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専門家尊重と民意反映のバランス

 日本の教育行政には、昭和31年から今日にいたるまで、たいへんな制度不備がある。

一、正式な民意反映の仕組みがない。(恣意的な「ご意見拝聴」だけある) 

二 権限が分散して、責任のありどころが明確でない。

 である。
 
 簡単に言うと、教育は、市長や議会の管轄ではなく、教育委員会が管理している。教育委員会に対して、首長もこれを指揮できないし、首長は教育施策の結果に責任も負わない。教育は、専門家にまかせる領域とされている。
 それ自体は、よい制度である。教育が政治党派や市長の人気取りで左右されてはいけない。

 しかし、教育の専門性は、研究機関の専門性とは違う。教育は、普通の人たちを相手にして行われることである。教育は、専門家たちが子どもと親に対して責任を負って行うことである。教育には民意反映がないといけない。

 首長と教育は切り離すのだから、教育システムの内部に、民意反映の仕組みを作らないといけない。
 具体的には、教育委員会の責任者が公選されるようにするか、あるいは学校運営のほうに保護者を参加させるかする必要がある。そうでないと、教育が独善的になる懼れがある。

 懼れどころか、じっさいに学校と教育委員会は独善的になって、保護者・生徒の側に不満が鬱積したのではないだろうか。その反動で、こんどは学校が無責任な非難にさらされているのではないだろうか。

 現在、「公選された首長が教育委員を任命しているから、民意は反映されている」ことになっている。しかし、首長は教育委員を罷免できないし、施策を指揮できないし、結果に責任を負わない。とてものことに、民意を担っているとは言えない。
 もしも、市立学校でのいじめ自殺に対して市長が引責辞任したとしたら、これは教育の独立性を侵す越権行為である。

 では、いじめ自殺に対し誰が引責するかというと、なんだかんだと理屈がついて、辞任する校長もいないし、辞任する教育委員もいない。これはおかしい。学校で起こってはならないことが起こったのであり、直接責任があろうがなかろうが最高責任者は辞職すべきだと思う。
 これは、それぞれの人が悪いのではなく、どこが学校運営の責任を負っているのか、はっきりしていないためである。

 いじめ自殺は、学校が業務上過失致死を問われるような事柄だと思う。学校側に直接責任はないとしても、死ぬほど追い詰められている者が助けを求められなかった校内体制と雰囲気に対して、責任は負うべきである。管理者側に引責する者がいないので、教員や生徒に心構えを説くことがいじめ対策になってしまうのである。

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コメント

日本の公教育の現場を三年間にわたり体験↓、もと民間人です。
初めて公務員(教員)の世界に足を踏み入れそこで体験したさまざまな「オドロキ」をブログにして発信し始めました。
元教員の方には、ちと「刺激的」な内容だと思いますが…
サイトは、
 
http://taxguzzler.livedoor.biz/

です。

投稿: やっら びーなー | 2008年2月10日 (日) 13時48分

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