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2009年1月

教育大発展とはなにか

 病気になったとき、医療保険制度がカバーしてくれているのはありがたいことだ。医療費が心配で医者にかかれないというのは、悲惨だ。
 失業したら、失業保険がある。
 生活に困窮したら生活保護がある。
 年をとったら、年金がある。
 
 ところが、教育では、困ったことが起きたとき、カバーしてくれるセーフティネットがほとんど作ってない。現状の学校がなんでもこなせることになっている。

 こどもが不登校になったとき、「学校と合わないことはどうしてもあります。これでなんとか専門家を手配してください」と、不登校保険が出るだろうか。

 学校でわが子が落ちこぼれたとき、ダメな子よばわりされず、たちまち専門家が見てくれて、その子だけに効く教育方法の処方箋が出され、いろんな分野のスペシャリストたちが最善を尽くしてくれる、ということはない。

 深刻ないじめの場合、子どもは「人に言うな」と洗脳されているものである。それでも子どもを助けられるだけの、高度な知識と技術が必要だ。できうる限りのことをすべきだ。学校内にも、学校外にも専門家が必要だ。いじめ事件の手口と対策を周知した専門家チームも教育委員会内に必要である。
 現在のいじめに対する対策では、火災に対して消防署を作ってないのと同じようなものだ。死者が出続けている。 

 家庭が貧しくて進学できないというのは、実際に起こっている。現在の奨学金制度は貸与が中心である。貸与の奨学金は、借りるほうも遠慮しがちだし、返済できない問題も生じる。高等教育まで無償である国は、いくつもあるというのに。

 「それは無理だ」というのは、今の人員と予算では無理だというだけではないのか。
 ほんとうは、なんとかする知識や技術は世の中に存在しているのではないのか。
 困った人のいるところに、知識と技術の許すかぎりのことをし、必要な人員は手配し、金はかけていく。それが社会の発展であり、教育の発展というものである。社会の他の分野はそうやって発展してきた。

 教育の発展は、経済を活性化させるためにも、役に立つのである。教育の質を高めるために金をつぎ込むことは、決して、経済のお荷物ではない。
 一通りの産業発展を遂げた国では、医療、福祉、教育、環境などを発展させていくことが、経済発展なのである。それをやらないから、行き場所のない資金があふれて、バブルや金融危機を起こすのである。

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教育大発展の可能性

 経済・社会が大激動の時代に入ったと思う。このままいくと、不景気・財政難→教育水準低下が起こり、それがまた社会不安の元になるという悪循環になりかねない。特に、高等教育が大打撃を受けるだろう。
 しかし、教育によって新しい経済局面を切り拓いていくこともできる。

 ソニーの出井元会長が、昨年暮れにロイターのインタビューに答えて、おもしろいことを言っていた。

「規模の大きいことが良いことという20世紀の常識は崩れ、もはや日本は業態転換をしなくては生き残れない。中国が最新設備を使って低賃金でモノを作れる時代に、日本のメーカーが今さら国内工場で生産するのは理屈に合わない。
 ...例えばその患者にしか効かない医薬品など、これからは大量生産型ではなく、テーラーメイド型の産業が有望だろう」

 教育にそのまま言えることだと思った。
「その生徒にしか効かない教育方法」
これが、切実に必要とされている。多くの親がそれをどれほど望んでいることか。

 我々の教育は、一斉授業を行い、試験で生徒の品質を確認し、卒業証書というレッテルを貼って送り出す構造になっている。これは、工場の大量生産を模倣した教育方法である。教育そのものに内在する理由から、そうしているわけではない。

 特に学力が中低位の子供達に合った教育法の開発がどうしても必要である。現実問題として、現在の教授方法は彼らに合っていない。かれらは無能とみなされたりせきたてられたりする。あるいは失望され見放されてしまう。それでいっそう無能になる。この悪循環をやっている。
 欧米、とくにヨーロッパ諸国では、すでに個別教育がそうとうに開発されている。これは、マンツーマン教育ということではなく、授業の在り方、教科書のしくみ、評価の仕方などから根本的に違っているシステムである。1クラス規模が20~30人くらいでもできる個別教育なのである。

 オルタナティブ教育まで目を向ければ、シュタイナー教育、モンテッソーリ教育、イエナプラン教育など、はっとさせるようなものをたくさん持っている。これらは落ちこぼしを作らないことで定評がある。これらはみな、個性尊重型教育だが、日本人がイメージするような少人数教育やマンツーマン教育ではない。
 工夫のしどころはいくらでもあるのだ。


 教育は「この子の成長には何が必要か」から出発しないといけない。そのために手を尽くさないといけない。
集団授業には集団授業のよさがある。しかし、欠点もたくさんある。いくらでも柔軟な組み合わせを考えればいい。
それには、現在のクラス制度では無理だというなら別な仕組みを作ればいい。
教師の数がもっと必要だというなら増やせばいい。
教師だけでは無理なことがたくさんある。心理・医療・教育の専門家のバックアップがもっと必要だ。どんどん専門家たちを育てればいい。
別なタイプの教材が必要である。自由になんでも作ればいい。教科書検定制度など廃止すべきである。

 日本教育の最良の部分は、いい授業を作り出している。モノ作りでもそうだが、日本の教育は、たいへんなキメの細かさを持っている。日本社会は、人に対する敏感さを持っている。教育大発展を起こすための土壌としては、たいへんに恵まれている。
 あんなに子どもの心を掴むことのできるマンガやアニメを生み出した日本文化である。本気になってやれば、子どもの心を掴む教育を創り出すことができるだろう。もっともクリエイティブな才能が教育に流れ込んでくるように、教育方法の自由と教材の自由を確保すべきだ。世界が真似したがるような教育を作り出せるとおもう。

 お役所と教師達が、落ちこぼしを出しても平気な顔をしていられないように、一人ひとりの「教育への権利」をきちんと国内法制に反映させるべきだ。法律の条文だけで、教育発展を促すのに大きな効果がある。権利保障があると、お役所だって、落ちこぼれる生徒のための手厚いセーフティネットを作る予算が堂々と取れるではないか。これだけでも、人々に大きな安心感を生み出す。

 そうやって、教育に資金と労力が集まってくる。新たな雇用が生まれる。関連の、教育サポート機関や、教材開発産業などが育ってくる。それが経済発展というものである。
 
 「どの子も尊重される。どの子も伸ばす」を掲げて、教育大発展をやるべきだ。

 教育だけではない、福祉でも同じことができる。日本の産業構造で、教育や福祉ほどの潜在的成長力を持っているところがあるだろうか。自動車は飽和している、家電は飽和している。それをさらに宣伝で売り込んでも、タカは知れている。そうではない、人々がほんとうに必要としている分野が、成長分野なのである。
 まして教育は将来に有形無形の見返りが大きい。これほど、お金の有効な使いどころはない。

 教育も福祉も、営利的には運営されていない。だから、多くの人が経済ではないと思って見落としている。しかし、教育や福祉で、経済発展を起こすことが可能なのである。教育や福祉も立派な経済の一分野だ。そこに、雇用と金の流れがあるではないか。人々が益するものを生み出しているではないか。教育は、経済発展の原動力になれるのである。


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目先の数字を追うのではなく

 明けましておめでとうございます。本年もよろしく。

 「強欲資本主義ウォール街の自滅」(神谷秀樹)という本を読んでいた。アメリカの銀行やファンドが、いかにアコギなことをしているか書いてあった。なるほど、アメリカの金融資本主義が破綻するのは当然と納得できた。

 その中で、目先の結果を出そうとする経営の愚かさあった。「株主のために」と言って、コストカットばかりに目をつけて、時間をかけた投資や、信頼作りをしない。経営者は莫大なボーナスをもらう。しかし、数年後には、かならず大きなツケがその会社に跳ね返ってくる。

 教育でも、けっきょくは有形の結果を出すために、なんでもしてしまう。生徒に優劣を付けたり、競争させたり、有形無形の脅しをかけたり。でもそれは、「株主のためにやむをえない」と言っている経営者と同じではないか。
 
 小学校ならふつうは中学ほどには点数を追わないが、やはり特有の問題がある。いまの教育方法は頑張らせすぎだ。なにかを達成させようとしすぎる。あれでは、自分自身と調和できない自我ができやすい。

 そもそも幼児教育のところで、何かがおかしくなっている。子どもが、自分の肉体と感受性に十分に根付けなくなっている。だから、学校にとっては、アコギな手段に手を染めて授業に参加させるか、教育することを放棄するかの二者択一になってしまう。

 家庭も、「この子の将来」と「世間体」に気を取られて、どうしても結果を詰め込むことを学校に期待する。

 知識の詰め込みはまだよい。社会性の詰め込みの弊害は大きい。結果を強制しているだけだから、社会的行動が型にはまったものになるし、内面で苦痛を伴う。大人になってからの社会生活が苦痛なものになる。落ちこぼしもたくさん出る。あまり急成長させようとすると、必ず弊害が出るものだ。
 道徳の詰め込みにいたっては、発狂していると思う。言葉になったものは規律であって、すでに道徳ではない。

 これらは、劣悪な教育なのだ。質の悪い教育なのだ。目先の結果を追って、かえって損している教育なのだ。

 こんな劣悪な教育の中で、生徒同士や学校同士を比べていたって、しょうがないじゃないですか。ほんとうに質の高い教育をみんなで目指すべきです。生徒の誰もが、安心して物事に取り組むことができ、自分が大事にされ羽ばたくことができたと感じる教育、それが質の高い教育です。
 そういうことを直感していたから、教育に手を染めた。

 教育の向上を、方法やモラルの問題としてだけ対処していたら、いつまでも解決しない。根っこに、制度問題があることに、多くの人が気づいていない。教育の官僚統制と受験教育の二つがガンなのだ。まずは、自由に試行錯誤ができる仕組みを作らないといけない。

 それを言いたくて、法律の勉強にまで手を染め、何度も海外に足を運び、本も書いたのだった。

 それを、思いだした。どうも、自分が細かいことばかり書いていると思った。
 時代が激動期を迎えている。少し初心に返ろうと思っている。

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