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2009年2月

どんなことがあっても学校に来ること

学校、とくに義務教育学校がもっとも重要な教育目的としているのは、
「どんなことがあっても学校に来ること」

違いますか?
不登校が増えてから、「ただし、特別な場合はやむを得ない」となったけれど、他の道を作ってあげたわけではなくて、「可能なかぎり学校に来ること」になっただけ。

終身雇用制の時代に、世の中で生きていけるということは、どんなつらいことがあっても忍耐できることだった。
すぐ会社が嫌になってやめてしまう生徒は社会で生きていけないだろう。
そのための訓練を子どものときからしなければならない。
いまでも、この基本は変わっていないと思う。とくに中学である。

学校でいじめがはびこっても、教師が暴力を振るったり暴言を吐いたりしても、授業がつまらなくても、それは忍耐力が高めるために有意義なことなのである。
表面には現れないが、この教育哲学が教育をむしばんでいる。

それで、学校に絶望した人たちが、たくさん生まれたのだと思う。


学校は巨大な官僚機構の末端に位置していて、書類が整備され、努力目標を掲げて「努力します」と言えば、なんとかなってしまうところである。
保護者の運営参加権と、生徒の意見表明権を法制化していなから、自浄作用が弱い。

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「海辺のカフカ」とギリシャ悲劇

 教育制度を論じるつもりのブログなのだが、いささかの脱線をお許しいただきたい。時代が大変化の入り口に来ている。思想の潮流を読み取りたい。

 最近、村上春樹の「海辺のカフカ」を読んだ。びっくりした。村上春樹は、よい作家だがマイナーな作家だと思っていたら、ずいぶんと変貌していた。

 村上春樹という、深層意識に向けられたレーダーが、死と美意識の物語から、生きることを引き受ける物語へと方向を変えていた。そのことに驚いたのだった。日本の人々の深層に、これからの社会変革を担おうとする流れがあるのだろう。
 「千と千尋の神隠し」を見たときに同じことを感じた。ここにも、われわれは浄化され再生することが可能だというメッセージが流れていた。

 「ノルウェーの森」を読んだとき、村上春樹ってすごい才能だと思った。でも、しょせんは日本の作家だと思った。ドラマがあるはずのところを、美意識で覆ってしまうのである。
 とにかく、あの美しくて、はかない女性が自殺をするというストーリーが、食い足りなかった。あの女性はなぜ自殺するのか、という探求がなければ、この作品は何百ページを費やそうが一編の抒情詩である。よい叙情詩ではあるが。

 「ねじまき鳥クロニクル」を読んだとき、村上春樹って、けっこう大きな作家だと思った。「ねじまき鳥クロニクル」は、日本の底流に流れている暴力的なものを取り上げようとしていた。そうなんだ、これを取り上げてくれる作家を待っていたのだ、と思った。でもけっきょく食い足りなかった。暴力的なものは、「すごく悪いものが存在する」という形でしか表現されていない。それでは、資本主義の悪魔を信じたり、共産主義の悪魔を信じたりすることと大差がないのだ。

 ところが「海辺のカフカ」では、美しくはかない少女は生き続け、生き続けたことの責任を引き受ける。暴力的なものに対しては、ナカタさんという非暴力の具現であるようなキャラクターが登場する。「海辺のカフカ」のあちこちに、われわれは閉じた回路から脱出できる、というメッセージが出ている。

 これと正反対の印象を持ったのが、アメリカ映画の「マトリクス」だった。
 「マトリクス」の主人公は、なにが現実であるか見抜くところまでは行く。華麗な世界は脳に注入された幻想に過ぎず、われわれはほんとうは管理されたみすぼらしい現実の中に生きているのだと。
 もし、建国精神が生きているアメリカだったら、幻想世界を打ち破り、みすぼらしい現実の中で丸木小屋生活から新世界建設をはじめるストーリーになるだろう。ところが「マトリクス」では、主人公はまた幻影世界にもどってしまう。幻影世界の中の悪と戦い始めるのである。
 ほんとうは貧富の差の拡大や財政赤字問題に真剣に取り組むしかないはずのアメリカが、「正義のアメリカと悪のイスラム」の図式にはまりこんでアフガンやイラクで戦争を始めてしまうことと、ぴったり一致するのだ。

 たかが小説、たかが映画というなかれ。
 ヒットする作品は、時代の気分、思考回路を、よく映し出しているものなのだ。それは、イメージで表現された思想潮流なのである。

 「海辺のカフカ」はものすごくたくさんのものを重層させている。ちょっとやそっとでは、この小説のことを説明できないようにという仕掛けだ。このこと自体が、「世界を理屈で説明しようとする人たちは、それだけで間違いを犯しているのではないのか」という問いかけなのだ。
 この作品の借景になっているフランツ・カフカの作品世界が、この「説明できなさ性」を芸術にまで高めたようなものなのである。

 だから作品全体は「こういうことをいいたいのだ」と論評しないほうがいいと思う。しかし、その中のサブ・ストーリーをいくつか取り出してもよいだろう。
 こういうタイプの作品では、メイン・ストーリーは現実離れした別世界を構築するのが役目で、それによって読み手のステレオタイプの説明機能を停止させる。その間に、サブ・ストーリーが、読み手の感受性に対して直接に語りかけていくのである。「千と千尋」とまったく同じ手法である。

 「海辺のカフカ」は、ギリシャ悲劇の「オイディプス王」を下敷きにしている。
 オイディプス王というと、フロイトのオイディプス・コンプレックスが有名だ。しかし、私はフロイトの解釈は狭いと思う。ギリシャ悲劇の「オイディプス王」はもっとスケールが大きい。それは、真実探求と自己認識の物語だ。ある王が、自分の国に災厄が続くのはなぜかと問いかける。するとその原因は自分自身の穢れだということがわかる。彼は、自分の父を殺し、母と交わっていたのだった。オイディプス王は自分の目を突き潰し、王位を捨てて流浪の旅に出る。

 悲劇が好まれる社会は健全である。問題に直面し、自己認識を深め、喪失感を涙で洗い流そうとしているのである。

 「海辺のカフカ」では、息子田村カフカと母佐伯さんと父ジョニー・ウォーカーのストーリーが、ギリシャ悲劇を構成している。父殺しがあり、母子相姦がある。あらすじを抽出すれば、父は喪失感を引き受けずに息子に埋め込んで破滅し、母は子を置き去りにした責任を取って贖罪し、息子は母を許して現実へと踏み出す。

 自分を捨てた母に対して荒れ狂うものに、解決の光が与えられている。これは、古事記でのスサノオの暴力事件の昔から、日本の精神土壌に流れているものだと思う。
 そして、明治以来の日本の父的権力の問題がある。それは、軍国主義の過ちを内面化せずに責任転嫁し続けた。この父的権力は否定されなければならないが、それを直接に行えばオイディプス・コンプレックスに落ち込む。しかしこの父親殺しにあたって、非暴力の化身のようなナカタさんが実行犯を引き受けてカフカ少年を救う。そして、自らもまた殺人の責任を引き受けるのである。これによって、果てしなく続く父殺しの円環を断ち切ることが可能になった。

 オイディプス王が下敷きになっているが、「海辺のカフカ」に読み取れる悲劇は、まったく新しい。村上春樹は、深層心理のDNAの書き換えをやっているのだと思った。あるいは、変化しつつあるDNAを感じ取って、表現したのかもしれない。
 とくに、ナカタさんというキャラクターが現れたことの意味は、とてつもなく大きい。
 なにか、時代の深層に新しいことが起こっているように思う。「海辺のカフカ」が刊行されたのが2002年である。国家主義回帰と新自由主義はなやかなりし時に、われわれを身動きできなくさせているものを見据える作業が、実り多い答を探りあてていた。

 作品の細かいところに不満はたくさんある。
 「海辺のカフカ」の主人公は15歳の少年だ。ところがこの15歳は、さめた観察眼と定まった意志と、豊富なボキャブラリーと、洗練された趣味を持っている。こんなことはありえない。15歳はもっと衝動的だし、揺らぎやすく、洗練されていないものだ。まるで40歳台の女優が15歳から70歳までの女の一生を演じようとしているときの15歳の娘に見える。名優の名演技ではあるが、やはり無理が目だってしまうのである。それと同じだ。

 「海辺のカフカ」は、想像力で飛翔することが持ち味の小説なのだから、それは大きな問題ではない。しかし、こういう作品は細部でのリアリズムを保つことがとても大事なのだ。15歳をこのように描いてはいけない。これでは、主人公は40歳だ。

 こんなことを書いていたら、昨日村上春樹が「エルサレム賞」の受賞の場で、イスラエルのガザ攻撃を批判したというニュースが伝わった。たしかにこの人は、戦争の罪悪をしたたかに見据えることのできる人である。
 しかし、この人を、平和主義の使徒に見立てようとしないほうがいいだろう。「~に賛成か反対か」、というようなマルバツ思考そのものに醒めていることが、村上春樹の作品が伝えようとしているもっとも重要なメッセージなのだと思う。

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明治以来の官営教育をやめる機会

 ここ3ヶ月ばかり、経済の勉強ばかりしていた。いま世界でなにが起こっているのか知りたかった。これからどうなるのか知りたかった。

 いろんな数字を見ると、ちょっとすごいことになりそう。国家破産して大インフレになる国が相次ぐだろう。
 影響は経済だけにとどまらず、新しい社会モデルの模索にまで行かざるを得ない。

 「新しい社会を作らなければならない」ということは、誰もが切実に感じることになるだろう。

 充実した教育は、社会のすべてを支える根幹である。教育の点数主義と進学競争依存を断ち切らないといけない。どんぐりの背比べをしていてもしょうがない。
 明治以来の官営教育を、人間本位の教育に切り替えないといけない。学力注入型から、一人ひとりが人間として発達することの保障へと変換しないといけない。

 そのチャンスがやってくる時代にもなると思う。

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