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倫理・道徳の教条化

 前回、小学生のときに威圧された恐怖が甦ったことを書いた。その後、その続きみたいに湧き起こるものがある。昨日は、小学生のときにずっとひたされていた、学校での怯えが甦っていた。日中でも感じていた。
 ああ、これこれ。この気分でいたのだ。

 私の怯えは、パニックのようなものではない。学校の雰囲気に対していつも感じていた怯えである。学校の生徒管理全般から生じていたものだと思う。私は、先生に叱られないように気をつけていた。私は、問題のない良い子だった。でも、ほんとうに善良だったのではなくて、適応していただけだ。いちおう明るいほうの子だったが、怯えと優柔不断をひきづっていた。
 私は内弁慶で、家庭ではこんなに萎縮していなかった。

 大学生になってから、いつも怖くて優柔不断な自分がいやになった。自分の持っている善悪観は、怖さから従っているだけの浅薄なものだと感じた。すべての善悪は疑わしかった。
 恐怖にまけてなるものかと、恐怖を感じないようにし、善悪は自分で決めることにした。そうしたら、私はモンスターの一種になってしまった。自分の頭で考えたことで行動し、場の空気が読めず、人に嫌がられていることも読めなくなる。

 倫理・道徳こそ、子どもを威圧するのではなく、発見的な手法で伝えてほしかった。倫理・道徳こそ、憶えるべき箇条書きになってはいけないものだと思う。
 でも、国が徳目を書き出し、現場がそれを教えることになっている体制があるのだから、どうしても倫理・道徳は教条になっていく。

 これも、私が制度問題を言い続ける理由である。

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