« 2008年7月 | トップページ | 2008年9月 »

2008年8月

知らずを知らずとなす

 倫理道徳の当たり前であり、知識・技能の当たり前であること。そして教育の当たり前であるべきこと。

 「知るを知るとなし、知らずを知らずとなせ。これ知るなり」

 ところが、学校ではテストで点数を付けられるから、丸暗記でも、あてずっぽうでも、点を取ることが推奨される。とくに中学以降の常識は、「知らずとも知るとなせ。これ利口なり」である。
 自分はまったくわからないから、と白紙で解答を出す生徒は、「せめてなにか書け。まぐれあたりということもある」と叱られるだろう。

 でも、知らないことを知っているとしたときに、人間の精神は大事なところで崩れていく。

 世の中にでると、なんでも立派にしゃべれば通用する。
 人にひけらかす気がないとしても、きれいな説明を持っていると不安がなくなり、対処できる気になる。
 役職につくと、知らないことでも知っていると見せなければならない。

 それで人間たちが、真理感覚を失い、崩れていく。

 試験勉強に励む受験生に接したり、
 レポート書きをする大学生に接したり、
 「私の若い頃には...」と教育に注文をつける実業家に接したり、
 中教審の答申を読んだりすると、
 知らずを知らずとなすことは、大事だなあと思う。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  応援クリックのためのバナー

| | コメント (1) | トラックバック (0)

比較のもたらすもの

 以下は、J. クリシュナムルティの『子どもたちとの対話』からの引用です。
 J. クリシュナムルティは、人間が深く真実と愛に根ざすことが可能であると訴え、自ら世界各地に学校を作った思想家です。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *
 安全であるという感覚を妨げるものの一つは、比較です。

 あなたが勉強やゲーム、または外見で、他の誰かと比較されるとき、あなたは不安感を、恐怖感、不確実感を覚えます。だから私たちが昨日のことを先生の誰かと議論しているとき、私たちの学校ではこの比較する感じを、成績を与えたり点数をつけたりすることをすっかりなくしてしまうのが、そして最後には試験への恐れをなくしてしまうことがとても大切なのです。

 自由があるとき、幸福があるとき、関心があるとき、あなたはよりよく勉強します。あなた方は皆、ゲームをしているとき、ドラマティックなことをしているとき、散歩に出かけるとき、川を見ているとき、幸福感と健康があるとき、自分がずっと容易に学べることを知っています。しかし比較の恐怖、成績の、試験の恐怖があるとき、あなたはあまりうまく勉強したり学んだりできません。

 先生はあなたが試験にパスして次の学年に進めるかどうかにしか関心がありません。そしてあなたの両親はあなたに進級してもらいたいと思っています。どちらもあなたが恐怖をもたない知恵のある人間として学校を出ることには関心がないのです。
*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 私自身、自分が高校生までのときは、競争的な学びが行われているとは感じませんでした。学校は、友達と戯れていられれば、それなりにやっていけるところなのです。
 しかし、私塾をしていて、さまざまな子どもたちに接するうちに、子どもたちがいかに不安や恐怖におびやかされているかを知るようになりました。
 その不安は、わかりやすい身体症状で表れるときもありますし、強い自我意識になっている場合もあります。しかし、不安と恐怖であることに変わりはないのです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  応援クリックのためのバナー

| | コメント (0) | トラックバック (0)

耳のシャッター

 しばらく忙しくて更新していませんでした。いつも読んでくださっている方々、申し訳ありませんでした。

 制度のことで言いたいことはいくらでもあるのですが、ちょっと広い話題で。

 会合に出ていて、誰かが何かを言っているときに、自分の考えにふけっているもので他人の発言をさっぱり聞き取れていない、ということありませんか。私はしょっちゅうです。

 誰がしゃべっているかにすごく関係します。自分に親しい人だと、自然に聞き取っています。印象の良くない人だと、どうも聞いていられない。頭だけの理屈でしゃべっている人の話がどうもだめ。私自身のことを棚に上げて自分勝手なことですが、どうも聞いていられない。
 攻撃的なしゃべり方の人もだめだし、自己顕示欲が見え見えだとかすると、いつのまにか自分の耳が閉ざしてしまっている。その人が何をしゃべったのか、ほとんどわかりません

 もちろん、話題によります。私が興味のあることなら、よく聞いています。
 体調にもすごく関係していて、疲れている時はとうぜん聞き取れません。

 話は飛躍しますが、この”聞いていない”現象が「お勉強ができない」現象の、根幹にあるのではないかと思うのです。人の話に対して耳が閉じた状態です。多くの子どもで起こっています。とうぜん、授業がなにも入らない。

 小学生や中学生のころ、先生に指されるとハッとして立ち上がるけど、何を聞かれてもわからないままの同級生たちがいました。”頭が悪い”という印象を与えるのですが、そうではない、耳が閉じていて、自分の考え事にふけっていた状態なのです。それどころではない、たいていの子たちが、授業中は考え事をしていました。だもんで、家で勉強する必要が生じるのです。なんてバカバカしいことをしているのだろうと思っていました。

 いまになって、そうか、あの子たちは私の今の状態でいたのだな、と思います。頭の問題ではなく、耳にシャッターが降りた状態。
 私塾で教えた子どもたちにも、教えていてなかなか入らないから、よほど頭が悪いのか国語力がないのかと思うと、ちょっと相手と局面が変わると、話もよくわかるし、機敏に頭を働かせているのによく出会いました。授業になるとだめなんです。

 あまりにもありふれた現象なのに、心理学も教育学も、さっぱりこのことに触れていません。しょうがないから、自分で少しずつでも言葉に組み立てようと思っています。とにかく、私という実例があるのだから、観察しやすいですし。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  応援クリックのためのバナー

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年7月 | トップページ | 2008年9月 »