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2008年1月

文科省が学校を指揮していないという建前

 教育は専門領域として尊重されるべきであるから、文科省は学校を指揮していない、という建前がある。しかし、「学力」か「ゆとり」かなど、教育の基本方針は、文科省が指揮している。どうしてそれが可能なのか。

 文科省による指揮は役人が監督するわけではない。文科省は、学校の基準を定める法令によって実質指揮を執っている。
 この法令が細部にまで及んでいることが文科省指揮の正体なのである。
 全国の学校の教科時数と教科内容を決定する権限を文科省が持ち、教科書を検定している。学校の組織と運営方法にも詳細な法令を持っている。

 これは指揮ではないという建前が、日本の教育に誰が責任を持っているのがわからなくなってしまう一番の原因である。「ゆとり」だろうが「基礎学力重視」だろうが、立案者は文科省、実行者は教育委員会である。問題があったとき、実質決定者の文科省は責任をとれる立場になく、形式責任者の教育委員会は決定に関与しようがない。それで、多くの教育問題が、うやむやになっていくのである。

 文科省は、出先機関を持たないし、教育システムには代議員制度に相当するものもない。文科省は言わば頭脳だけの存在である。文科省の一存で選んだ有識者たちに相談して物事を決めている。
 そのため、実際に問題が起こったときのフィードバックがきわめて鈍いのである。

 文科省は、「生きる力」とか「学力」とか「いじめ」とか、教育の具体的な内容に関与するのをやめて、教育費などもっと基本的な条件整備に徹した方がよいと思う。

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子どもの感覚の混乱に理解を

 昨日、車を運転していたときのことだ。
 見通しの悪いT字路を曲がろうとしたとき、左から歩いてくる歩行者と、右手の交差点ミラーに写った歩行者の両方が眼に入った。一瞬、歩行者がほんとうはどこにいるのか、わからなくなった。ほんのわずかな瞬間だが、空間感覚をなくし、パニクッてしまった。
 五十代の後半にもなるので、死滅した脳細胞がかなりあって、実物と鏡像の違いを補正するのに手間取ったらしい。

 子どもに教科を教えていると、子どもにこれと同様のことがよく起こる。
 足すのか引くのか一瞬わからなくなると、パニクッてしまって、しっちゃかめっちゃかになるとか。一生懸命に文字を書いているつもりで、鏡文字になっているとか。同じ漢字の書き間違いをいくら指摘されても繰り返すとか。

 子ども、とりわけ小学校の低学年くらいまでは、まだ基本的な視聴覚や運動感覚の仕組みを作っている最中である。「学校に行く年齢になればこのくらい当たり前だ」と思われていることが、実は当たり前ではないことがよくある。これは、小学生に限らず、何歳でも起こっている。

 そこで、とくに危ない教育上の注意点は、こどもの感覚が混乱していることがわからなくて、叱ったりプレッシャーをかけたりすることである。すると、感覚の混乱が恐怖と結びつく。恐怖は回避行動を引き出す。そうなったら、たいへんである。ちょっと感覚の混乱が起こると、子どもがすぐに学習を放棄するようになる。それを大人から見ると、たいへんな不道徳であるように見えるから、大人は怒ったり、お説教したりする。それでますます悪循環。

 子どもの感覚の研究、情動の研究、学習の生理学的研究は、ものすごく遅れていると思う。それで、いろんな道徳や標語が流行るのだと思う。「頑張りましょう」が飛び交ったり、精神標語が張り出されるのは、子どもに対する無知を示してるのだと思う。

 特に、子どもと直接に接していない人たちに教育方針を作らせると、社会主義国みたいな計画を立て、賞罰や法令の力で実行させようとする。教師たちは、実情に合わないところを標語でカバーするようになる。
 現在の、文科省と中教審が、カリキュラムと教科書を決めている仕組みは、教育が発達しない遠因になっていると思う。

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入試をそのままにして塾を批判する

 民間人校長藤原氏で有名な、杉並区の和田中が、有名進学塾を夜間に学校内で開くことにしたことについてさまざまな議論が為されている。
 「公立学校という場で授業料を取っていいのか」
 「中学を受験教育の場にしてはいけない」
 「エリート教育になってしまう」
などなど。

 しかし、中学になったら、大半の子が塾通いをしているのが現実である。その理由は、内申書のために定期試験の対策をとる必要があるのと、高校の入学試験への対策である。

 進学のための競争入試をそのままにして、塾通いの弊害を語っても、塾通いがなくなるはずがない。問題は、塾通いをせざるを得ない事情にある。藤原氏は、現実が良く見えているのだと思う。

 学校と教育行政側は、入試制度に手をつけない。手をつけないまま、受験教育を批判する。建前と現実があまりに乖離している。偏差値や塾が生まれるのは入試制度があるからだということを忘れて、表に現れた症状だけを批判していると思う。

 欧米のほとんどの国で、高校入試でムチを入れて勉強させるようなシステムは存在しない。受験で追い立てなくても、高度な産業・社会システムは維持できるのである。

 進学競争によって教育システムを成り立たせるのは、発展途上国に見られる現象である。
 いつまでも、勉学意欲を競争入試に依存しているから、燃え尽き層、落ちこぼれ層が大きくなり、社会不安の元になるのである。そろそろ根本的なところから考える時期に来ているのではないか。

 選別に頼るのではなく、それぞれの人が天職にたどりつくことを援助する教育に転換すること。つまり、『教育への権利』、『学習権』というようなものを基盤にして、いかなる人にもその人に合った教育が提供されるようにすること。その方向へと、大きな舵を切る必要があるのではないか。

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専門家尊重と民意反映のバランス

 日本の教育行政には、昭和31年から今日にいたるまで、たいへんな制度不備がある。

一、正式な民意反映の仕組みがない。(恣意的な「ご意見拝聴」だけある) 

二 権限が分散して、責任のありどころが明確でない。

 である。
 
 簡単に言うと、教育は、市長や議会の管轄ではなく、教育委員会が管理している。教育委員会に対して、首長もこれを指揮できないし、首長は教育施策の結果に責任も負わない。教育は、専門家にまかせる領域とされている。
 それ自体は、よい制度である。教育が政治党派や市長の人気取りで左右されてはいけない。

 しかし、教育の専門性は、研究機関の専門性とは違う。教育は、普通の人たちを相手にして行われることである。教育は、専門家たちが子どもと親に対して責任を負って行うことである。教育には民意反映がないといけない。

 首長と教育は切り離すのだから、教育システムの内部に、民意反映の仕組みを作らないといけない。
 具体的には、教育委員会の責任者が公選されるようにするか、あるいは学校運営のほうに保護者を参加させるかする必要がある。そうでないと、教育が独善的になる懼れがある。

 懼れどころか、じっさいに学校と教育委員会は独善的になって、保護者・生徒の側に不満が鬱積したのではないだろうか。その反動で、こんどは学校が無責任な非難にさらされているのではないだろうか。

 現在、「公選された首長が教育委員を任命しているから、民意は反映されている」ことになっている。しかし、首長は教育委員を罷免できないし、施策を指揮できないし、結果に責任を負わない。とてものことに、民意を担っているとは言えない。
 もしも、市立学校でのいじめ自殺に対して市長が引責辞任したとしたら、これは教育の独立性を侵す越権行為である。

 では、いじめ自殺に対し誰が引責するかというと、なんだかんだと理屈がついて、辞任する校長もいないし、辞任する教育委員もいない。これはおかしい。学校で起こってはならないことが起こったのであり、直接責任があろうがなかろうが最高責任者は辞職すべきだと思う。
 これは、それぞれの人が悪いのではなく、どこが学校運営の責任を負っているのか、はっきりしていないためである。

 いじめ自殺は、学校が業務上過失致死を問われるような事柄だと思う。学校側に直接責任はないとしても、死ぬほど追い詰められている者が助けを求められなかった校内体制と雰囲気に対して、責任は負うべきである。管理者側に引責する者がいないので、教員や生徒に心構えを説くことがいじめ対策になってしまうのである。

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すべての人のための義務教育

 先日、ある中華学校を訪ねる機会があった。各種学校として運営されているが、実質は小・中学校にあたる学校である。
  教育内容は、日本の学習指導要領と検定教科書をベースにして、自国語と自国文化の教育を上乗せしている。教育方法は、教師の権威が確立されたタイプで、一斉授業タイプとしてはもっとも良質のほうに入るだろう。古き良き日本教育を想う人だったら、「こういう教育がまだ日本で健在だ」と喜ぶだろう。

 それでも、この学校は各種学校であり、授業料は一流私立並みを徴収せざるを得ず、補助金は雀の涙程度である。中学を卒業しても、正式な中卒資格がないので、進学に不自由をきたす。
 生徒のうち6割が、日本国籍を持っているというのにである。

 外国人に無償教育を提供しないと、貧困層が教育を受けられない。また、マイノリティが自らの文化継承を可能にする学校を持つことも、基本的人権として国際条約で確立している。
 外国人学校を義務教育と認め、「日本語も教える」、「日本の国の仕組みの最低限を教える」ことくらいの基準を満たせば、日本の学校と同額の一人当たり費用を出してやればいいではないか。そうしている国はたくさんある。

 外国人の教育の保障は、しっかりやらないと、社会問題の温床になる。教育の段階で金をかけることが、じつは一番安上がりなのである。根本は、学校設置の自由と学校運営の自由である。
 しかし、日本の教育行政は、既存の学校枠での運営しか法制化されていないので、身動きできない。
 現状は、「外国人が希望すれば、日本の学校で無償の教育を受けられるようにしました」と言って、自慢しているような段階である。内実は、外国人いじめが多くて、民族学校に逃げていく例が後を絶たない。

 公立学校側だって、ただでさえ上からの教育改革で振り回されているのに、いろんな文化を持つ外国人に完璧に対応しろと要求されるのは酷である。

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麻薬としての賞罰、競争

 賞罰、競争に訴えた教育の最大の問題は、それが麻薬的な性格を持っていることだ。一度これで子どもを動かすと、やめるにやめられなくなるのである。

 ほんらい子どもは、アメやムチに訴えなくても学ぶ。それは、7歳までに、子どもがどれほど多くを習得するかを見ていればわかる。ほんとうは、これは一生持続するものである。

 ところが、大人の強い干渉や、賞罰や競争に訴えると、この自然な学びの感覚が弱っていく。
 大人からの叱責や賞罰に比べれば、子どもの持つ好奇心感覚は微弱なものだ。

 テストや入試や強制的授業が続くうちに、子どもの内面の感覚が抑圧される。子どもが刺激依存型になっていく。「子どもは、無理にでもやらせないと学ぼうとしない」というのが事実になっていく。
 よく、刺激の強いビデオゲームに子どもがのめり込むことが問題とされるが、テスト対策の学習は必ずしも無味乾燥ではなく、思考のおもしろさは十分にあって、ゲームによく似た性格をもっている。刺激への依存が共通している。

 賞罰、競争に訴えた教育がよくないことがわかっていても、それをやめると子どもはたいてい享楽的な遊びに走る。自主的に生きるには繊細な感受性が発達していなければならないからである。

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結果を出す必要に迫られること

 子どもの恐怖に訴えたり、成績競争をさせたり、野心に訴えたりせず、この世界がどうなっているか、それぞれの人がそこでどのように自分の生を充実させることができるかの発見を手伝うこと、それが教育だと思う。なによりも、この世界が信頼するに足るところであることを、大人が身をもって示すこと。

 その教育のために、専門の場を作り、教師を雇用しているのが学校。

 ところが、学校とはかくかくである、教師の仕事はかくかくであると、法律やら官庁が決めているうちに、眼に見える結果だけが問題になっていく。
 手段であるものが、どんどん自己目的化していく。

 親も眼に見える結果がほしい人が多い。教師も、結果を出さなければならない。学校を管轄するお役所は、眼に見えないものにまで立ち入れないから、文書や数字になる結果を求める。
 進学にあたっても、上級学校は、文書や数字を求める。
 どのような学校に進学できるかを確保してやるのが、親にできる最大の仕事でもある。
 いっぽう、子どもの内面は見えない。

 それで、眼に見える結果が最優先され、子どもの恐怖に訴えたり、成績競争をさせたり、野心に訴えたりすることに、多くの人が鈍感になり、美名をつけてしまう。

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教育ドーピング

 私が教育ドーピングと呼んでいるものがある。
 結果を出したいために、副作用の大きい手段に訴えること。
 賞罰、競争、野心・羨望によって学習させること。

 薬物ドーピングは競技での成績を出すが、肉体を損ねる。それと同じである。教育ドーピングは知性を損なう。

 教育ドーピングによって、一時的な結果を出すことができる。ところが、副作用として、自主性の喪失、答えを憶えただけの浅薄な知性、自分だけよければいい生き方を生み出しているのではないだろうか。

 いかに現実の必要に迫られようと、ドーピングはドーピングである。いったんドーピングに手を出すと、自発的な学習能力が失われるから、以後ずっと強制的な教育に頼らざるを得なくなる。
 特に現在の中学校全体が、高校入試ドーピングにどっぷり漬かっていると思う。

 賞罰、競争、野心・羨望によって学習させることは、現在、当たり前のこととされているが、やがて、それが犯罪と見なされるような世の中がやって来るだろうと思う。
 これは、時々の世間的利害を一切はなれて、人間の感受性と知性の発達を観察すれば、自然に出てくることだろうと思う。

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教育におけるマイノリティ保護

 日本の教育でマイノリティがたくさん存在する。落ちこぼれ、不登校、外国人、障害児。

 マイノリティへの対応がきちんとなされないか、対応がなされるまでとても時間がかかる。これが、日本の学校システムの最大の問題点である。

 学校の立場としては、日々のクラス運営と授業を維持しなければならないし、職員の数もノウハウも限られている。
 「私たちとしては精一杯やったけれども、どうしようもなかったのです」
 となるしかしょうがない。それは、それでいいのである。既存の学校で、すべてのマイノリティを吸収できるはずがない。

 問題はそこから先なのだ。既存の学校で無理なら、替わりになんらかの教育手段が生まれてこなければならないはずだ。意欲的な教員が革新的な学校を作ったり、草の根フリースクールとか、私塾とか、在宅教育ののようなところから、「こうすればいいんです」というものが生まれないといけない。
 それが、法令にひっかっかって、育たないのである。
 いつまでたっても、既存の学校だけですべてに対応しようとしている
 
 これが、欧米で不登校がほとんどなく、日本は不登校だらけになる理由である。

 学校が「これ以上、要求されたらどうしよう」と怖がってしまっている。それは、既存学校しかないから、既存学校にすべての要求が集まるという問題なのに。
 行政の人も「個人的にはこれではいけないと思うのですが....」と言いつつ、現在の法令と予算の中だけで対応するしかないのである。これも、システム問題なのである。

 教育を受ける側からの教育請求権を法律の中に明記しなかったのが、最大の誤りだと思う。権利が確定していれば、行政が対応せざるをえなくなるが、それは、行政が予算や人員の必要な施策をどんどん打てるようになるということでもあり、行政にとっても悪いことではないのである。

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ゆとり教育が理念倒れになる理由

 文科省がゆとり教育を言い出したときがあった。
 中身を見て、「やっとこういうことを言うようになったか」とも思ったし、「文科省がやると、制度はいじれないものだな」とも思った。理念だけ変えてなんとかなると信じているようであった。

 具体的に言うと:
・ 「ゆとり」をなくす最大の原因は、受験体制なのに、入試システムに手をつけていない。これだと、中学は高校受験を控えているから、変化しようがない。保護者と生徒も点数取り勉強をやめるわけにいかない。学校がゆとりを持とうとすれば、保護者と生徒は塾へ行くだろう。

・ 「ゆとり」と言うが、授業時数がほとんど減っていない。土曜を休業にしたぶんは、平日に回してしまった。平日の6時間目など、教師も生徒もすでに疲れていて、時間数をこなすだけの消化試合みたいなものである。ドイツなんか、学校は午前中だけである。(PISAの結果が悪いので揺れて、検討されていると聞くが) 

・ 「ゆとり教育」を運用するには、学校と教師の主体性が必要であるが、制度的に学校の独立性が弱すぎる。「ゆとり教育」のような、教師力を必要とする方針は、官僚機構からの指揮では無理である。中教審は、教え方を指示するのではなく、学校が裁量できる時間を増やすべきだった。

・ 学校への権限委譲をほとんどやっていない。大綱化した指導要領だけ残し、教科時数も教科書も学校任せにすべきである。

・ 教員への締め付けが強すぎる。文科省 vs 教員組合の図式で作られた教育行政と学校管理のシステムはが、東西冷戦が終わったのにまだ精算されていない。教師を監督したい施策と、教師の自由が必要な施策の両方をいっぺんにやっている。

・ 学校に、上からいろんな雑用が降り積もる構造に手をつけていない。上がけっこうな事を言うと、現場では会議と書類が増えるだけになる。教育行政改革に手をつけないと、学校はただの下請けにされてしまう。

・ 公立学校はしがらみが多すぎる。新しいことをやりたいなら、チャータースクールのような独立性の高い学校を作り、意欲的な教員にやりやいようにやらせるほうがよい。どこの国でも、教育発展の原動力は「学校を作る自由」である。
 意欲的でない教員のほうが数は多く、それを権力的に動かそうとしても、おざなりなことばかりして混乱におちいる。

・ 「ゆとり教育」の理念やノウハウの蓄積があり、かつ、歴史的な検証を経ているのは、オルタナティブ系の教育(シュタイナー教育、モンテッソーリ教育、ニール流の自由教育など)である。公立学校の中で、中教審からの指示でいじっていては、発想がひろがらない。オルタナティブ教育学校を解禁したほうが、よほど、文化的なイノベーションが起こる。

・ 検定教科書をやめていない。自由出版、自由採択が主要国の趨勢である。教科書は、現場と出版社のやりとりだけで作られないといいものができない。指導要領に作った「ゆとり」の部分は、教科書会社が使ってしまい、学校は教科書をこなすのに精一杯という状況が変わらない。

 などなどである。その他、いろいろ考えて、「ゆとり教育は理念倒れに終わり、反動を招くことになるだろう」と思った。
 いま、その反動が出る時期になった。

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比較されるのはいやだ

 子どもは、「~ちゃんは...なのに、おまえは...」と言われるのをものすごく嫌がる。親がそれを言ったら、たいていは「ぼく、~ちゃんじゃないもの」と親子喧嘩になるものだ。
 それぞれの人間の、感情、感覚、動機はまったく違っている。自分がいるところからしか行動することはできない。それをいきなり、他人の姿を見せられて「ああなれ」と言われると、自分が根こそぎになってしまう。

 もし子どもが大人に負けて「~ちゃんみたいになろう」としたら、数ヶ月後にはその子は、自発性を失い、自信をなくし、認められたがり、嫉妬深い子になっているだろう。真似することで得たものもあるだろうが、形を真似ただけの浅いものだろう。
 子どもはそういう危険を生得的に知っているから、比較されるのを嫌がる。

 もちろん、比較で人のいいものを吸収することはある。人の姿を見て自分の姿を知ることはある。そのような良い比較があるのは当たり前のこととしてである。それらは、自発的なものである。
 しかし、大人が「あの子みたいになれ」と言うときは、たいてい、他の子をみていいと思い、羨望に突き動かされたり不安に駆られたりしているだけのはずだ。

 人との比較は、それ自体が人格に対する暴力だ。人がどのように生き、どのように変容していくかの実際にまったく無知なまま、結果だけ要求するのである。
 教育には暴力がたくさん入り込むものだ。物理的な暴力は、外面しか従わせることができないが、心理的な暴力なら内面まで動かせる。
 比較することは、子どもの羨望や野心を刺激しながら、それに「向上心」という名称をつけるという巧妙な暴力だ。「あなたのためを思って」が必ずつけられる。

 教育で、そのような羨望や野心が制度にまでされている。
 なんらかの順位付けや相対評価。進学競争。
 教員たちを出世で動機づけて管理する。

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百マス計算の長所と短所

 百マス計算が広がっていった時期があった。かなりの学校や学級が試したと思う。私も私塾で試した。
 やってみた結果は、使いようの方法だな、長所も短所も大きいと思った。最大の長所は、一桁どうしの四則演算に絞りこんだことである。達成感を得やすいし、実効も大きい。

 百マス計算は、一見競争に見えるが、うまくいったところは競争として使っていたのではないと思う。

 百マス計算は、一定量の計算を終わらせるタイムを競うものである。全員参加で一律の競争をやると、熱中してどんどん伸びる子と、「どう頑張っても、あの子たちには追いつけない」と投げ出す子の両極が生まれるものである。落ちこぼれを出してはいけない義務教育で、これはまずい。

 それでも百マス計算で落ちこぼれを出さずにやらせることができたところは、各個人として能力が伸びていくことのほうに焦点を合わせることができたのだと思う。
 たしかに、シューティング・ゲームで腕前を上げるような感覚に持っていくこともできる。回を重ねるうちに、自分の計算が速くなるのが実感できる。シューティング・ゲームよりはつまらないが、算数という実戦で役に立つのがおもしろい。

 あるいは、「同じことを、みんなが達成できたのです」という連帯感のほうにうまく誘導できたのだろう。

 しかし、一定の分量を終わらせることの早さを競うと、早く終わってしまった子が待っていなければならない空白の時間を作る。また、だれが早いか遅いか見えやすいから、負け組を作り出しやすい。それと、年齢によるが、100マスでは多すぎて息切れする子が出る。
 かなり条件が整っていないと、マイナス面が出てくるだろうと思った。

 こういうことをやるなら、一定の時間でどれだけの量ができるか、というタイプにしたほうがいいと思う。

 それと、百マス計算は反復練習型の中ではかなり特殊なものであり、これがうまくいったからと言って、反復練習型すべてを肯定することにはならないと思う。

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たくさん入れるほど残らない現象

 マンツーマンか、ごく少人数を相手に教えることの多い方だと経験があると思うが、教えるペースを上げて「一部でも記憶に残ってくれればいい」とたくさん注入すると、生徒には何も残らなくなるという現象がある。

 われわれが、NHK教育チャンネルで誰か専門家が何か難しい話をしているのを聞くと、言葉が右の耳から左の耳に通り抜けて、片言隻語も記憶に残らないのと同じ現象である。わかる部分がないはずはないのだが、それすら残らないものである。

 「さっぱりわかない」ことがある程度以上多くなると、自分の中に整理していく枠組みが作れなくなるし、内面での聞く姿勢も維持しきれないからだと思う。

 教えたことに沿ったテストをして、点数が半分に届かないようだと、本人にとっては注入量が多すぎて何も残らない現象が起こっている可能性が強い。

 テストの点が40点にもならないということは、薬にたとえれば「ただちに服用を中止し、他の薬剤に切り替えること」と受け取るべきなのある。それを、「本人の努力が足りないためだ」と結論すると、結果はますます破壊的になる。

 公立学校で、検定教科書を使い集団授業をやる方式のなかでは、それではうまくいっていないことがわかっても他の教授法に切り替えることなどできない。それは事実である。本人に頑張ってもらうしかないことも、悲しいかな、事実である。だからと言って、本人の努力が足りないせいにするのは責任転嫁である。

 日本にいると「だからどうしろというのだ」になりやすいが、フィンランドの教育とか、イエナ・プラン教育やモンテッソーリ教育のやり方とかを見ると、解決方法はあるのだということをつくづくと思う。

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家庭学習をしないからか

 小中学校での成績が悪いとき、その理由に「家庭で学習しないから」がよく挙げられる。当たり前のこととされがちだが、私はヘンだと思う。学校で教えられてもわからないのに、一人で家庭学習してもわかるようにはならないだろう。
 成績が上位の場合なら、家庭学習の不足というのはいちおう理解できる。80点を90点にするのはたいへんな磨き上げが必要だし、応用問題にも取り組まなければならない。学校の授業時間だけでは無理だ。

 しかし、成績が下位の場合、学校の授業の一部でも吸収していれば、そうひどい点にはならないはずなのだ。点数が40点にも満たないのは、その教育方法ではうまくいっていないことを示しているのであって、家庭学習の不足を示しているのではない。そもそも、テストは、その教え方でよかったかどうかを調べるためのものである。
 また、先生が教えていても何も入らない子に対して、家に帰って自分で教科書をマスターしろというのが無理である。家でやらせることができるのは、基礎は分かった上での練習の部分である。
 また、成績下位の子は、学校を離れたら、勉強なんか忘れたい一心になっているものである。

 統計上は、「成績が悪いこと」と「家庭学習をしない」ことには、はっきりと相関がある。しかし、それだけでは、家庭学習をしないことが成績が悪い原因であると言うことはできない。
 現実を見ると、むしろ「成績が悪いこと」が「家庭学習をしない」ことの原因であると思われる。

 子どもの成績が悪いとき、教師側はどうしても「私はちゃんと教えたのだが、本人が...」と考える。「本人がその気になって頑張ってほしい」と。
 親も、教育方法のレベルアップを要求しても無理だしトラブルの元になるから、「本人が頑張りさえすれば」と考える。
 そういうしわ寄せがみんな子どもに対する「家で頑張ってほしい」という願いになり、そのうち「家で頑張らないのが原因だ」になってしまうのである。

 学業については、物理的な勉強時間の量よりも、子どもが自分が住んでいるのは道理のある世界であり、自分は無価値な人間ではないと感じていることのほうが、はるかに影響が大きい。

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