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2007年11月

教育委員会は教育長をトップとする行政機関

 すごく日常的な言い方で、「教育委員会の中でいちばんエラいのは誰でしょう」と考えてみよう。
 これがすごく複雑なのだ。

 簡単に言うと

 役職上、いちばん偉いのは教育委員長。
 最高責任者は教育委員の合議体。
 実権を持っているのは教育長。

 と別れているのである。

 しかし、とにかく建前はぜんぶはすっ飛ばして、教育委員会のトップは誰かと言えば、文句なしに教育長である。役職名がまぎらわしいが、”教育委員長”ではなく”教育長”がトップである。教育長が、その教育委員会の方針、実務、人事をすべて指揮している。

 教育委員会というのは、教育長をトップとする行政機関、と理解するのが一番よろしい。したがって、教育長を誰にするかで、その県や市の方針はほぼ決まるのである。

 長野県が田中康夫知事になって、田中は改革派の県職員を教育長にした。とたんに、長野県の教育行政の方向が大きく変わった。東京都の石原知事の場合も、同様である。
 常識的には、知事は助役、出納長、教育長の”三役”を選任するのが、首相が組閣するような仕事と見なされている。(07年から、出納長という役職はなくなるが)

 ところがである。正式には、知事や市長は、教育長を任命する権限は持っていない。教育委員を任命することはできる。しかし、教育長の任命権はもっていないのである。

 ここに、教育行政が無責任になる大きな原因がある。教育長人事権を持たないはずの首長が、教育長を実質的に決めているので、院政体制ができてしまうのである。その仕組みは、また改めて。

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教育委員会とはなにか

 教育委員会制度のことをよく知らないと、日本の教育システムは見えてこない。しかし、なにか教育委員という人たちが教育方針の話をするところ、のようなイメージしかないのが普通ではないだろうか。

 教育委員会は、地方自治体の公立学校を管理する部門である。つまり、公立学校を管理するお役所である。
 そして、ここが大切なことなのだが、教育委員会は、委員会と名が付いていても、ただの審議会のようなものではない。管理責任を負った、れっきとした行政機関なのである。

 教育委員会は、ようするに自治体の教育部局である。しかし、教育局という名にはなっていない。
 その意味は、教育部局を首長から独立させるためである。首長は行政の責任者であり、政党に属していることもある。首長は政治的な色合いを出すために教育内容や人事に介入することが可能である。
 それを防ぐために、教育部局を独立させたのが教育委員会である。その長は一人だと独走の懼れがあるので、複数の教育委員の合議体を最高責任者としている。

 これが、そもそものスジである。
 実態は、首長が教育委員会に対してかなりの影響力を持っている、しかし首長は教育に責任は負っていない。そこで、いろいろ面倒なことが発生している。その解決方法も一筋縄ではいかない。一筋縄ではいかないところをウンウン考えるところから、将来が見えてくると思う。

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モンスターペアレント問題は教育行政の不備

 モンスターペアレントという言葉が盛んに言われる。学校が、あまりに常識をはずれた親のクレームに困っていると。
 極端なクレーマーがいることは事実だ。そのため先生たちが時間もエネルギーも奪われているのも事実だ。しかし、モンスター呼ばわりしているエネルギーがあったら、こういうことは学校も応対しかねる、ということを保護者たちといっしょになって確立し、その周知を図ったほうがよいだろう。

 学校関係者たちに、”モンスターペアレント”という言葉が広がったのは、自治体や教育委員会まで含めて、教育での意見や不満を吸い上げるシステムが不備なためだと思うし、やはり学校の狭い価値観からしか見ていないと思う。

 1クラスを40人とすれば、保護者は80人いる。その中には、いろいろな人がいるのは当然である。大部分は、穏健な人たちだ。むしろ、遠慮しすぎの人たちが多数派だろうと思う。親がみんなモンスターのようなイメージを作ってはいけない。

 私は、私塾をしていたが、保護者のみなさんは常識的だし、問題点を指摘するときはものすごく気を遣ってくれていた。それが、普通の親像だと思う。

 極端なクレーマーはたしかにいる。しかし、市役所に、”モンスター住民”という言葉があるだろうか。私塾が、蔭口でさえ、モンスターペアレントという言葉を使うだろうか。
 とにかく、双方の言い分をきちんときく第三者機関を作ってないし、代議制度に相当するものがないことが問題だ。親は学校に対して「ここで相手にわからせるしか手段がない」から攻撃的になるのである。
 教育委員会があると思われるだろうが、教育委員会は、学校を管理する上司であって、第三者機関ではないのである。

 『地方教育行政の組織及び運営に関する法律(地教行法 1956)』が根本原因だと思う。『地教行法』を抜本的に改めて、保護者の正式な運営参加を作っていかないと、学校はいつまでも「言い過ぎる親」と「言わなすぎる親」に悩まされるだろう。

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深刻ないじめは教師から発見困難

 06年度に全国の学校で確認されたいじめが、約12万5千件であったと、文科省が発表した。前年に比べると約6倍に増えた。国会でいじめ隠蔽が問題になったためためである。

 しかし、これでもまだ氷山の一角であろう。全国の小中高校には約1500万人の児童・生徒がいる。クラス数にすると、全国に40~50万クラスくらいということになる。その3割くらいのクラスで、年に1回のいじめがあったという計算になる。
 自分の実感からは、そんなに少ないはずはないだろう、と思う。
 
 それよりも重大なことは、もっとも深刻な、自殺を出しかねないようないじめは、教師・学校からは発見がきわめて難しいことである。いくら、統計上のいじめの件数が増えても、最も深刻なものはその中に含まれていないだろう。悪質ないじめは、大人に見つからないように、実に巧妙に行われる。
 先生の目があるところでは、ただのふざけであるように見せるなど、雑作もないことだ。

 巧妙ないじめでは、「もし親や先生に言ったら、どうなるか知っているな」という脅しがかかっている。いじめられる側が、洗脳されたに近い状態になっている。

 もともと自己主張の弱いタイプの子どもが、悪質ないじめに遭いやすい。その本人が思いきって話しても、先生は、すでに”いじめだ”という訴えに振り回されていて、なかなか深刻さが通じない。親も、「強くなって立ち向かえ」と言う人たちが多い。
 悪質ないじめに対処するには、「訴えても仕返しされない、徹底的に保護してくれる」機関を学校内と学校外の両方に作り、災害時と同じように生徒たちに「万が一のときは、ここに逃げ込め。それでもだめならここに逃げ込め」と教えるべきである。そのような避難訓練を義務づけるべきである。

 なお、いじめの巧妙な手口のいろいろを客観的に示してくれている本に「教室の悪魔」(山脇由貴子著 ポプラ社)がある。具体的な提言もしている。
 ぜひ、一読をおすすめする。

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欺瞞を生み出すもの

 ここ2、3日、自分に影のようにつきまとっている恐怖を感じとれる。その中に、多くの発見がある。でも、「見つけた」と定式化したら、たちまちその真実が逃げていってしまうようなもの。
 それでも、少しはまとめたり、他人とシェアしたくなる。言葉にしたものは、すでに抜け殻ではありますが。

・ この恐怖がふっと変形して、慰めになる理論や希望的観測を生み出そうとする。それが自己欺瞞の原因。

・ 自分がいつも頭の中でおしゃべりしているのは、この恐怖感をまぎらすためのテープレコーダーのようなもの。

・ 人といる時に、この頭の中のおしゃべりをはじめると、人の言っていることをまったく聞いていなくなる。これが私が勉強ができなくなった原因。

・ 抽象的に立派なことや正しいことを考えたり言ったりするときは、この恐怖に動かされている。

 などなど。

 この恐怖は、孤立感と過剰適応に結びついているもので、小中学校で身につけたものだと思う。決して学校のせいだけではないが、学校はシステマチックにこの恐怖を培養していた。

 恐怖によって培われた美徳は浅薄なものだ。後年、生きづらさやノイローゼなどの源になる。

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倫理・道徳の教条化

 前回、小学生のときに威圧された恐怖が甦ったことを書いた。その後、その続きみたいに湧き起こるものがある。昨日は、小学生のときにずっとひたされていた、学校での怯えが甦っていた。日中でも感じていた。
 ああ、これこれ。この気分でいたのだ。

 私の怯えは、パニックのようなものではない。学校の雰囲気に対していつも感じていた怯えである。学校の生徒管理全般から生じていたものだと思う。私は、先生に叱られないように気をつけていた。私は、問題のない良い子だった。でも、ほんとうに善良だったのではなくて、適応していただけだ。いちおう明るいほうの子だったが、怯えと優柔不断をひきづっていた。
 私は内弁慶で、家庭ではこんなに萎縮していなかった。

 大学生になってから、いつも怖くて優柔不断な自分がいやになった。自分の持っている善悪観は、怖さから従っているだけの浅薄なものだと感じた。すべての善悪は疑わしかった。
 恐怖にまけてなるものかと、恐怖を感じないようにし、善悪は自分で決めることにした。そうしたら、私はモンスターの一種になってしまった。自分の頭で考えたことで行動し、場の空気が読めず、人に嫌がられていることも読めなくなる。

 倫理・道徳こそ、子どもを威圧するのではなく、発見的な手法で伝えてほしかった。倫理・道徳こそ、憶えるべき箇条書きになってはいけないものだと思う。
 でも、国が徳目を書き出し、現場がそれを教えることになっている体制があるのだから、どうしても倫理・道徳は教条になっていく。

 これも、私が制度問題を言い続ける理由である。

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子どもを威圧する弊害

 ときどき、普段は気付かない私自身の感情を感知できることがある。けさ、学校のトラウマだと思われるものにであった。
 目が覚めて布団の中にいるとき、身体と感情がこわばっていた。じっとこらえてその状態を感じ取っていたら、恐怖感のようなものだった。権威・権力に威圧された状態だった。
 声もでない、思考も湧かない、体も動かない、そういう状態だった。

 その権威・権力は小学校のエッセンスのような感じがした。小学校での出来事が残した影だった。どの出来事のトラウマかは思い出せない。

 以前から、こういうトラウマがあると推測はしていたが、実物にやっと出会った。私の学校生活が怯えたものであった、大きな原因だと思う。私は成績もよかったし、友達もいた。でも、学校はイヤでイヤでたまらなかった。学校は、怖いところだった。
 これがあるから、私は今でも、権力的なものに威圧されてしまうか、反抗するかしかなくなってしまう。すべてを小学校の体験のせいにしてはいけないと思うが。

 私塾をしていて、教師あるいは学校の雰囲気に威圧されてしまった子どもたちをたくさん見た。

 小中学校の教師たちは、子どもたちをちゃんと整列させる、授業中におとなしく座らせる、それが最大の課題だから、全力を尽くす。そのときに、子どもの内面を威圧してしまっているのだと思う。

 威圧された子どもは、知性が制約されるし、素直な感情表出が少なくなる。
 しかし、いまの学校制度、教育方法をとる限り、子どもを威圧でもしない限りまともな授業や集団行動を成立させることは難しい場合が多いだろう。

 私が、制度問題を言い続ける理由である。 

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「変えよう!日本の学校システム」をブログ名に

 このブログのタイトルを、「教育は制度がネックだ」から「変えよう!日本の学校システム 教育は制度がネックだ」に変更しました。
 「変えよう!日本の学校システム」(平凡社)は、私が昨年出した本の題名です。このブログで言っていることと本の内容が、深く関連していることをわかりやすくしました。
 本もお読みいただければ幸いです。

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障害児教育は教育の原点

 特別支援教育のブログをいくつか読んでいたら、たいへん質の高いものが多かった。いずれも、自閉、多動などの子どもたちを相手にしている先生たちのものだった。
 子どもたちは、ちょっと状況が変わったり、刺激が強すぎればパニックを起こしてしまう。そういう子どもたちと、なんとか通じ合う道を探っているのである。

 こういう、道なき道を探るところにほんとうの知性があると思った。いかに立派な理想や理論であろうと、それが学者の権威や官庁の権力によって、復唱させたり服従させたりしようとするものだったら、それは教師の知性を退廃させる。

 障害児教育には教育の原点がある。
 子ども一人一人をよく見て、その子のために為し得る最善を為すこと。

 あたり前のことだが、障害児教育の場合、これの外に手段がない。教師側は、このあたり前を歩むようになる。私も私塾で多少の経験があるが、ほんとうに知性と体力の限りを使って対応するしかないのである。

 教育を、国家繁栄のためとか、個人の社会的地位獲得の手段とかと捉えて理論を構築すべきではない。そういう目的は、結果としてやってくるだけのものである。
 一人一人の子どもに、人間として発達を、現実的に支援することが教育の原点だと思う。
 むしろ、障害児教育や落ちこぼれの子どもたちの教育の中に原点がある。

 ここに、自閉や多動の子どもたちと接する人たちの生の声がある。
 ブログ村の特別支援教育カテゴリー

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公教育批判 米国と日本

 米国では、1960年代に公教育に対して批判が噴出する。画一的、権威主義的であることが批判され、公教育を改革する運動が起こるし、民間には草の根フリースクールが雨後のタケノコのようにできた。

 この状況が、1990年代以降の日本とたいへんよく似ている。

 ところが、けっきょく、アメリカでの教育改革で今も大きな規模で残るのは、チャータースクールとホームスクールである。
 アメリカの公教育の自己改革は、いろいろなものを生み出してはいるが、平均的にはあまりうまく行かなかったと見てよい。少人数学級が改革の切り札のように言われたが、厖大な予算をつぎ込んで、その結果はさほどはっきりしたものではない。

 結局、アメリカの場合、改革エネルギーは教育機関の多様化に向かった。チャータースクールは、補助金つき私立学校のようなものであるし、ホームスクールは学校への不信任そのものである。

 日本の場合、この多様化が起こらない。日本では、アメリカより教育の統制がはるかに強い。それで、オルタナティブ系私学や特色の強い私学が出てきて、教育文化を刷新していくことが起こらない。チャータースクールもホームスクールも制度が認められていない。
 そのため、日本では民間からの教育運動がか細い。

 しかも、日本の場合、戦後の55年体制教育システムがまだ終わっていない。55年体制教育システムというのは、教育が東西対立に巻き込まれて、教員に主導権を取らせないようにし、保護者・住民の運営参加権を奪ったシステムである。そのため、公教育の中でも、現場からの問題点フィードバックがとても弱い。

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落ちこぼれをださない教育

 オランダでは1960年代に画一的な教育方法に対する疑問や批判が高まった。その中でK・ドールンボスが書いた「落ちこぼれへの抵抗」(1969)は、国の教育政策にも影響を与えた。

 当時、小学校だけでも留年経験者が約3分の1、中等教育だとその倍以上いた。授業形態が留年の原因になっており、留年した場合はわかっていない部分をもう一度学ぶために、わかっている部分も繰り返さなければならなかった。

 「落ちこぼれへの抵抗」の中でドールンボスは、モンテッソーリ教育やイエナプラン教育には落ちこぼれがないことを指摘し、画一的教育に代わる方法を探るために、オルタナティブ教育の実例を採用する必要があると主張した。
(以上、「オランダの個別教育はなぜ成功したのか」 リヒテルズ直子著 平凡社 より)

 オランダには、オルタナティブ教育があったので、自分たちの標準教育の姿を知るための比較対象があった。
 日本には、この比較対象がないので、現制度の枠を超えた発想が難しくなっている。教科書の内容の手直しと、報告書を出させることと、教員の心構えを説くことが改革のほとんどになってしまうのである。

 1960~70年代から世界の教育、とくに欧米の教育は大転換を遂げていくのだが、その経過から我々は実に多くのことを学ぶことができる。
 私の研究はそのほんの一部にしか届いていないのだが、少しずつでも紹介したいと思っている。

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イエナプラン教育の非凡さ

 オランダの専門家たちによるイエナプラン教育紹介の第2日、ワークショップに参加してきた。
 非凡な教育方法だと思った。その非凡さが、ちょっと普通の意味と違う。一つ一つやっていることは、世界レベルで見ればさほど特別ではない。

 例えば、サマーヒルタイプの自由学校だと、生徒を教室内に拘束していないから、その特徴は一目でわかる。シュタイナー学校のにじみ絵やオイリュトミーも一目でわかる。イエナプランは、そういうタイプではない。班活動をしているときの日本の学校に似ている。しかし、基本的なコンセプトがぜんぜん違う。

 イエナプランは、「それぞれの人のかけがえのない価値」、「それぞれの子どもがその人らしく発達する権利」というようなものを、言葉だけで終わらせないぞ、絶対に子どもの中に実現するぞ、という意志そのものに思える。
 たいへん柔軟であるし、教師の名人芸も必要としない。

 イエナプランの中核は、教師のリーダーシップと、子どもの自主性のバランスの取り方にある。教師中心授業にもいかない、子どもにすべてを任せもしない。固定点ではなく、中庸を求めてバランスを取っている。

 イエナプランの学校は、自発性もあるし社会性もあるという子どもをたくさん生み出すだろう。教師の名人芸を必要とせず、具体的な方法は柔軟なので、移植しやすい。オランダでここ30年くらいの間に急速に広まったことが理解できる。共同性も重視した教育なので、日本でも大きく広がれると思う。

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イエナ・プラン教育

 イエナ・プラン教育という教育法がある。たんなる授業メソッドではなく、イエナ・プランの学校として運営される。
 もともとはドイツで発生したのだが、オランダに移植されてから急激に発展した。現在オランダに220校ほどが存在するという。オランダは、私学の自由があるので、いろんな教育方法の苗床になる国である。

 その専門家たちがオランダからやってきてのシンポジウムがあって、参加してきた。たいへん密度の濃い内容だった。

 特に目につくのが、クラス編成の違いである。

 イエナ・プランは、小学校1年生から3年生で1クラス、4年生から6年生で1クラスを編成する。異年齢でのグループを作り、その中での教え合いを重視するので、どの子も1年生のときは教えられる立場、3年生になると教える立場を経験していく。”できる子”、”できない子”が固定しない。落ちこぼれを出さないことで定評がある教育法である。

 子どもの性質をよく知っていて、遊び、仕事、協働、祝祭、というようなものでローテーションを組んで、教育内容を構成していく。

 こんな学校が日本にもあると、ずいぶんと影響を及ぼすのにと思う。

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攻撃を育てるのでなく

 昨日のNHK総合「ためしてガッテン」で、ケンカをエスカレートさせない方法を紹介していた。それは、「お前ときたら~だ」と相手を攻撃するのではなく、「私は~で困っている」と自分を主張することである。

 「攻撃でなく主張を」は、カウンセリングなど心理学の世界では、基本常識になっていることである。実際に大きな効果がある。
 また、人間関係の中で有能に生きている人たちの多くは、相手を攻撃せずに自分を主張するのがうまい。

 実際には、家庭でも社会でも、自己主張ができなくて他者への攻撃を繰り返し、自らも他人も傷つけていく人たちが多い。

 自己主張できない態度は、家庭でも学校でも育っていく。けっして学校だけの責任ではない。しかし、学校はより意識的に、立場表明の仕方や、意見のたたかわせ方を身につけさせることができるところである。

 生徒を一方的に管理し、「~すべし」で学校を運営していると、問題があるときに、生徒は蔭口を言うようになる。問題が重大で表にまで出たときは、管理者への激しい攻撃が渦巻く。それを避けようと、管理者はますます生徒の発言権を封じようとする。これは悪循環になる。
 保護者に関しても、現在の教育運営システムには選挙で選ばれる役職が存在していないし、保護者の正式な運営参加もない。このことが、保護者の学校に対する陰口と攻撃の温床になっている。

 生徒の学習権、保護者の教育権をきちんと認めることである。教育を受ける側に不満があったときの解決方法を制度化していない『学校教育法』と『地教行法』の作るシステムを、見直すべきである。

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外国人学校校長の明快さ

 他民族共生教育フォーラム2007東京に参加し、外国人学校訪問コースで、東京第二朝鮮初級学校と中華学校を見てきた。

 授業も覗かせてくれていたが、教えている内容は、思っていたよりずっと日本の普通の学校に近かった。日本の指導要領に沿った上で、独自のものを上乗せしている。
 事情を聞けば、どちらも日本に永住するつもりの人たちが子どもを託す学校だった。子どもたちが、日本の社会で生きていけるようにすることが大きな目的なのだ。

 印象的なのは、校長の説明が明快なことだった。これは、以前に他の外国人学校を訪ねたときにも感じたことだった。当校がどのような沿革と方針を持ち、どのような現実に直面しているかを、官僚的でも攻撃的でもなく、伝える能力を持っていた。

 外国人学校は、こういう学校が必要だと思った在住者たちの意志と協力によって成り立っているところである。人を納得させ、協力をとりつけていくことができなければ、破綻する。
 日本人に対しても、自分の学校の存在理由を主張するが、できるだけ協力者をふやし余分な敵は作らないようにする。
 こういう困難な実務をこなせる人が校長になるのであろう。

  

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管理社会といじめ

 ある知人宅を訪ねていた。
 一家と菓子を食べていた。

 母親が、ケーキの食べ方で急に娘を叱った。そうとうにムキになってきつい語調だった。そう特別にお行儀が悪かったわけでもないので、ちょっと娘がかわいそうだと思ったが、「まあまあ」と割ってはいるタイミングは逃した。

 場の雰囲気が一変し、冷たく、硬いものになった。一同、黙り込んだ。

 娘が急に弟のほうに向かった。「あんた、その手、汚いまんま食べてるんでしょ」と責めた。
 弟は、元気がなくなって、じきに席を離れていった。

 いじめって、こんなものでしょ。
 無慈悲なものの支配。やるせなさ。
 服従させることの伝播。
 
 いじめは、管理社会に特有の現象。

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リタリンより教育方法検討を

 リタリンという薬がある。ADHD(注意欠陥多動性障害)の子どもに処方される。リタリンはもとはウツ病の薬であるが、依存症があるため、取り扱える医師を制限する基本方針が出されたという。

 ADHDすなわち薬物治療の対象、と見ることに私は疑問を持っている。教育方法との連関をもっと調べるべきだと思う。リタリンは、特別な場合の手段にとどめておいたほうがいいと思う。かなり危ない薬である

 ADHDの子の症状が出るのは教室の中だけであって、友達と遊んでいるときや、家庭ではとくに問題なく過ごしている例を見たり聞いたりしている。脳内の異常が第一原因だとすると、場所を選ばずに症状が出るほうが自然である。

 リタリンが必要になるのは、小学校に行くようになってである。机にじっとしていられない子は勉強についていけないし、授業妨害になって迷惑だからである。でも、仮にサマーヒルタイプの自由教育だったら問題になるのだろうか。モンテッソーリタイプの教育だったらどうなのだろう。

 リタリンはたしかにADHDに効く。子どもが鎮静し、集中力が出て、授業についていけるようになる。しかし、リタリンは鎮静剤ではない。主成分のメチルフェニデートは中枢神経刺激剤、つまり覚醒剤の一種である。要するに、脳内物質に働きかけて、一時的に快と元気さをもたらす薬なのである。

 私は、ADHDというのは、まず何らかの理由で教室に適応できない子どもが、恐怖や不安に駆られてじっとしていられない状態だという仮説を持っている。抑鬱を取り除く薬が効くというのも、その証拠の一つである。

 机にじっとすわっているのを強要しない教育方法だってある。アメリカでも、ADHDにリタリンを処方するのが主流であるが、ホームスクールやオルタナティブ系の教育を選ぶことで対応した人たちもいる。
 教育方法まで含めた視野で、ADHDの実証的な研究が出てくることを願っている。

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現場にいない者の限界

 教育改革で、官庁発の改革に特有の限界がある。彼らは、データや報告を元に美しい結論を出し、見事な方針を出し、うまくいかないと、「現場のだらしのなさ」に持って行くか精神論に行く。~委員会、~会議の形を取っていても、同じようなものである。

 書類やデータや、普通の事情聴取では、実情把握が難しいからだと思う。それと、「よい結論を出さなければ」というバイアスのせいだと思う。
 現場にいれば、書類やデータにできるものは、現実のほんの一断面であることがよくわかるものだ。とくに、それぞれの人間を動かしている本当の動機の部分は、書類やデータにならない。しかし、現実を作っていくのは、その見えない動機の部分が大きい。
 教育界は、見えないしがらみによる動機付けの、たいへん多いところである。

 そして、官庁発の改革では、改革を唱導する人間が、自ら情熱をもって行脚し人に訴えていくことがない。行政機構と書類が、学校に影響を与え実行させようとする。だから、どんなけっこうな方針が立ったとしても、索漠たる抽象と命令が現場に届く。せいぜいが、美しいパンフレットである。

 教育は人間関係そのものである。教師も生徒も、時々刻々相手の様子を見ては対応している同士だ。お互い、バカじゃないのである。素晴らしいマニュアルができると、かえって沈滞するのである。

 授業の仕事は、芸術家や芸能人の仕事に近い。音楽家は感動を取るアーチストであり、落語家は笑いを取るアーチストであり、教師は理解を取るアーチストである。
 音楽家や落語家の仕事の内容に、官庁がアドバイスするだろうか。教育もそれと同じではないか。人間を育てるやり方は、文化の領域であり、法令化になじまない。

 教育は、教師と子どもの関係の中から生まれてくるものである。
 標語・スローガンの蔓延は怠惰な知性を暴露しているにすぎない。賞罰・競争の横行は、いかに教育での信頼が崩れているかの指標にすぎない。

 「日本の教育をよくしよう」から出発したら、まずたいていは抽象的な作文か、強引な権力集中で終わる。中教審発の改革も、教育再生会議発の改革も、その多くは、一つの穴を塞げば、二つの穴があくというような結果になる。

 それより、どんな結論も持たずに、不登校で困っている人の話をじっくり聞くことです、落ちこぼれの子の親と教師にじっくり話を聞くことです。学級崩壊に直面した教師たちの話をじっくり聞くことです。

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