« 2008年4月 | トップページ | 2008年6月 »

2008年5月

もっとも困っている者が非難される

 不登校では、もっとも苦しんでいる者が非難され追い詰められてしまっている。

 子どもが学校にいけなくなるとき、子どもはものすごいストレスを抱えている。反抗しているとか、怠けているとかいったなまやさしいレベルではない。たいていは、子どもが強度のストレスにさらされ、逃げたくても逃げられない状況に長く置かれ、ついに限界に達してしまった状態である。

 多くの場合、不登校の子どもは、外界に対応するための中心が機能しなくなっている。
 だから、「どうして学校に来ないの」と尋ねても答えが返ってこない。
 「なにがあったの」と尋ねても答えが返ってこない。
理由や立場があるようだったら、人に訴えたり、闘ったりできたであろう。言葉などありはしない。赤むけにされたイナバのシロウサギが、洗濯機に入れられてガラガラ回されているような状態である。

 ところが、従来型の義務教育では、頑張って学校に行くことそのものを教育だとしている。学校に来れないとしたら、やむを得ない病気か、そうでなかったら怠けやわがままなのである。そのどちらかに分類して考えるから、なかなか実情が見えてこないのである。
 「学校でストレス状態にある子ども」という捉え方が確立していないことが大問題である。

 また、「教育方法が子どもに合わない」という発想がない。日本では、教育機関を作る自由がないことに、あまりに長い間慣れてきたので、教育方法の比較対象がないのである。今の教育方法が、あまりに絶対視されている。
 だから、子ども個人と家庭の要因ばかり探す。本人や家庭の要因は、誰だってあるに決まっている。だからそれで済まされてしまう。

 不登校に対しては、学校への就学義務など頭から追い払って、「この子の心身の健康のために何が必要か」ということを白紙から考え、実行できるようにすべきだ。家庭でもいい、新しい教育機関ができてもいい、憲法がすべての保護者に対して教育の義務を定めたのだから、どうのような事情があろうとその子に合った教育が沸き起こるように、法令や組織を整えなければいけないのだ。

 それは、憲法の要請なのだから、法令がとか予算がとか人員がとか、そんなことはすべて越えられるはずなのである。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  応援クリックのためのバナー

| | コメント (3) | トラックバック (0)

威圧と放任

 先週、「子どもたちが威圧されていること」を書いたが、子どもたちが学校ですさんでいくのに、別なコースがある。

 これは、先生がリーダーシップを発揮することができない教室で起こる。子どもがとても他人迷惑なことをしたときに、「だめだよ」と注意することができない。そのうち、教室の中での、他人に迷惑な行動がどんどん広がる。だんだんと、教室の中が力づくの世界、押しの強さがまかり通る無法地帯になっていく。

 その中で、子どもたちはなにが正しいのやらわからなくなり、他の子どもたちに圧迫される。まわりで起こっていることがあたりまえのことだと思い、自分もけっこう他人迷惑なことをする。

 このコースは、先生の直接の威圧でひしゃげていくのではなく、子どもどうしの力ずくの世界によってひしゃげていくのである。

 教育に直接たずさわっていない人たちは、教育問題があると聞くと、
「管理しすぎるからそうなるのだ」

「規律がないからそうなるのだ」
のどちらかの答えを出すことが多い。
 しかし、実際はどちらもあるし、そんな単純な問題ではないことが多い。

 でもなによりも、あの学校の雰囲気には、基本的に威圧的なものがあると思う。その雰囲気の中で緩めると、子どもたちが逆襲に出たり、わがままになったりする。
 学校で当たり前になっている、講義形式の授業を次々とこなしていくタイプの教育にも、基本的な無理があるように思う。あれは、大人なら通用する教育スタイルを、そのまま子どもにも持ってきただけだ。その基本的な無理から、教師側も無理を重ねるようになって、権力型や放任型が現れるのではないかと思う。

 もっと、家庭的な雰囲気が必要だと思うし、教科書より作業が中心になったほうがいい。個人として集中する時間、遊び的な時間、祝祭的な時間などでリズムを作っていったほうがいいと思う。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  応援クリックのためのバナー

| | コメント (1) | トラックバック (0)

不登校は教育難民

 不登校は、教育難民だと前回に書いた。

 特定の学校に合わないことは誰にでも起こる。それは、会社や役所でも、どうしても合わなくて辞める人がいるのと同じである。もし辞職という手段が残されていなかったら、深刻な心身の病気や、自殺が頻発する。
 学校は、たくさんの人たちの集まりであり、いろんな人間が居ていろんな人間関係が生まれているところである。非常に追い詰められてしまうケースがあると想定しなければいけない。

 学校がそういう事態を想定していないのである。
 教育委員会もそういう事態を想定していないのである。
 文科省もそういう事態を想定していないのである。
 どこも、「当面はやむを得ないでしょう」と言うことしかできない。

 なぜかというと、「学校教育法」という法律が、就学義務だけ定めて罰金まで用意しているのに、もし子どもが学校に合わない場合の救済策にまったく触れていないからである。
 学校も、教育委員会も、文科省も、法律に忠実でなければいけない公務員達の集まりである。
 学校だけで教育を担うのは無理という状況があっても、
「学校だけが教育である」
「学校には行かなければいけない」
「勝手に教育機関を作ってはいけない」
と法律を繰り返すしかないのである。

 それでも現実に、学校に来ない子どもたちがいる。そこで、そのうちに学校が改善されて、どの子も学校を嫌がらなくなる、という希望が広まっている。どこかでうまくいった例が、たちまち日本中に広がるように思い込む。
 これは幻想である。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  応援クリックのためのバナー

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教育配給制度

 義務教育の考え方を変える必要があると思う。
 親には子どもを教育する義務があることである。

 これが、義務教育というのは、国が提供する教育を受けなければならないことだ、と誤って解釈されている。だから、義務教育は、教育の配給制度になってしまった。

 配給といっても、受け取らないわけに行かない強制配給である。この配給に要望を出すと、じきに「そこまで対応するのは無理です、当方も忙しいことをご了解ください」とか「お子さんが特別です。家庭でしっかり育ててください」というような答えが返ってくる。
 この答えの多くは、学校の現実としては正当である。しかし、保護者の立場が見えていない。保護者には他の教育手段がないのに、そういう現実論ばかりいうから、保護者側に不安と不信がたまるのである。

 結果は、攻撃的な保護者がたくさん発生する。他の公共領域では、こんなにクレームが発生しない。学校と同じように子どもを扱う保育では、こんなにクレームに悩まされていない。

 個別の学校の対応に限界があることは当然である。問題は、教育行政のほうにある。教育行政が学校と一体化しすぎているのである。保護者の立場が軽んじられている。
 保護者の教育義務を定めたなら、それに対応して「教育を請求する権利」と、柔軟に教育が発生してくる仕組みを作っておかないと、教育難民が発生してしまう。それが、不登校である。

 民主主義が発達した国の多くでは、国が提供する以外の教育を親が選べるようになっている。国は、本当の意味での最低基準を設定しているだけである。学校教育を提供するのは自治体や私立学校である。学校に合わない子ども達が発生すると、それに応じた教育が、なんらかの形で発生してくる。どこを選んでも、無償であるようにしている国が多い。
 その柔軟性が、必要なのである。 

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  応援クリックのためのバナー

| | コメント (0) | トラックバック (0)

子どもたちが威圧されていること

 教育でいちばん大事なことは、子どもが取り繕わなくて済むことだと思う。分からないことは分からないと言い、木登りして落ちても叱られないと感じていることだと思う。

 普通の学校にこれが乏しい。先生たちがあたりまえと思っている学校文化は、子どもたちを威圧して成り立っていると思う。
 このことの実証的なデータをとりたいが、学級内に入って観察はできないので、私が述べるのは、学校外で子どもたちと接することからの推論である。
 とくに重要なのは、学校に入学しての、最初の2週間くらいである。ここが決定的な時期である。この間に、生徒への威圧が起こっていると思う。

 あの「生徒一同、起立!」」というような号令体質。
 教室で、なんとか座らせておこうとするための、さまざまな精神的罰、はずかしめ。
 「生徒になめられないようにしよう」とする、先生たちのさまざまな工夫。一罰百戒をねらった叱責。
 これらが、教育機関を成り立たせるための最低線を超えてしまっていて、子どもたちに無用の怯えや緊張をもたらしているのだと思う。

 もっとも手こずる子どもたちでもおとなしくなるようにできているのだから、気の弱い子どもたちには、大きなストレスになる。このストレスは、先生からは見つけにくい。学校では良い子にしていて、家に帰ってきたとき、親に対するぐずりやわがままになるのである。子ども本人も、その理由はわからないままやっている。親も原因がよくわからないまま、手こずるのである。

 親戚、知人の子ども達が育つのをずいぶんと見たが、例外なく、小学校に行くようになると、大人の話に素直に耳を傾けなくなった。揚げ足取りや茶々を入れるのが多くなる。話を逸らせるのが多くなる。強い刺激で振り回してもらうような遊びを好むようになる。おおむね、子どもたちが騒々しくなる。

 こういうのは、恐怖があったり、威圧されてしまったときの、二次的な症状だ。荒れ、すさみの症状の一つだと思う。

 この状態の中で、単に、子どもを自由にしようとか、のびのびさせようとすると、収拾のつかない状態になりやすい。学級崩壊は、自由主義型の先生のほうが起こりやすいものである。

 二次的な症状が出て来たのを、”元気な子どもたち”と捉えることが多いが、それは違う。

 子どもがほんとうに元気なときの特徴は、一心不乱さと、天真爛漫さのようなものだ。
 安定した子どもは、事物だろうが、大人の話だろうが、注意力のすべてを傾けてその中に入り込んでくるものだ。そのときに学びがあるし、その学びは人間全体に深く染みこんでいくものである。テストで、期待された答えを出すのとは違う、もっと深い学びである。

 天真爛漫さは、いっさいの先入観がないときに現れる。それは、権威、権力による圧力が痕跡を残していないということだ。

 小学校に適応できるようにするために、幼児教育が訓練的になる。
 中学校に適応できるようにするために、小学校教育が抑圧的になる。

 逆だと思う。
 適応しなければならないのは、小学校や中学校の学校文化のほうだと思う。その文化は、当たり前の空気になっていて、先生たちが気付いていないと思う。
 その背景にはまた、授業遂行が至上命令となっている官僚機構的学校がある。学校は、教育学や子どもの研究をもとにして作られたのではない。官僚機構が、国家や産業の発展のために訓練的な教育機関の法律を作り、施設を建て、人を雇用して運営させているものなのである。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  応援クリックのためのバナー

| | コメント (8) | トラックバック (2)

○○高校何名入学

 全国学力テストが導入されて、学校間にランクが発生し、競争をあおる問題が出ている。

 しかし、学力テストがなければ学校のランク付けがないのか。

 ある。
 歴然とある。昔からある。
 中学だったら「○○高校何名入学」。高校だったら「××大学何名入学」。
 これを、おおくの人が、学校のランク付けの目安にしている。高校だったら、入学のための偏差値でも示される。

 大学入学者の出身高校については、週刊誌などでも発表される。しかし、どこの中学からどこの高校に何名入ったかについては、一般に公表されてはいないだろう。
 それでも、どの高校に何名入ったかの校内資料は中学に存在するし、生徒と保護者には伝えられているのが普通だろう。たいていの人が知っている。たいていの人が頭の片隅に置いている。
 これは、中学同士を比べるときのよい指標になるから、一般に流布する。数値化できるような指標は他になかなかないのである。

 「○○高校に何名入った」が、中学校の学校ランキングであり、これを教育のやり方にかなりの影響を与えている。学校ランキングはすでにできているのだ。
 このランキングで、学校の評価がだいたい決まるから、学校にとっては重大な問題になってくるのである。

 しかし、進学者による学校ランキングが現実の中教審で論議されることもない。教育委員会で論議されることもない。

 最大の問題は、この評価ランキングが、上位者の成績で学校評価をしているということである。どれだけ落ちこぼれを少なくしたかたとか、全体の底上げをしたとか、学校内によい雰囲気を作ったとか、そういうことがみんなふっとんでしまうのである。
 得点分布や平均点を見る、全国学力テストのほうがましだとも言えるが、学力テストには学力テストの問題がある。

 教育において、数値化できるものなど、氷山のほんの一角に過ぎないのだが、それが一人歩きしてしまう。
 入試制度を根本的に疑う必要があると思う。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  応援クリックのためのバナー

| | コメント (0) | トラックバック (0)

生徒の自殺への責任の取り方

 08年3月25日に、東京都板橋区のマンションで小6の男子が飛び降りて死亡した。この子は卒業式の「門出のことば」で「大好きな○○小学校」と言うところを「大嫌いな」と言ってしまった。式後、校長が「何であんなことを言ってしまったの」と尋ねると、「緊張して間違ってしまった」と答えたと言う。遺書のようなものがあり、自殺とみられる。(朝日新聞(東京)3.26・夕刊)

 新聞報道に誤りがないとしてだが、(事実が複雑な場合も、おうおうにしてあるから)、私はこの校長に、業務上過失致死を問うべきだと思う。
 校長に悪意はまったくない。校長もたいへん苦しんでいるであろう。しかし、このような事故は再発防止を最優先すべきである。量刑はもっとも軽いものがよい。しかし、不適切な言葉によって業務上過失を問われることがあることを確立すべきだと思う。

 これは、交通整理の指示が不適切で車を谷底に転落させてしまったとか、電気工事で電線の被覆が不十分だったので火事になってしまったとか、そのような事柄であると思う。悪意がまったくなくても、知識や訓練が不足していてはいけないのである。

 業務上過失を問われるには、それが予見可能であり、回避可能であったことでなければならない。
 校長先生という立場の人が、大きなミスをした子に「何で...」と尋ねたのである。いくらその気がなくても、詰問されたと受け取られる可能性があることは予見できるのである。

 「何で」とか「どうして」とかという尋ね方は、危ない言い方である。言ったほうは「単純に理由を尋ねた」、言われたほうは「詰問された」となりやすいのである。これは、カウンセリングのイロハである。普通の人にこの知識を問うことはできないが、教員という職業にたずさわる者には要求すべき知識だと思う。防災訓練が行われるのと同様に、教員に対する訓練が為されていなければいけない。

 従来、このような事件は、「その子が、特別に感じやすい子であった。いろんな特殊事情が重なった」として、学校側の責任が問われないことが通例である。私はそれではいけないと思う。こんなケースなら、ちょっと繊細な子には、誰でも起こりえるではないか。
 とにかく、学校で起こってはならないことが起こったのである。「その子が特別だった」で済ませていたら、教育の場としては、道徳がひどく退廃していると思う。

 業務上過失という刑事責任までは問えないケースであるかもしれない。それでも、管理者側は道義的責任を取るべきだと思う。
 学校に起因する生徒の自殺が起きたら、校長と教育長は責任を取って辞職するという慣習を作るべきである。直接の過失がなかったとしても、そうすべきである。起こってはならないことが起こったのだから、最高責任者は防止できなかったことの責任を取るのである。そのような姿勢があったときに、具体的な再発防止の知恵が切実なものとして教員や保護者から沸き起こるであろう。

 「その子が特別だった」と学校や教育委員会が済ませてしまうのは、刑事責任や賠償責任の問題として正当であったとしても、私は「学校というのはなんか退廃してるなあ」と思う。
 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  応援クリックのためのバナー

| | コメント (1) | トラックバック (1)

骨抜きにした教育委員会を立たせる?!

 日本の教育の責任者が、文科省なのか、教育委員会なのか、自治体なのがわからなくて、無責任体制になっている。そのこと、マスコミなどで少しは言われるようになってきた。まだまだ、繰り返し言おうと思っている。

 焦点は教育委員会だ。

 最大の問題は、文科省は長い間教育委員会を骨抜きにしてきたまま、今度は「地方の自立」を言い出したことだ。骨を抜いたまま、「自分で立ちなさい」と言っている。だから、なかなかうまくいかない。

 教育委員会は、そもそもは、文部省を骨抜きにして教育を地方分権にするための行政機関であった。
 ところが、文部省は陰に陽に失地回復をはかり、昭和20~30年代にかけて、逆に教育委員会を文部省の支所みたいにしてしまった。昭和31年の「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」が、その法的な完成。この法律は、なんと、教育における保護者・住民の参政権を根こそぎにしてしまったのだから、すごい。

 そういう経過であれば、教育が中央集権的になって画一的とか、お役所的とかいう欠点を背負い込むのも、当然の成り行き。

 その批判が90年代から噴出した。ところが結局、文科省は、権限の構造を変えない範囲でやれることだけやった。だから、寺脇改革がカッコいい理念を掲げても、改正教育基本法が御立派なことを言っても、指導要領が「ゆとり」を掲げても、教育委員会と学校の事大主義は変わりはしない。
 けっきょく、なにをやってもはかばかしくなくて、最近は従来型への回帰が眼につくが、これも数年で行き詰まるだろう。おちこぼれ、不登校、いじめというような従来型の問題がまたぞろ噴出してくるだろう。教員の不登校という新たな問題も抱えこむだろう。

 教育問題は、実際に教育にあたっている人たちが、自分たちの問題として参加してくるシステムをいかに作るかにかかっている。教育委員会を復活させたいなら、教育委員の公選制、あるいは教育長の公選制をやり、現在の学校教育法施行規則で担っている文科省権限のほとんどを地方に移譲するくらいのことをしないといけないと思う。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  応援クリックのためのバナー

| | コメント (1) | トラックバック (0)

憲法教育条項の私案

 今日は憲法記念日。

 いまの憲法の教育に関する条項は、もっと良くすることができると思います。
・ 教育を一人一人の権利として確立すること
・ 教育の内容は、学問・文化の領域として、自由が保障されること
を骨子とすべきだと思います。

 以下は、憲法の教育に関する条項の私案です。

【憲法教育条項】

 すべて人は、教育への権利を有する。一六歳未満においては、保護者がこの権利を代行する義務がある。

2 なに人も、自己にとって苦痛の大きい教育を強制されない。

3 すべて人は、人種、国籍、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって教育上差別されない。

4 国及び地方公共団体は、関係部門の関与と、教育施設の設置により、すべての人の教育への権利を保障する。

5 教授の自由はこれを保障する。ただし、憲法の諸原則に反しないものとする。

6 個人及び団体が、教育機関を設置する自由を保障する。ただし、憲法の諸原則に反しないものとする。

7 教職員は、職業上の良心に従って職務を行い、児童の最善の利益を常に確保しなければならない。

8 すべて人は、その保護する子女に、基礎教育を受けさせる義務を負う。義務教育において、保護者は教育の種類を選ぶ優先的な権利を有する。義務教育は無償とする。

 ここで「教育への権利」という言葉を使いましたが、これは"The right to education"の訳語です。国際条約中で確立されている権利で、個人が自分に合った教育を受ける権利を指します。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  応援クリックのためのバナー

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年4月 | トップページ | 2008年6月 »