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2008年6月

上っ面の改革でいいのか

 日本の義務教育は、官製学校になんとしても子どもを来させることだった。

 教育内容と教科書は国が完全にコントロールする。
 学校運営に、親と生徒は関与させない。PTAは大政翼賛会。
 「嫌がる子どもを我慢させて授業を受けさせるのが教育だ」という教育哲学が広がっている。

 国が貧しくて、食うためには我慢するしかない時代は、親も子どもも「学校おしん」になるのを美徳と考えていた。でも、時代が変わった。

 忍耐し努力することを疑う教育哲学がじわじわと広まってくる。教育は、本来、子どもの自主性に基づくのではないかと。教育は、本来楽しいものではないかと。

 先生も、より強制的でなく、より楽しい学校生活を目指す方向に行く。だから、学校教育がよいものになったかって? とんでもない、かえって学校が崩壊してしまうのである。

 子どもの立場から見ればすぐわかる。しょせんは、徴兵令状みたいなのが来て、一カ所に集められて、教室に拘束されている立場。まわりは自分勝手なガキだらけ。先生は、わけのわからない大人の言葉ばかりしゃべっている。
 ここに「我慢しなくていいよ」、と言われたら、わーっと、自分勝手を始めるのである。そうかんたんに、”自主的な学び”なんかに行くものではない。

 だから、やはり子どもに規律を押しつけて、嫌がる子どもたちに我慢させなければならない、という方向がまた強まっているようだ。
 やってみればわかるだろうけど、これは、いままでの経験に何も学んでいない。昔を美化しているだけだ。昔ながらの、無気力、反抗、いじめ、落ちこぼれがまた増えるだろう。我慢の美徳のあるところには、必ず陰湿ないじめがはびこる。

 ほんとに教育改革をやる気なら、学校ぐるみで、なんであろうとよいと思ったことはやれ、まずいと思ったことはやめることのできるだけの自由と責任を負い、先生たちが「先生くささ」を漂わせていない学校を作らないといけない。今の制度の外側に作らないと、そういう学校はなかなかできないだろう。

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市教委と校長の権限関係

 新潟市で、13名の子どもに出席督促が出た件で、親側に話を聞いていた。

 新潟日報5月29日には市教委側のコメントとして「呼び掛けへの理解を得られずに悩んだ末の対応」と出ているが、親側は「学校の諒解が得られていたと思っていたら、いきなり出席督促が来てびっくりした」と言っている。
 どうして、そこまで食い違うのだろう。
 母親たちに経過を聞いていたら、お母さんの一人が
「そう言えば....」

 校長や担任が、「元気になったらきてくださいね」とか「できるだけ来させて下さいね」というようなことをけっこう言っていたそうである。他のお母さん方も、「そうか、そう言えば...、そんなこと言ってた」
 でも、みなさん、あれが”出席を促す呼びかけ”だったとは感じていなかった。

 そうなることは、よく理解できるのである。

 「できるだけ来させて下さい」は、不登校の子どもの親に対して、先生方がどんな場合でも言う。それは、ただの儀式みたいなものであって、ほんとうになにがなんでも連れてこいという意味ではない。
 現在の制度では、不登校に対して、学校の内でも外でもいいからその子に合った教育を発生させよ、という法令はない。だから、「学校には出席しなければいけません。この場合やむを得ないけれど、できるだけ来させてください」という形を作ることがどうしても必要である。その形の中で、事態を収めなければならない。

 「来て下さいね」が、法律の建前を取り繕うための形式的なものであることは、先生も親も承知しているのである。

 しかし、今回の出席督促は、市教委が「こいつらは怪しい」とにらんで、校長たちをリードした。出席督促を出す前に、親たちに十分に出席を促せ、という指示は市教委から校長に対して出ていたと推測できる。
 しかし、校長や担任は現場の教育者であり、現実の親たちとの関係がすでに存在している。教育者が、お役所的な命令指示を出せば、それだけで親に不信を買うものなのである。

 もし私が校長だったら、私は気が弱いたちだから、親には強いことが言えなくて、「できるだけ来させて下さいね」というようなことを表現を、ちょっと多めにするだろう。いっぽう、市教委に現状具申するほどの勇気もヒマもないから、「かくかくの出席促しを、○月○日にいたしました」という報告書を出すであろう。これなら、親につつかれても「そちら様に立場があることはよくわかります。これ以上のことは市教委とお話になったら」と言えるし、市教委につつかれても「わたしは指示に従って、最善のことをいたしました」と言えるし。
 そうすると市教委は「そうか、校長達がこれだけ出席を促しているのに子どもを出席させないとは、悪い親たちだ」と判断するであろう。

 「伝言ゲーム」という遊びがある。列を作って一人から一人へと言葉を伝えていくと、最後にはとんでもなく変形していて、みんなで大笑いできるゲームである。親→(担任)→校長→(市教委担当者)→教育長と、この程度の参加者人数であっても、けっこうゲームになっていたのではないか。

 校長たちを悪者にしてはいけないと思う。これは、権限をめぐるシステム問題である。

 私は、親の教育権と学校裁量をもっと大きくして、ある子どもにどのような教育をなすべきかは、親と先生と専門家(心理、医療、教育など)だけで決められる柔軟なシステムを作らないと、悲劇があとを絶たないと思っている。

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昔はよかった?

 秋葉原で、無差別大量殺人があった。

 稀に起こるとんでもない事件があると、昔はなかったのに最近の世の中はひどくなった、そういう見方をしがちである。

 少年犯罪についてであるが、戦前の子どものほうが人を殺していた、というデータを挙げているサイトがある。
「少年犯罪データベース 戦前の少年犯罪」
http://kangaeru.s59.xrea.com/senzen.htm

そこから例を引用すると、
 昭和9年(1934).11.21〔小3ら3人が同級生を火炙り殺人未遂〕
 北海道網走郡で、小学3年生3人が下校中に同級生を松林に連れ込んで裸にして木に縛りつけ、火あぶりにしようとしているところを教師に見つかった。授業中に筆を貸さなかったため殺そうと計画して友人2人に手伝わせたもの。

統計数値を引用すると、少年による殺人(検挙数) 人口10万人あたり

  昭和11年 1.05。

  平成17年 0.58。

 そうなんですねえ。いちばん多かった時代が昭和25年~35年で、2.0を越えている。

 では、相手が誰でもよかった無差別殺人については、戦前と戦後で違いがあるのだろうか。
 わからない。

 近年は、共同体が希薄になり、個人に内面化された「かくあるべし」によるコントロールが強くなった。だから、恨みの対象が不特定となりやすいのではないか、という仮説は持っている。でも、まとまったデータには、出会うことができない。

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学校を作る自由

 世界に、学校を作るのがたいへん自由な国々がある。デンマーク、オランダ、ニュージーランドといった国々である。学校を作る自由は、民主主義のバロメーターと言えるものである。

 ところが日本で学校を作る自由の話になると、多くの人に湧く疑問が
「でも、カルトが学校を作ったらどうするのですか」。
多くの人がそれを心配する。

 これを聞くと、私は中国で議会民主主義を危険視する考え方があるのを思い出す。

 辛亥革命のあと、北京の政府に国会ができた時期があった。この国会が、ものすごい買収と、脅迫の渦巻くところになり、大混乱をもたらした。
 そこで中国の人たちが言う。「議会制民主主義は危ないです」

 それと同じではないかと思う。

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新潟市教委の出席督促

 新潟市の小学校が、13名の子どもの親に対して出席督促をしたとの報道があり、大きな波紋を投げかけた。

 親側の人たちに直接話を伺う機会があった。事実関係で、報道とは大きな食い違いがある。

 この問題を突き詰めると、日本の教育システムが戦後の仕組みそのままであり、未整備な部分がたくさんあることに行き着くと思う。
 今後も、「親が悪い」、「学校が悪い」、「教育委員会が悪い」、「どうせカルトだろう」、などの悪者探しが横行するであろう。しかし、どの人も大きなシステムの中で、自分の立場を懸命に生きているだけと思われる。それぞれの人がなぜそうせざるを得なかったかを、暖かく視るべきだと思う。

 実際の報道は次のようなものである。
 新潟市の小学校が出席督促書 新潟日報 08年5月29日
http://www.niigata-nippo.co.jp/pref/index.asp?cateNo=1&newsNo=110713

 朝日、毎日、読売の地方版も、この件を報道している。各社の新聞報道をさらりと読むと、たいていの人には「これはカルトが裏にある。市教委はその子どもたちを助けようとしている」という推測が湧くであろう。裏付け取材はないのに、匂わせるような記事になっているのはまずい。

 私の知るところを書く。

・ このグループは、子どもの感情を尊重しようという幼児教室が発展した子育てグループである。宗教性、政治性はない。子どもの意見をどこまで尊重するかで、多数派の教育観との違いがあるが、常識の範囲内である。

・ 親側は、学校と話し合って不登校扱いとしてもらうことの通常のプロセスを踏んでいた。

・ 13名のうち4名が新一年生であり、当初から学校にいっていない。しかし、事前に学校側に諒解を取っていた。小学校にあがるときに「この子は、いま、学校は無理だ」と判断されるケースは多く、たとえばフィンランドでは就学年齢を遅らせることが認められている。しかし、日本では、「学校に一日も行きもしないで学校を忌避するのはおかしい。どうせ、カルトだろう」と判断されることが多い。

・ 「ホームスクール」あるいは「家庭で責任を持って育てます」の言葉が、当局側を大きく刺激したらしい。学校長→市教委と報告が伝わるうちに、親側の言った文脈とは切り離されて解釈されたようである。

・ 新潟市の教育委員会規則によると、出席督促は各学校長の判断で出すことになっている。そのため、親側にとっていったん話がついているはずの学校長から文書で出席督促がなされた。これは、親側に大きなとまどいと衝撃を生じさせた。実質の指揮者は市教委である。校長たちは板挟みの立場と思われる。

・ 新潟市教育委員会は、2006年4月からの「不登校未然防止プロジェクト」で、2008年までの3年間で、不登校の児童生徒を半減させることを目標にしていた。

・ 不登校に対する学校側の基本方針は、時代によって大きく揺れている。「学校復帰一本」→「容認、静観」を経て、現在は、「放置せず」の方針に変わり、マニュアルも存在する。これは、現場の教職員には、通常業務以外のたいへんな経験と判断力と時間的・体力的負担を生じさせる方針であり、積極的な実行は困難である。現場から市教委へは、ツジツマ合わせの報告が多くなり、市教委の判断が現実に立脚しなくなるのではないか。
 また、「放置せず」は基本的には学校復帰策の一つであり、それでは無理な事例がかなりあると思われる。

・ 不登校は、大きな社会問題であり、学校に行かないことは事実上容認されている。しかし、そのための法的整備はなされていない。そのため、行政の対応が恣意的であるし、教職員も、親も、法律の援助なしのつらい立場を強いられることが多い。

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就学義務を定めているのは憲法ではない

 世界の義務教育には、いろんなものがある。アメリカ、イギリスなど、家庭で教育することが合法である国も多い。

 「でも、日本は、憲法で就学義務を定めている」
と思っている人たちが、けっこう多いようである。

 これが、違うのである。
 憲法ではない。

 憲法26条は、保護者が子どもに普通教育を受けさせる義務を定めているだけである。

 だから、”家庭で受けさせる普通教育”や、”フリースクールで受けさせる普通教育”が法律で定められて義務教育とされても、かまわないのである。

 教育基本法も、普通教育を受けさせる義務としていて、就学義務としてはいない。

 『学校教育法』という法律で、はじめて就学義務が現れる。
 日本の義務教育の構造そのものは、意外と柔軟なのである。普通の法律を作るだけで、いくらでも新しい義務教育を作り出すことができる。

 『学校教育法』は1947年にできたもので、住み込み奉公に出されている子どもや、家業を手伝わされている子どもたちを就学させることを念頭に置いていた。それで、親に対して、教育委員会が就学を強制できるようにした。
 当時のこととしては理解できる。ところが、数十年後に、学校ストレスのために学校に行けなくなる子どもたちが何万人も現れるということは、その時代にはまったく想定していなかった。

 今の時代に義務教育が行き渡るようにするには、就学督促を定めるより、親側に「うちの子にあった教育を可能にしてください」という教育請求権を定めるべきだったのだ。

 『学校教育法』ができた1947年には、『世界人権宣言』がまだ出されていなかった。『世界人権宣言』は、「親は、子に与える教育の種類を選択する優先的権利を有する」としている。
 この、親側の立場の尊重が、その後も日本の教育システムにまったく取り入れられなかった。そのため、義務教育は、いつまでたっても教育の配給制度なのである。

 『学校教育法』だけで、すべての親が教育義務を果たせるようにする、というのが無理であることは、不登校の子どもたちが現実に13万人近くもいることで、明らかである。

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北欧型教育と親の教育選択権

 いま世界を見渡して、スウェーデン、フィンランド、デンマーク、オランダといった北欧の国々の教育がよくできている。競争的でも、点数主義でもなく、子どもの発達を中心においている。なおかつ学力は高い。
 いじめ、不登校なども、きわめて少ない。国は豊かで、国際競争力も高い。

 この北欧型教育ができてくる基盤で重要なのが、教育を受ける側の人権意識、それと親の教育選択権である。

 人権意識というのは、人間同士でこういうことは尊重するものだという道徳意識を結晶させたものだ。教育に欠かせない。

 親側に教育選択権があるから、親のニーズに応えて、どんどんいろんな教育が沸き起こってくる。親が、子どもの教育に責任を負うし、教育に参加的、協力的である。
 教育を選ぶ権利が保障されているので、内容の悪い学校は、改善を余儀なくされる。
 学校設置の自由があるし、学校はそうとうな自由度を持っているが、東アジア諸国のような進学競争によるランク付けが起こっているわけではない。

 「学校の内容が悪かったら、自分たちの学校を作ってよい」という保障は大事なものだ。これがなければ、学校は社会主義国の国営企業と同じである。学校は、いくらきれいな理想をとなえても、実体は規則と書類と責任逃れに、がんじがらめになる。

 国際人権A規約(日本が批准している人権条約)は、保護者が国の設置する学校以外の学校を選択する権利を保障しているし、個人及び団体が教育機関を作る権利を保障している。

 これが教育の国際水準である。

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