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2007年10月

指導要領の法的拘束力をなくせ

 新しい文科省指導要領が中教審で論議されている。学力路線へ戻すため、中学の英語と理科を殖やすなどするそうだ。

 ゆとり版が出てきたとき、授業時間をちょっと減らして「ゆとり」と言っていた。そんなことないだろう、高校受験と中学独特の生徒管理がゆとりをなくしているのに、と思った。
 今回、学力版がでてきたが、学力は、ちょっと時間を増やしたり、プレッシャーをかけたくらいで伸びるものではない。学校が安心できる場になっているかどうかと、生徒と教師の信頼関係が、最大要因なのだ。

 それより、文科省指導要領で、教育全体を指揮しようとする体制そのものを疑うべきである。現場が型にはまってしまうのである。
 戦後文科省は、教育を指揮する正式権限がないので、教育内容概要に過ぎないもので、全国の学校教育を指揮しようとしたのだ。

 しかし、教育基本法改正で、「教育振興基本計画」ができた。これによって、文科省は政策官庁に格上げされたと見てよい。
 「教育振興基本計画」があるなら、指導要領での指揮はなくてよい。

 教育の内容と方法は、学術、技術、文化の領域にある。法的にきめるべき領域ではない。
 文科省指導要領の法的拘束力を早急にはずすべきである。

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いじめを子どもが訴えられないわけ

 「教室の悪魔」(山脇由貴子著 ポプラ社)を読んだ。
 いじめの実態を的確に伝えてくれている。教師をはじめとして、いじめの実情と対策を考える人たちには必読です。

 とくに、いじめの被害者は、「いじめられている」と訴えることができないことを、いくつもの実例で伝えているのが、たいへん有り難い。

 ・ 被害者が、親が学校に怒鳴りこんだらたいへんだと思って、親にも黙っている。

 ・ 加害者が、「バレたら、あんたのせいだからね」「そのときは、もっとひどい目に遭うからね」と被害者に吹き込む。

 ・ 暴力を時々やめて仲良くすると、加害者に手加減してもらいたい一心で、被害者が従順になる。

 などなど。

 筆者は、東京都児童相談センターの心理司。
 「いじめられる側にも原因がある」とは絶対に考えない。
 いじめに立ち向かわせない、耐えさせない。
などが大切であることが、どんな人にも理解できる。

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明晰さを育てること

 子どもを明晰に育てること。
 それは恐怖と不安に訴えることなしに子どもを育てるということである。

 恐怖に訴えて教えれば、子どもは、自分の感覚から切り離されてしまう。その場しのぎの答えを持つようになる。
 恐怖によって教え込まれたことは、理屈抜きの固定観念になってしまう。

 教師たちが、まずい結果を出すわけにいかないこと。それが、子どもたちに対する恐怖支配を生み出す。
 学力とか。
 入学式や卒業式の規律とか。
 進学先とか。

 教師が先に、結果がでないときのことを怖がり、それを生徒に転嫁してしまうのである。
 しかし、恐怖のあるところに明晰さは育たない。

 もちろんこれは、学校だけのことではない。家庭も、子どもの恐怖や不安に訴えやすい。しかし、学校のほうが、まだ、意識的な行動が取りやすいところのはずだ。

 学校内の、生徒の発言権を強めるべきである。正式な発言権を与えるべきである。大人たちには結果しか見えない。教室の中のことを知っているのは、生徒だけだ。

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義務教育の二つのタイプ

 世界の義務教育に二つのタイプがある。一つは、学校への就学を義務づけるタイプ。二つ目に、親が子どもを教育することを義務づけるタイプである。

 二つ目のタイプのほうが、教育が柔軟にわき起こりやすい。親が教育を選ぶことが前提になっているからである。カトリック文化圏の国に多い。

 日本は、就学義務のタイプである。親の教育権という考え方が薄い。
 そこに、民主主義原則なしの運営システムを取った。
 だから日本の教育は社会主義国の経済運営のようなものになってしまった。

 具体的には、「すばらしい理念を言っていればそれでよし」、の世界ができてしまったのである。
 現場にいない人たちが指揮すると、理念を言うしかしょうがないのである。現場は、理念を復唱するしかしょうがないのである。

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国が定める教育でなく

 義務教育の考え方を変えないといけないと思う。

 国が定めた教育を受けさせることを義務教育とするのではなくて。

 一人一人の子どもの人格の発達のために親は、子どもを教育する義務がある。それが義務教育。
 現在も、憲法と教育基本法をよく読むと、義務教育とは親の教育義務である。

 国は、親に義務を背負わせた以上、それを可能にする手段を提供しなければならない。国はできるだけ多くの人が満足できるよう、教育が柔軟にわき起こる仕組みを整えなければいけない。

 国が定めた教育を義務教育としていると、自分にあった教育に巡り会えない人たちがたくさん出てしまう。
 例えば、不登校の子どもたちを考えれば、わかりやすいと思う。

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ほんとうの秩序

 今朝、目が覚めたら健康感がある。散歩にでる。事物すべてが美しい。はじめて来た外国の町にいるような気がする。好奇心が自然に湧く。
 言葉が頭の中をぐるぐる周りしていない。

 こういうのが、ほんとうの秩序だと思う。そこには安らぎがあるし、物事を明晰に見ることができる。
 子どものときは、ほんとうの秩序がしょっちゅうやってくる。
 しかし、大人になると、それはほとんど恩寵のようなものになってしまう。大人の多くは、目標と努力でしか動けなくなる。精神生活は荒涼とし、言葉への耽溺と、頑ななモラルに救いを見いだす。

 目標設定とそれに向けて努力する動機は、羨望・野心にとらわれているか、恐怖にかられているかである。もちろん、実用的なことでは目標設定も追究も有用なことだ。しかし、努力とは、野心であり、やみくもさでもある。理解の排除でもある。
 理解がなければ、混乱が進行する。それを秩序と呼べるだろうか。

 子どもがほんとうにエネルギーと感受性を持っている状態を見れば、競争も努力もいかにちっぽけなものかわかる。
 しかし、官庁のような大組織が教育内容に干渉すれば、教育は目標設定と努力であると捉えられてしまう。教育は、子どもの全体像を見る中で、現場で生まれてこないと、索漠としたものになる。

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イギリスの学力テストによる点数主義

 インデペンデント紙(英国 10月12日)によると、ここ40年間でもっとも綿密なイギリスの小学生の研究が報告され、「子ども時代の喪失」を描き出している。

 「今日の子どもたちは、あまりに早く成長するように強いられている」

 「子どもたちは、政策に基づいて学校が出す要求と、より広い社会からの商業ベースの要求によって、過度な圧力にさらされている」

 「学校では、テストの圧力が強く、カリキュラムは狭く"三つのR"に硬直している。11歳の全国テストに教育が妥協している」

 イギリスはサッチャー政権以降、教育の停滞をなんとかするために、学校に対してナショナルカリキュラムを設定し、さらに数値目標を達成させる方向を取った。その結果は、あまりうまくいっていないと見てよい。

 日本は、進学競争から教育の点数主義化が起こったが、イギリスのように全国学力テストと政府政策によっても教育の点数主義化は起こる。

 イギリス教育のすべてを否定する必要はないが、全国学力テストを軸にして学校に目標を達成させようとすることと、官製の教育水準局を作るのは、日本に持ち込まないほうがいい。結局子どもたちにしわ寄せがいくだろう。
 日本の学校は、イギリスより独立性が低いから、なだれを打って全国の学校が学力テスト対策に特化しかねない。

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不登校は教育改革の道しるべ

 教育改革を本気で考えるなら、不登校をあるがままに捉えるところから始めるのがいちばん良いと思う。ほんとうに、教育の根本的な見直しになるのだ。

 不登校問題の解決を、学校関係者だけに任せてはいけない。文科省も教育委員会も学校も、解決できなかった問題なのだ。

 学校の先生からは、不登校の持つ重大な意味が見えないのである。不登校になるのは、クラスに一人、せいぜいで2,3人である。みながなるわけではない。だから、その少数者に特殊事情があっのだ、という捉え方になる。それぞれの特殊事情をいかに解決して学校に来させるか問題になる。

 しかし、この解決法は個人事情も家庭事情もからみ、至難のことである。だいいち、そのための人員も資金も学校にない。また学校の方の問題点を棚上げにしている。
 これでは、不登校問題が解決しなかったのは当然なのである。

 民間でフリースクールなどやっていた立場からすると、不登校になった子が、学校では萎れたりイガイガだったりしているのが、家庭や他の場所では明るく過ごしているのをたくさん見ることになる。

 学校教育って、いったい何? という疑問が自然に湧いてくる。不登校という現象は、学校教育が何であるかのたいへんよい鏡なのである。
 不登校を、安易に子どものせいにしてもいけないし、学校のせいにしてもいけない。「この子にとってはどのような教育が必要か。そのためには、どのような制度が必要か」そこから考えるべきである。

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マイノリティ保護

 昨年、足を痛めていたので駅の階段がきつかった。しかし、大きな駅にはたいていエレベーターが作ってあって、老人や障害者の便宜を図っていた。有り難いことだった。
 視覚障害者用の配慮もたくさんあった。

 私は戦後のベビーブーム生まれだが、この半世紀で、マイノリティ保護はほんとうに進んだ。これが平和の恩恵なのだと思う。

 でも、教育は取り残されている。
 教育は、いかに目標を達成させるかに特化している。美しい標語と、「がんばれ」の掛け声。

 それぞれの人に取って、最善となるような教育をアレンジすること。基準を達成したかしないか、優秀か優秀でないか、みたいなとらえ方をしないこと。
 そちらの方向へいかないと、教育も発展しないし、社会が逼塞すると思う。

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誰だって競争させられたくない

 すべての都道府県が、今春の全国学力テストの結果を、市町村や学校単位では公表しない方針だという。格差拡大や競争激化を懸念してのことであろう。それでよいと思う。

 競争は、結果しか見ない浅薄な知性を育てる。
 学校同士の競争に巻き込まれないようにしようとするのは、主に教育委員会や、学校関係者であろう。彼らは、競争の弊害を知っている。

 先生たちも、校長たちも、競争させられるのはいやだ。
 だから、生徒のことも考えましょう。同じ人間ではないか。生徒が競争させられていることの弊害に、もっと注意深くなるべきではないか。
 相対評価や順位付けを、教育から追放すべきだ。
 それで教育ができなくなるなら、よほど教育者の質が悪いのだ。

 誰だって、競争させられるのはいやだ。先生が競争させられるのがいやなら、生徒だっていやだ。

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指導的教員の除外はおかしいのでは

 中教審の教員養成部会が、09年度から始まる教員免許更新制で、指導的教員は対象としない案をまとめたそうだ。つまり、校長、教頭、主幹教諭、指導教諭らは、更新講習を免除される。

 あれ? 更新講習は、教員能力の時代に合わせたリニューアルのためにやるのではなかったっけ。そうだとしたら、指導的教員が真っ先に講習を受けなければならないはずだ。学校運営の指導的立場の人が旧態依然で、ヒラ教員ばかりリニューアルされても、しょうがないでしょう。

 事情はこういうことだと思う。免許更新制は、政治サイドからの「ダメ教員はクビを切れ」という掛け声で浮上してきた。ところが中教審は、免許更新制にダメ教員排除の機能なんかないし、金と労力がかかって効果は不明だから、なかなかウンと言わない。
 しかし、中教審は大臣の掛け声には抗しきれなかったのでありましょう、平成18年答申では「時代の進展に応じて、教員の資質能力がリニューアルされるように」という理屈をつけて、免許更新制にオーケーを出した。

 でも、けっきょくは、ヒラ教員にムチを入れるのに使われてる。
 時代についていくためのリニューアルなんて、やはり本気ではなかったのだ。

 こういうふうに、エラいさんの一声で、実情に合っていないことを組織ぐるみで遂行してしまうシステムだから、学校の人たちは、自分の頭で考えると苦しくなってしまうのだと思う。
 上から押しつけた講習の効果などタカが知れている。それより、自主的に講習を受けたい教員に、時間と金を確保してやる仕組みを作ればいいではないか。そのほうがよほど安上がりで、効果も大きいと思う。

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学校と親のトラブル

 健康面でちょっと問題があって、お休みしてました。

 最近、親と教師のトラブルが多くて、追い詰められる教師がたくさん出ている。これに対して最近の親が悪くなったように言われることが多いが、これは、表面的な見方だと思う。学校を巡るトラブルはさまざまで、親の側にも、教師の側にも、ひどい例はたくさんある。教師だから正しい、親だから正しいということはない。どちらが悪いという問題ではなくて、トラブルの解決機能が貧弱なのである。

 昔は、保護者側が一方的に我慢し、泣き寝入りしていたのだ。それが、親の方も黙っていなくなった。それだけのことだ。
 ところが、親が学校運営に関与するための制度も整備されていなし、運営文化も成熟していないから、トラブル続発になってしまうのである。
 けっきょく、我慢している主体が、生徒・保護者から、教師に移っただけのことであって、問題の解決になっていない。

 あまりに大きな原因が見過ごされたいる。学校運営への、保護者・住民の意見反映の正式ルートがないのだ。学校システムは、明治政府や社会主義国と同じ構造になっていて、当局が「私たちが、みなさんの意見をちゃんと聞きますから大丈夫です」と言っている。これでは、けっきょく官の独善運営になってしまう、というのが歴史の知恵ではないか。

 正式ルートがないと、問題があったときになかなか表面化せず、不信や怨恨となって蓄積されている。そこに、「みなさんの意見も聞きます」と言うから、不信と恨みをぶつけられるのである。
 解決は、保護者・住民に運営参加の道を開くことである。そうすると、発言が責任を負ったものになってくる。現在のコミュニティ・スクールは、中途半端なものではあるが、その一歩ではあるだろう。

 保護者・住民の意見反映の道を閉ざしたのは、『地方教育行政の組織および運営に関する法律』(1956)である。この法律のもたらしているものを、検討すべきである。

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