虫剤をまいているようなものだ。
 朝礼で校長がつまらない話しをえんえんとやり、それでも生徒が我慢して立っているように訓練する。私語を交わしたり列を乱した生徒は厳しく叱責する。これも農薬散布の一種だ。

 誰か一人をめちゃくちゃ誉めあげて、「みんなも○○さんに負けないように頑張りましょう」と言う。こういうふうに競争心や嫉妬で動機付けをするのが化学肥料である。「きみの人生がかかっている」と入試に向けて頑張らせる。それも化学肥料である。点数はそこそこ取るが、自分が何をしたいかがさっぱりわからない人たちの大群を作る。

 賞罰と競争で駆り立てる教育から脱却したい。多くの人がそう願っていると思う。
 私自身が農薬型の学校で育てられた。今になってわかる。大事なところにたくさんの恐怖と条件反射を植え付けられてしまっている。別な教育があり得たはずだと。

 子どもをムチとニンジンで走らせる競走馬扱いしたくない。子どもの自発性と理解力を大事にしたい。親たちにも、教師たちにも、それを願う人は多いと思う。

 ところが、ところが、問題はここからなのだ。願ってできるくらいなら、とっくに実現している。
 新しい教育をあえて無農薬農業になぞらえたのには理由がある。農薬を使うのは使うだけの事情がある。それを知らずに、ただ農薬をやめればいいくらいに思っていたら、とんでもない目にあうのである。

 無農薬農業は簡単ではないのである。
 意欲的な農家が、農薬を使わずに農業をやりたくて実行する。そうすると、たちまち作物に病気が出る、害虫の食い荒らし放題になる。収量の半減くらいならいいほうで、畑が全滅することもザラである。やっとできた作物も、見てくれが悪くてたいした値段がつかない。
 無農薬教育も簡単ではないのである。子どもが自分で学ぶ力を大事にしたいから、と授業に強制力を使うのをやめると、とたんに子どもはおしゃべりのし放題、互いに悪ふざけをする、まじめな子が授業を聞こうとするのが妨害される。授業内容はさっぱり身についていない。

 新任の先生で、希望に燃えて、強制力を使わずに授業をすることを目指す人たちもけっこういるだろうと思う。
 おそらく半年後には、学級崩壊させているだろう。

 すると経験豊かな先輩が優しく諭すであろう。「きみの理想はよくわかるよ。でもね、もっと現実を知るべきだ。ほっておけば、子どもは安易なことしかしないのだよ。いつもこなすべき課題を与え、信賞必罰を心がけなければいけない。達成する喜びを感じさせろ。小さな悪さは、日頃、芽のうちにしっかりと摘め」
 先輩のいう通りにすれば、経験不足の先生でもなんとかやっていけるようになるだろう。
 そこで、「子どもは本来怠惰であり、強制力なしに教育は成り立たない」と信じる教師が、また一人誕生する。

 無農薬農業を成功させた人たちは、かならず悪戦苦闘している時期がある。農薬は使うだけの理由があるのである。使わなければ、たちまち病虫害にやられる。それでも無農薬農業を成功させるには、植物を知り、土壌を知り、生態系を知り、たいへんな観察と知恵を働かせなければならないのである。

 私も、教育での無農薬を目指した一人である。
 専門学校で非常勤講師をしていた。そこで「試験の点数は保障するから、のびのびとやれ」という授業をやってみた。ほんとうの学びを引き出したというにはほど遠いものだった。学級崩壊同然も経験した。授業というのは、プロフェッショナルな知識と経験が必要なのだと思い知った。

 補習塾を開き、「誰に言われなくても子どもがやりたがることに教育上の最も重要なものがある」という教育哲学を掲げて、自由時間だらけにしていた。授業もやっていたが、いっさいの強制、辱め、競争、賞罰を使わないことにした。うまくいったり、いかなかったりだった。無農薬がどれほどたいへんなことなのかは、したたかに経験した。
 自由の匂いをかがせるくらいのことはできたと思うが、週に1回、2時間程度では、匂いをかがせることしかできなかった。

 教壇にも立ち、塾もやってみて、逆に、先生たちが農薬を使う必然性がよく理解できた。自分の小中高校の先生たちがなんであんなふうだったのかも、その立場になってみて、よくわかった。今になって思う。あの人たちも、けっこう良識ある普通の大人だったのだ。

 不登校の人たちのためのフリースクールもやった。学校を嫌がった甥をうちに居させ、ホームスクールもやった。失敗ともいえないし、「こうすればできる」と示すほど成功したわけでもない。
 健全な学びが発展するためには、どれほどいろんな条件があることか。アンチ学校だけで、別な教育を作り上げられるものではない。

 そんな次第で、無農薬教育というのは簡単なものではないということだけは、身に沁みさせられた。

 無農薬農業をやるには、生態系がカギである。土の中のバクテリア、ミミズ、いろんな雑草、さまざまな虫、その虫を食べるクモや鳥。それらのバランスを見つけ、うまく調節することができたから、無農薬でも作物を作れたのである。

 無農薬教育も同様である。賞罰や競争を使わないなら、人間がどのように学んでいるかを徹底的に知り、何かがまずいとき、どうしたら自然な回復力が働くようになるかを見出さないといけない。

 文科省主導で「ゆとり教育」が言われた。しかし、無農薬農業が研究熱心な篤農家でないとできないように、ゆとり系の教育は、現場の研究熱心な教育家たちが自発的に取り組まないとできない。上からの号令でいっせいにやれるような性質のものではない。
 そもそも、入試制度をそのままにして、たいして「ゆとり」が生まれるはずがない。

 賞罰系の教育なら文科省や自治体の主導でもできる。官僚世界の運営原理を手直しするだけのことだからである。マニュアルを作り、学力試験を課し、目標を掲げていればできる。しかし、ゆとりや個性尊重系の教育は官僚主導ではできない。
 案の定、「学力」の大合唱が起こって、教育の潮流は昔の訓練主義へと回帰していった。

 志ある人たちが自由に教育を作れるようにしないといけない。学校があんまりひどかったら、自分たちの教育を作れるようにしないといけない。それは市場原理でもわがままでもなく、基本的な人権問題である。
 教育では一斉改革をやってはいけない。教育をよくする特効薬があるかのごとく思うのが、幻想なのだ。

 自然の生態系を回復させるように、教育を学問や技術や文化の領域として、内容や方法は自律にまかせることだ。それは学びの生態系を回復させるためにどうしても必要だ。

 カギは学校自治と、教育を作る自由にある。
 制度整備をしただけで無農薬教育を作れるということではないが、制度的に自由度を大きくしないと、人々の創意と工夫がただ砂の中に吸い込まれていく。

 それを言いたくて4年前に本を出した。 「変えよう!日本の学校システム」 (平凡社)である。
 ぜひ、この本を読んでいただければと思っている。
 

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教師と一般公務員の違い

 教師はどういう職業なのかについて、あっそういうことか、と思うようなことに出会った。話は、クラシックの音楽鑑賞から始まる。だんだん本題に行き着くから、しばらくのご辛抱を。

 フリードリッヒ・グルダというクラシックのピアニストがいる。この人のベートーベンの演奏が好きである。この人の「熱情ソナタ」は、抑制が効いた表現の中に、押さえきれないものがほとばしっているのがたまらない。ぐっとくる。
 先日ふと、グルダのピアノを聞きたいな、と思った。ところが、レコードは整理してしまったし、CDもない。YouTube にあるかな、と思って探した。そうしたら、グルダのいろんな演奏の動画がある。録音でしか知らない人だったので、へえ、と思いながら見ていた。

 レコードで聞いているのと、映像で見るので、この人の印象がぜんぜん違う。ようするに、グルダという人は孤高の人かと思っていたら、そうではなかった。いい感じの人なつっこいおじさんなのだ。

 グルダがモーツァルトのピアノ協奏曲を、自分でオーケストラを指揮しながら演奏している動画があった。その指揮法は、手の動きがてんで素人っぽい。私でもできそうだ。ところが、この人の顔と全身の表情が実に豊かだ。

 べつに指揮方法のプロにならなくたって、人間同士なんだから、伝える方法はいくらでもあるじゃない、っていう感じで、オーケストラの団員たちにほほえみかけ、うなずき、笑いかけたり、おっという顔をしたり、そうだそうだ、と目でうなずいたりして指揮している。

 協奏曲なのだから、独奏者のパートが始まれば指揮をやめて自分でピアノを演奏する。それがまるで、オーケストラに向かって「オレとしては、こういうセンで行きたいのだが、さ、どうだい、きみたちとしてはどう思う?」と語りかけているみたいだ。目線は、ずっとオーケストラに向いているのである。グルダは、自分の中に入り込んでいない。

 うっ、とびっくりした。この人は、自分の演奏をしたくて演奏しているのではない。人に歌わせたいのだ。
 ほんとかい、と思いながら、他の動画を見たら、ますますそれが確かなのだ。

 グルダは、ジャズをやっていたことでも知られている。
 YouTube にチック・コリアとグルダでジャズの即興演奏をしている動画がある。ところが、グルダという大家に遠慮して、チック・コリアが合わせよう合わせようとしている。そうしたら、グルダが観客に向かって何かしゃべり、観客を笑わせている。グルダは立ち上がって、チック・コリアに向かって、「さあ、やりなよ」という仕草をして、ピアノから離れてしまう。チック・コリアがそこから、自分の世界に入り込んで、独特のチック・コリア節に没入していく。

 グルダとハービィ・ハンコックが即興演奏をしているのもある。
 これは、ハービィ・ハンコックがまず弾いているところにグルダがからんでいって、すぐに二人は意気投合、「どうだい、これは」、「いけますよ。もうちょっとクダけませんか」、「ちょっとじゃ、つまらないよ。思いっきり行こう」みたいな対話が成り立っている。

 たいていの音楽家たちは、自分の世界を構築し、そこに浸り込んでいる。没頭して、周りは見えてない。
 音楽に限らず近代芸術は、その人個人の世界を提示できないといけない。他人の物まねをしたら、一発でバカにされる。個性と独創性にあふれた、芸術家自身の世界を示せないといけない。

 グルダは、もともとは近代芸術の人である。若いときから完成度の高いピアニストで、孤高の世界を持っている。普通なら一生をかけて個性と独創性を発展させていき、自分の世界を磨きあげる。ところが、グルダは、それを投げ捨てたくなったのだと思う。「個性や独創性とかいうけれど、そんなの、独りよがりでやることじゃないですよ」というようなものが彼を動かしている感じがする。

 そういう資質の人なのだと思う。この「私は一人であることの自由な源泉から汲むことはできる。しかし、私は人と応え合う世界に住みたい」というような資質が、教師の資質なのだと思う。グルダには、それがある。

 グルダが協奏曲を指揮したり、ジャズピアニストと協演しているのを見ると、表情がじつにいい。相手を安心させつつ、おしつけがましくなく、「きみはどう思う?」と問いかけてくる。この人が先生だったら、生徒は間違ったらどうしようと心配せずに、「僕はこう思います」と言える感じなのだ。

 私がいろんな先生たちに出会って、「この人はいい先生だな。この人だったら、ほんとうに生徒たちが信頼する」という人に何人か出会ったが、このグルダのような物腰、表情が共通している感じだった。
 相手に対するレスポンスがいいのである。自然に相手が、いっしょに踊り出すのである。

 英語に responsibility という言葉がある。「責任」を意味する言葉である。この語源は、応答することができる、という意味である。
 教師に責任を求めるなら、つまり responsibility を求めるなら、それは生徒に対していい反応をできる、ということなのだと思う。生徒の時々刻々の生きた内面に対して、responsible であることのできる教師が、やはりほんとうの意味での教師としての重責を担っているのだと思う。このレスポンスは、それ自体は軽やかなものであるが、相手の人格発達に深く関わることができる。

 他人の人格の発達に関わろうと思ったら、瞬間瞬間に生まれてくるものに、レスポンスしないといけない。瞬間瞬間が心の真実なのだ。何が起こるかわからない即興演奏の世界なのだ。
 学校は、標語を掲げて実行させるとか、教科書に書いてあることを覚えさせるとかに充ち満ちている。でもそれは、お役所のすることだ。そんなことは一般公務員でもできる。わざわざ教師にやらせることではない。

 もし、グルダやチック・コリアやハービィ・ハンコックにたいして、市役所の文化課の人が「もっと計画だった、目的のはっきりした、市民精神を高揚させるような演奏をしなければいけない」と言ったら、いったいどうなるだろうか。芸術家が、一般公務員とおなじになってしまう。(法や行政の領域では、決まったことをきちんとやることが立派なのだが)

 ソ連はそれをやった。だから国が潰れてしまった。
 ソ連を笑ってはいけない。われわれの芸術分野では、さすがにソ連のようなことはしないが、教育分野ではソ連と似たようなことをしていることに、気が付いていない。

 教師は、一般公務員とも違うし、エンジニアとも違う。教育者としての資質や倫理に従ってもらわなければいけないのだ。それは、芸術家の資質とかなり共通したものだ。芸術家の持つ自由+相手への responsibility が教師倫理であると言ってもいいだろう。

 教師を採用する試験に、筆記試験の点数を重視しているなんてどうかしていると思う。そんな能力は、大学を卒業して教員免許を取得できるくらいあれば、それで十分である。

 グルダは、ジャズピアニストとしては、さほど高く評価されていない。それはそうだと思う。ジャズピアニストだって、高く評価されるのは孤高の世界から発信してくる人たちだ。グルダは、”孤高の世界”から抜け出し、即興の世界に入るためにジャズをやっている。
 しかし、私はこのグルダという人を、「教育芸術」をやっている人として、高く評価している。


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話が耳に入らないとき

 会合に出席して、私が他人の話をほとんど聞いていないときがしょっちゅうある。他人がしゃべっているときに考えごとをしているためだ。もし私が指名されて、「あの人の発言はどういう内容でしたか」なんて尋ねられたら、私はしどろもどろして立ち往生してしまうだけだろう。私はまるで学習障害児だ。

 誰かが先生に指されてしどろもどろしていることが、小、中、高校とよくあったなあ、と思い出す。あまりに頻繁にあった。
 誰かが先生に、かんたんなことを聞かれる。ところがその子は、まったく答えられない。そんなかんたんなことなのに、と不思議になるほどのことなのに、しどろもどろしている。すごく頭が悪そうに見える。

 あの子たちの状況は、私が会合で話しを聞いていないのと、きっと同じだ。いわゆる「理解力がない」という現象は、じつはこの「先生の話がまったく耳に入っていない」という状態のことではないか。

 そう思ったから、どういうときに私が他人の話を聞いていないかを、とにかく観察することにした。

 誰が発言者であるかしだいだ。声の質によって、聞きたくなる人と、聞きたくない人がいる。人間そのものの暖かさみたいなものがある。親しめる人と親しめない人がいる。

 抽象論をしゃべる人がだめだ。どこかで聞きかじったけっこうなことをつなぎ合わせている発言もだめだ。自然に、耳の中のシャッターが下りてしまう。体験談を気持ちを込めてしゃべる人が現れると、とたんに話しを聞ける。

 自分の発表を控えているときがだめ。何をしゃべろうかばかり考えていて、他人の言うことなど聞いていない。

 初対面の人が多い場だとだめだ。緊張がとれない。

 殺風景な部屋だとだめだ。壁がむきだしの安い公民館を使ったようなとき。

 疲れているときがだめ。椅子が硬かったり、まわりがざわついているときもだめ。

 などなどだ。
 自分の状態はというと、しばらく注意を向けていると、キューン、キューンと内臓が収縮するような感じが存在しているのに出会う。それを名付けるのは困難だが、恐怖というかパニックというか、そんなもののようだ。

 こういうことだと思う。
 なじめない、親しめない状況に出会うと、子どもの中に生理的な恐怖反応が起こっている。そして、その恐怖をまぎらすために考え事をしているのだ。恐怖を感じないようにするための思考は、条件反射として自動的に起こるから、理由がわからない。
 外部からこの現象を見ると、「注意散漫」、「ふまじめ」、「理解力がない」と見える。極端な場合は、学習障害と分類される。

 臨床教育学や、心理学を研究する人たちが読んでくれていたら、ぜひ、お願いがある。次のような実験をしてデータを出していただけたら、有り難い。

 いろいろと条件を変えては、被験者に向かって話しをし、「いま、どんなことが話されたでしょうか」と尋ねるのである。まるっきり内容を把握できていないことが、しょっちゅう起こるはずである。それは、どういう時であるかをデータにしていくのである。
 脳波、心拍数など、生理状態の計測と組み合わせると、状態を客観的に把握できる。とくに、恐怖を示す生理状態と、他人が言っていることを理解できることの相関関係が大きいだろうと思う。

 たぶん、この研究から、ものすごくいろんなことがわかると思うのだ。子どもをむやみに非難しなくなる思うのだ。「話しを聞け」と怒鳴る先生がいなくなると思うのだ。

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心はどこにあるのか

 最大の教育問題。
 人々が、自分の心を見失っていること。社会が死んだ慣習と、虚栄と教条の巣窟になっていること。
 べつに、紋切り型で世の中を嘆いているのではない。ちょっと、常識を飛び越したい。

 自分の動機は見えないものだ。自分が虚栄につきうごかされていることに気が付いている人がどれだけいることか。自分の嫉妬に気が付いている人が、権力欲に気が付いている人がどれだけいることか。
 とりわけ、自分を突き動かしている恐怖を自覚できている人がどれだけいるだろうか。

 他人からは、その人が何で動いているのかがよく見えるのである。あいつがあたりさわりのないことしか言えない小心者であるとか、こいつの本音が強がりであるとかいうことは、誰だって一目で見抜いている。
 しかし、本人は自分の動機が見えていない。見えずに、自分の思想、信条、言語化された体験を、自分だと思っている。それで、社会は虚栄と教条の巣窟になる。

 なぜ自分のものは見えないか。
 ここからが本題である。

 結論から言うと、こういう虚栄やら、嫉妬やら、権力欲やら、恐怖やらは、身体の感覚や気分として存在しており、言葉の形になっていないためである。身体の状態や気分に対する正確な感受性を持っていないと、わからない。言葉で自分自身をいくら内省しても、探索の網の目にひっかからないのである。
 感情は脳にあると考えられがちである。もちろん、脳は感情に対して欠くべからざる機能を果たしている。しかし、感情は、身体に存在し、身体で感じられるものである。
 身体から発信されているものに感受性を持っていないと、さまざまな感情や意思は、容易に無意識の領域に追いやられてしまうのである。われわれは、言葉になったものにのみ反応するよう、学校でも、社会の文化としても、教育されてきたのである。

 無意識と呼ばれるもののほとんどは、身体の感覚として存在している。もし、われわれが注意深ければ、それがどのように作用しているか、十分に知覚できるものである。
 言語化は難しい。しかし、明瞭に把握できる。

 身体を通じて恐怖を感じ取りそうになると、たちまちのうちに条件反射的な思考が現れて、その思考に注意が向けられる。それで、本人はその恐怖を意識できないのである。
 そのとき本人は素晴らしいことを思いついたように感じているが、そういうときの思考は、必ず以前に仕込んだ言葉の繰り返しである。独創性などありはしない。

 もし、自分がやけに言い訳がましくなっているとき、自分の身体の状態を敏感に感じ取れたら、心細さのようなものが胸から腹にかけて漂っていることに気が付くだろう。全身がかじかんだような状態であり、呼吸が浅いことに気が付くだろう。

 自分の身体全体でその瞬間瞬間を感じていること、自分の五感で感じていること、それを歪めず、解釈を加えず、あるがままを受け取ること。外界に対しても内界に対しても、起こりつつあることをトレースしていること、これが知恵と呼ばれているものの正体である。そのとき、明晰さがあり、的確な行動がある。そのときにわれわれは、条件反射に突き動かされてお決まりの思考を繰り返すパターンから解放されている。そこに、解放感があり、おのずからなる愛がある。
 言葉でいっぱいになっていることが、愚かということなのである。

 心は、身体にある。われわれが、羨望や恐怖にかられて「あのようになろう」という思考に従いはじめたとき、われわれは心と切り離されてしまうのである。思考が本来の役割を離れて、身体に対する命令者になったとき、われわれの恐怖と不安の生活がはじまる。

 心というのは、身体の瞬間瞬間の状態そのものなのである。心を充実させる必要があるからこそ、子どもは身体全体で生きるのである。人間には長い子ども時代があって、大人のように考えることはできないまま生きている。これは、重要なことなのである。この子ども時代を尊重しないといけない。身体全体で生きている中に、思考がゆっくりと、権威的でなく、あらゆる感覚と連動して、育っていかなければならないのである。

 権威に頼ったり、生徒の野心や競争に訴えて、結論を注入していくだけの教育は、人間の無意識の闇を大きくしてしまうのである。それは、権力欲や嫉妬のはびこる社会を作る。

 子どもが育つときに、ただ覚えればいい知識の部分ももちろんあるし、練習によって身につける部分ももちろんある。しかし、それは人が育つなかでの、ほんの部品である。人を健全に育てようとするなら、なんらかの結論や技能を子どもに強制してできるようにさせて喜んでいてはいけない。そのとき、子どもを自分の心から切り離し、自分が何をしているかの自覚のない人間にしてしまうのである。

 その現実を知ったら、子どもを強制的に机に座らせておくことの害や、機械的な型にはまった体操をやらせることの害は、自然に理解されるだろう。
 このことは、知識として覚えられてはいけない。それでは、ドグマを増やすだけだ。われわれの感受性によって、それぞれの人によって、発見されなければならない。教師を養成するコースのかなりの部分は、教師の感受性の開発に向けられなければならない。

 教師が、「心」と呼ばれるものの、このような実態に気づくことができたら、教育全体が変容をとげる。教師が、マニュアル人間ではなくなるのである。

 そのとき、「誰々を見習いなさい」、「誰々のようになってはいけません」が、本人の感受性に基づかない、結論の押しつけであることが理解されるだろう。「心のノート」など、見向く人間すらいなくなるであろう。

 官僚機構が教育内容まで決定することや、法律が倫理・道徳にまで立ち入ることが、いかに馬鹿げたことであるかは、自然に理解されるであろう。

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