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2009年10月

国レベルでの政治と教育の分離

 教員免許更新制を廃止する方針を文科省が出した。これ自体については、現実的な良い施策だと思う。

 しかし、手続きの問題がある。政権が変わったら、とたんに廃止の方針が出た。中教審への諮問と答申を経ていない。免許更新制を作ったときは、中教審答申を受けて作った。
 それをいきなり変えた。

 教員免許制度は、教育の専門性と、一般社会との接点になる制度である。一般国民の代表である議員や大臣も関与していい制度だが、専門家の関与なしにやってははいけない。

 では、中教審を通せばそれでいいのかというと、それも問題だらけである。民主党政権下で諮問を出せば、それに対するOKが返ってくるに決まっている。それで審議したと言えるのか。
 教員免許更新制が出来たときだって、中山大臣が諮問した段階で、もう結論は決まっている。ほんとうに専門的な見地から審議したなら、実効のない免許更新制ができるはずはないと思う。
 本当の専門家機関など存在していないのだ。

 問題は、ほんとうの意味での恒常的な”専門家機関”が存在していないことにある。
 中教審委員は、大臣が人選する。人選の段階で、結論はだいたい分かっている。政党から送り込まれた大臣が人選するような機関に、ほんとうの専門的な審議はできない。

 中教審は、文科省内の機関である。諮問されたことにしか答えられない。
 国立教育政策研究所も、文科省の影響が強い。場所でさえ、いままでの目黒の独立した建物ではなく、霞ヶ関の文科省の建物の中に移転した。
 文科省の初中局は、もちろん文科大臣の指揮下にある。

 国の機関のうち、たいへん専門性を必要とする部門に、政党の影響が簡単に届くのである。
 国の教育政策機関のうち、教育内容や、教育運営に関与する部門を独立させ、文科大臣の指揮下からはずすべきである。文科省が免許制についてなにか案を出したら、諮問されなくても問題点を指摘してくるような機関を作るべきである。

 民主党は2003年以来、文科省を中央教育委員会に改組するとの案を出している。いまも政策集に載っている。文科省を改革の聖域におかないことは重要だ。しかし、この案ではいけない。
 内閣の中に入って、予算や法律をガンガン主張するような機関がないと、教育が尻すぼみになってしまう。

 改組すべきは、教育の内容や、学校運営のやり方や、免許の在り方のような、きわめて専門的なことを扱う部門の独立である。ほんとうの意味での、指導・助言・援助する機関が必要である。
 中教審と、文科省初中局のかなりの部分と、国立教育政策研究所を合わせて中央教育委員会とし、文科大臣の指揮下からはずすべきである。いっぽう、文科省は、予算、法律など教育の条件整備に関与する機関となって、大臣の指揮下に教育を振興すればいいのである。

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教員免許更新制廃止実現

 教員免許更新制を廃止する方針を文科省が決めたそうである。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091014-00000076-jij-pol

 当然である。免許更新制は、金と労力の無駄遣いである。早くやめたほうがいい。すでに更新講習を受けた人たちにはご苦労をかけたことになるが、やめるのが遅くなるほどに、講習を受けた人が増えてやめににくなる。

 代替措置は、「専門免許状」の発行らしい。20年研修を作るくらいかなと思っていたが、なるほどこのほうがよい。取りたい人が取るもののようで、実害はなさそうである。すでに免許更新講習を受けた人の時間と労苦を振り替えることができる。いずれ、新しい教員養成システムとその免許の中に吸収されるのであろう。

 教員免許更新制廃止が、日教組路線のようにも言われるようだが、これは間違いである。そうではなくて、教員免許更新制は実効がなく、国の予算と教員の労力の無駄遣いなのである。
 現職教員の研修制度にすぎないものに、免許が関係するのがおかしい。教員をやっていると免許が失効することがあるが、ペーパーティーチャーは失効しないなんて変な制度をつくってしまったのである。

 教員に何かを課していれば安心し、教員管理を緩めると「日教組路線だ」と言い出すなど、時代錯誤もはなはだしい。
 教育にはまだ55年体制が続いている。それは、教員と保護者を信用しない、という体制なのである。その中核にあるのが、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」(1956)である。この法律で、教育は文部省院政体制になってしまった。

 これからの教育行政のテーマは、教員と保護者の参加なのである。 

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教科書検定制度を廃止せよ

 「世界の常識、日本の非常識」の一つに教科書検定制度がある。先進国でやっているのは、日本以外はドイツとロシアくらいのものである。世界の主流は自由出版、自由採択である。

 これだけ文化水準が高い日本で、出版社が総力をあげはじめたら、たちまち、わかりやすくて使いやすい教科書が次から次へとでてくるだろう。マンガを使ってもけっこう、練習問題をどれだけ付けようが付けまいがけっこう、ページ数は薄かろうが厚かろうがまったくご自由に。おそれ多いほど立派な分厚い本でもけっこう、書き込み式でもけっこう、ドリル形式でもけっこう。とにかく、子どもと教師にとってわかりやすい、つかいやすい、興味が持てるものであればなんでもいいのだ。
 語学の教科書には、どんどんCDをつければいい。DVDでもいい。本であることにこだわる必要はない。

 教科書は、現場の先生と、著者・編集者のとのキャッチボールの中で作られるべきである。官僚などが介入してはいけない。
 問題のある教科書は、採択されなくて自然淘汰されるだけの話しである。

 教科検定制度廃止に予算はいらない。いらないどころか、現在、教科書検定制度維持のために、文科省はたいへんな人員と予算を使っている。これは、まったくの無駄遣いである。
 教科書検定は、文科省が日本教育をコントロールする権限の源泉になっている。この権限を吐き出させるべきである。

 文科省は、大綱的な、法的拘束力のない指導要領だけ作ればいいであろう。
 現在、入試問題が難しいものになるから、という理由で教科書の内容が画一化されるのだが、それでも中学入試は教科書では対応できない問題ばかりだ。高校入試競争が緩和されたわけでもない。
 教科書の内容をそろえれば入試を緩和できるとするのは、幻想である。問題が標準化し画一化するので、かえって丸暗記やクソ勉強が増えるのである。

 教材作りは、ゲームソフト作りとよく似ている。ユーザーの立場を知っている人間が作り、ユーザーに使ってもらってつぎつぎとバージョンアップしていくのである。このプロセスを丹念にやるから、いいものができるのである。
 ゲームソフトは楽しさを追求するが、教科書は理解を追求する。スキルアップを追求することは、どちらも同じである。

 あるいは、ゲームソフトを作っている会社が教科書に参入してもいい。コンピュータソフトとして作ればいいのである。ファイナル・ファンタジーを作る感覚で歴史・地理を作り、ストリート・ファイターを作る感覚で計算問題を作ればいい。ソフトメーカーはすごいものを作り出してくるだろうと思う。ちょっと上手にゲームを作れば、子どもたちはスキルアップに熱中するものである。計算練習を、ドリルや百マス計算でやっていた時代がばかばかしくなるだろうと思う。

 採択は教師単位で自由採択とすべきである。「教師が使いやすい」ことがなにより大切だからだ。今の、市教委単位の採択は、業者との癒着の温床である。なにせ、何千部何万部単位で、どかっと採択されたり不採用になったりするのである。

 イデオロギーが問題になるのは、ごく一部の教科の、そのまたごく一部である。そんなもの自然淘汰されるに決まっている。もしも、問題があるなら、保護者や校長が教師と話し合えばいいことである。

 フィンランドに行って、教科書の出来がいいのに驚いたことがある。かゆいところに手が届いている。それに、いわゆる『教科書臭さ』がまったくない。フィンランドでは90年代に教科書検定制度が廃止された。
 自由出版、自由採択というのはこういうことか、つまり教師と出版社が、ありったけの力を出すことなのだ、と感覚で理解できた。学力が伸びるのは当たり前ではないか。

 日本で、教科書を自由出版・自由採択にしたら、5年くらいでとてつもない教科書がたくさんできてくると思う。世界をリードするほどの教育文化がたちまちできてくると思う。なにせ、マンガやアニメを生み出した国である。この領域では、非常にクリエイティブである。

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Love was

 恐怖があると、自己顕示欲にかられたり、教条的になったり、カキのようにカラにこもったりする。
 子どもでも大人でも。

 ビートルズの"Yesterday"に

  Yesterday love was such an easy game to play
    Now I need a place to hide away

  これは恋の歌ではなくて、ジョン・レノンが母を失ったときのことを書いたのだと聞いたことがある。きっとそうなのだろう。
 愛がなくなれば、本当の自分を出さずに生きるようになる。
 愛がなくなれが、本心を出さないようにして、小手先の技術で生きるようになる。
 そのことを、社会に適応できていない人間はあからさまにやる。適応できている人間は、文化の許す範囲で上品にやる。

 それが私たちの姿じゃないかと思う。
 大人も、子どもも。
 ガングロの少女たち。試験の点数で「自分は優等だ」と思う少年たち。

 私もそう。
 たくさんの言葉を蓄え込んで、しょっちゅう反芻していること。それが私の恐怖であり、慰めであり、見栄である。それをやるようになって、はじめてわかった。これが愚かさの正体なのだと。あの愚かな連中は、このようにして愚かになっていったのだ。それで、あんなに型にはまったことを言うのだ。元は恐怖なのだ。それはわかったけれど、この愚かさからは、そう簡単に抜け出せるものではない。

 なにしろ、その恐怖を感じないために、たくさんの言葉が条件反射的に出るようになっているのだ。湧き出る言葉は、つねに、恐怖から注意をそらすために湧き出ている。そういう言葉によって恐怖を見極めようとしてもうまくいかない。

 たくさんの言葉で頭いっぱいになっていて、新しいことが学べないこと。それが教育問題のもっとも大きな部分だ。その根っこに恐怖がある。

 クリシュナムルティがまともなことを言っている。その恐怖を、言葉による結論なしによく観察してご覧なさい。そうすれば自由になれる。でも、言葉に置き換えているうちは理解できませんよ、と。
 これは正しい。やってみたら実際にそうだ。

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