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2008年3月

教育は、地方、現場に委ねてこそ生きる

集英社の 「イミダス」という現代語辞典があります。
その、時事問題をあつかった「解体新書」に
『教育は、地方、現場に委ねてこそ生きる』を執筆しました。

 ネット上の有料サイト(月額210円)なので気が引けるのですが、読んでいただければ幸いです。
http://imidas.shueisha.co.jp/info/bitway/index.html#isp_list
から入れます。

 内容の要旨を紹介します。

■世界の流れは「画一」から「個別」へ

 先進国での教育は、決められた知識を画一的に伝えることから、それぞれの子に合った教育を行う方向に動いてきている。
 個性を尊重するには、単に少人数学級を実現すればよいのではない。授業の方法、教科書のタイプ、生徒への対応などで、子どもが直接見えるところにいる人たちが、判断力と裁量権を担っている必要がある。

■教科書は自由出版、自由採択が大勢

 先進自由主義国では、教科書は自由出版、自由採択が大勢を占めている。

■文部科学省の間接指揮体制
 教育は地方自治が建前であるが、教育委員会─学校のラインへの文科省コントロールが強い。
 次のような問題点がある。

(1)上意下達の指揮体系になっているので、問題があったときに、自律的に発見し自律的に解決する能力に乏しい。

(2)保護者・住民に対して責任を負わない。保護者・住民も学校に対して無責任になりがち。

(3)学校マニュアルに相当するものの多くが法令の形になっている。公務員には法令順守の義務があるので、改善・改革が起こりにくい。

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文型と会話の折衷が最悪の教科書を生んだ

 90年代に高校受験生を教えていたとき、英語の基礎文型があまりにできていないのにびっくりして、1年生の教科書を入手して研究したことがある。地元中学で使っている「トータルイングリッシュ」だった。そうしたら、「なるほど、これでは生徒が混乱して当然だ」と思った。

 文科省が会話重視の方針を打ち出した平成元年の指導要領に基づいて出てきた教科書である。
 1年生の教科書は、ほとんど会話文でできていた。文型へのこだわりが小さくなり、こなれた表現がかなり入っていたし、ビギナーには少し難しい言い方がぽんぽんと出ていた。

 こういうやり方をするなら、どうしても必要なことが二つある。一つは内容がたいへんおもしろいこと。もう一つは量をたくさん示して、その中からそれぞれの語の使い方を生徒が帰納的に掴めることである。
 ところが内容は、新しい外国のお友達が学校にやってきてみんなと仲良くなる、というお説教臭い冴えのない話である。こういう話は実用的なようでいて、じつはそんな状況はめったにない。
 文型や語彙で、日本人のビギナーにはわかりにくい表現がぽろぽろと出てきて、フォローがないままである。

 do の使い方、does の使い方、be 動詞などの文型説明はちゃんとある。しかし、タイミングがあわてすぎているので、生徒の頭の中ですぐにごちゃまぜになってしまう。こんな中途半端なことをするくらいなら、文型にこだわらないで、実用性やおもしろさを中心にして、たくさんの英文に接するようにしたほうがいいと思う。

 あるいは、too の使い方で

   Koji is her student, too.
    He is very tall.
    His desk is too small.

と、意味の違う使い方が1行あけただけで出てくる。これが混乱を招くのである。
 先生がこれを説明しようとしたら、用例を示し、解説し、練習させて、それだけで20~30分使ってしまうだろう。そうもいかないから、先生は先に進まざるを得ないだろう。先に進むうちに、だんだんわかるようになっているならまだいいのだが、その後に「~すぎる」の too のフォローがないのである。
 案の定、中学3年で、 too がわかっていない子によく出くわした。

 とにかく、会話から教え始めるというのに、字を印刷してある教科書で教えているのが大問題だった。相手は、まだ英語の文字がろくに読めない人たちなのだ。
 さらに、会話を教えられても、中間テストや期末テストに点をとれるには、つづりをきちんと書けなければいけない。そこでまた落ちこぼれをたくさん作っていた。

 会話から入って教えるなら、それはそれでノウハウが必要なのである。ところが、平成元年指導要領による会話重視は、文型からはいる教科書と会話で入る教科書を折衷した。結果として、どちらの教科書としてもきわめて使いにくいものになった。
 それ以前の文法型中学教科書は、つまらなかったが、少なくとも文型をわからせるということではよくできていた。
 英語の基礎学力の低下が言われ出したのは、平成元年型教科書が普及しだしたころだと思う。

 現場の先生たちはさぞかし苦労したろう。「こんな教科書ではたくさん落ちこぼしてしまう」という声が上がって当然だったと思う。
 ところがそういう声が上がらないのである。
 教員の発言力が低すぎると思う。

 教え方に試行錯誤はつきものである。新しいことをやるなら、ユーザーの使い心地が素早く反映されるようになっていないといけない。中教審発の試行錯誤をやっていると、改訂が10年単位だし、現場技術者の声がほとんど反映されていない。

 その後の中学英語教科書は、かなり改善されてはいる。しかし、骨格は変わっていない。中教審と検定官に、生徒がどこでつまづくか理解しろと言うのは、無理な注文なのだと思う。

 私は、教科書は自由出版、自由採択にすべきだという意見である。いわゆる先進国では、自由出版、自由採択が主流であり、日本は特殊なほうに入る。

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英語教科書の問題点

 教科書検定制度でよく問題になるのは、歴史の教科書だ。しかし、私は、いちばん問題なのは英語と数学だと思っている。

 英語というのは、いろんな教え方ができるものだ。なにせ、言葉を教えているのだから、台所ででも、公園ででも、英語を教える教材にはことかかないものなのだ。

 私はいろんなやり方を試してみたが、動作と組み合わて教えるのが、楽しくできるし、落ちこぼしを作りにくい。
 つまむ、運ぶ、さわる、といったかんたんな動作を、英語の指示通りにやる。次は、他者に指示してみる。見えた動作を英語にする。そのようなことをして、実際の行動と英語を関連づけていくうちに、英語の構造を感覚に刻み込んでいくのである。
 他にやり方はいくらでもある。

 ところが、中学の英語の教科書は型にはまっている。各社、それなりに細部ではおもしろいことをしているのだが、英語の大量の落ちこぼれが発生するのは、教科書が最大の原因だと思う。高校入試にターゲットを絞らざるを得ない実情、指導要領の制約もある。
 指導要領、教科書検定、高校入試の三つが重なると、これほどまでに自由度を損ねるのである。

 問題点は次のようなものである。

 ・ 自然な音声言語が内面に成立しないままの生徒がたくさん生じる。彼らにとって、英語は単なる暗号の体系になってしまう。 

 ・ 教科書は会話と文法の折衷をしているため、両者の短所が出ている。会話の教科書としては生気のないつまらないものであり、文法の教科書としては文型が乱れすぎている。

 ・ 中学の定期テストがあるため、「だめだ」と思う子を固定させやすい。英語を遊びで使う雰囲気になりにくい。

 ・ 英語の綴りはアルファベット圏の中でも最悪。英米の子どもたちが四苦八苦しているシロモノである。日本の生徒はそれにいきなり直面させられる。たとえば go はゴウなのに、 do はドゥーであるなどである。フォニクス指導に十分な時間を割いた方がよい。ローマ字を教えるだけでは、英語を読む準備として不十分である。

 その他、言いたいことはいくらでもあるのだけれど、現在の検定制度の中で改良しようとしていたら、解決に半世紀もかかるであろう。教科書の良否は、生徒相手に使ってみた人にしかわからないものだ。
 教科書は、現場で生まれるようにしないといけない。

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小学校1年生

 ひさしぶりに小学校1年生に教える機会があった。長らく、高校生以上ばかりを相手に、物理だ英語だと教えていた。
 1年生くらいの、子どもらしい感じ。
 ああ、これ、これ、これなんだと、故郷に帰ったような気分がする。

 まだ依存の中に生きている年齢の、ほわんとした感じ。
 知性と情緒と肉体がまだ分離していない、やわらかい状態。

 マンツーマンだった。粘土細工の人形を使って、ストーリーの世界に招待してみる。その中で、足し算と引き算をやる。
ついてくる子だった。

 そのうち、私といっしょに絵を描いて、自動車を5台描いた。「一つの車にタイヤは4つあるんだ。ぜんぶでタイヤはいくつある?」と尋ねたら、その子が即座に「20」と答えた。
 え? と思って「どうやってわかったの?」と聞いても答えなし。
 まだ、掛け算はならっていない、と母親にきいたのだけど。
 子どもって、わからないことだらけ。

 7,8歳の子を相手にしてよく思うのだ。講義形式の集団授業は、補助的にすべきだ。教育は、さまざまな作業や活動を中心にしたほうがいい。無理矢理すわらせておこうとすると、なにかしらすさんでくる。
 でも、学校は1年生から集団行動を取れることを自明のこととして要求する。教科書と指導要領と慣習のせい。
 そうすると、学校に適応させるために、幼稚園が訓練的になるし、親も一生懸命に集団行動に慣れさせようとする。

 結果として、親からの自立がかえって遅れるし、大事な大事な子ども時代が、浅いものになってしまう。

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教員免許更新制の問題点

 教育免許更新制を調べていて思った。これは、予算と労力がかかる割に、得るところは少ない。予算の無駄遣いになるだろう。この免許更新制は、政治劇の妥協の産物であり、目的と手段が吟味されていないからである。

 免許更新制の目的というのは、「不適格教員を排除する」と「教員の資質向上」である。

不適格教員排除に役立つか?

 まず第一点として、「不適格教員を排除する」を見よう。これは、まったく効果がないであろう。
 なぜなら、

・ 不適格教員がいたとして、免許更新制を使うには、最長で10年待たなければならない。しかし現実には、すでに指導力不足教員の認定と処分が可能になっているから、問題があればこちらで対処しているはずだ。そこに、免許更新を持ち込んでも、すでに辞めさせた教員に、追い打ちをかけて教員免許を取り上げることにしかならない。

・ また、更新拒否にはよほど客観的な事由が必要だから、指導力不足教員認定の基準を超えることはあり得ない。

 教員を配置転換したりクビにできる制度がすでにあるのに、さらに免許の問題まで持ち出す必要はないのである。

 そもそも、教員免許は教職過程を修了すれば与えられているものであり、能力や実績に対して与えられたものではない。勤務実績によって免許を取り上げるのはおかしいのである。

 免許更新制が不適格教員排除の手段として疑問があることは、平成14年の中教審答申も指摘している。この答申では、「我が国全体の資格制度や公務員制度との比較において,教員にのみ更新時に適格性を判断したり,免許状取得後に新たな知識技能を修得させるための研修を要件として課すという更新制を導入することは,なお慎重にならざるを得ない」、と教員免許更新制に否定的だった。

免許更新制への道

 そもそも、こんな金と手間がかかり効果も知れない政策を、文科省がやりたがるはずがない。
 ところがここに圧力をかけたのは、中山成彬文科大臣である。いわゆる「中山プラン」で学力テスト導入などとともに免許更新制を謳った。

 文科省・中教審は免許更新制が「不適格教員をやめさせる」に役立たないことは知っている。しかし現実に、免許更新制導入の政治的な原動力は、不適格教員の排除をするためであった。

 日本の教育行政は中央において政治との分離が十分でない。
 妥協せざるを得なくなった文科省・中教審は、教員免許更新制をやる理由付けとして、「教員の専門性を向上させる」を前面に出してきた。教育は日進月歩なのだから、最新の情報で更新する必要があると。

 免許更新制の法改正を推進したのは、安倍内閣と、安倍政権が作った教育再生会議である。教育再生会議は、「不適格教員の免許をとりあげろ」で盛り上がった。それを中教審が換骨奪胎して、「講習のための免許更新」にした。

 しかし、冷静に考えてみよう。講習を受けさせるために免許更新をからめる必要があるのだろうか。教員の資質向上のために講習が必要だというなら、現在の初任者研修や10年研修を拡大して10年ごと研修にすればそれでいいことである。

 免許更新までからめたために、事務量は厖大になるし、ペーパーティーチャーも巻き込まれることになってしまった。
 ペーパーティチャーは現職教員よりはるかに数が多い。毎年、教員免許を取得する学生のうち、教職に就くのは1割程度である。ペーパーティーチャーに講習に押しかけられたら、講習はパンクしてしまうのである。
 そこで、免許更新講習では、講習を受講できるのは現職教員と採用予定者に絞った。それならば、最初から現職教員の講習とすればよかったのである。

免許更新講習は役に立つか?

 この免許更新講習は、「こういう講習をすれば、教員の資質が確実に上がります」というものがあったから講習を行うことになったのではない。「教育の資質を向上させなければ」という政治目標に迫られて、とにかく「研修を受けさせます」となったのである。内容は、大学に丸投げすることになった。そうなると、現場の課題を肌で感じている人たちが講習を組織しているのではない。内容はマスプロ的にならざるを得ないだろう。

 すでに現場のプロになっている人たちに、「受けて良かった」と思わせる講習のできる大学の先生が、いったいどれだけいるのか。ある程度は、知識や技能を伝える効用はあるであろうが、おおむねは、学校で意欲のない生徒が卒業のためにしかたなく教室に座っているのと同じことを、小中高の先生達が立場を変えてすることになるのだろう。

 ふだんでも教員研修については、免許更新と関係なく行われている。教員の専門技能を向上させるために、教育委員会などがいつも研修講座を設けているのである。免許更新講習は、そこに屋上屋を架した。
 本当に必要だったのは、教員に研修のための時間を作ってやることであり、教員がどのような研修を望んでいるか、緻密に声を吸い上げていくことだったのである。また、自発的に発生している各種の研修組織を支援することだったのである。

 校長や教頭や主任などの管理職を更新講習からはずしたのもおかしい。本当に教員に最新の知識技能を授けるものであるならば、管理職を真っ先に講習に送り込み、その後の校内運営のリーダーシップを取らせるはずである。ところが、今回の免許更新制は管理職を講習から免除している。「教員の資質のリニューアル」なんて、建前に過ぎないのである。「出世しないやつは無能であり、無能な奴は研修を受けろ」という言外の意味があることは、誰にでも通じていることだろう。この職階制支配は、微妙な退廃を教育界にもたらすだろう。

日本教育システムの最大の欠点

 今回の教員免許更新制は、日本の教育システムの最大の問題点を浮き彫りにしている。それは、だれも本心では望んでいないことを、巨大組織を上げて実行することになってしまうことであうr。
 「教員に免許更新と連動した講習を受けさせ、日本の教育を向上させよう」とはじめから主張した人間などいない。複雑な政治劇で取引が起こり、そう決まってしまっただけのことである。

 いっぽう、ほんとうに決定に関与している人たちは、その後に責任を取りようがない。中山成彬は空疎なイデオロギーを振りかざして失脚したし、安倍内閣や教育再生会議はもう消えてしまっている。免許更新制にゴーサインを出した中教審は、単なる諮問機関であり、その後の実行と結果に責任を持っているわけではない。
 けっきょく、文科省、教育委員会、大学、教員といった実行機関が、「決まったことだから」と意味は不問にして実行するのである。

 すでに、法律はできた。法律である以上、公務員は遵守しなければならない。
 教員たちも、教育委員会も従うだろう。大学も講座を準備するだろう。文科省も制度を整備するだろう。しかし、どこもほんとうに「この新制度はすばらしい」と思っているからやっているのではない。

 実施されれば、教員たちは講習を受けざるを得ない。講習を受ける以上、無駄にはしたくないから、一生懸命に意義を見つけようとするであろう。それなりの意義は見つかるであろう。「つまらない。無駄だ」と本音を言って摩擦を起こすより、けっこうなレポートを提出してその場をやり過ごすことを選ぶであろう。
 大学も、それなりよいものを提供しようと努めるだろう。制度を前提として仕事ができるし予算を確保する手段になる。
 文科省も、教育委員会も、それがどれだけ意義があったかのデータを探し、講習内容の向上を図り、税金の無駄遣いにならないよう手段を尽くすであろう。
 教員も、大学も、教育行政も、意義あることをしているのだ、と一生懸命に信じようとするだろう。実際に、意義がないわけでもないのである。

 でも、本当は、「文科省からヒラ教員まで、意味を考えずに決まりに従っているだけ」という日本の教育システムの最大の欠点が、また拡大されているのである。
(初出 08年3月11日  加筆 08年12月11日)

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感受性に根ざすこと

 なぜ、教育が「学力」や「指導要領」を中心に回転するのか、よくわからない。

 子どもたちが、世界と関わろうとしている。そのとき、怯えてすくんでしまっていたり、浅薄な理解に留まってしまったり、無理なものに手を出して挫折したりしないように援助する、それが教育というものだと思う。何を習得させるかは、二次的な問題ではないのか。世界との関わりが信頼に満ちていれば、知的なものはおまけみたいについてくる。

 子どもたちに、自分の感受性に根ざしていいのだということを伝えること、その感受性のところでいっしょに戯れること、教育はそれに尽きるのではないかと思う。
 教育のもっとも現実的な課題は、子どもたちが持っている恐怖を理解することだと思う。恐怖こそが、人間が自分の感受性から切り離されてしまう原因だから。
 感受性と切り離されると、あてずっぽうをいい、権威者の言葉をコピーするようになる。

 大人たちが人間や社会について語ることの大部分は、権威者の言葉のコピーであり、知ったかぶりであり、あてずっぽうではないのか。その証拠に、人生問題も、社会問題も、ちょっとやそっとでは解決しない。

 なぜ、教育が「学力」や「指導要領」を中心に回転するのか。
 子どもと直接に接していない人たちが教育に対して決定権をもつと、どうしても客観的な目安が必要になってきて、何を何時間教えましたかとか、ちゃんと何点以上取りましたか、ということが中心になってしまうからではないか。

 そうすると、そういう客観的な目安を目標に教育が行われるようになってしまって、けっきょく、子ども達を怯えさせたり、わかったふりをさせたりしてしまうのだと思う。

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知性なき達成と頑張り

 ときどき、何の理由もない幸福感がやってくることがある。すべてが静かで、すべてが意味をもっている状態。その中からふっとはじめたことは、結果を気にすることなくただ物事を見て行うことができる。
 その幸福感の中に、明晰さがある。明晰であることを阻むのは、欲と恐怖だ。大人でも子どもでもそうだ。

 達成したときの喜びがある。しかし、それは、幸福とはまた違うのだと思う。
 大会での優勝した感激のようなもの、試験で好成績をとるようなものは、興奮に近いものだ。その時は楽しい。有能にもなれる。が、達成し終わればむなしさの反動がやってくる。達成の過程で、他のことを振り捨てるから、知性と感受性の鈍磨が起こる。

 なぜ、教育がこれほどまでに「達成」にこだわるのか。
 もっと鋭敏な教育はできないのか。知性の動き、感受性の動きそのものと向き合うことはできないのか。歴史を教えても数学を教えても、生徒に優越感や劣等感で動くようにさせたら、その生徒の知性を損なっているのではないか。

 教育を、達成目標を掲げて努力させる体系とすべきではないと思う。
 少なくとも、そうでない教育をしたい人が、独自の教育をできるようにすべきだと思う。

 官僚統制された教育システム、進学競争による教育水準維持。
 この二つが教育を独占すると、どうしても教育が、何かを達成させるために生徒に頑張らせる体系になってしまうのだと思う。

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