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2009年12月

教育から学習へ

 人は一生にわたって学び続けるものです。学ぶことなしには、生きることは単なる機械的な繰り返しです。

 学びの一部として、他者から行われる「教育」があります。しかし、いくら「教育」をしても、本人が学んでいないなら、まったく意味がありません。私たちにとって、「教育」がいかに味気なく、つまらないものであったことでしょうか。

 現実に、学校での生活になじめず、不登校になっている子どもが小中学校で約13万人います。300人の学校の400校ぶんもの生徒が、学校が怖くて行けなくなっているのです。また、長い年月にわたって学校に出席していても、ほとんど何も学んでいないという子どもがどれほどいるか、見当もつかないほどです。
 それを、「ちゃんと教育はしたのに、本人や家庭の問題だ」で済ましていいものでしょうか。

 これは、
「教育とはかくかくしかじかの科目を何時間教えることである。それをいかに習得したかが教育の成果である」
として、「学び」の問題を「教育」に置き換えてしまっていることに、根本的な問題があるのではないのでしょうか。「教育」が無意味であるとはまったく思っていませんが、「教育」は、「学び」の一部にすぎないのです。

 学校教育にもっともっと柔軟性が必要です。また、たくさんのセーフティ・ネットが必要です。しかし、現在の学校は、法令、前例、予算、人員などに制約されてなかなか的確な行動をとれません。

 教育制度そのものを、学習制度として構成しなおす必要があります。学校を中心に組み立てるのではなく、もっと人を中心に組み立てる必要があるのです。落ちこぼれても落ちこぼれてもセーフティ・ネットが用意されている。それぞれの個性に合わせて、柔軟に学習機会が生まれてくる、そういう仕組みです。

 個人の『学習権』を確立すれば、行政が現実に柔軟に対応でき、予算と人員の確保をできるようになる。

 正規学校以外の教育も義務教育と認める。

 それぞれの学びを「何歳までに」と区切らない。

 さまざまな学校の設置を容易にする。

 大学入学を資格制度にし、いったん資格を獲得すれば一生にわたり大学進学を可能にする。

 義務教育終了後も、無料で義務教育に相当する教育を受けられるようにする。

 ‥‥‥

 さまざまな方策があります。
 それは、いますぐにでも着手し、実現することが可能なものです。

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『地教行法』が日本教育の病巣

 『地方教育行政の組織及び運営に関する法律』(通称: 地教行法)という長い名前の法律がある。この法律がいけない。私は、悪者探しとバッシングは大嫌いなのであるが、『地教行法』に関してだけは、愚法、悪法、痴呆ギョーホーと罵倒してやまないであろう。ちゃんとした説明ならいくらでもつける用意がある。

 この法律によって日本教育が慢性病を抱え込んだ。この法律によって、日本教育は、なにかまずいことがあったときに、それを自律的に見つけて自律的に解決する道を失ってしまったのである。昭和31(1956)年の法律である。教育基本法などより、地教行法のほうがはるかに意味が大きい。

 いまも、教育問題があるとバッシングがはやり、いかに当事者の自主解決能力をつけさせるか、という発想に行かないのである。「~が悪い」、「もっと監視しろ」という声ばかり大きくなる。『地教行法』は、教員と保護者という当事者を教育運営から閉め出した法律である。そして、現場にいない文部省(当時)に、院政体制を可能にした。

 この悪影響は、じわじわと及んだ。症状は特定のものではないところが『地教行法』の恐ろしいところである。『地教行法』のために、いろんな症状が出たときに、上は文科大臣から下はヒラの教員にいたるまで、「このままではいけない」と思いつつ、「でも、私にはどうしようもない」となってしまうのである。

 拙著「変えよう!日本の学校システム」第2部から引用する。

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 戦後の教育改革は、理念を大幅に変えた。理念は変わったが、中央政府が主導して教育を提供するという構造に変化はなかった。教育では参政権にあたるものが作られなかった。作られかけたが、すぐに消えた。

 『地教行法』から半世紀が経った今、教育関係者は「保護者や住民が無関心だ、無責任だ」と嘆いている。それは、保護者や住民のせいではない。『地教行法』が意見反映や参加の道を閉ざしたから、当然の帰結がやってきたのである。
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教育と学習

 私の私塾・フリースクールは、正式名称として古山教育研究所を名乗っている。

 昨日、ある会合があって、参加者はそれぞれの名前と所属を紙に書いて自分の前に置いていた。私も自分のものを書いた。

 休憩時間に席を立ったとき、ふと自分のところを見たら
  「古山明男 古山教研究所」
と書いてある。うっ、この人は教祖様だったのだ。自分で名乗っているところに、不気味な迫力がある。

 あわてて、「育」の一文字を付け加え、「人になんと思われたか」とどぎまぎしていた。

 考えてみたら、教育というのは、教える立場の言葉だ。一字抜ければ「日本教育新聞」は「日本教新聞」になるし、「京都教育大学」は「京都教大学」になる。
 逆に、「××教」に一字付け加えれば「××教育」になる。

 明治の初期、EDUCATIONの訳語に「教育」があてられたとき、福沢諭吉がそれは違うだろうと噛みついていた。EDUCATIONは「発育」とでも訳すべきで、「教育」としたら一方的に教え込むことを表していると。
 私も、教えと学びをいっしょにして「教育」と呼ぶのは、あんまり適切ではないと思う。国の政策は「教育政策」と呼ぶより「学習政策」と呼ぶほうが適切だと思う。現に、文科省には生涯学習局が存在するではないか。
 
 日常生活で、「”教育”という言葉を使ってはいかん」などと言うつもりはないが、法律や制度の問題としてはけっこう重大である。「~権」をつけてみると、その重大さがわかる。
 「教育権」と「学習権」。
 主体が違うのである。教える側と学ぶ側。180°違う。どちらの側を主人公にして、法律や制度を組み立てるかの問題になってくる。

 近年、「教育」が「学習」に置き換わりはじめている。生涯にわたる教育は「生涯学習」と呼ばれるのが確定している。ユネスコは「学習権宣言」を出している。憲法第26条の「教育を受ける権利」は「学習権」であるとする説が有力である。学ぶ側が主体である、という思想である。

 学習のほうが本質的だ。生まれてから死ぬまで、この世界について、自分自身について学び続ける。それが生きているということだ。
 他人から意図的に何かを教えられて学ぶことは、そのほんの一部に関係しているにすぎない。

 現在の法律と制度は、「教育」を元にしている。行政と教育者がどのような場でどのようなことをするかの定めである。学んでいる人間を守る意識が薄い。
 一歩間違えれば「××教」なのである。

 「学習」を基本にしていれば、一歩間違えたところで「××学」で済むのに。

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