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ゆとり教育が理念倒れになる理由

 文科省がゆとり教育を言い出したときがあった。
 中身を見て、「やっとこういうことを言うようになったか」とも思ったし、「文科省がやると、制度はいじれないものだな」とも思った。理念だけ変えてなんとかなると信じているようであった。

 具体的に言うと:
・ 「ゆとり」をなくす最大の原因は、受験体制なのに、入試システムに手をつけていない。これだと、中学は高校受験を控えているから、変化しようがない。保護者と生徒も点数取り勉強をやめるわけにいかない。学校がゆとりを持とうとすれば、保護者と生徒は塾へ行くだろう。

・ 「ゆとり」と言うが、授業時数がほとんど減っていない。土曜を休業にしたぶんは、平日に回してしまった。平日の6時間目など、教師も生徒もすでに疲れていて、時間数をこなすだけの消化試合みたいなものである。ドイツなんか、学校は午前中だけである。(PISAの結果が悪いので揺れて、検討されていると聞くが) 

・ 「ゆとり教育」を運用するには、学校と教師の主体性が必要であるが、制度的に学校の独立性が弱すぎる。「ゆとり教育」のような、教師力を必要とする方針は、官僚機構からの指揮では無理である。中教審は、教え方を指示するのではなく、学校が裁量できる時間を増やすべきだった。

・ 学校への権限委譲をほとんどやっていない。大綱化した指導要領だけ残し、教科時数も教科書も学校任せにすべきである。

・ 教員への締め付けが強すぎる。文科省 vs 教員組合の図式で作られた教育行政と学校管理のシステムはが、東西冷戦が終わったのにまだ精算されていない。教師を監督したい施策と、教師の自由が必要な施策の両方をいっぺんにやっている。

・ 学校に、上からいろんな雑用が降り積もる構造に手をつけていない。上がけっこうな事を言うと、現場では会議と書類が増えるだけになる。教育行政改革に手をつけないと、学校はただの下請けにされてしまう。

・ 公立学校はしがらみが多すぎる。新しいことをやりたいなら、チャータースクールのような独立性の高い学校を作り、意欲的な教員にやりやいようにやらせるほうがよい。どこの国でも、教育発展の原動力は「学校を作る自由」である。
 意欲的でない教員のほうが数は多く、それを権力的に動かそうとしても、おざなりなことばかりして混乱におちいる。

・ 「ゆとり教育」の理念やノウハウの蓄積があり、かつ、歴史的な検証を経ているのは、オルタナティブ系の教育(シュタイナー教育、モンテッソーリ教育、ニール流の自由教育など)である。公立学校の中で、中教審からの指示でいじっていては、発想がひろがらない。オルタナティブ教育学校を解禁したほうが、よほど、文化的なイノベーションが起こる。

・ 検定教科書をやめていない。自由出版、自由採択が主要国の趨勢である。教科書は、現場と出版社のやりとりだけで作られないといいものができない。指導要領に作った「ゆとり」の部分は、教科書会社が使ってしまい、学校は教科書をこなすのに精一杯という状況が変わらない。

 などなどである。その他、いろいろ考えて、「ゆとり教育は理念倒れに終わり、反動を招くことになるだろう」と思った。
 いま、その反動が出る時期になった。

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