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2008年12月

「増大する業務の効率化」 ─ 中教審で検討する問題か

 こんな記事を目にした。日本の教育システムは重病だなと思う。

 「教員が授業に集中できる体制を 増大する業務を効率化せよ」(教育新聞08年12月22日)
  中教審初等中等教育分科会の「学校・教職員の在り方及び....作業部会」は、...学校の業務負担について議論を交わすとともに、その方策として
 ①多様な業務を推進するには、学校全体で組織として遂行する
 ②教員が授業に集中できるよう、それ以外の業務は専門人材や地域人材を活用する
 ③業務の効率化と削減に努める 
──などをあげ、今後の議論を深めていくことになった。

 学校はたいへんな重病である。雑務が病気ということではない。雑務が多くて困るという問題を、自力解決できないほどの重病なのである。

 なぜ、雑務が多いくらいの問題が、中教審で議論するテーマになるのか。現場で解決できないのか。中教審から処方箋が出るまで待っているようなテーマなのか。

 困っているのは、学校現場の人たちのはずである。忙しくて困っている、雑用が多くて困っている。
 その人たちからなぜ声が上がらないのか。なぜ、現場で解決できない問題なのか。別に、法令がからむ問題ではない、それぞれの教育委員会や学校の運営体制の問題である。

 しかし、これが中教審の議論になるのである。それが現実である。
 教育が地方分権化されているなんて、建前である。学校の自主性なんて、ただのきれいごとである。実質は、学校はどっぷりとお役所仕事に漬かっている国営事業みたいなものである。こんなことにまで、文科省(中教審)が乗り出してくるのだ。

 実際は、指導要領を初めとして、「学校はこうすべし、ああすべし」を文科省=中教審がたくさん出している。学校は、すっかり上からの指示に依存する体質ができている。だから、それを解決してやるのにも、文科省=中教審が乗り出さなければならない。

 文科省(中教審)─教育委員会─学校という官僚ピラミッド体制が、学校の自主性を奪っているのだ。学校は上から降りてくる雑務を断れず、法令と前例と上司の顔色で動き続けるのである。この官僚体制そのものがなぜ、問題にならないのか。
 文科省(中教審)のおせっかい、学校のお役所体質、それが学校不活性の原因なのだ。

 学校の業務を問い直すより、文科省と中教審の業務を問い直したほうよい。

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教員免許更新制ができた経過

 教員免許更新制は、なんでこんな無益な制度を作ってしまったのか不思議に思う。こういうものができる経緯を追ってみると、味わいがある。
 免許問題にかぎらず、馬鹿げた政策ができてくる大きな原因は、日本の教育システムに自律的問題解決能力が乏しいために、苛立った人たちのイデオロギー攻撃やモンスター攻撃のターゲットにされて、妥協案を余儀なくされることだと思う。どこにも悪人はいないのだけれど、システムが悪いとこうなってしまう。どなたもお気の毒にと思う。

1 免許更新制が言われる表向きの理由は、教員の質の向上である。しかし本音のところは、「不適格教員をクビにできる方策がほしい」と「ぐうたら教員に更新めざして努力研鑽させたい」である。長らく、この本音は自民党にくすぶっていた。文科省は乗り気でなかった。

2 免許更新制がはじめて具体化に踏み出したのは、教育改革国民会議提言(2000年12月)に、「免許更新制の可能性を検討する」が盛り込まれたときである。議事録には議論らしい議論がないのに提言に盛られている。裏でなんらかの政治的な画策があったのではないか。
 これを受けて免許更新制が中教審に諮問されるが、答申(2002年2月)は否定的だった。この答申は穏当なもので、免許制一般に更新がないことと比較し、教員免許だけを特別扱いする理由がないとした。

3 2004年9月に就任した中山成彬文相は、学校に競争原理を導入することに熱心であり、「中山プラン」の一つとして、学力テストなどとともに免許更新制を推進する。10月に免許更新制を中教審に諮問する。この諮問は、「具体策をお願いしたい」と、ほとんど誘導尋問である。中山文相は、その後失脚した経緯でも明らかなように、ただの原理主義者である。

4 この諮問に対して中教審は、それまでの答申の顔を立てつつ、「資質能力の保持のための刷新(リニューアル)」という新しい論理を持ち出して大臣の顔を立てた。
 これは明らかに、政治的状況に屈した妥協案である。この言葉ならどこの顔も立つことは理解できる。しかし、内容がない。資質刷新できるだけの講習が存在するかどうかもわからないし、なぜ研修制度の拡充ではなくて免許更新制にしなければならないのかも考えていない。
 とにかく、この答申で免許更新制への地ならしはできた。

5 2006年12月に、安倍内閣は改正教育基本法を成立させた。それを受けて安倍内閣は教育再生会議の教育改革案を推進する。その目玉商品の一つが教員免許更新制の導入であった。教育再生会議は、実績評価を含めて講習の修了判定を厳格にすることを求めていた。

6 政治スケジュールがとにかくあわただしい。改正教育基本法の成立が12月。教育再生会議第一次答申が07年1月。安倍内閣は、通常国会でこの答申を実現しなければ、教育改革を謳ったメンツが潰れる。2月に教育3法をまとめて中教審に諮問し、一カ月で答を出せと言う。中教審は無理して3月に答申を出す。それを受けて、文科省が法案を作り、国会に上程。6月末に、教育3法はまとめて成立。

7 1年くらい時間があって、実務者レベルに話を落として検討していたら、「この免許更新制は、ほとんど意味がない」という答は出てきたと思うが、その時間はなかった。

8 このとき、文教政策は二重権力構造である。内閣直属の教育再生会議と文科省。暴走する教育再生会議に対し、文科省は中教審路線で対抗する。両者の駆け引きのはざまで、冷静な実務的検討がなされなかった。

9 国会や世論は、教員免許更新制を「これで、ダメ教員を追い出せる」と思い込んでいた。その効果がないことは文科省は承知していて、講習を受けさせるための免許更新へと換骨奪胎することに懸命だった。
 そのため、資質リニューアル免許更新制そのものの検討がお留守になった。「そんなけっこうな講習が存在するのか」や「それは研修制度の問題であって、免許と関係ないだろう」などの検討は、不問に付されてしまった。

 こういう経過を眺めていると、教育の中央集権構造そのものに疑問を感じるのである。

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講習のために免許更新をからめる必要があるのか

 当ブログの中でもアクセス数の多い、「教員免許更新制の問題点」(08年3月11日初出)を更新しました。論旨に変化はありませんが、筋道を明確にし、より詳細に論じています。

 つけ加えた主な点をいくつか引用します。

 「冷静に考えてみよう。講習を受けさせるために免許更新をからめる必要があるのだろうか。教員の資質向上のために講習が必要だというなら、現在の初任者研修や10年研修を拡大して10年ごと研修にすればそれでいいことである。」

 「教員を配置転換したりクビにできる制度がすでにあるのに、さらに免許の問題まで持ち出す必要はないのである。」

 「『教員に免許更新と連動した講習を受けさせ、日本の教育を向上させよう』とはじめから主張した人間などいない。複雑な政治劇で取引が起こり、そう決まってしまっただけのことである。」

 今回の教員免許更新制は、日本の教育システムの最大の問題点を浮き彫りにしている。それは、中央の勢力間での妥協で政策が決まり、素晴らしいと思っている人間など誰もいない施策が生まれてくることである。いったん決まれば、意味を不問にして巨大公務員僚組織を上げて実行する。
 公務員たちは、自分にとっては変えようのないことだから、制度の中でせめてものことをしようとする。また、いったん実行してしまうと、それが無意味だとは思いたくない。なんだかんだと意味付けをしたりデータを集めれば、素晴らしいことをしていると思えてくる。

 講習の出席者は、受ける以上は、それなりのものを得ようとするだろう。アンケートを取れば「良かった」という声が多くなるであろう。講習というものは、まったく無駄ということはめったになく、意義を探せばそれなりに見つかるものである。現在のシステムの中で、「時間の無駄だ。仕事に専念させてくれ」と素直にアンケートに書ける教員は極めて少ないだろう。
 講習を用意する側も、国民の税金を使って無駄なことをしているという非難を浴びたくないから、それなりのものにはなるだろう。

 しかし、もともと誰も望んでいなかった制度が実現し、決めた議員や委員達は実行過程にも結果にも責任を負わず、決定を下ろされた公務員組織が機械的に実行している、という構造が変わるわけではないのである。

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学校運営における発言力過多と発言力過小

 学校は、立場の違うたくさんの人々が関わって成り立っているものである。どの立場からも、発言力が強すぎるときと、弱すぎるときで、それぞれ問題を生じる。
 発言力過多のときに起こる問題と、発言力過小のときに起こる問題の両方があることを理解するのは、たいへん重要なことである。この理解がないと、ただどこかを強めればいいとか、どこかを封じればいいとかいう論議になる。


        発言力過多                 発言力過小

行政組織  繁文縟礼、規則・前例の支配     施設、人員、人権を維持できず

教師     独善、専制                ロボット化、判断力喪失

保護者    専門性蹂躙、我が子主義       学校教育の下請け化

生徒     わがまま                  自主性喪失、無気力、反抗

 このうち、学校での直接の当事者は、教師と生徒と保護者である。この三者のどこかが「本音が言えない」状態になると、学校運営では次から次へと問題が噴出するようになる。
 行政は、これら三者から等距離にあって、調整役を務めるのが本来の役割であろう。

 現在は、行政組織が学校と教師を管理下に置くことが、学校を成り立たせる基本構造になっている。制度面で、行政と学校があまりに一体化している。保護者と生徒は正式の運営参加権を持たない。したがって、日本の学校の最大の問題は、柔軟性の欠如になるのである。

 保護者・生徒は、尊重されるという建前があるが、制度的な運営参加の保証がない。
 そのため、保護者と生徒は、おおむねは発言力過小の症状を出すいっぽうで、個人的に発言力過多の問題を起こすことが多い。モンスター親はこの個人的発言力過多の例である。保護者と生徒に、代表を選出して運営参加させる権利がないことや、総意を形成するメカニズムがないことが問題である。

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