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2010年1月

教育の整備から学びの保障へ

 明治の初期に、Education が「教育」と翻訳されたとき、福沢諭吉がそれは誤訳だろうと噛みついていた。「教え育て」ではない、もっと自発的なものだと。

 生きていくのに重要なのは、「学び」である。生まれたときに始まり、死ぬときまで続く。
 時々刻々の「学び」なしに、われわれの頭脳は同じ言葉を再生し続けるテープレコーダーであり、われわれは自由に生きることができない。
 絶え間ない「学び」なしに、われわれは他者を知ることはなく、愛を知ることもない。

 教え育ての「教育」によって、学びを促すことも、学びを援助することも可能である。それが、教育の大きな役割である。
 しかし、「教育」が為されたから「学び」があったかというと、そんなことはない。
 「教育」しなくても学んでいることがある。「教育」したから学んでいることがある。「教育」したにも関わらず学んでいることもある。

 そして、「教育」したために学んでいないことがたくさん起こっている。私塾をしていて、英語や数学でもつれてしまった生徒にたくさん接した。「せめて、何も教え込まれていない白紙で受け取れたら」と思うことがたびたびだった。

 われわれの国は、教育のための整備された法律を持ち、巨大な学校システムを持っている。国家が、教育の定めと教師の定めをたくさん作って守らせている。そのための巨大な官僚機構があり、莫大な給与が払われている。
 それらはすべて「教育」をやらせているだけなのだ。

 生徒が学校に出席して椅子に座り、教師が教壇でしゃべれば、学校も教師たちも、「教育しました」と言う。たしかに「教育」は為された。官僚機構は、それで書類を整え、記録を残すことができる。生徒は卒業証書を手にする。
 しかし、われわれが学校で過ごした時間のうち、「学び」になっていた時間がどれだけあるだろうか。

 教育など無意味だと言うつもりは全くない。しかし、教育をいかに整備しようと、それは「学び」を保障したことにはならない。

 「教育」しただけではだめだ、というと、学校も官僚機構も、すぐに生徒を試験するようになる。われわれの多くは、中学、高校、大学と、たくさんの試験をクリヤーしてきた。しかし、どれだけの学びが残っているだろうか。われわれは、プレッシャーをかけられて、試験の点数を取っただけではないだろうか。
 社会で生き延びるために、魂を売り渡したのではないか。

われわれに必要なのは、学びの保障である。
それにはまず、貧困問題の解決が必要である。
あらゆる状況に合わせて、柔軟に教育が生まれる仕組みが必要である。
教育の多様化が必要だ。
学校における、さまざまな脅しや辱めをなくすことが必要である。
野心や競争に訴えずに教える必要である。
不登校になったときの、別な学びの場が必要である。
大学入試を廃止する必要がある。
大学進学が18歳に集中するという、奇妙な仕組みを変えなければならない。
その他、必要なことがさまざまある。

われわれのシステムを、教育の整備から、学びの保障へと、根本的に作り直す必要がある。それをやるしかしょうがない時代に入ってきていると思う。

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学力テストと家庭学習

 よく疑問に思うことがある。

 学力テストの結果が出ると、家庭学習との関係が言われる。
 どうして、すぐ家庭学習と結びつけるのだろうか。
 あれは、「会社の業績が伸びないのは、社員が仕事を家でやってこないからだ」と言っているのと同じではないか。

 テストの結果と家庭学習との相関ははっきり数字に現れるだろう。
 でもそれは、「学校で学べなかった子どもは、家での学習意欲をなくす」ということではないのか。

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