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2009年9月

学校の恐怖

 「恐怖はそれがいかなるかたちのものであっても、精神を活動不能にし、感受性を破壊し、感覚を縮めてしまう」(「学校への手紙」 クリシュナムルティ)

 私が小学校1年生のときに味わった恐怖をどう表現したらいいのだろうか。

 教室は、まったくわけのわからない世界だった。そこが、どういう理由で動いているのか理解できない。きつい子が多くて、すぐに責め立ててくる。教師が、みせしめの罰を加えて、教室の秩序を維持する。それは、たくさんのモンスターが徘徊し、襲いかかってくる世界だった。教師が何か言っている。字面はわかるが、結局のところ、何をどうしろと言っているのかわからない。

 親に言おうとしても、通じるような言葉はみつからない。
 大人たちは、「頑張らなくてはいけない」で凝り固まっている。
 親不信になった。親に苦しみを訴えなくなった。

 よく行き続けたものだ。
 先生は絶対だった。それだけだった。

 あの、恐怖の世界をどう表現したらいいのだろうか。
 あの恐怖の中で、学びなどあるはずがない。多少、計算はできるようになったし、字も読めるようになった。しかし、それは学びではない。

 やがて私は適応できた。その適応は、悲しみと投げやりでできていた。諦めていたから、ヤケに明るく生きられた。でも空虚な明るさだったから、二十歳前には崩れた。

 大人になって、教師たちが普通の人間であることを知った。学校にいるうちは、教師たちが人間だとは知らなかった。これは、皮肉ではない。教師たちはなにかしら”官僚性の化身”のようなものだった。子どもにはそう感じられるのである。教師たちは、ステレオタイプなお説教をし、わざとらしい授業をし、「キミの将来は」で脅していた。

 大人になって冷静に分析すれば、学校というところは官僚組織が教師たちを雇い、人事権と賞罰原理で操っているところである。教師たちは、立派な人間のふりをすることで金をもらっている。彼らは子どもに対して責任を負っていなくて、自分を雇用する者たちに責任を負っている。
 ところがその官僚組織は、だれか特定の悪人がいるわけでもなく、平凡な人間たちが、けっこうな標語を掲げて「事なかれ」を祈るところである。
 なんだ、そういうことか。

 教師たちもまた恐怖にとらわれている。でも、教師たちは自分の恐怖を表現できない。自分の恐怖を意識できないから「邪悪なものが存在する」と言う。だから、邪悪な日教組が存在し、邪悪なモンスター親が存在し、邪悪な文科省が存在し、邪悪な生徒たちが存在する。

 学校が根本的なところで、恐怖でできている。
 
 もちろん、この恐怖はいかにも恐怖らしい恐怖として現れてはいない。この恐怖は、教師のステレオタイプさや、生徒の無神経さとなって現れているのである。学校を覆うあの浅薄さが、恐怖の現れなのである。
 もしその恐怖を表現できたら、読む者の心魂を震え上がらせることができると思う。思うのだが、私の文体では届かない。理屈を使いこなす文体で恐怖そのものを表現することなど、できるはずがないのである。

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クリシュナムルティの教育論 学校と家庭

 学校が、「訓練し、能力を伸ばす場」である限り、子どもをほんとうに保護している者がいなくなってしまう。子どもたちは、心理的安全を得るために、白日夢、自己顕示などさまざまなやみくもな行動に走る。子どもたちは恐怖感から逃れるために、さまざまな浅薄な思考や行動を身につけてしまう。
 それが、私が現代の学校制度に見ている最大の問題点である。

 教育に関して、もっとも深いインスピレーションを与えてくれる思想家に、R・シュタイナーとJ・クリシュナムルティがいる。どちらも、近代文明全体に対して深い発言をし、危機を克服する道を示している思想家である。

 シュタイナーは自身が超能力者であったため、独特の人間発達理論に基づいているのに対し、クリシュナムルティの説くところは平明である。クリシュナムルティの思想の中核は「人間のあるがままを知れ」にある。たとえば、子どもたちが恐怖によっていかに鈍感になっていくかに気づくことを教師たちに求めている。

 家庭と学校と子どもの関係についてクリシュナムルティが述べている一節を引用する。

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 両親は一般に、子どもが赤ん坊のときを除けば、子どもたちに割く時間がほとんどありません。両親は子どもたちを、地元の学校や寄宿学校に入れるか、他の人に世話をさせます。両親には時間がないか、あるいは子どもを家で教育するだけの根気がないのかもしれません。彼らは、自分自身の問題で心がいっぱいなのです。

 ですから私たちの学校が、子どもたちの家になるように、教育者があらゆる責任をもって両親になるようにします。家というのは、ある自由があり、安全であるという感覚、扶養され保護されている感覚がある場です。

 私たちの学校で子どもたちは、そのように感じているでしょうか?
 「注意深く見守られ、たくさんの思慮と愛情が与えられ、自分の行動や食べ物や衣類やマナーに対して関心が向けられている」と子どもたちは感じているでしょうか? 
 もし感じているのでしたら、学校は、生徒がそのあらゆる意味において「本当に家にいる」と感じる場所、「自分の好みや話し方に気を配る人が、回りにいる」と感じる場所、「心理的にも身体的にも世話をされている、怪我をしたり怖れたりしないように助けてくれている」と感じる場所になっています。
(「学校への手紙」 J・クリシュナムルティ 古庄高訳)

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教員免許更新制廃止

 民主党のマニフェストが教員免許更新制の見直しを取り上げている。いいことだ。こんなものいらない。

○教員の資質向上のため、教員免許制度を抜本的に見直す。教員の成課程は6年制(修士)とし、養成と研修の充実を図る。

 教員免許制度を抜本的に見直す、というなら、それは免許更新制の廃止であるべきだ。
 不適格教員の排除にも役立たない、教員の資質向上にも役立たない、ただの政治的妥協にすぎない制度なのだ。
 詳しくは、「教員免許更新制の問題点
に述べた。

 たぶん、廃止は実現する。マニフェストはすべてと言わないまでもいくつかは実現させないと、政党の信用問題になる。教育関連のマニフェストの中で、教育免許更新制の廃止は、もっとも実行しやすいからである。
 廃止するのに予算はいらない、というよりこれで予算を節約できる。廃止して困る人間もいない。 

 廃止するには、なんらかの代替措置を作らないと名目がたたないから、十年研修をもう一回やらせるくらいになるのだろうか。それもうざったるい。研修を強制して、どれほどの効果があるというのか。
 教員の自主研修の支援が筋である。もっとサポート体制を作ってやればいいのにと思う。

 教員養成の6年制は、悪くはないと思うが、運用は難しい。内容の問題と、就職機会の問題である。

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