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2009年8月

夏休みの宿題と教育基本法第十条

8月も終わりだ。
夏休みの宿題で追われている子どもたちが多いだろう。気の毒に。

夏休みの宿題は嫌だった。ほんとうに嫌だった。
子どものとき、泣く泣くやっていた。ほんとうに涙を流していたのだ。
でも、理屈にはできなかった。

今なら、理屈にできる。あんな宿題に意義があるものか。

絵日記?
 子どもが現在に生きていることに無知である。生活に感動があるほど、日記など書けないものだ。
ドリル?
 狭量だ。学校の教え下手を、子どもに責任転嫁するな。
読書感想文?
 感想をべらべらしゃべる人ほど、その本のことを理解していないものだ
自由研究?
 夏休みは、毎日が自由研究だ。押しつけられるものじゃない。

夏休みの宿題で、教育効果が上がっているものがあるというのなら、データを見せてほしい。うまくいった一例だけではだめである。全員に押しつける必然性があるというデータである。

先生だって、夏休みの宿題を出したくて出しているのではないだろう。
もし夏休みの宿題を止めると、一部の親とか、一部のエラいさんが文句を言うから止められないだけだと思う。

もし、自分の親が「夏休みは遊ぶものだよ。勉強のことなど考えていたら、将来サモしい人間になってしまうよ」と言ってくれたら、どんなに親を尊敬したことかと思う。
親が、子どものことをかばってやればいいのだ。夏休みくらい、ウチの子を勉強から解放してやってくれと。
新しい教育基本法の第十条(家庭教育)が、「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって...」とある。この条文を根拠にすればいいのだ。親が第一義的責任を有するとはっきり書いてあるのだ。学校は、意見を言うことはできても、親を差し置いて子どもに強制力を及ぼせないはずである。

「夏休みを子どもがどう過ごすかは親の責任」ということを確定させれば、学校だって楽になるだろうにと思う。

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小話 免許更新講習

また小話を。

教員免許更新講習を受けた先生たちの授業が急におもしろくなった。
理由を調べると、講習を受けた先生たちが、つまらない授業に耐える生徒の立場を深く体験できたためだった。

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間違えないように目立たないように

 小学生高学年ののとき、合唱クラブに入っていたのを思いだした。
 恥ずかしい目にあわないか、失敗しないかといつも心配して歌っていたことを思いだした。
 一人間違えて、ぱっと注目を浴びる、あの怖さである。合唱の怖さは、自分だけミスして目立ってしまうことなのだ。

 大人になってから、合唱の楽しさを知った。ときおり、好きで友人たちと合唱をした。そのときは、全体が聞こえていて、自分の歌っているパートがそれと調和しているのを楽しんでいた。あれは、楽しい。

 小学生のときは、合唱クラブにいても、あの楽しさをまったく知らなかった。

 自分から入った合唱クラブではなかった。顧問の先生が、各クラス担任に、歌が上手な子を推薦してくれと言ったのだと思う。教師にすすめられ、なにかしら断り切れなくて入った。本来、私が、遊ぶ時間を減らされるのを受け入れるはずがなかったから、どうして合唱クラブに入っていたのかは、いまもよくわからない。
 学校クラブでは、とくにつらい体験もないが、楽しい体験もしていない。言われたことだけしていた。東京の九段会館で開かれたコンクールに参加したが、あっけなく落選した。地区大会を勝ち抜いたから東京に行ったのだと思うが、勝つの負けるのにまったく関心がなかったから、覚えていない。

 指導していた女の先生は、とくに厳しくもなかったし、とくにノセるのが上手なわけでもなかった。「そこをこういうふうにして」という指示はたくさん出していた。先生は、歌のイメージをいろいろと文学的な言葉で伝えようとしていた。「秋の美しい様子なのよ」というように。
 で、それで、どういうふうに歌うのかは、さっぱりわからなかった。
 典型的な、「間違い指摘してよくする」型の指導だった。叱りつける愚かさは知っている人だったと思うが、楽しさを伝えられる人でもなかった。
 きっと、音楽大学で訓練を受けた人だったのだろう。内面には芸術への純粋な想いと、コンクール入選の野心が同居していたろう、などと想像がふくらむ。こういう人をテーマにして、子供たちとスレ違ってしまう教師の短編小説でも書きたいな、と思ったりもするが、私は小説の文体を持っていない。

 あの合唱クラブで、私は、自分のパートを覚え込んで、間違えないように、目立たないように歌っていた。自分も一員で、自分も作っているなんていう感覚はまったくなかった。
 ときどき間違えて、身も世もない気分になっていた。私にとってはそれが現実の世界だったが、それは、友人からも、教師からもわからなかったろう。

 そう、それが学校だったよ、と思いだしたのである。間違えないように、目立たないようにしていることなのだ。

 大人になってみると、あれを「美しい子供たちの歌声」とか、「コンクール目指してがんばる子供たち」、と解釈するのだ、ということを知った。

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民主党の学校理事会案

選挙間近である。民主党のマニフェストの中に、学校理事会の案があった。

> 公立小中学校は、保護者、地域住民、学校関係者、教育専門家等が参画する
> 「学校理事会」が運営することにより、保護者と学校と地域の信頼関係を深める。

一番重要なところはぼやかしてある。どうってことないことを言ってるかもしれないし、大変革が起きるようなことを言っているのかもしれない、そこはわからない。

一番重要なところ、というのは、「『学校理事会』が運営する」の具体的な内容である。
もっとはっきり言えば、その学校理事会は校長の任免権を持つのか持たないのかである。

校長の任免権を持つとすれば、「学校分権をやります」という意味になる。これまで校長は教育委員会の任命だから、官僚機構に対して責任を取っていた。それが、理事会に任免権があるとなると、学校単位の責任体制の確立ということになる。
この変化は大きいですよ。

欧米の標準的なタイプの学校では、学校理事会があって、そこが大きな方針を決めて、実行してくれる校長を公募する。教育委員会から校長が天下りで任命されてくるのと、根本的に違ったものに変わる。
いままでみたいに、「学校が時間数を裁量してもいいですよ」とか「民間人校長も入れます」なんてものじゃない。根本的な責任体制が変わる。いよいよ、学校がお役所ヒエラルキーの中に組み込まれている運営にメスが入ることになる。

学校理事会が校長任免権にまったく関与できないなら、たいして意味のない学校理事会になるだろう。今のPTAの延長のようなものなり、指揮系統をかえって複雑にするだけだろう。

でも、学校理事会が「運営する」と言っているのだから、かなり強い言葉だ。いったい、どうなるのだろう。


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