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2009年3月

高尚でない学校

教育ではたくさんの美辞麗句が言われるけれど、美しい目標が言われるほどに、どうも疑ってみたくなる。
ようするに、義務教育学校というのは遊びたい盛りの子どもを強制的に座らせて、雇われ教師に出来合いのテキストを使わせ、読み書き計算を訓練するように作られているのであって、それ以上のことを期待するからおかしくなるんじゃないかと思う。

そんな身もフタもないようなことを言うな、われわれはもっと高尚なことをしている、と文科省から現場の先生までおっしゃると思うのだけれど、高尚なことをしている気になっているのが、間違いの元ではないかと思う。

学校が高尚でないことは制度化されていて、「無理に座らせて」、というのが学校教育法の就学義務であり、雇われ教師の規定が地方公務員法と地教行法、「出来合いのテキスト」が教科書検定制度、「読み書き計算を訓練」というのが学習指導要領と学力調査。
ようするに、国が学校をマニュアル運営する仕組みを、法律で強制しているのである。

そうするとどうしても学校がただの訓練場になる方向へと動く。それをなんとかしようとして、美辞麗句と努力目標をたくさん出しては、「教師たちの自覚が足りない、親が協力的でない」と嘆く。

現場には、子どものことがよく見えていて最善を為している先生たちもいるから、そういう人たちにはまことに申し訳ないと思うのだけれど、学校の現実は、地位役職と慣習と利害で動く無慈悲なところである。

教育そのものはもっと広いものであって、人間の発達すべてにかかわることだけど、それを現在の学校の中に盛り込んで、あれもこれもと欲張るから、子どもがハジけるか、先生がハジけるかのどちらかが起こってしまう。

教育は、もっと自由な文化活動として構成することができるのに。

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点数化がなぜ起こる

教育の成果は、点数ではない。
教育の成果は、生徒の人格がどのように変化したかであり、それは誰にでもわかるものである。より考え深くなったとか、人を信用するようになったとかならなかったとか、その生徒に直接に接する者には、明らかにわかるものである。

しかし、そのような成果は、顧みられない。
教育の成果は点数化された学力がもっとも大きな意味を持つ。

それには、そうなるだけの現実がある。その生徒を知らない人に、「情実は入れていません」というデータを渡すことが、学校と教師にとっての至上命令なのだ。

・ 内申と入学試験  進学に必要な学力は、数値化して渡さなければならない

・ 学力テスト      数値化して、生徒同士、学校同士を比較する

・ 指導要録の記載、 通知表の記載

その情報は客観的でなければならない。その情報に教師の主観が入ってはいけない。その情報に身内びいきが入ってはいけない。

しかし、教育は人格同士の関係であり、教師の個人的な判断や評価しかできなくて当たり前なのである。
教師が高度な専門職であるならば、教師の「所見」がもっとも価値あるものと見なされるであろう。
それは、医師の「所見」が、検査データよりはるかに重要であることと同じである。

ようするに、教育が、官庁と上級学校に牛耳られてしまっていて、教師よりデータのほうが信用されるのである。

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制度の影響

最近、経済学者のケインズが見直されてきているようだが、そのケインズの言葉

「知的影響を何ら受けていないと思い込んでいる実務家は、たいてい幾人かの今は亡き経済学者の奴隷である」

なるほど。納得。
それで、こういうことが言いたくなります。

制度の影響を受けていないと思い込んでいる教師は、たいてい、学校教育法と地方教育行政法と義務教育定数法の奴隷である。

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教育の55年体制を終わらせよう

戦後の日本教育にとって、もっとも致命的だったのは自民党・文部省 vs 教職員組合の対立だった。典型的な55年体制ができた。まだ続いている。

どちらが良いとか悪いとかいう話は、ここでは論じないことにしよう。
現在何が問題であり、これからどうするかに話を絞ろう。問題は

・ 組織構成が、教員不信に基づいて作られている。
・ 学校運営が、官庁をモデルにしている。  

ことなのである。もっと、感覚的にわかる出来事に置き換えると

 学校が杓子定規に運営されている。

 上意下達の組織を利用して、無能管理職が威張る。

 問題教師が、教員組合をタテにとって居直る。

学校内での不満、学校への不満は、この三点が大きいのではないだろうか。

そうすると、だから管理職を強くしろとか、教員を強くしろとか、民間企業の真似をしろとか、地域と結びつけというようなことが言われる。それらは、現状維持を前提の小手先の手段である。どれも、少数の成功例は出てくるだろうが、現状に制約されてしまうことのほうが多いであろう。

学校の本質は、自治にある。
子どもが大きくなってきて、親だけでは育てきれなくなったから、他人に教育を委任する。それが教育の本質である。子どもが大きかったら、子どもが自己教育を他人に委任している。

自治とは、親と教師たちで学校を作り運営していくことである。中学生くらいの年齢からは、生徒の参加も必要である。ここに基づかないと、教育は結局、お仕着せ教育になってしまうのだと思う。

明治以来の官製教育では、これからの時代を乗り切るのは無理だと思う。

いまの、文科省、教育委員会、自治体、学校の関係を解きほぐして、一から構成しなおすべきである。ただし一気にやると、担いきれずに大混乱が起こるであろう。新しいタイプの学校を認めて、現在の学校と平行して育つようにするのがよいと思う。

学校に営利原則を認めて競争を刺激することはしないほうがいいと思う。それについては、また論じたい。

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