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2009年4月

自信を持つこと

自信を持っている子供がいる。自分が感じたこと、思ったことを素直に表現できる。おびえ、遅疑逡巡が少ない。やりたいことがどんどん湧いてきて、さっとそれに取り組む。

こういう子供達を見ればわかるはずだ。彼らは「頑張ろう」などとは思っていない。「自信を持って取り組もう」とは考えていない。ようするに、余計なことは考えていないのである。絵を描きたいから描いているのであり、木に登りたいから登っているのである。「創造的であろう」などとは決して考えていない。

自信の源は、自分の身体にある。言葉ではない。
意欲は、身体から湧いてくる。
意欲のもとは、さまざまな身体の感覚に対してウソをつかないことである。だるいとき、つまらないときにゴロゴロしていることができなければ、おもしろがって算数に取り組むこともできない。

「~しなければならない」で自分をコントロールしようとするほどに、身体の感覚からは切り離される。
感覚から切り離されると、人間は他人の言葉にこづきまわされて生きるようになる。あるいは、自分の固定観念にとりすがって生きるようになる。子どもでも大人でもそうだ。

幼稚園でも学校でも、とにかく並ばせ、行進させ、机に座らせる。ようするに、自分の身体の感覚に対して無知にさせる。あれはいけない。後年に、権威に弱く、自分の身体をひきずって生きていることへの下地を作っている。

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教育は変わるだろう

 ここのところ、ニューヨークも東京も株価がいくらか戻し、金融危機は小康状態を得ている。これは各国政府が必死で企業の損失の肩代わりをして連鎖倒産を防いでいるためである。欧米の銀行の多くは政府による資本注入で生命を維持しているだけである。ほんとうに業績が立ち直ったわけではない。やがて、米国の政府財政がもたなくなってきて、それが各国に連鎖波及する。それが目に見えるようになるのは、今年の秋頃だろう。

 世界も日本も大社会変動期を迎えつつある。

 教育も変わるだろう。根本的に変わるだろう。

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独善的でない学校を作る

今日、政治施策の良否は選挙によって決められます。政治家がどう思ったかでは決まりません。
今日、財やサービスの良否は、消費者が価値を決めます。生産者がどう思ったかでは決まりません。

しかし、教育には、行われた教育が価値あるものであったかどうか、教育された側が判断する、という原則がありません。
これが、教育を独善的なものにしています。

生徒と保護者の運営参加が必要です。
生徒と保護者の運営参加は、未熟な生徒や保護者によって引っかき回されるからダメだという議論は、民主主義を怖れた王侯貴族が「民衆は愚かだから参加させてはダメだ」と言っていたのと同じです。それは、生徒と保護者は良識ある者たちが多数派であるという事実を忘れています。現在、生徒や保護者に権利を保障しないまま、バラバラに言わせる自由だけ認めているから、引っかき回されてしまうのです。

運営参加だけでは足りません。学校を作る自由と、教育内容を作る自由と、学校を選ぶ自由が必要です。学校を作る自由なしに教育をよくしろというのは、企業を作る自由なしに経済を発展させろというのと同じです。公立学校を逃げ出す自由がなければ、生徒は教師の無能や横暴、生徒同士のいじめの餌食にされてしまいます。
教育の自由は民主主義のバロメーターです。

その際に営利主義がはびこる恐れは確かにあります。しかしこれに対応するのは、技術的に可能です。営利的運営の規制と財政補助によってコントロールできます。西欧諸国で実現しています。

学校設置を自由化すると学力資本主義のようなものに教育が席巻されてしまう危険も確かにあります。入試競争は長らく大問題で、日本の教育のガンです。これに対して小手先の対応では無理で、大学入試を廃止して入学資格化することが必要です。そしてオルタナティブ系の教育を認めて、価値観を多様化する必要があります。
どちらも、実現している国がいくつもありますので、夢物語ではありません。

学校は、自由な精神生活を営む教師たちの協同組織であるべきです。
そして、学校は生徒と保護者の自由な選択に任されるべきです。
現在の官庁をモデルにした官僚組織を基盤とした学校では、権威支配と慣習支配がたくさん発生してしまいます。
いっぽう、学校を営利に基づかせるならば、学校はもっと生徒を集めることと経費を削減することに気をとられ、生徒を手段とみなしやすくなります。

権力や固定観念に支配されていない教師たちのみが、自由で明晰な教育をすることができます。これは、数学ができる人間でないと数学を教えられないことと同じです。

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恐怖に対する条件反射

大人でも子どもでもそうだが、逃げてばかりいる思考、融通の利かない思考、聞きかじりの結論ばかり蓄積している思考は、恐怖に対する条件反射である。

自分を観察すればわかる。生徒を観察していてもわかる。ただし、言葉での結論なしに、直接に知覚する必要がある。

恐怖自体はモヤモヤとした、身体全体で感じる身体感覚である。言葉ではない。そのモヤモヤを一瞬感じ取ると、たちまち、さまざまな条件反射が起こる。これは、あまりに素早く起こる条件反射なので、恐怖によって引き起こされたことが非常にわかりにくい。

話をそらせる。
りっぱなことをしゃべりはじめる。
お決まりの楽しいことを思い出す。
何かをいじりはじめる。
お決まりの解決方法を思い出す。

そのようなことが起こる。
これは、恐怖自体を感じないですむように、気持ちが楽になることを記憶の中から呼び出しているものである。自動反応となっている。

これが、生徒が授業に集中しない原因である。原因は他にもいろいろあるが、もっとも大きなものの一つだと思う。
これはまた、大人同士のコミュニケーションがうまくいかない大きな原因の一つだと思う。大人は、恐怖の引き金が引かれると、たいていは一方的にしゃべりまくって、相手の存在が見えなくなる。

小学校にあがる頃には、多くの子どもが恐怖を抱え込み、たくさんの条件反射で反応している。教育困難と呼ばれる子供たちのかなりがこれだと思う。

教育にできることは、この条件反射を解きほぐしてやることである。親切に暖かく、かつ逸脱をたしなめて、物事そのものを見るよう援助することである。おきまりの恐怖の回路にはまりこみそうなときに、ちょっと手をさしのべることである。恐怖からやることは、上の空であり、型にはまっている。しかし、その型に落ち込まずに、物事を意識的に好感をもって行うと、条件反射回路が消えて、自由意思が使いこなす道具の一つになる。
それが教育のすべてということではない。しかし、大事な一部である。

同じようなことをしているようでも、これを厳しく、批判的に、逸脱に罰を与えて止めるようにすると、逆効果になる。そのつらさを逃れようとして新しい条件反射ができるのである。

教育にとって、知性と暖かさがどれほど重要であることか。
子どもが、木登りをして落ちても大丈夫と感じていることが、大事なのだ。

「何歳までにかくかくができるようになること。脅しても辱めても競争させてもかまわない」
これが、逃避的で、頑なで、無力な知性をたくさん産み出してしまう。

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