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現場にいない者の限界

 教育改革で、官庁発の改革に特有の限界がある。彼らは、データや報告を元に美しい結論を出し、見事な方針を出し、うまくいかないと、「現場のだらしのなさ」に持って行くか精神論に行く。~委員会、~会議の形を取っていても、同じようなものである。

 書類やデータや、普通の事情聴取では、実情把握が難しいからだと思う。それと、「よい結論を出さなければ」というバイアスのせいだと思う。
 現場にいれば、書類やデータにできるものは、現実のほんの一断面であることがよくわかるものだ。とくに、それぞれの人間を動かしている本当の動機の部分は、書類やデータにならない。しかし、現実を作っていくのは、その見えない動機の部分が大きい。
 教育界は、見えないしがらみによる動機付けの、たいへん多いところである。

 そして、官庁発の改革では、改革を唱導する人間が、自ら情熱をもって行脚し人に訴えていくことがない。行政機構と書類が、学校に影響を与え実行させようとする。だから、どんなけっこうな方針が立ったとしても、索漠たる抽象と命令が現場に届く。せいぜいが、美しいパンフレットである。

 教育は人間関係そのものである。教師も生徒も、時々刻々相手の様子を見ては対応している同士だ。お互い、バカじゃないのである。素晴らしいマニュアルができると、かえって沈滞するのである。

 授業の仕事は、芸術家や芸能人の仕事に近い。音楽家は感動を取るアーチストであり、落語家は笑いを取るアーチストであり、教師は理解を取るアーチストである。
 音楽家や落語家の仕事の内容に、官庁がアドバイスするだろうか。教育もそれと同じではないか。人間を育てるやり方は、文化の領域であり、法令化になじまない。

 教育は、教師と子どもの関係の中から生まれてくるものである。
 標語・スローガンの蔓延は怠惰な知性を暴露しているにすぎない。賞罰・競争の横行は、いかに教育での信頼が崩れているかの指標にすぎない。

 「日本の教育をよくしよう」から出発したら、まずたいていは抽象的な作文か、強引な権力集中で終わる。中教審発の改革も、教育再生会議発の改革も、その多くは、一つの穴を塞げば、二つの穴があくというような結果になる。

 それより、どんな結論も持たずに、不登校で困っている人の話をじっくり聞くことです、落ちこぼれの子の親と教師にじっくり話を聞くことです。学級崩壊に直面した教師たちの話をじっくり聞くことです。

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