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2008年7月

なぜ教育をするのか

 なぜ、教育をするのか?

 それは、法律や規則などの「きまり」の世界に求められるべきではありません。法律がかくかくであるから、指導要領がかくかくであるから、学校では何々をすると法律になっているから、それらが教育を行う理由になることは、教育の自殺行為です。
 「きまり」が精神を生み出すことができると考えるのは、帽子や靴が人間を生むことができると考えるのと同じくらい馬鹿げています。

 なぜ、教育をするか? それは、営利のためであってはなりません。生徒を集めることが利益の手段になれば、学校は農場で生徒はその作物のようなものになるでしょう。

 教育をする理由は、人間として発達することそのものの中に求められなければなりません。「この子がかくかくしかじかであるから」というのが、どのような教育を行うかを決めるものでなければなりません。

 教育は、子どもたちが、自分を商品価値を高めて社会に売り込めるようにするものではありません。それは、結局は形を変えた奴隷訓練にすぎないのです。

 子どもに接している人たちは、何が重要なことであるか、直感的に知っています。共感することそのもののが、子どもも教師も、生きる糧となり得るのです。理解や習得や発見そのものを共有することは喜びです。肉体的に、精神的に、子どもの躍動感が出てきたとき、それは子どもにも大人にも、その教育をもっと続ける理由になるのです。

 教育をすることの理由は、人間であること、人間がどのよう発達するものであるか、に求められるべきであり、それはたいへんに柔軟なものなのだと思います。

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上からの教育改革の限界

 90年代から始まった”教育改革”に大きな限界があった。

 改革を発想する人間と、行動する人間が別々であることである。政府主導の教育改革会議が作られ、方針を出して、公務員組織に実行させる。文科省も、遅れをとってはまずいから、同じようなことをする。

 だから、ダメなのである。
 言い出した人間は、言ったきりでそのまま。審議会でけっこうなプランを作れば、それで責任を果たしているのだから。
 動いた人間は、報告書を出して、ほっとしてそのまま。形を作ればそれで責任を果たしているのだから。

 だから混乱ばかり作り出す。「教育改革の幻想」(苅谷剛彦)なんて言われるのである。

 そもそも、改革というのは、問題を抱えている人たちが、「こんなことで困っています」とか「こうしたらいいんじゃないですか」と動き出して、成立するものである。だから、行政の仕事は、困っている人たちに道がつくようにしてあげることだ。それが民主主義国というものだ。

 それなのに、教育ということになると、政府も文科省も、自分が問題を解決してやると一手に引き受けて、立派な旗を振る。
 うまくいきっこないのは、当然。

 近年の動きの中で、なにかしらを本当に改革したなと思われるものは、言い出した人が実際に身を挺して人々によびかけ、流れを作り出している。「学びの共同体」の佐藤学とか、「TOSS]の向山洋一とか、「不登校」の奥地圭子とか、「シュタイナー教育」の子安美智子とかである。
 他に、「この人は確かに何かを作っている」と感じられる人たちは、ことごとく実際に現場から動いている。

 けっこうな理念があって、それを官僚機構が率先して実行し、みなが力を合わせて立派な教育ができる。この美しいイメージにとらわれてしまうことそのものが問題なのだ。
 社会主義国が潰れていったのは、美しいイメージに酔い痴れ、問題を抱えた人たちが自律的に動けるようにしなかったせいである。

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市教委と一部マスコミによる”魔女狩り”

 新潟市で08年5月に出された13名の不登校督促事件に関して、「財界にいがた」という、地元の月刊誌が記事にしている。ようするにこれは”魔女狩り”だと。
 この内容は、私が取材して得た感触に近いものである。

 5月下旬の新聞報道は、怪しい団体が蔭にあって学校に行かせないようにしていることを示唆するものであった。
 その後のフォローの記事はない。それは、そうであろう。ここには、カルトめいた問題はなかったのだから。

 親たちは、たしかにミコト・カレッジという幼児教室に来ていた人たちだった。しかし、このミコト・カレッジの教育観は、「子どものことをよく理解する」であり、そのために実践的に親が子どもに関わるやり方を開発していた。ここの教育思想に「学校に行かせない」に類したものはない。
 本音が言える子どもたちがたくさん育った。そうしたら、学校に行きたがらない子どもたちも現れた。親はその子ども達を保護しようとした。自分たちでフリースクールを作ろうとした。
 要約すれば、それだけのことである。

 ミコト・カレッジに行けば学校嫌いになるかというとそんなことはなくて、楽しく学校に行っている子どもたちのほうが多い。

 新聞記事になったそもそものきっかけは、市教委から発したものではない。逆であって、出席督促を受けた親側が「これはおかしい」と思って、新聞社に通報したことによる。
 そうしたら、市教委側に取材した記者が、市教委の見解に沿って記事を書いた。市教委は「怪しい」という予断を持っていた。

 しかし、実際のことを調べると、市教委は現地の調査に来ていない。事実誤認もたくさんやっている。裏付けをとる作業が足りないままの危うさに、市教委自身が気が付いていないのだと思う。
 教育委員会というところは行政の一つなのに、選挙の洗礼は受けない。市長に指揮されているわけでもない。そもそも、正式な職務の中に、住民の意思を代表するという項目がない。教育委員は複数いるが、月に2回くらいの会合に出てくるだけである。実質は、教育長の独走になりやすい体質を持っている。

 「財界にいがた」の記事は、第1章タイトルを「市教委と一部マスコミによる”魔女狩り”」としている。この言葉でほぼ事件の全容が現されているように思う。意図的な不登校狩りではないが、影に怯えた思いこみが相当にあり、事実確認を怠っているから、市教委はこのくらい言われてもしょうがないであろう。

 しかし、今回の問題は、ただの魔女狩り問題にとどまるものではない。
 根本に、もっと本質的な教育問題が横たわっている。

 ある親の方が言っていた。「子どもがほんとうに学校に行くのを嫌がっているんです」と教育委員会の人に言うと、「子どもは、学校に行きたくないって言うものですよ。それを真に受けてはいけません」と言われて、話がぜんぜん通じないという。

 問題はいくらでも出てくる。
「行政と親と、どちらが子どものことを深く理解しているか」
「『学校に行きたくない』という子どもの言葉の信憑性をどう判断するか」
「学校は必ず子どもにとって最善なのか」
「親に教育を選択する権利はないのか」
  学校教育とはなにか、義務教育とはなにかを、突きつけてくるような問題である。

 06年に教育基本法が改正された。その第十条に
「保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。」

 「子どもの発達のためにどうしたらいいかを決める責任者は親ですよ」と言っているではないか。この条文ができたので、子どもの教育に責任を取るのは誰なのかの問題は、新しい局面を迎えていると思う。

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