知性なき達成と頑張り
ときどき、何の理由もない幸福感がやってくることがある。すべてが静かで、すべてが意味をもっている状態。その中からふっとはじめたことは、結果を気にすることなくただ物事を見て行うことができる。
その幸福感の中に、明晰さがある。明晰であることを阻むのは、欲と恐怖だ。大人でも子どもでもそうだ。
達成したときの喜びがある。しかし、それは、幸福とはまた違うのだと思う。
大会での優勝した感激のようなもの、試験で好成績をとるようなものは、興奮に近いものだ。その時は楽しい。有能にもなれる。が、達成し終わればむなしさの反動がやってくる。達成の過程で、他のことを振り捨てるから、知性と感受性の鈍磨が起こる。
なぜ、教育がこれほどまでに「達成」にこだわるのか。
もっと鋭敏な教育はできないのか。知性の動き、感受性の動きそのものと向き合うことはできないのか。歴史を教えても数学を教えても、生徒に優越感や劣等感で動くようにさせたら、その生徒の知性を損なっているのではないか。
教育を、達成目標を掲げて努力させる体系とすべきではないと思う。
少なくとも、そうでない教育をしたい人が、独自の教育をできるようにすべきだと思う。
官僚統制された教育システム、進学競争による教育水準維持。
この二つが教育を独占すると、どうしても教育が、何かを達成させるために生徒に頑張らせる体系になってしまうのだと思う。
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