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2008年10月

社会変動の時代がはじまる そして教育

 私の政治、社会、経済全般に対する関心は大きいのだが、教育を論じるときに、なるべく政治・社会論を持ち込まないようにしている。教育、とくに初等中等教育は、人間性に基づくべきであり、政治・経済に振り回されるべきではないと考えるからである。
 しかし、今回の出来事はあまりに影響が大きい。アメリカでの金融危機をきっかけに、ニューヨークでも日本でも株価が暴落している出来事のことである。

 今回の金融危機と株価暴落は、単なる景気変動の話では済まない。これは、持続可能ではない経済構造が、肥大しすぎて自分自身を支えきれなくなったものである。また、その経済構造を成り立たせている価値観が疑われはじめるということである。社会・経済の変動がこれから始まるであろう。長期の不況と、新しい社会・経済モデルの模索が避けられない。

 この株価暴落の意味は大きい。これから深い変化がはじまることが、じわじわと感じられるようになるだろう。それと関連して、教育の根本的問い直しが浮上してくるであろう。

 政治的には、アメリカ覇権の終焉が始まる。その意味では、今回の株価暴落は、ベルリンの壁崩壊に匹敵する出来事だと思う。今後、アメリカの経済力では、政治的、軍事的覇権を維持しきれないであろう。世界は多極化していくだろう。

 日本にとっては、アメリカに追随していればよい時代が終わりはじめたことを意味する。遠からず、アメリカは東アジアから撤退していくだろう。それは、60年以上にわたってアメリカの衛星国として繁栄してきた構造が終わることである。その影響は、国内にも深く及ぶだろう。アメリカ的な競争的資本主義社会モデルへの深刻な疑問が湧いてくるだろう。

 しかし、教育面において、これからの社会変動は日本の教育をまともなものへと揺り戻す大きな力になるだろう。既存の知識と価値観を若者に注入するだけでは、社会変動を乗り切れない。
 まともなものというのは、賞罰や競争に振り回されない、明晰な人間を育てるということである。思考力だけに着目せず、それを支えている肉体、感覚、感情とのバランスを常に配慮しているということである。一人あることと、共にあることのバランスに配慮していることである。

 安定した社会は、自分に自惚れているものである。確立した知識・技能の範囲で点数競争をやらせたり、自らの規範意識のコピーペーストを若者にやって満足する。

 不安的な社会では、生きる力や型にはまらない知恵が求められるようになる。日本で90年にバブルが崩壊したあと、社会・経済への疑問が生じてきた。それと同時に、教育への基本的な疑問の声が大きくなった。既存の教育に対する不満が噴出してきた。文科省すら「ゆとり教育」を言い出した。
 03年ごろから株価も成長率もそこそこ持ち直した。その時代と、「学力」が言われ、日本教育が過去回帰の志向を強めた時期は一致する。

 しかし、この学力回帰は底が浅い。とくに新しいものがなく、新しいものを担いきれなかったというだけで、後ろを向いたものである。従来型の問題がまた噴出してくるだろう。背景にあった、小春日和的な経済状況も消えつつある。

 これから2~3年以内に、誰にとっても社会変動が身に感じられるようになってくるだろう。それからが、ほんとうの模索期である。最大の希望は、じつは教育にある。愛と明晰さを持つ人間たちを育てないかぎり、どんな社会変革も、単なるスローガンの入れ替えと、支配層の入れ替えに終わるだろう。

 詳しいことは、また、おいおい論じていきたい。

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言葉が意識を覆ってしまっていないこと

 言葉と意識の関係にについて、頭の中がすっきりするようなことがあった。

 ある自由主義的教育をしている高校がある。その卒業生が、レポートを見せてくれたのを読んだときのことである。
 この学校では、テストによる点数付けはしていなかった。生徒にレポートの課題を出し、それとの応答で評価をしていた。レポートを集めてコピーし、冊子にして各生徒に配っている。教師たちの労力はそうとうなものになるであろうが内容はとてもよかった。
 とくに国語は、生徒たちの思考力をほんとうに伸ばしていると思われた。こんな作文、ふつうの高校ではまずお目にかかれないだろう、というものがたくさんあった。

 谷川俊太郎の詩を題材にして、言葉と沈黙についてのレポート集があった。

 ある女子生徒は、「愛、神といったものは形がなく言葉によって作りあげられたもの。非常に観念的で、人間が考えを変えればあっさりと壊れるものだ。」と言う。しかしその形のないものたちは、言葉によって縁取られることにより、色濃く存在するのだと。

 ある男子生徒は、「僕は言葉に染まりすぎている」と書く。「本当の理解っていうのは、息を吸うのと同じようにとか、ジュースを飲んで身体の中に入っていくのとか、メロディーを覚えるのと近くて、スゴクすがすがしい感じの物さ」

 また別な男子生徒は、スポーツをしていて無我になった体験を書いている。そして、「言葉があると、いろいろ考えるし、つらいことばっかだろう。だけど、だからこそ言語がない世界にあこがれるんだろうなと思った」

 こんなふうに、言葉と意識の一体化がまだ起こっていない若者たちの率直な声が入っていた。高校生くらいの年齢だと、まだ意識が言葉に覆い尽くされていない人たちがかなりいるのだと思う。

 私が高校生のときがそうだった。標語や努力目標のようなものがまったくなく、意識にはいつも量りしれないものが流れていた。その量りしれないものの中にいれば、理解することも、知識を習得することも、たやすいことだった。いかなる努力もなく、どんな欲もかかなければ、意識は対象に沿って緻密に動くし、精密な記憶が残るものなのである。

 そのときは、その無量のものをとくに意識しなかった。みんなそうなのだと思っていた。
 失ってみてはじめて、それがとてつもなく重要なものなのだとわかった。受験勉強プレッシャーに屈し、70年の大学紛争に巻き込まれて、いつのまにか自分の思想、自分の言葉にしがみついていた。孤独と不安がいつもつきまとい、言葉に慰安を求める人生になった。

 自分の意識と言葉にギャップを感じている若者たちは、ほんとうは宝物である。彼らが、個人の意識に、社会のあり方に新しいものをもたらしてくれる。創造的なものというのは言葉に汚されていないもののことである。研究者のデータと論文からも、シンクタンクのレポートからも、生まれるはずがない。

 ほとんどの大人たちは、すでに言葉の罠にはまっている。その大人たちが、教育理念を作り、カリキュラムを作り、道徳を作っても、人間の生きる力そのものを捉えることはできない。標語を掲げて満足できるような人間に、教育を任せるべきではない。
 とにかく、子どもと接してみたまえ。まだ言葉の壁ができていない若者と接してみたまえ。いかに、自分の理想や信念が無力であるか、実感できるはずだ。子どもや若者のあるがままを感覚で捉えていることが、ものすごく重要なことなのだ。子どもや若者たちと接していない人たちが、教育を指揮できるような制度を作ってはいけない。それは、本社の総務部と企画部だけで工場を作るようなものだ。
 とくに、政治家と官僚が教育内容に関わることが出来ないようにしないといけない。かれらは、スローガンと規範意識で人を動かすことのプロでしかない。

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魔法のような解決策に手を出すこと

 英語が不得意な学習者が、よく、文法の本に手を出す。英語はどうもわけがわからないが、きっと文法さえ理解できればわかるようになるだろう。そういう希望を持つのだ。しかし、英語は生きた言葉であって、そんなに整然としたルールでできているわけではない。そもそも、単語や言い回しをある程度知らないことには、どの文法を適用していいのかもわからない。
 希望を持って文法書に取り組んでも、たいていは挫折する。

 数学が不得意な学習者が、公式を丸暗記する。型どおりの問題に当たれば、解けることもある。しかし、丸暗記に頼りだしたら、だいたい1年以内に成績は急降下しているものだ。

 公共性を作り出すのが不得意な学校運営者が、規律・規範を言い出す。非常にすさんだ学校では、戦国時代を武力で終わらせるのと同じような効果はあるだろう。しかし、それは知性と合理性を無視した権力支配である。教師同士の権力闘争と、生徒同士の陰湿ないじめがはびこりだす。

 安心と信頼を創り出すの不得意な教師が、愛と言い出す。本人は、それなりに高揚感を持てるだろう。しかし、生徒たちは、先生がいっそう鼻持ちならなくなったと思うだけだ。愛はやってくるものであって、作り出すことはできない。

 人を支配することに慣れた政財界人が、学力を競わせればいいと言い出す。点数競争させれば、試験問題に過剰適応して画一化する。優越感と劣等感が、じわじわと生徒達の心をむしばむ。落ちこぼれがたくさん出る。

 みんな、共通したことに思える。ほんとうはどうなっているのかを見極める根気がなくて、魔法のような解決策に手を出すのである。
  ほんとうのことを知る力をつけるのが教育の役目だが、教育でもっと悪くしていないだろうか。

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効果があるのか検証改善委員会

 全国学力テスト実施に伴い、全国に検証改善委員会ができた。その内容を見ると、効果がありそうなものが少ない。なぜ効果がないかの分析をここに供したい。
 ちなみに私は学力派ではなく、「教育というものは教師と生徒の関係の中から生まれてくるものだ。教育の官僚統制を廃し、学校分権と、生徒の『教育への権利』の確立が必要」という立場である。

 例として福島県の検証改善委員会が出した学力向上策を見てみよう。決して福島県を批判したいのではなく、他県にも共通したものの典型例として取り上げたい。

 福島県の例は、要するに、何が問題なのかどうしたらいいのかを他人に丸投げしたまま、現実の学校運営の外側で官製イベントの打ち上げ花火をやっているだけなのである。見栄えはするが、おそらく結果らしい結果を出すことは難しいだろう。余分な仕事を増やすから疲れる人はたくさん出る。一時の学力向上ブームと予算付けがなくなれば、たちまち消えていくと思われる。

[学校改善支援促進事業] 福島県検証改善委員会
・調査結果の詳細な分析
 ── 検証改善委員会自身では分析をやらず、分析は業者と現場に丸投げしている。検証改善委員会こそが結果を分析し、あるいは各学校がデータを分析する指針を出せるようでないと、お祭り騒ぎと掛け声だけに終わるだろう。
 千葉県が、苅谷剛彦を委員長とする県外専門家委員会を設置して分析を依頼したが、これはそれなりに意味のある結果を出していた。

・福島県学力実態調査による実態分析
 ── 本気で、学校要因や、教師要因、社会経済要因を分析する気はあるのか。結論が子どもへの「学びのすすめ」や「家庭学習のすすめ」なら、責任を子どもに転嫁してしまっている。

・優れた実践から学ぶ
 ── 優れた実践の報告や、本の出版はたくさん行われている。屋上屋を重ねる。うまくいっていないところの原因と、支援策を出さないと意味がない。

・「活用力向上」のための指導資料の作成
 ── B問題対策であろうが、PISA型問題に対して、本当に実効ある指導資料ができるのか。気休めではないか。

・「提案授業、授業研究会」 Web配信 DVD収録配布 「授業改善サポートブック」作成
 ── 授業研究、研修はすでにたくさん行われている。従来の研究会ではなぜいけないかの分析がない。新しく授業研究会をやるだけの新機軸もない。そんな研究会をやらなければならないなら、十年研修はなんのためにあるのか、指導主事はなんのためにいるのか。

・県版「学びのすすめ」を児童生徒全員に配布
・保護者に学力向上の取り組みを伝えるリーフレットを配布
 ── パンフレット配布は金と手間がかかるが、効果はほとんどない。

・授業検討改善会(校長、教師)、PTA学習会、授業フォーラムの開催(保護者、地域住民の参加)
 ── 人を納得させる分析結果や、具体的な改善策をもたないまま開かれるイベントである。よく言われていることが言われて、それで終わるであろう。この手のイベントは、動員しないと参加者を確保できないことになりがちであり、また予算がつかなくなればそれで終わる。

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幼稚園の集団訓練

 きょうは土曜日。うちの近所の幼稚園が園庭で運動会をやっている。
 園児たちが並んで、いっせいに同じ動きで踊っている。整列して行進する。集団行動タイプのイベントが多い。子どもたちのキャッキャッした感じがない。子どもたちの動きに表情がない。先生も親もそれに気が付かないのかなあ、と思うのだが、すでに慣例化していることだから、これで進行する。 

 幼稚園が、園児たちに集団行動の訓練をするのは、「小学校に行くようになって困らないように」だ。先生たちも親もそれを心配して、訓練するのである。実際、小学校で集団行動についていけない子は、不利益をこうむるのである。
 それで、あんなつまらない動きを子どもにさせて、「これで社会性がついた、集団で生きていける」と安心することになる。こどもたちは、従順に段取り通りのことをしている。

 子どもに社会性を身につけさせたいなら、まず、親とのしっかりした二者関係、それから仲間との遊びを通じた自主性と折り合いのつけかたを実地に経験する機会を作るべきだ。いきなり集団訓練をやって上っ面を整えるのは、試験の前の一夜漬け丸暗記と同じだ。あとにいったい何が残るのかと思う。

 小学校は、きれいな理念を言うが、一斉授業を維持し、朝礼、運動会、入学式などを遂行する枠から出られない。それは見えないカリキュラムになっていて、検討されることがない。けっきょく、学校は法令と慣習にがんじがらめだ。その小学校で生きていけるように、親も幼稚園も配慮せざるを得なくなる。

 中学は、受験もからむから、もっとがんじがらめだ。生徒の自主性がつく時期なのに、教師達が生徒の自主性と闘ってしまっている。小学校は、その中学で生きていけるようにと、配慮せざるを得なくなる。

 といったぐあいに、せっかくの子ども時代が、どんどん将来のための訓練に食われていくのである。人々が、それが素晴らしいと思ったからそうなっているのではなく、誰も変えようがないシステムができてしまっているだけではないかと思う。

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