小話 権威主義的な教育をなくす
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電車の向かいの席に、母親と娘がいた。母親は30代、娘は幼稚園くらいに見えた。
日曜の朝で、二人ともよそ行きの服装だ。”お受験”のために、なにか習い事に行く途中のようだった。
娘が、ひざの上に紙を出して、絵を描きはじめた。なにか文字も書いていた。母親がそれを指さして、なにかしらアドバイスした。それが、とても良い感じだった。
何を言っているのか聞こえたわけではないのだが、手の動きといい、語りかけかたといい、根っから優しいのである。娘は素直に母親を信頼して、どこでもついて行っているという感じだった。
あの優しい感じが、あの年齢とよく噛み合っているのだ。私は、点数教育、競争教育に反対なのだが、それよりも子どもとの接し方そのものが大事なのだ。とくに低年齢は、何を教えるかより、どう接するかのほうがはるかに重要だ。
実際に子どもと接していない人たちは、何を教えるかばかり言う。こういう、子どもと接する感触そのものがもっとも大事だというのに、カリキュラムがどうこうとか、書類がどうこうとかで、教育を指揮してしまう。
それにしても、あのお母さん、うまかったなあ。文字で表現するのは非常にむずかしいんだけど。
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憲法記念日にちなんだ話題を。
中学生のとき、社会科の教科書に憲法がのっていたので、授業中に勝手に読んでいました。憲法って、当たり前のことをきちんとを言ってくれる、けっこういいじゃないかと思いました。きっと教育もいいことを言ってくれているのだろうと思って第26条にきたら、絶望しました。
第26条
「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」
権利だって? 義務教育で学校に行かされるのが。
こんな、刑務所に入れられるような目にあって、それが権利だって?
この条文は「すべて国民は、刑務所に入れられる権利がある」と言っているようなものではありませんか。
そうか、美辞麗句で言いくるめてしまうのは、教師の専売特許ではなくて、憲法ぐるみだったのだ。
「学校などに深く関わるものではない」と私は深く感得し、教師とは親密にならず、部活に参加せず、勉強は授業だけで御免蒙り、決して真面目にならず、オチャラけて生きていたのであります。
学校イデオロギーに染まらないでいますと知性が活性化しますので、テストの点数なんぞは勝手にいい点になっていました。
その後研究したら、この憲法第26条はもっと積極的な意味を持っていました。
今では、憲法26条は日本教育の最大の希望なのだと思っています。
教育は権利なのです。誰もが自分に合った教育ができてくるように求めていいのです。お仕着せ教育に甘んじなくて良いのです。
憲法26条に「法律の定めるところにより」とあるから、法律を憲法と思わなければならない、と考えるかもしれませんが、それは間違いです。
憲法は、法律を見張っているのが役目です。はたして法律が正しいかどうか判断する基準が、憲法なのです。「法律の定めるところにより」は、詳しいことはちゃんと法律を作って運営しなさい、の意味です。
戦前は、教育は国民の義務の一つでした。
それを、この憲法26条は180度ひっくり返して、教育を権利としました。これは、ものすごく重要なことだったのです。
繰り返して言いますが、誰もが自分に合った教育ができてくるように求めていいということを、憲法が保障しているのです。
でも、そのことは、当時理解されませんでした。今も理解されていません。教育を請求する権利を具体化した法律がないので、「教育を受ける権利」は宝の持ち腐れになっています。
教育の法律では、憲法第26条だけが突出していたのでした。
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自信を持っている子供がいる。自分が感じたこと、思ったことを素直に表現できる。おびえ、遅疑逡巡が少ない。やりたいことがどんどん湧いてきて、さっとそれに取り組む。
こういう子供達を見ればわかるはずだ。彼らは「頑張ろう」などとは思っていない。「自信を持って取り組もう」とは考えていない。ようするに、余計なことは考えていないのである。絵を描きたいから描いているのであり、木に登りたいから登っているのである。「創造的であろう」などとは決して考えていない。
自信の源は、自分の身体にある。言葉ではない。
意欲は、身体から湧いてくる。
意欲のもとは、さまざまな身体の感覚に対してウソをつかないことである。だるいとき、つまらないときにゴロゴロしていることができなければ、おもしろがって算数に取り組むこともできない。
「~しなければならない」で自分をコントロールしようとするほどに、身体の感覚からは切り離される。
感覚から切り離されると、人間は他人の言葉にこづきまわされて生きるようになる。あるいは、自分の固定観念にとりすがって生きるようになる。子どもでも大人でもそうだ。
幼稚園でも学校でも、とにかく並ばせ、行進させ、机に座らせる。ようするに、自分の身体の感覚に対して無知にさせる。あれはいけない。後年に、権威に弱く、自分の身体をひきずって生きていることへの下地を作っている。
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今日、政治施策の良否は選挙によって決められます。政治家がどう思ったかでは決まりません。
今日、財やサービスの良否は、消費者が価値を決めます。生産者がどう思ったかでは決まりません。
しかし、教育には、行われた教育が価値あるものであったかどうか、教育された側が判断する、という原則がありません。
これが、教育を独善的なものにしています。
生徒と保護者の運営参加が必要です。
生徒と保護者の運営参加は、未熟な生徒や保護者によって引っかき回されるからダメだという議論は、民主主義を怖れた王侯貴族が「民衆は愚かだから参加させてはダメだ」と言っていたのと同じです。それは、生徒と保護者は良識ある者たちが多数派であるという事実を忘れています。現在、生徒や保護者に権利を保障しないまま、バラバラに言わせる自由だけ認めているから、引っかき回されてしまうのです。
運営参加だけでは足りません。学校を作る自由と、教育内容を作る自由と、学校を選ぶ自由が必要です。学校を作る自由なしに教育をよくしろというのは、企業を作る自由なしに経済を発展させろというのと同じです。公立学校を逃げ出す自由がなければ、生徒は教師の無能や横暴、生徒同士のいじめの餌食にされてしまいます。
教育の自由は民主主義のバロメーターです。
その際に営利主義がはびこる恐れは確かにあります。しかしこれに対応するのは、技術的に可能です。営利的運営の規制と財政補助によってコントロールできます。西欧諸国で実現しています。
学校設置を自由化すると学力資本主義のようなものに教育が席巻されてしまう危険も確かにあります。入試競争は長らく大問題で、日本の教育のガンです。これに対して小手先の対応では無理で、大学入試を廃止して入学資格化することが必要です。そしてオルタナティブ系の教育を認めて、価値観を多様化する必要があります。
どちらも、実現している国がいくつもありますので、夢物語ではありません。
学校は、自由な精神生活を営む教師たちの協同組織であるべきです。
そして、学校は生徒と保護者の自由な選択に任されるべきです。
現在の官庁をモデルにした官僚組織を基盤とした学校では、権威支配と慣習支配がたくさん発生してしまいます。
いっぽう、学校を営利に基づかせるならば、学校はもっと生徒を集めることと経費を削減することに気をとられ、生徒を手段とみなしやすくなります。
権力や固定観念に支配されていない教師たちのみが、自由で明晰な教育をすることができます。これは、数学ができる人間でないと数学を教えられないことと同じです。
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大人でも子どもでもそうだが、逃げてばかりいる思考、融通の利かない思考、聞きかじりの結論ばかり蓄積している思考は、恐怖に対する条件反射である。
自分を観察すればわかる。生徒を観察していてもわかる。ただし、言葉での結論なしに、直接に知覚する必要がある。
恐怖自体はモヤモヤとした、身体全体で感じる身体感覚である。言葉ではない。そのモヤモヤを一瞬感じ取ると、たちまち、さまざまな条件反射が起こる。これは、あまりに素早く起こる条件反射なので、恐怖によって引き起こされたことが非常にわかりにくい。
話をそらせる。
りっぱなことをしゃべりはじめる。
お決まりの楽しいことを思い出す。
何かをいじりはじめる。
お決まりの解決方法を思い出す。
そのようなことが起こる。
これは、恐怖自体を感じないですむように、気持ちが楽になることを記憶の中から呼び出しているものである。自動反応となっている。
これが、生徒が授業に集中しない原因である。原因は他にもいろいろあるが、もっとも大きなものの一つだと思う。
これはまた、大人同士のコミュニケーションがうまくいかない大きな原因の一つだと思う。大人は、恐怖の引き金が引かれると、たいていは一方的にしゃべりまくって、相手の存在が見えなくなる。
小学校にあがる頃には、多くの子どもが恐怖を抱え込み、たくさんの条件反射で反応している。教育困難と呼ばれる子供たちのかなりがこれだと思う。
教育にできることは、この条件反射を解きほぐしてやることである。親切に暖かく、かつ逸脱をたしなめて、物事そのものを見るよう援助することである。おきまりの恐怖の回路にはまりこみそうなときに、ちょっと手をさしのべることである。恐怖からやることは、上の空であり、型にはまっている。しかし、その型に落ち込まずに、物事を意識的に好感をもって行うと、条件反射回路が消えて、自由意思が使いこなす道具の一つになる。
それが教育のすべてということではない。しかし、大事な一部である。
同じようなことをしているようでも、これを厳しく、批判的に、逸脱に罰を与えて止めるようにすると、逆効果になる。そのつらさを逃れようとして新しい条件反射ができるのである。
教育にとって、知性と暖かさがどれほど重要であることか。
子どもが、木登りをして落ちても大丈夫と感じていることが、大事なのだ。
「何歳までにかくかくができるようになること。脅しても辱めても競争させてもかまわない」
これが、逃避的で、頑なで、無力な知性をたくさん産み出してしまう。
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教育ではたくさんの美辞麗句が言われるけれど、美しい目標が言われるほどに、どうも疑ってみたくなる。
ようするに、義務教育学校というのは遊びたい盛りの子どもを強制的に座らせて、雇われ教師に出来合いのテキストを使わせ、読み書き計算を訓練するように作られているのであって、それ以上のことを期待するからおかしくなるんじゃないかと思う。
そんな身もフタもないようなことを言うな、われわれはもっと高尚なことをしている、と文科省から現場の先生までおっしゃると思うのだけれど、高尚なことをしている気になっているのが、間違いの元ではないかと思う。
学校が高尚でないことは制度化されていて、「無理に座らせて」、というのが学校教育法の就学義務であり、雇われ教師の規定が地方公務員法と地教行法、「出来合いのテキスト」が教科書検定制度、「読み書き計算を訓練」というのが学習指導要領と学力調査。
ようするに、国が学校をマニュアル運営する仕組みを、法律で強制しているのである。
そうするとどうしても学校がただの訓練場になる方向へと動く。それをなんとかしようとして、美辞麗句と努力目標をたくさん出しては、「教師たちの自覚が足りない、親が協力的でない」と嘆く。
現場には、子どものことがよく見えていて最善を為している先生たちもいるから、そういう人たちにはまことに申し訳ないと思うのだけれど、学校の現実は、地位役職と慣習と利害で動く無慈悲なところである。
教育そのものはもっと広いものであって、人間の発達すべてにかかわることだけど、それを現在の学校の中に盛り込んで、あれもこれもと欲張るから、子どもがハジけるか、先生がハジけるかのどちらかが起こってしまう。
教育は、もっと自由な文化活動として構成することができるのに。
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教育の成果は、点数ではない。
教育の成果は、生徒の人格がどのように変化したかであり、それは誰にでもわかるものである。より考え深くなったとか、人を信用するようになったとかならなかったとか、その生徒に直接に接する者には、明らかにわかるものである。
しかし、そのような成果は、顧みられない。
教育の成果は点数化された学力がもっとも大きな意味を持つ。
それには、そうなるだけの現実がある。その生徒を知らない人に、「情実は入れていません」というデータを渡すことが、学校と教師にとっての至上命令なのだ。
・ 内申と入学試験 進学に必要な学力は、数値化して渡さなければならない
・ 学力テスト 数値化して、生徒同士、学校同士を比較する
・ 指導要録の記載、 通知表の記載
その情報は客観的でなければならない。その情報に教師の主観が入ってはいけない。その情報に身内びいきが入ってはいけない。
しかし、教育は人格同士の関係であり、教師の個人的な判断や評価しかできなくて当たり前なのである。
教師が高度な専門職であるならば、教師の「所見」がもっとも価値あるものと見なされるであろう。
それは、医師の「所見」が、検査データよりはるかに重要であることと同じである。
ようするに、教育が、官庁と上級学校に牛耳られてしまっていて、教師よりデータのほうが信用されるのである。
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戦後の日本教育にとって、もっとも致命的だったのは自民党・文部省 vs 教職員組合の対立だった。典型的な55年体制ができた。まだ続いている。
どちらが良いとか悪いとかいう話は、ここでは論じないことにしよう。
現在何が問題であり、これからどうするかに話を絞ろう。問題は
・ 組織構成が、教員不信に基づいて作られている。
・ 学校運営が、官庁をモデルにしている。
ことなのである。もっと、感覚的にわかる出来事に置き換えると
学校が杓子定規に運営されている。
上意下達の組織を利用して、無能管理職が威張る。
問題教師が、教員組合をタテにとって居直る。
学校内での不満、学校への不満は、この三点が大きいのではないだろうか。
そうすると、だから管理職を強くしろとか、教員を強くしろとか、民間企業の真似をしろとか、地域と結びつけというようなことが言われる。それらは、現状維持を前提の小手先の手段である。どれも、少数の成功例は出てくるだろうが、現状に制約されてしまうことのほうが多いであろう。
学校の本質は、自治にある。
子どもが大きくなってきて、親だけでは育てきれなくなったから、他人に教育を委任する。それが教育の本質である。子どもが大きかったら、子どもが自己教育を他人に委任している。
自治とは、親と教師たちで学校を作り運営していくことである。中学生くらいの年齢からは、生徒の参加も必要である。ここに基づかないと、教育は結局、お仕着せ教育になってしまうのだと思う。
明治以来の官製教育では、これからの時代を乗り切るのは無理だと思う。
いまの、文科省、教育委員会、自治体、学校の関係を解きほぐして、一から構成しなおすべきである。ただし一気にやると、担いきれずに大混乱が起こるであろう。新しいタイプの学校を認めて、現在の学校と平行して育つようにするのがよいと思う。
学校に営利原則を認めて競争を刺激することはしないほうがいいと思う。それについては、また論じたい。
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学校、とくに義務教育学校がもっとも重要な教育目的としているのは、
「どんなことがあっても学校に来ること」
違いますか?
不登校が増えてから、「ただし、特別な場合はやむを得ない」となったけれど、他の道を作ってあげたわけではなくて、「可能なかぎり学校に来ること」になっただけ。
終身雇用制の時代に、世の中で生きていけるということは、どんなつらいことがあっても忍耐できることだった。
すぐ会社が嫌になってやめてしまう生徒は社会で生きていけないだろう。
そのための訓練を子どものときからしなければならない。
いまでも、この基本は変わっていないと思う。とくに中学である。
学校でいじめがはびこっても、教師が暴力を振るったり暴言を吐いたりしても、授業がつまらなくても、それは忍耐力が高めるために有意義なことなのである。
表面には現れないが、この教育哲学が教育をむしばんでいる。
それで、学校に絶望した人たちが、たくさん生まれたのだと思う。
学校は巨大な官僚機構の末端に位置していて、書類が整備され、努力目標を掲げて「努力します」と言えば、なんとかなってしまうところである。
保護者の運営参加権と、生徒の意見表明権を法制化していなから、自浄作用が弱い。
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教育制度を論じるつもりのブログなのだが、いささかの脱線をお許しいただきたい。時代が大変化の入り口に来ている。思想の潮流を読み取りたい。
最近、村上春樹の「海辺のカフカ」を読んだ。びっくりした。村上春樹は、よい作家だがマイナーな作家だと思っていたら、ずいぶんと変貌していた。
村上春樹という、深層意識に向けられたレーダーが、死と美意識の物語から、生きることを引き受ける物語へと方向を変えていた。そのことに驚いたのだった。日本の人々の深層に、これからの社会変革を担おうとする流れがあるのだろう。
「千と千尋の神隠し」を見たときに同じことを感じた。ここにも、われわれは浄化され再生することが可能だというメッセージが流れていた。
「ノルウェーの森」を読んだとき、村上春樹ってすごい才能だと思った。でも、しょせんは日本の作家だと思った。ドラマがあるはずのところを、美意識で覆ってしまうのである。
とにかく、あの美しくて、はかない女性が自殺をするというストーリーが、食い足りなかった。あの女性はなぜ自殺するのか、という探求がなければ、この作品は何百ページを費やそうが一編の抒情詩である。よい叙情詩ではあるが。
「ねじまき鳥クロニクル」を読んだとき、村上春樹って、けっこう大きな作家だと思った。「ねじまき鳥クロニクル」は、日本の底流に流れている暴力的なものを取り上げようとしていた。そうなんだ、これを取り上げてくれる作家を待っていたのだ、と思った。でもけっきょく食い足りなかった。暴力的なものは、「すごく悪いものが存在する」という形でしか表現されていない。それでは、資本主義の悪魔を信じたり、共産主義の悪魔を信じたりすることと大差がないのだ。
ところが「海辺のカフカ」では、美しくはかない少女は生き続け、生き続けたことの責任を引き受ける。暴力的なものに対しては、ナカタさんという非暴力の具現であるようなキャラクターが登場する。「海辺のカフカ」のあちこちに、われわれは閉じた回路から脱出できる、というメッセージが出ている。
これと正反対の印象を持ったのが、アメリカ映画の「マトリクス」だった。
「マトリクス」の主人公は、なにが現実であるか見抜くところまでは行く。華麗な世界は脳に注入された幻想に過ぎず、われわれはほんとうは管理されたみすぼらしい現実の中に生きているのだと。
もし、建国精神が生きているアメリカだったら、幻想世界を打ち破り、みすぼらしい現実の中で丸木小屋生活から新世界建設をはじめるストーリーになるだろう。ところが「マトリクス」では、主人公はまた幻影世界にもどってしまう。幻影世界の中の悪と戦い始めるのである。
ほんとうは貧富の差の拡大や財政赤字問題に真剣に取り組むしかないはずのアメリカが、「正義のアメリカと悪のイスラム」の図式にはまりこんでアフガンやイラクで戦争を始めてしまうことと、ぴったり一致するのだ。
たかが小説、たかが映画というなかれ。
ヒットする作品は、時代の気分、思考回路を、よく映し出しているものなのだ。それは、イメージで表現された思想潮流なのである。
「海辺のカフカ」はものすごくたくさんのものを重層させている。ちょっとやそっとでは、この小説のことを説明できないようにという仕掛けだ。このこと自体が、「世界を理屈で説明しようとする人たちは、それだけで間違いを犯しているのではないのか」という問いかけなのだ。
この作品の借景になっているフランツ・カフカの作品世界が、この「説明できなさ性」を芸術にまで高めたようなものなのである。
だから作品全体は「こういうことをいいたいのだ」と論評しないほうがいいと思う。しかし、その中のサブ・ストーリーをいくつか取り出してもよいだろう。
こういうタイプの作品では、メイン・ストーリーは現実離れした別世界を構築するのが役目で、それによって読み手のステレオタイプの説明機能を停止させる。その間に、サブ・ストーリーが、読み手の感受性に対して直接に語りかけていくのである。「千と千尋」とまったく同じ手法である。
「海辺のカフカ」は、ギリシャ悲劇の「オイディプス王」を下敷きにしている。
オイディプス王というと、フロイトのオイディプス・コンプレックスが有名だ。しかし、私はフロイトの解釈は狭いと思う。ギリシャ悲劇の「オイディプス王」はもっとスケールが大きい。それは、真実探求と自己認識の物語だ。ある王が、自分の国に災厄が続くのはなぜかと問いかける。するとその原因は自分自身の穢れだということがわかる。彼は、自分の父を殺し、母と交わっていたのだった。オイディプス王は自分の目を突き潰し、王位を捨てて流浪の旅に出る。
悲劇が好まれる社会は健全である。問題に直面し、自己認識を深め、喪失感を涙で洗い流そうとしているのである。
「海辺のカフカ」では、息子田村カフカと母佐伯さんと父ジョニー・ウォーカーのストーリーが、ギリシャ悲劇を構成している。父殺しがあり、母子相姦がある。あらすじを抽出すれば、父は喪失感を引き受けずに息子に埋め込んで破滅し、母は子を置き去りにした責任を取って贖罪し、息子は母を許して現実へと踏み出す。
自分を捨てた母に対して荒れ狂うものに、解決の光が与えられている。これは、古事記でのスサノオの暴力事件の昔から、日本の精神土壌に流れているものだと思う。
そして、明治以来の日本の父的権力の問題がある。それは、軍国主義の過ちを内面化せずに責任転嫁し続けた。この父的権力は否定されなければならないが、それを直接に行えばオイディプス・コンプレックスに落ち込む。しかしこの父親殺しにあたって、非暴力の化身のようなナカタさんが実行犯を引き受けてカフカ少年を救う。そして、自らもまた殺人の責任を引き受けるのである。これによって、果てしなく続く父殺しの円環を断ち切ることが可能になった。
オイディプス王が下敷きになっているが、「海辺のカフカ」に読み取れる悲劇は、まったく新しい。村上春樹は、深層心理のDNAの書き換えをやっているのだと思った。あるいは、変化しつつあるDNAを感じ取って、表現したのかもしれない。
とくに、ナカタさんというキャラクターが現れたことの意味は、とてつもなく大きい。
なにか、時代の深層に新しいことが起こっているように思う。「海辺のカフカ」が刊行されたのが2002年である。国家主義回帰と新自由主義はなやかなりし時に、われわれを身動きできなくさせているものを見据える作業が、実り多い答を探りあてていた。
作品の細かいところに不満はたくさんある。
「海辺のカフカ」の主人公は15歳の少年だ。ところがこの15歳は、さめた観察眼と定まった意志と、豊富なボキャブラリーと、洗練された趣味を持っている。こんなことはありえない。15歳はもっと衝動的だし、揺らぎやすく、洗練されていないものだ。まるで40歳台の女優が15歳から70歳までの女の一生を演じようとしているときの15歳の娘に見える。名優の名演技ではあるが、やはり無理が目だってしまうのである。それと同じだ。
「海辺のカフカ」は、想像力で飛翔することが持ち味の小説なのだから、それは大きな問題ではない。しかし、こういう作品は細部でのリアリズムを保つことがとても大事なのだ。15歳をこのように描いてはいけない。これでは、主人公は40歳だ。
こんなことを書いていたら、昨日村上春樹が「エルサレム賞」の受賞の場で、イスラエルのガザ攻撃を批判したというニュースが伝わった。たしかにこの人は、戦争の罪悪をしたたかに見据えることのできる人である。
しかし、この人を、平和主義の使徒に見立てようとしないほうがいいだろう。「~に賛成か反対か」、というようなマルバツ思考そのものに醒めていることが、村上春樹の作品が伝えようとしているもっとも重要なメッセージなのだと思う。
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ここ3ヶ月ばかり、経済の勉強ばかりしていた。いま世界でなにが起こっているのか知りたかった。これからどうなるのか知りたかった。
いろんな数字を見ると、ちょっとすごいことになりそう。国家破産して大インフレになる国が相次ぐだろう。
影響は経済だけにとどまらず、新しい社会モデルの模索にまで行かざるを得ない。
「新しい社会を作らなければならない」ということは、誰もが切実に感じることになるだろう。
充実した教育は、社会のすべてを支える根幹である。教育の点数主義と進学競争依存を断ち切らないといけない。どんぐりの背比べをしていてもしょうがない。
明治以来の官営教育を、人間本位の教育に切り替えないといけない。学力注入型から、一人ひとりが人間として発達することの保障へと変換しないといけない。
そのチャンスがやってくる時代にもなると思う。
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病気になったとき、医療保険制度がカバーしてくれているのはありがたいことだ。医療費が心配で医者にかかれないというのは、悲惨だ。
失業したら、失業保険がある。
生活に困窮したら生活保護がある。
年をとったら、年金がある。
ところが、教育では、困ったことが起きたとき、カバーしてくれるセーフティネットがほとんど作ってない。現状の学校がなんでもこなせることになっている。
こどもが不登校になったとき、「学校と合わないことはどうしてもあります。これでなんとか専門家を手配してください」と、不登校保険が出るだろうか。
学校でわが子が落ちこぼれたとき、ダメな子よばわりされず、たちまち専門家が見てくれて、その子だけに効く教育方法の処方箋が出され、いろんな分野のスペシャリストたちが最善を尽くしてくれる、ということはない。
深刻ないじめの場合、子どもは「人に言うな」と洗脳されているものである。それでも子どもを助けられるだけの、高度な知識と技術が必要だ。できうる限りのことをすべきだ。学校内にも、学校外にも専門家が必要だ。いじめ事件の手口と対策を周知した専門家チームも教育委員会内に必要である。
現在のいじめに対する対策では、火災に対して消防署を作ってないのと同じようなものだ。死者が出続けている。
家庭が貧しくて進学できないというのは、実際に起こっている。現在の奨学金制度は貸与が中心である。貸与の奨学金は、借りるほうも遠慮しがちだし、返済できない問題も生じる。高等教育まで無償である国は、いくつもあるというのに。
「それは無理だ」というのは、今の人員と予算では無理だというだけではないのか。
ほんとうは、なんとかする知識や技術は世の中に存在しているのではないのか。
困った人のいるところに、知識と技術の許すかぎりのことをし、必要な人員は手配し、金はかけていく。それが社会の発展であり、教育の発展というものである。社会の他の分野はそうやって発展してきた。
教育の発展は、経済を活性化させるためにも、役に立つのである。教育の質を高めるために金をつぎ込むことは、決して、経済のお荷物ではない。
一通りの産業発展を遂げた国では、医療、福祉、教育、環境などを発展させていくことが、経済発展なのである。それをやらないから、行き場所のない資金があふれて、バブルや金融危機を起こすのである。
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経済・社会が大激動の時代に入ったと思う。このままいくと、不景気・財政難→教育水準低下が起こり、それがまた社会不安の元になるという悪循環になりかねない。特に、高等教育が大打撃を受けるだろう。
しかし、教育によって新しい経済局面を切り拓いていくこともできる。
ソニーの出井元会長が、昨年暮れにロイターのインタビューに答えて、おもしろいことを言っていた。
「規模の大きいことが良いことという20世紀の常識は崩れ、もはや日本は業態転換をしなくては生き残れない。中国が最新設備を使って低賃金でモノを作れる時代に、日本のメーカーが今さら国内工場で生産するのは理屈に合わない。
...例えばその患者にしか効かない医薬品など、これからは大量生産型ではなく、テーラーメイド型の産業が有望だろう」
教育にそのまま言えることだと思った。
「その生徒にしか効かない教育方法」
これが、切実に必要とされている。多くの親がそれをどれほど望んでいることか。
我々の教育は、一斉授業を行い、試験で生徒の品質を確認し、卒業証書というレッテルを貼って送り出す構造になっている。これは、工場の大量生産を模倣した教育方法である。教育そのものに内在する理由から、そうしているわけではない。
特に学力が中低位の子供達に合った教育法の開発がどうしても必要である。現実問題として、現在の教授方法は彼らに合っていない。かれらは無能とみなされたりせきたてられたりする。あるいは失望され見放されてしまう。それでいっそう無能になる。この悪循環をやっている。
欧米、とくにヨーロッパ諸国では、すでに個別教育がそうとうに開発されている。これは、マンツーマン教育ということではなく、授業の在り方、教科書のしくみ、評価の仕方などから根本的に違っているシステムである。1クラス規模が20~30人くらいでもできる個別教育なのである。
オルタナティブ教育まで目を向ければ、シュタイナー教育、モンテッソーリ教育、イエナプラン教育など、はっとさせるようなものをたくさん持っている。これらは落ちこぼしを作らないことで定評がある。これらはみな、個性尊重型教育だが、日本人がイメージするような少人数教育やマンツーマン教育ではない。
工夫のしどころはいくらでもあるのだ。
教育は「この子の成長には何が必要か」から出発しないといけない。そのために手を尽くさないといけない。
集団授業には集団授業のよさがある。しかし、欠点もたくさんある。いくらでも柔軟な組み合わせを考えればいい。
それには、現在のクラス制度では無理だというなら別な仕組みを作ればいい。
教師の数がもっと必要だというなら増やせばいい。
教師だけでは無理なことがたくさんある。心理・医療・教育の専門家のバックアップがもっと必要だ。どんどん専門家たちを育てればいい。
別なタイプの教材が必要である。自由になんでも作ればいい。教科書検定制度など廃止すべきである。
日本教育の最良の部分は、いい授業を作り出している。モノ作りでもそうだが、日本の教育は、たいへんなキメの細かさを持っている。日本社会は、人に対する敏感さを持っている。教育大発展を起こすための土壌としては、たいへんに恵まれている。
あんなに子どもの心を掴むことのできるマンガやアニメを生み出した日本文化である。本気になってやれば、子どもの心を掴む教育を創り出すことができるだろう。もっともクリエイティブな才能が教育に流れ込んでくるように、教育方法の自由と教材の自由を確保すべきだ。世界が真似したがるような教育を作り出せるとおもう。
お役所と教師達が、落ちこぼしを出しても平気な顔をしていられないように、一人ひとりの「教育への権利」をきちんと国内法制に反映させるべきだ。法律の条文だけで、教育発展を促すのに大きな効果がある。権利保障があると、お役所だって、落ちこぼれる生徒のための手厚いセーフティネットを作る予算が堂々と取れるではないか。これだけでも、人々に大きな安心感を生み出す。
そうやって、教育に資金と労力が集まってくる。新たな雇用が生まれる。関連の、教育サポート機関や、教材開発産業などが育ってくる。それが経済発展というものである。
「どの子も尊重される。どの子も伸ばす」を掲げて、教育大発展をやるべきだ。
教育だけではない、福祉でも同じことができる。日本の産業構造で、教育や福祉ほどの潜在的成長力を持っているところがあるだろうか。自動車は飽和している、家電は飽和している。それをさらに宣伝で売り込んでも、タカは知れている。そうではない、人々がほんとうに必要としている分野が、成長分野なのである。
まして教育は将来に有形無形の見返りが大きい。これほど、お金の有効な使いどころはない。
教育も福祉も、営利的には運営されていない。だから、多くの人が経済ではないと思って見落としている。しかし、教育や福祉で、経済発展を起こすことが可能なのである。教育や福祉も立派な経済の一分野だ。そこに、雇用と金の流れがあるではないか。人々が益するものを生み出しているではないか。教育は、経済発展の原動力になれるのである。
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明けましておめでとうございます。本年もよろしく。
「強欲資本主義ウォール街の自滅」(神谷秀樹)という本を読んでいた。アメリカの銀行やファンドが、いかにアコギなことをしているか書いてあった。なるほど、アメリカの金融資本主義が破綻するのは当然と納得できた。
その中で、目先の結果を出そうとする経営の愚かさあった。「株主のために」と言って、コストカットばかりに目をつけて、時間をかけた投資や、信頼作りをしない。経営者は莫大なボーナスをもらう。しかし、数年後には、かならず大きなツケがその会社に跳ね返ってくる。
教育でも、けっきょくは有形の結果を出すために、なんでもしてしまう。生徒に優劣を付けたり、競争させたり、有形無形の脅しをかけたり。でもそれは、「株主のためにやむをえない」と言っている経営者と同じではないか。
小学校ならふつうは中学ほどには点数を追わないが、やはり特有の問題がある。いまの教育方法は頑張らせすぎだ。なにかを達成させようとしすぎる。あれでは、自分自身と調和できない自我ができやすい。
そもそも幼児教育のところで、何かがおかしくなっている。子どもが、自分の肉体と感受性に十分に根付けなくなっている。だから、学校にとっては、アコギな手段に手を染めて授業に参加させるか、教育することを放棄するかの二者択一になってしまう。
家庭も、「この子の将来」と「世間体」に気を取られて、どうしても結果を詰め込むことを学校に期待する。
知識の詰め込みはまだよい。社会性の詰め込みの弊害は大きい。結果を強制しているだけだから、社会的行動が型にはまったものになるし、内面で苦痛を伴う。大人になってからの社会生活が苦痛なものになる。落ちこぼしもたくさん出る。あまり急成長させようとすると、必ず弊害が出るものだ。
道徳の詰め込みにいたっては、発狂していると思う。言葉になったものは規律であって、すでに道徳ではない。
これらは、劣悪な教育なのだ。質の悪い教育なのだ。目先の結果を追って、かえって損している教育なのだ。
こんな劣悪な教育の中で、生徒同士や学校同士を比べていたって、しょうがないじゃないですか。ほんとうに質の高い教育をみんなで目指すべきです。生徒の誰もが、安心して物事に取り組むことができ、自分が大事にされ羽ばたくことができたと感じる教育、それが質の高い教育です。
そういうことを直感していたから、教育に手を染めた。
教育の向上を、方法やモラルの問題としてだけ対処していたら、いつまでも解決しない。根っこに、制度問題があることに、多くの人が気づいていない。教育の官僚統制と受験教育の二つがガンなのだ。まずは、自由に試行錯誤ができる仕組みを作らないといけない。
それを言いたくて、法律の勉強にまで手を染め、何度も海外に足を運び、本も書いたのだった。
それを、思いだした。どうも、自分が細かいことばかり書いていると思った。
時代が激動期を迎えている。少し初心に返ろうと思っている。
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こんな記事を目にした。日本の教育システムは重病だなと思う。
「教員が授業に集中できる体制を 増大する業務を効率化せよ」(教育新聞08年12月22日)
中教審初等中等教育分科会の「学校・教職員の在り方及び....作業部会」は、...学校の業務負担について議論を交わすとともに、その方策として
①多様な業務を推進するには、学校全体で組織として遂行する
②教員が授業に集中できるよう、それ以外の業務は専門人材や地域人材を活用する
③業務の効率化と削減に努める
──などをあげ、今後の議論を深めていくことになった。
学校はたいへんな重病である。雑務が病気ということではない。雑務が多くて困るという問題を、自力解決できないほどの重病なのである。
なぜ、雑務が多いくらいの問題が、中教審で議論するテーマになるのか。現場で解決できないのか。中教審から処方箋が出るまで待っているようなテーマなのか。
困っているのは、学校現場の人たちのはずである。忙しくて困っている、雑用が多くて困っている。
その人たちからなぜ声が上がらないのか。なぜ、現場で解決できない問題なのか。別に、法令がからむ問題ではない、それぞれの教育委員会や学校の運営体制の問題である。
しかし、これが中教審の議論になるのである。それが現実である。
教育が地方分権化されているなんて、建前である。学校の自主性なんて、ただのきれいごとである。実質は、学校はどっぷりとお役所仕事に漬かっている国営事業みたいなものである。こんなことにまで、文科省(中教審)が乗り出してくるのだ。
実際は、指導要領を初めとして、「学校はこうすべし、ああすべし」を文科省=中教審がたくさん出している。学校は、すっかり上からの指示に依存する体質ができている。だから、それを解決してやるのにも、文科省=中教審が乗り出さなければならない。
文科省(中教審)─教育委員会─学校という官僚ピラミッド体制が、学校の自主性を奪っているのだ。学校は上から降りてくる雑務を断れず、法令と前例と上司の顔色で動き続けるのである。この官僚体制そのものがなぜ、問題にならないのか。
文科省(中教審)のおせっかい、学校のお役所体質、それが学校不活性の原因なのだ。
学校の業務を問い直すより、文科省と中教審の業務を問い直したほうよい。
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教員免許更新制は、なんでこんな無益な制度を作ってしまったのか不思議に思う。こういうものができる経緯を追ってみると、味わいがある。
免許問題にかぎらず、馬鹿げた政策ができてくる大きな原因は、日本の教育システムに自律的問題解決能力が乏しいために、苛立った人たちのイデオロギー攻撃やモンスター攻撃のターゲットにされて、妥協案を余儀なくされることだと思う。どこにも悪人はいないのだけれど、システムが悪いとこうなってしまう。どなたもお気の毒にと思う。
1 免許更新制が言われる表向きの理由は、教員の質の向上である。しかし本音のところは、「不適格教員をクビにできる方策がほしい」と「ぐうたら教員に更新めざして努力研鑽させたい」である。長らく、この本音は自民党にくすぶっていた。文科省は乗り気でなかった。
2 免許更新制がはじめて具体化に踏み出したのは、教育改革国民会議提言(2000年12月)に、「免許更新制の可能性を検討する」が盛り込まれたときである。議事録には議論らしい議論がないのに提言に盛られている。裏でなんらかの政治的な画策があったのではないか。
これを受けて免許更新制が中教審に諮問されるが、答申(2002年2月)は否定的だった。この答申は穏当なもので、免許制一般に更新がないことと比較し、教員免許だけを特別扱いする理由がないとした。
3 2004年9月に就任した中山成彬文相は、学校に競争原理を導入することに熱心であり、「中山プラン」の一つとして、学力テストなどとともに免許更新制を推進する。10月に免許更新制を中教審に諮問する。この諮問は、「具体策をお願いしたい」と、ほとんど誘導尋問である。中山文相は、その後失脚した経緯でも明らかなように、ただの原理主義者である。
4 この諮問に対して中教審は、それまでの答申の顔を立てつつ、「資質能力の保持のための刷新(リニューアル)」という新しい論理を持ち出して大臣の顔を立てた。
これは明らかに、政治的状況に屈した妥協案である。この言葉ならどこの顔も立つことは理解できる。しかし、内容がない。資質刷新できるだけの講習が存在するかどうかもわからないし、なぜ研修制度の拡充ではなくて免許更新制にしなければならないのかも考えていない。
とにかく、この答申で免許更新制への地ならしはできた。
5 2006年12月に、安倍内閣は改正教育基本法を成立させた。それを受けて安倍内閣は教育再生会議の教育改革案を推進する。その目玉商品の一つが教員免許更新制の導入であった。教育再生会議は、実績評価を含めて講習の修了判定を厳格にすることを求めていた。
6 政治スケジュールがとにかくあわただしい。改正教育基本法の成立が12月。教育再生会議第一次答申が07年1月。安倍内閣は、通常国会でこの答申を実現しなければ、教育改革を謳ったメンツが潰れる。2月に教育3法をまとめて中教審に諮問し、一カ月で答を出せと言う。中教審は無理して3月に答申を出す。それを受けて、文科省が法案を作り、国会に上程。6月末に、教育3法はまとめて成立。
7 1年くらい時間があって、実務者レベルに話を落として検討していたら、「この免許更新制は、ほとんど意味がない」という答は出てきたと思うが、その時間はなかった。
8 このとき、文教政策は二重権力構造である。内閣直属の教育再生会議と文科省。暴走する教育再生会議に対し、文科省は中教審路線で対抗する。両者の駆け引きのはざまで、冷静な実務的検討がなされなかった。
9 国会や世論は、教員免許更新制を「これで、ダメ教員を追い出せる」と思い込んでいた。その効果がないことは文科省は承知していて、講習を受けさせるための免許更新へと換骨奪胎することに懸命だった。
そのため、資質リニューアル免許更新制そのものの検討がお留守になった。「そんなけっこうな講習が存在するのか」や「それは研修制度の問題であって、免許と関係ないだろう」などの検討は、不問に付されてしまった。
こういう経過を眺めていると、教育の中央集権構造そのものに疑問を感じるのである。
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当ブログの中でもアクセス数の多い、「教員免許更新制の問題点」(08年3月11日初出)を更新しました。論旨に変化はありませんが、筋道を明確にし、より詳細に論じています。
つけ加えた主な点をいくつか引用します。
「冷静に考えてみよう。講習を受けさせるために免許更新をからめる必要があるのだろうか。教員の資質向上のために講習が必要だというなら、現在の初任者研修や10年研修を拡大して10年ごと研修にすればそれでいいことである。」
「教員を配置転換したりクビにできる制度がすでにあるのに、さらに免許の問題まで持ち出す必要はないのである。」
「『教員に免許更新と連動した講習を受けさせ、日本の教育を向上させよう』とはじめから主張した人間などいない。複雑な政治劇で取引が起こり、そう決まってしまっただけのことである。」
今回の教員免許更新制は、日本の教育システムの最大の問題点を浮き彫りにしている。それは、中央の勢力間での妥協で政策が決まり、素晴らしいと思っている人間など誰もいない施策が生まれてくることである。いったん決まれば、意味を不問にして巨大公務員僚組織を上げて実行する。
公務員たちは、自分にとっては変えようのないことだから、制度の中でせめてものことをしようとする。また、いったん実行してしまうと、それが無意味だとは思いたくない。なんだかんだと意味付けをしたりデータを集めれば、素晴らしいことをしていると思えてくる。
講習の出席者は、受ける以上は、それなりのものを得ようとするだろう。アンケートを取れば「良かった」という声が多くなるであろう。講習というものは、まったく無駄ということはめったになく、意義を探せばそれなりに見つかるものである。現在のシステムの中で、「時間の無駄だ。仕事に専念させてくれ」と素直にアンケートに書ける教員は極めて少ないだろう。
講習を用意する側も、国民の税金を使って無駄なことをしているという非難を浴びたくないから、それなりのものにはなるだろう。
しかし、もともと誰も望んでいなかった制度が実現し、決めた議員や委員達は実行過程にも結果にも責任を負わず、決定を下ろされた公務員組織が機械的に実行している、という構造が変わるわけではないのである。
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学校は、立場の違うたくさんの人々が関わって成り立っているものである。どの立場からも、発言力が強すぎるときと、弱すぎるときで、それぞれ問題を生じる。
発言力過多のときに起こる問題と、発言力過小のときに起こる問題の両方があることを理解するのは、たいへん重要なことである。この理解がないと、ただどこかを強めればいいとか、どこかを封じればいいとかいう論議になる。
発言力過多 発言力過小
行政組織 繁文縟礼、規則・前例の支配 施設、人員、人権を維持できず
教師 独善、専制 ロボット化、判断力喪失
保護者 専門性蹂躙、我が子主義 学校教育の下請け化
生徒 わがまま 自主性喪失、無気力、反抗
このうち、学校での直接の当事者は、教師と生徒と保護者である。この三者のどこかが「本音が言えない」状態になると、学校運営では次から次へと問題が噴出するようになる。
行政は、これら三者から等距離にあって、調整役を務めるのが本来の役割であろう。
現在は、行政組織が学校と教師を管理下に置くことが、学校を成り立たせる基本構造になっている。制度面で、行政と学校があまりに一体化している。保護者と生徒は正式の運営参加権を持たない。したがって、日本の学校の最大の問題は、柔軟性の欠如になるのである。
保護者・生徒は、尊重されるという建前があるが、制度的な運営参加の保証がない。
そのため、保護者と生徒は、おおむねは発言力過小の症状を出すいっぽうで、個人的に発言力過多の問題を起こすことが多い。モンスター親はこの個人的発言力過多の例である。保護者と生徒に、代表を選出して運営参加させる権利がないことや、総意を形成するメカニズムがないことが問題である。
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11月30日発売の
「イミダススペシャル 時事力 2009」 集英社
の約70テーマの一つとして
「どうなってるの!?教育委員会」
と題した教育委員会論を執筆しました。
一見開き(2ページ)の分量で、教育委員会の構造と問題点が把握できるようにしてあります。短いものなので、読みやすいかと思います。
読んでいただければ幸いです
要旨:
日本の教育委員会は米国の制度と外見はよく似ているが、内実はまったく違う。米国の教育委員会に比べて日本の教育委員会は権限がたいへん弱いため、単なる事務局と化しやすい。
戦後日本の教育行政は、”文科省暫定運営体制”がそのまま定着したものであり、それが責任者不在の体制を生じさせた。文科省、教育委員会、自治体の間で、責任体制が不明確である。
現在の教育行政の最大の問題点は、保護者・住民に対して責任を追う仕組みが整備されていないことである。
将来については、単純な存続論にも廃止論にも走るべきではない。存続させるなら、公選された教育委員による教育長任命の方向に行くべき。廃止するなら、学校ごとに運営協議会を作って、そこに校長人事権を渡す。自治体の首長に校長の人事権を渡すことは、政治介入を招き、危険である。
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高校入学の選考基準に、服装を含めていた学校が事件になった。私は、「学校なんてそんなもんでしょ」と醒めている。ただし、選考基準に服装を含めるなら、はじめからその基準を明示すべきだと思うが。
しかし、このような選考で落とされる者たちの教育はどうするのだ、ということを思う。高校を非難して無理に受け入れさせても見通しは明るくない。さりとて、現実を見回しても、代わりになる教育機関が見あたらない。これは、特定の高校の問題ではなく、日本中で起こっている問題である。
ピアスをつけ、乱れた服装をすることでしか、自分を表現できない若者たちがたくさんいる。大人に認めてもらいたい。しかし、「まじめに頑張るんだよ」などと言われれば、「ウルセーな」と横を向くであろう。あるいは、「うん」と素直にうなずきかえすが、なにもしないであろう。
「きみたち、せめて服装をきちんとすることから始めたらどうか」、などと言えば、ムッとして「カッタリイんだよ」とつぶやくだろう。あるいは、憎々しげに睨みかえして、精一杯の抵抗を示すであろう。「きみたち、これをやって頑張ろう」と言えば、「なんで、こんなことしなきゃいけないの」と言うであろう。
しかし、多くの者は、反抗的ですらないであろう。自分が何に不満であるのか、何を嫌がっているのかすら、本人にもよくわからないのだ。口出ししてくる大人は払いのけるし、かまってくれない大人には絶望するであろう。
あるいは、どうしようもなくなった自分を見せて、そういう自分でもわかってほしいと遠回しに理解を求めるであろう。
深い恐怖があり、彼らは防御的、攻撃的な姿勢を取る。しかし、ほんとうはこの恐怖は、だれにでもあるものだ。紛らわしかたを知っているか知らないかの違いだ。
こういう者たちが高校に入ってきても、高校が対処するのは難しい。中退者の山ができる。
学校というのは、知識と技能と集団での振る舞いを身につけさせ、それに対して卒業証書を出すところである。知識、技能と振る舞いを身につける気がない者は、「本人にやる気がない」として追い出すしかないところである。中学までなら義務教育だから追い出さないが、高校だと、学期ごと学年ごとに「このままでは留年ですよ、卒業できませんよ」とチェックを入れる。
学校というのは、そういうところである。それに対して、教師も生徒もあまり幻想を持たないほうがいいと思う。教師の多くいは、ほんとうの意味で生徒の立場など見えていない。「いかにやる気を出させるか」でしか見ていない。
服装で見分けて、はじめからお断りするのも、一つの見識だと思う。それは学校として一つの見識ではある。
しかし、それは学校の立場だ。学校というのは、学習機関なのだ。教育の中の、ほんの一つの機能を担っているだけなのだ。
学校に適応できない者たちが、じつは、一番援助を必要としているのだ。本人にとっても、社会にとっても。
教育があまりに学校制度の中に囲い込まれている。学校に出席することが教育になってしまっている。
とくに中等教育なのだ。中学生以降は、家庭だけでは育てきれないものだ。地域活動だろうが、スポーツクラブだろうが、ボランティア活動だろうが、町の私塾だろうが、なんでもいい。留年や、「卒業できないぞ」で脅さない教育機関がほしい。いまの高卒認定より、もっと柔軟な科目ごとの認定制度がほしい。
彼らを、追い立てず、ほったらかさず、親切に付き合うだけで、大きなことができるのだ。
暖かい眼を持つ大人たちは、けっこういる。
なんとかならないのか。
教育を、あまりに学校制度と同一視していないか。
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知ることそのものが愛であり慈悲であるという認識がある。いわゆる問題を持った子に接していて、ふっと、「この子はこういうことで動いているのだな」と感じ取れることがある。そうすると、なにかが流れ、局面が拓けてくる。
絵を描いたり工作をしたりしていて、余分なことは考えず、色や形や道具の性質と戯れていられるときがある。そのときには物事の性質がよくわかってくるし、できたものもクリエイティブなものである。
数学でも、英語でも同じことである。
この反対の状態は、恐怖に怯えているときである。そのときは、はやく結論がほしくてたまらない。頭の中は言葉だらけである。物事をよく調べもせずに、行き当たりばったりで、聞きかじりや仮説にとびついていく。頭の中で復唱できる結論ができると、満足する。目の前の出来事をよく調べずに、他人がやっていることの結果だけ真似しようとする。
結果をやみくもに求めるため、物事の本質を掴めないのである。
テストに追い立てられた子どもがよくこれをやる。
困難に直面した大人が、非常によくこれに頼る。
したがって、社会は、蓄積された恐怖と先入観の塊であり続ける。
しかしわれわれは、絶望的なまでに、愛であり慈悲でもある認識を必要としている。さもないと、われわれは力づくで生きようとする傲慢な人間たちと、冷笑的で無気力な人間たちをたくさん生み出す。個人はストレスの多い努力と、パターン化した快楽の追求にすりきれていく。われわれの社会は、無慈悲な安定社会と、悲惨きわまりない戦争の両極端のあいだを振れ続ける。
希望は教育にある。
しかし、制度化された教育は、言語化され数値化された結果を求めて動くようになる。生徒と直接に接していない者たちが運営していると、どうしてもそうなる。言葉では、どのような美辞麗句を言おうとも、結果が問題になる。
教師たちは、おおむね三層ある。結果を出すことに力を注ぐ者と、生徒との関係で動こうとする者と、事なかれで自分の城を築こうとする者である。しかし、基本的には自分を雇用している人間たちに責任を負う構造になっているから、結果を出さなければならない。
これは、現代のように教育が制度化される以前から、もとより行われていたことである。しかし、制度化された教育の中で行われるとき、その破壊力は格段に大きなものになる。
結果をやみくもに求めること自体が暴力である。その求めるものが知恵や美や善であろうとも、暴力は暴力である。
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2005年にフィンランドの教育行政を視察する機会に恵まれた。
フィンランドは、90年代に教育の大幅な分権化と学校裁量の拡大を行い、それ以後、急に学力が伸びてPISA学力テストでトップクラスに躍り出たことで世界に知られている。この大幅な教育改革が、やはり切迫した社会状況を背景にしている。
フィンランドの場合、90年代前半に、社会・経済が危機的な状況に追い込まれている。
隣国のスウェーデンと同様に80年代に経済が過熱し、90年にそのバブルがはじける。金融機関の破綻と信用機構の危機がやってくる。そこに、ソ連崩壊が重なった。フィンランドは、ソ連・東欧圏との交流も深かった。
1990年から93年まで、経済成長率はマイナスを記録し、失業率も18%にまで上がる。25歳以下の若年層では、失業率は34%にのぼった。
95年にEUに加盟、2000年にユーロ通貨の導入と、90年代はフィンランドにとって激動の時代だった。
この状況を背景にして、教育では90年代前半に、構造改革が行われる。学校選択制を導入。視学制度を廃止。教科書検定制度を廃止。国家カリキュラムの大綱化など、思い切った施策が行われている。
それ以前はというと、中央集権的であり、教師権力が強い旧タイプの教育であった。
思想的には、新自由主義の影響が強い改革であった。しかし、イギリスのように、直接に学力を追ったり、学校査察を強化する方向には行かなかった。フィンランドにはもともと平等主義の考え方が強く、競争を嫌う社会風土がある。
フィンランドの主流の教育哲学がしっかりしていたのだろうと思う。子どもを主体にした捉え方をしているし、教育を受ける側の権利は確立している。学校間の競争はいささか持ち込んだが、子どもを追い立てる方向には行かなかった。新自由主義的影響は、結果的に適度の刺激になったのではないかと思う。
私の眼で見たフィンランド教育で、よいと思ったのは、教師たちがほんとうに教育の専門家であって、雑務に追われていないこと。子どもの側の権利が確立していて、落ちこぼれやマイノリティに対して手厚いこと。高等教育までのすべての教育が無償であることなどだった。
教科書を見せてもらったら、ほんとうに”教科書臭さ”がなかった。それで、「この教育改革はホンモノだな」と実感した。
いっぽう、教育制度について、教育と政治の分離が十分でないこと、大学入試と高校卒業資格試験の両方があることなど、未整備だと思われるものも多かった。全体としては、ついこの間まで中央集権であった痕跡をたくさん残し、過渡期にある制度という印象だった。
しかし、その状況は、中央集権的教育システムからの脱出の仕方のよい例だと思った。
フィンランドの、教育に賭けるしかない、という立場は、日本の比ではないと思った。
空から見ても、地上を車で走っても、フィンランドは、正真正銘、森と湖の国だった。なんでもっと農地や牧場ができないのか、と思った。ある家庭を訪ねてキノコ取りに誘われたときに、疑問が解けた。森の中は岩だらけだった。土などほとんどなかった。氷河期に、土がみんな流されてしまったのである。都市ではいたるところで岩盤がむきだしである。農地にできる土地は限られている。国際競争力を失って二次産業、三次産業が衰退すれば、それまでである。
政治的にも、スウェーデンとロシアという二つの強国に、取ったり取られたりしてもみくちゃにされていた歴史的経緯がある。独立を達成したのは、20世紀のロシア革命後である。軍事力、経済力などにたよることはできず、小国の知恵で生き延びるしかない立場である。
フィンランドに限らず、本当に先の見えない社会危機に襲われれば、子どもの学ぶ力を尊重し、子ども同士を競わせないタイプの教育が発達していくのが自然なことだろうと思う。
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私の政治、社会、経済全般に対する関心は大きいのだが、教育を論じるときに、なるべく政治・社会論を持ち込まないようにしている。教育、とくに初等中等教育は、人間性に基づくべきであり、政治・経済に振り回されるべきではないと考えるからである。
しかし、今回の出来事はあまりに影響が大きい。アメリカでの金融危機をきっかけに、ニューヨークでも日本でも株価が暴落している出来事のことである。
今回の金融危機と株価暴落は、単なる景気変動の話では済まない。これは、持続可能ではない経済構造が、肥大しすぎて自分自身を支えきれなくなったものである。また、その経済構造を成り立たせている価値観が疑われはじめるということである。社会・経済の変動がこれから始まるであろう。長期の不況と、新しい社会・経済モデルの模索が避けられない。
この株価暴落の意味は大きい。これから深い変化がはじまることが、じわじわと感じられるようになるだろう。それと関連して、教育の根本的問い直しが浮上してくるであろう。
政治的には、アメリカ覇権の終焉が始まる。その意味では、今回の株価暴落は、ベルリンの壁崩壊に匹敵する出来事だと思う。今後、アメリカの経済力では、政治的、軍事的覇権を維持しきれないであろう。世界は多極化していくだろう。
日本にとっては、アメリカに追随していればよい時代が終わりはじめたことを意味する。遠からず、アメリカは東アジアから撤退していくだろう。それは、60年以上にわたってアメリカの衛星国として繁栄してきた構造が終わることである。その影響は、国内にも深く及ぶだろう。アメリカ的な競争的資本主義社会モデルへの深刻な疑問が湧いてくるだろう。
しかし、教育面において、これからの社会変動は日本の教育をまともなものへと揺り戻す大きな力になるだろう。既存の知識と価値観を若者に注入するだけでは、社会変動を乗り切れない。
まともなものというのは、賞罰や競争に振り回されない、明晰な人間を育てるということである。思考力だけに着目せず、それを支えている肉体、感覚、感情とのバランスを常に配慮しているということである。一人あることと、共にあることのバランスに配慮していることである。
安定した社会は、自分に自惚れているものである。確立した知識・技能の範囲で点数競争をやらせたり、自らの規範意識のコピーペーストを若者にやって満足する。
不安的な社会では、生きる力や型にはまらない知恵が求められるようになる。日本で90年にバブルが崩壊したあと、社会・経済への疑問が生じてきた。それと同時に、教育への基本的な疑問の声が大きくなった。既存の教育に対する不満が噴出してきた。文科省すら「ゆとり教育」を言い出した。
03年ごろから株価も成長率もそこそこ持ち直した。その時代と、「学力」が言われ、日本教育が過去回帰の志向を強めた時期は一致する。
しかし、この学力回帰は底が浅い。とくに新しいものがなく、新しいものを担いきれなかったというだけで、後ろを向いたものである。従来型の問題がまた噴出してくるだろう。背景にあった、小春日和的な経済状況も消えつつある。
これから2~3年以内に、誰にとっても社会変動が身に感じられるようになってくるだろう。それからが、ほんとうの模索期である。最大の希望は、じつは教育にある。愛と明晰さを持つ人間たちを育てないかぎり、どんな社会変革も、単なるスローガンの入れ替えと、支配層の入れ替えに終わるだろう。
詳しいことは、また、おいおい論じていきたい。
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言葉と意識の関係にについて、頭の中がすっきりするようなことがあった。
ある自由主義的教育をしている高校がある。その卒業生が、レポートを見せてくれたのを読んだときのことである。
この学校では、テストによる点数付けはしていなかった。生徒にレポートの課題を出し、それとの応答で評価をしていた。レポートを集めてコピーし、冊子にして各生徒に配っている。教師たちの労力はそうとうなものになるであろうが内容はとてもよかった。
とくに国語は、生徒たちの思考力をほんとうに伸ばしていると思われた。こんな作文、ふつうの高校ではまずお目にかかれないだろう、というものがたくさんあった。
谷川俊太郎の詩を題材にして、言葉と沈黙についてのレポート集があった。
ある女子生徒は、「愛、神といったものは形がなく言葉によって作りあげられたもの。非常に観念的で、人間が考えを変えればあっさりと壊れるものだ。」と言う。しかしその形のないものたちは、言葉によって縁取られることにより、色濃く存在するのだと。
ある男子生徒は、「僕は言葉に染まりすぎている」と書く。「本当の理解っていうのは、息を吸うのと同じようにとか、ジュースを飲んで身体の中に入っていくのとか、メロディーを覚えるのと近くて、スゴクすがすがしい感じの物さ」
また別な男子生徒は、スポーツをしていて無我になった体験を書いている。そして、「言葉があると、いろいろ考えるし、つらいことばっかだろう。だけど、だからこそ言語がない世界にあこがれるんだろうなと思った」
こんなふうに、言葉と意識の一体化がまだ起こっていない若者たちの率直な声が入っていた。高校生くらいの年齢だと、まだ意識が言葉に覆い尽くされていない人たちがかなりいるのだと思う。
私が高校生のときがそうだった。標語や努力目標のようなものがまったくなく、意識にはいつも量りしれないものが流れていた。その量りしれないものの中にいれば、理解することも、知識を習得することも、たやすいことだった。いかなる努力もなく、どんな欲もかかなければ、意識は対象に沿って緻密に動くし、精密な記憶が残るものなのである。
そのときは、その無量のものをとくに意識しなかった。みんなそうなのだと思っていた。
失ってみてはじめて、それがとてつもなく重要なものなのだとわかった。受験勉強プレッシャーに屈し、70年の大学紛争に巻き込まれて、いつのまにか自分の思想、自分の言葉にしがみついていた。孤独と不安がいつもつきまとい、言葉に慰安を求める人生になった。
自分の意識と言葉にギャップを感じている若者たちは、ほんとうは宝物である。彼らが、個人の意識に、社会のあり方に新しいものをもたらしてくれる。創造的なものというのは言葉に汚されていないもののことである。研究者のデータと論文からも、シンクタンクのレポートからも、生まれるはずがない。
ほとんどの大人たちは、すでに言葉の罠にはまっている。その大人たちが、教育理念を作り、カリキュラムを作り、道徳を作っても、人間の生きる力そのものを捉えることはできない。標語を掲げて満足できるような人間に、教育を任せるべきではない。
とにかく、子どもと接してみたまえ。まだ言葉の壁ができていない若者と接してみたまえ。いかに、自分の理想や信念が無力であるか、実感できるはずだ。子どもや若者のあるがままを感覚で捉えていることが、ものすごく重要なことなのだ。子どもや若者たちと接していない人たちが、教育を指揮できるような制度を作ってはいけない。それは、本社の総務部と企画部だけで工場を作るようなものだ。
とくに、政治家と官僚が教育内容に関わることが出来ないようにしないといけない。かれらは、スローガンと規範意識で人を動かすことのプロでしかない。
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英語が不得意な学習者が、よく、文法の本に手を出す。英語はどうもわけがわからないが、きっと文法さえ理解できればわかるようになるだろう。そういう希望を持つのだ。しかし、英語は生きた言葉であって、そんなに整然としたルールでできているわけではない。そもそも、単語や言い回しをある程度知らないことには、どの文法を適用していいのかもわからない。
希望を持って文法書に取り組んでも、たいていは挫折する。
数学が不得意な学習者が、公式を丸暗記する。型どおりの問題に当たれば、解けることもある。しかし、丸暗記に頼りだしたら、だいたい1年以内に成績は急降下しているものだ。
公共性を作り出すのが不得意な学校運営者が、規律・規範を言い出す。非常にすさんだ学校では、戦国時代を武力で終わらせるのと同じような効果はあるだろう。しかし、それは知性と合理性を無視した権力支配である。教師同士の権力闘争と、生徒同士の陰湿ないじめがはびこりだす。
安心と信頼を創り出すの不得意な教師が、愛と言い出す。本人は、それなりに高揚感を持てるだろう。しかし、生徒たちは、先生がいっそう鼻持ちならなくなったと思うだけだ。愛はやってくるものであって、作り出すことはできない。
人を支配することに慣れた政財界人が、学力を競わせればいいと言い出す。点数競争させれば、試験問題に過剰適応して画一化する。優越感と劣等感が、じわじわと生徒達の心をむしばむ。落ちこぼれがたくさん出る。
みんな、共通したことに思える。ほんとうはどうなっているのかを見極める根気がなくて、魔法のような解決策に手を出すのである。
ほんとうのことを知る力をつけるのが教育の役目だが、教育でもっと悪くしていないだろうか。
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全国学力テスト実施に伴い、全国に検証改善委員会ができた。その内容を見ると、効果がありそうなものが少ない。なぜ効果がないかの分析をここに供したい。
ちなみに私は学力派ではなく、「教育というものは教師と生徒の関係の中から生まれてくるものだ。教育の官僚統制を廃し、学校分権と、生徒の『教育への権利』の確立が必要」という立場である。
例として福島県の検証改善委員会が出した学力向上策を見てみよう。決して福島県を批判したいのではなく、他県にも共通したものの典型例として取り上げたい。
福島県の例は、要するに、何が問題なのかどうしたらいいのかを他人に丸投げしたまま、現実の学校運営の外側で官製イベントの打ち上げ花火をやっているだけなのである。見栄えはするが、おそらく結果らしい結果を出すことは難しいだろう。余分な仕事を増やすから疲れる人はたくさん出る。一時の学力向上ブームと予算付けがなくなれば、たちまち消えていくと思われる。
[学校改善支援促進事業] 福島県検証改善委員会
・調査結果の詳細な分析
── 検証改善委員会自身では分析をやらず、分析は業者と現場に丸投げしている。検証改善委員会こそが結果を分析し、あるいは各学校がデータを分析する指針を出せるようでないと、お祭り騒ぎと掛け声だけに終わるだろう。
千葉県が、苅谷剛彦を委員長とする県外専門家委員会を設置して分析を依頼したが、これはそれなりに意味のある結果を出していた。
・福島県学力実態調査による実態分析
── 本気で、学校要因や、教師要因、社会経済要因を分析する気はあるのか。結論が子どもへの「学びのすすめ」や「家庭学習のすすめ」なら、責任を子どもに転嫁してしまっている。
・優れた実践から学ぶ
── 優れた実践の報告や、本の出版はたくさん行われている。屋上屋を重ねる。うまくいっていないところの原因と、支援策を出さないと意味がない。
・「活用力向上」のための指導資料の作成
── B問題対策であろうが、PISA型問題に対して、本当に実効ある指導資料ができるのか。気休めではないか。
・「提案授業、授業研究会」 Web配信 DVD収録配布 「授業改善サポートブック」作成
── 授業研究、研修はすでにたくさん行われている。従来の研究会ではなぜいけないかの分析がない。新しく授業研究会をやるだけの新機軸もない。そんな研究会をやらなければならないなら、十年研修はなんのためにあるのか、指導主事はなんのためにいるのか。
・県版「学びのすすめ」を児童生徒全員に配布
・保護者に学力向上の取り組みを伝えるリーフレットを配布
── パンフレット配布は金と手間がかかるが、効果はほとんどない。
・授業検討改善会(校長、教師)、PTA学習会、授業フォーラムの開催(保護者、地域住民の参加)
── 人を納得させる分析結果や、具体的な改善策をもたないまま開かれるイベントである。よく言われていることが言われて、それで終わるであろう。この手のイベントは、動員しないと参加者を確保できないことになりがちであり、また予算がつかなくなればそれで終わる。
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きょうは土曜日。うちの近所の幼稚園が園庭で運動会をやっている。
園児たちが並んで、いっせいに同じ動きで踊っている。整列して行進する。集団行動タイプのイベントが多い。子どもたちのキャッキャッした感じがない。子どもたちの動きに表情がない。先生も親もそれに気が付かないのかなあ、と思うのだが、すでに慣例化していることだから、これで進行する。
幼稚園が、園児たちに集団行動の訓練をするのは、「小学校に行くようになって困らないように」だ。先生たちも親もそれを心配して、訓練するのである。実際、小学校で集団行動についていけない子は、不利益をこうむるのである。
それで、あんなつまらない動きを子どもにさせて、「これで社会性がついた、集団で生きていける」と安心することになる。こどもたちは、従順に段取り通りのことをしている。
子どもに社会性を身につけさせたいなら、まず、親とのしっかりした二者関係、それから仲間との遊びを通じた自主性と折り合いのつけかたを実地に経験する機会を作るべきだ。いきなり集団訓練をやって上っ面を整えるのは、試験の前の一夜漬け丸暗記と同じだ。あとにいったい何が残るのかと思う。
小学校は、きれいな理念を言うが、一斉授業を維持し、朝礼、運動会、入学式などを遂行する枠から出られない。それは見えないカリキュラムになっていて、検討されることがない。けっきょく、学校は法令と慣習にがんじがらめだ。その小学校で生きていけるように、親も幼稚園も配慮せざるを得なくなる。
中学は、受験もからむから、もっとがんじがらめだ。生徒の自主性がつく時期なのに、教師達が生徒の自主性と闘ってしまっている。小学校は、その中学で生きていけるようにと、配慮せざるを得なくなる。
といったぐあいに、せっかくの子ども時代が、どんどん将来のための訓練に食われていくのである。人々が、それが素晴らしいと思ったからそうなっているのではなく、誰も変えようがないシステムができてしまっているだけではないかと思う。
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教育が悪いのはなぜかについて、生きた化石みたいな主張がいくつかあります。現在に対してけっこう影響力を持つから困ります。
一つは、「日教組元凶説」。
もう、日教組はそんな力をもっていないです。
もう一つは、「文科省元凶説」
文科省は、そんな大きな権限を持っていないです。
さらに、「教育委員会元凶説」
教育委員会にできることは、すごく制約されています。
どこかに悪者がいるんじゃなくて、今の学校システムだと、文科省からヒラの教員まで、すべての人が他から制約されていて、「いい」と思ったことをし、「まずい」と思ったことをやめることができないんです。
悪者探しをするより、従来の法令、慣習、人事からまったく自由な独立型学校を作って、意欲的な人にやりたいようにやらせたらいいんじゃないでしょうか。ただし成功するとは限らないから、学校を作るほうも、学校を選ぶほうも、自己責任で。
上からいくらけっこうな改革方針を出して実行させたって、自発性や創造力は出てこないです。
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昨年から、全国学力テストが行われている。調査のためだか、学力の向上のためだか、はっきりしないテストである。とくに、学力向上のためには、あまり役立たないだろうと見ている。
私は、次のような考え方は、現実を見ていない人たちの空想だと思っている。
「自分の位置を知ることによって、励みになって、全体の水準が上がる」
ようするに、競争させれば水準が上がると考えているのである。ほんとですか? 上澄みの部分だけみていて、全体を見ていないんじゃないですか?
テストの結果が励みになっているのは、上位層だ。しかしこの層は、べつに新たな動機付けをしなくてもよい層なのである。しかし、本当に学力が必要な層は、「お前はできない」ということを確認すれば、「そうか、ダメなんだ」と、かえってやる気を失うものである。教え方をどうすればいいか、教材をどうすればいいか、それを見つけないと意味がない。
これは、定期テストでも、国が行う全国学力テストでも同じである。
学力テストは、何が要因であるか、どう対応したらよいのかを見つけるのでなければ、意味がない。ただ競争をあおっても、うまくいかない。それは、国もわかっていて、結果の公表は避けているし、ちゃんとした分析をしようと頑張っている。
でも、全国学力テストが始まった理由は中山文科大臣の「競争意識の涵養、全国学力テストの実施」方針だった。これは、基本的に競争主義である。日本の教育政策の多くは、教育に素人の代議士たちが方針を押しつけ、文科省が仕方なくきれいな理屈をつけて実施する。
そのため、今回の学力テストは、要因分析の調査のためなのか、学力向上のためなのか、わけのわからないものになっている。とくに、学力テストと同時に行われる質問アンケートの、できが悪い。最初から、生徒の学習態度にばかり絞り込んでいて、学校への質問は浅くて的外れなものが多い。ようするに「もっと頑張らせよう」が見え見えなのだ。全然知性的でも科学的でもない。これだと、いちばん肝心な、教育施策との関係や、学校運営、学級運営との関連があまり浮かび上がらない。
けっきょく、「算数が好きな子は算数ができる」とか、「生活習慣ができている子は、学力もある」とか、全国テストなどしなくてもわかっていることばかりが浮かび上がる。
私も実際に学力テストを解いてみた。出題範囲が広くて、点数が悪かったとしても、これに直接対応するのは困難であろうと思った。とくに、Bの問題(活用力)は、PISA型学力を想定したもので、対応が難しい。
学力向上のためにやるのだった、この全国学力テストは向いていない。その学年でやったことを、秋か冬頃に調査し、すぐに対応策を採るのでないといけない。実は、これは各地方ごとに、かなり行われているから、全国テストをするのは屋上屋を重ねているのである。
それと私は、とにかく学力主義が嫌いである。教育をしらない官僚や政治家が教育に口出しすると、どうしても客観的な成果を求めたがり、数値化された結果ばかり求める。それで教育がおかしくなっていく。
教育とは、子どもに頑張らせることではなく、子どもを幸せにすることだ。違うのか?
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倫理道徳の当たり前であり、知識・技能の当たり前であること。そして教育の当たり前であるべきこと。
「知るを知るとなし、知らずを知らずとなせ。これ知るなり」
ところが、学校ではテストで点数を付けられるから、丸暗記でも、あてずっぽうでも、点を取ることが推奨される。とくに中学以降の常識は、「知らずとも知るとなせ。これ利口なり」である。
自分はまったくわからないから、と白紙で解答を出す生徒は、「せめてなにか書け。まぐれあたりということもある」と叱られるだろう。
でも、知らないことを知っているとしたときに、人間の精神は大事なところで崩れていく。
世の中にでると、なんでも立派にしゃべれば通用する。
人にひけらかす気がないとしても、きれいな説明を持っていると不安がなくなり、対処できる気になる。
役職につくと、知らないことでも知っていると見せなければならない。
それで人間たちが、真理感覚を失い、崩れていく。
試験勉強に励む受験生に接したり、
レポート書きをする大学生に接したり、
「私の若い頃には...」と教育に注文をつける実業家に接したり、
中教審の答申を読んだりすると、
知らずを知らずとなすことは、大事だなあと思う。
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以下は、J. クリシュナムルティの『子どもたちとの対話』からの引用です。
J. クリシュナムルティは、人間が深く真実と愛に根ざすことが可能であると訴え、自ら世界各地に学校を作った思想家です。
* * * * * * * * * * * *
安全であるという感覚を妨げるものの一つは、比較です。
あなたが勉強やゲーム、または外見で、他の誰かと比較されるとき、あなたは不安感を、恐怖感、不確実感を覚えます。だから私たちが昨日のことを先生の誰かと議論しているとき、私たちの学校ではこの比較する感じを、成績を与えたり点数をつけたりすることをすっかりなくしてしまうのが、そして最後には試験への恐れをなくしてしまうことがとても大切なのです。
自由があるとき、幸福があるとき、関心があるとき、あなたはよりよく勉強します。あなた方は皆、ゲームをしているとき、ドラマティックなことをしているとき、散歩に出かけるとき、川を見ているとき、幸福感と健康があるとき、自分がずっと容易に学べることを知っています。しかし比較の恐怖、成績の、試験の恐怖があるとき、あなたはあまりうまく勉強したり学んだりできません。
先生はあなたが試験にパスして次の学年に進めるかどうかにしか関心がありません。そしてあなたの両親はあなたに進級してもらいたいと思っています。どちらもあなたが恐怖をもたない知恵のある人間として学校を出ることには関心がないのです。
* * * * * * * * * * * *
私自身、自分が高校生までのときは、競争的な学びが行われているとは感じませんでした。学校は、友達と戯れていられれば、それなりにやっていけるところなのです。
しかし、私塾をしていて、さまざまな子どもたちに接するうちに、子どもたちがいかに不安や恐怖におびやかされているかを知るようになりました。
その不安は、わかりやすい身体症状で表れるときもありますし、強い自我意識になっている場合もあります。しかし、不安と恐怖であることに変わりはないのです。
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しばらく忙しくて更新していませんでした。いつも読んでくださっている方々、申し訳ありませんでした。
制度のことで言いたいことはいくらでもあるのですが、ちょっと広い話題で。
会合に出ていて、誰かが何かを言っているときに、自分の考えにふけっているもので他人の発言をさっぱり聞き取れていない、ということありませんか。私はしょっちゅうです。
誰がしゃべっているかにすごく関係します。自分に親しい人だと、自然に聞き取っています。印象の良くない人だと、どうも聞いていられない。頭だけの理屈でしゃべっている人の話がどうもだめ。私自身のことを棚に上げて自分勝手なことですが、どうも聞いていられない。
攻撃的なしゃべり方の人もだめだし、自己顕示欲が見え見えだとかすると、いつのまにか自分の耳が閉ざしてしまっている。その人が何をしゃべったのか、ほとんどわかりません
もちろん、話題によります。私が興味のあることなら、よく聞いています。
体調にもすごく関係していて、疲れている時はとうぜん聞き取れません。
話は飛躍しますが、この”聞いていない”現象が「お勉強ができない」現象の、根幹にあるのではないかと思うのです。人の話に対して耳が閉じた状態です。多くの子どもで起こっています。とうぜん、授業がなにも入らない。
小学生や中学生のころ、先生に指されるとハッとして立ち上がるけど、何を聞かれてもわからないままの同級生たちがいました。”頭が悪い”という印象を与えるのですが、そうではない、耳が閉じていて、自分の考え事にふけっていた状態なのです。それどころではない、たいていの子たちが、授業中は考え事をしていました。だもんで、家で勉強する必要が生じるのです。なんてバカバカしいことをしているのだろうと思っていました。
いまになって、そうか、あの子たちは私の今の状態でいたのだな、と思います。頭の問題ではなく、耳にシャッターが降りた状態。
私塾で教えた子どもたちにも、教えていてなかなか入らないから、よほど頭が悪いのか国語力がないのかと思うと、ちょっと相手と局面が変わると、話もよくわかるし、機敏に頭を働かせているのによく出会いました。授業になるとだめなんです。
あまりにもありふれた現象なのに、心理学も教育学も、さっぱりこのことに触れていません。しょうがないから、自分で少しずつでも言葉に組み立てようと思っています。とにかく、私という実例があるのだから、観察しやすいですし。
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なぜ、教育をするのか?
それは、法律や規則などの「きまり」の世界に求められるべきではありません。法律がかくかくであるから、指導要領がかくかくであるから、学校では何々をすると法律になっているから、それらが教育を行う理由になることは、教育の自殺行為です。
「きまり」が精神を生み出すことができると考えるのは、帽子や靴が人間を生むことができると考えるのと同じくらい馬鹿げています。
なぜ、教育をするか? それは、営利のためであってはなりません。生徒を集めることが利益の手段になれば、学校は農場で生徒はその作物のようなものになるでしょう。
教育をする理由は、人間として発達することそのものの中に求められなければなりません。「この子がかくかくしかじかであるから」というのが、どのような教育を行うかを決めるものでなければなりません。
教育は、子どもたちが、自分を商品価値を高めて社会に売り込めるようにするものではありません。それは、結局は形を変えた奴隷訓練にすぎないのです。
子どもに接している人たちは、何が重要なことであるか、直感的に知っています。共感することそのもののが、子どもも教師も、生きる糧となり得るのです。理解や習得や発見そのものを共有することは喜びです。肉体的に、精神的に、子どもの躍動感が出てきたとき、それは子どもにも大人にも、その教育をもっと続ける理由になるのです。
教育をすることの理由は、人間であること、人間がどのよう発達するものであるか、に求められるべきであり、それはたいへんに柔軟なものなのだと思います。
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90年代から始まった”教育改革”に大きな限界があった。
改革を発想する人間と、行動する人間が別々であることである。政府主導の教育改革会議が作られ、方針を出して、公務員組織に実行させる。文科省も、遅れをとってはまずいから、同じようなことをする。
だから、ダメなのである。
言い出した人間は、言ったきりでそのまま。審議会でけっこうなプランを作れば、それで責任を果たしているのだから。
動いた人間は、報告書を出して、ほっとしてそのまま。形を作ればそれで責任を果たしているのだから。
だから混乱ばかり作り出す。「教育改革の幻想」(苅谷剛彦)なんて言われるのである。
そもそも、改革というのは、問題を抱えている人たちが、「こんなことで困っています」とか「こうしたらいいんじゃないですか」と動き出して、成立するものである。だから、行政の仕事は、困っている人たちに道がつくようにしてあげることだ。それが民主主義国というものだ。
それなのに、教育ということになると、政府も文科省も、自分が問題を解決してやると一手に引き受けて、立派な旗を振る。
うまくいきっこないのは、当然。
近年の動きの中で、なにかしらを本当に改革したなと思われるものは、言い出した人が実際に身を挺して人々によびかけ、流れを作り出している。「学びの共同体」の佐藤学とか、「TOSS]の向山洋一とか、「不登校」の奥地圭子とか、「シュタイナー教育」の子安美智子とかである。
他に、「この人は確かに何かを作っている」と感じられる人たちは、ことごとく実際に現場から動いている。
けっこうな理念があって、それを官僚機構が率先して実行し、みなが力を合わせて立派な教育ができる。この美しいイメージにとらわれてしまうことそのものが問題なのだ。
社会主義国が潰れていったのは、美しいイメージに酔い痴れ、問題を抱えた人たちが自律的に動けるようにしなかったせいである。
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新潟市で08年5月に出された13名の不登校督促事件に関して、「財界にいがた」という、地元の月刊誌が記事にしている。ようするにこれは”魔女狩り”だと。
この内容は、私が取材して得た感触に近いものである。
5月下旬の新聞報道は、怪しい団体が蔭にあって学校に行かせないようにしていることを示唆するものであった。
その後のフォローの記事はない。それは、そうであろう。ここには、カルトめいた問題はなかったのだから。
親たちは、たしかにミコト・カレッジという幼児教室に来ていた人たちだった。しかし、このミコト・カレッジの教育観は、「子どものことをよく理解する」であり、そのために実践的に親が子どもに関わるやり方を開発していた。ここの教育思想に「学校に行かせない」に類したものはない。
本音が言える子どもたちがたくさん育った。そうしたら、学校に行きたがらない子どもたちも現れた。親はその子ども達を保護しようとした。自分たちでフリースクールを作ろうとした。
要約すれば、それだけのことである。
ミコト・カレッジに行けば学校嫌いになるかというとそんなことはなくて、楽しく学校に行っている子どもたちのほうが多い。
新聞記事になったそもそものきっかけは、市教委から発したものではない。逆であって、出席督促を受けた親側が「これはおかしい」と思って、新聞社に通報したことによる。
そうしたら、市教委側に取材した記者が、市教委の見解に沿って記事を書いた。市教委は「怪しい」という予断を持っていた。
しかし、実際のことを調べると、市教委は現地の調査に来ていない。事実誤認もたくさんやっている。裏付けをとる作業が足りないままの危うさに、市教委自身が気が付いていないのだと思う。
教育委員会というところは行政の一つなのに、選挙の洗礼は受けない。市長に指揮されているわけでもない。そもそも、正式な職務の中に、住民の意思を代表するという項目がない。教育委員は複数いるが、月に2回くらいの会合に出てくるだけである。実質は、教育長の独走になりやすい体質を持っている。
「財界にいがた」の記事は、第1章タイトルを「市教委と一部マスコミによる”魔女狩り”」としている。この言葉でほぼ事件の全容が現されているように思う。意図的な不登校狩りではないが、影に怯えた思いこみが相当にあり、事実確認を怠っているから、市教委はこのくらい言われてもしょうがないであろう。
しかし、今回の問題は、ただの魔女狩り問題にとどまるものではない。
根本に、もっと本質的な教育問題が横たわっている。
ある親の方が言っていた。「子どもがほんとうに学校に行くのを嫌がっているんです」と教育委員会の人に言うと、「子どもは、学校に行きたくないって言うものですよ。それを真に受けてはいけません」と言われて、話がぜんぜん通じないという。
問題はいくらでも出てくる。
「行政と親と、どちらが子どものことを深く理解しているか」
「『学校に行きたくない』という子どもの言葉の信憑性をどう判断するか」
「学校は必ず子どもにとって最善なのか」
「親に教育を選択する権利はないのか」
学校教育とはなにか、義務教育とはなにかを、突きつけてくるような問題である。
06年に教育基本法が改正された。その第十条に
「保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。」
「子どもの発達のためにどうしたらいいかを決める責任者は親ですよ」と言っているではないか。この条文ができたので、子どもの教育に責任を取るのは誰なのかの問題は、新しい局面を迎えていると思う。
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日本の義務教育は、官製学校になんとしても子どもを来させることだった。
教育内容と教科書は国が完全にコントロールする。
学校運営に、親と生徒は関与させない。PTAは大政翼賛会。
「嫌がる子どもを我慢させて授業を受けさせるのが教育だ」という教育哲学が広がっている。
国が貧しくて、食うためには我慢するしかない時代は、親も子どもも「学校おしん」になるのを美徳と考えていた。でも、時代が変わった。
忍耐し努力することを疑う教育哲学がじわじわと広まってくる。教育は、本来、子どもの自主性に基づくのではないかと。教育は、本来楽しいものではないかと。
先生も、より強制的でなく、より楽しい学校生活を目指す方向に行く。だから、学校教育がよいものになったかって? とんでもない、かえって学校が崩壊してしまうのである。
子どもの立場から見ればすぐわかる。しょせんは、徴兵令状みたいなのが来て、一カ所に集められて、教室に拘束されている立場。まわりは自分勝手なガキだらけ。先生は、わけのわからない大人の言葉ばかりしゃべっている。
ここに「我慢しなくていいよ」、と言われたら、わーっと、自分勝手を始めるのである。そうかんたんに、”自主的な学び”なんかに行くものではない。
だから、やはり子どもに規律を押しつけて、嫌がる子どもたちに我慢させなければならない、という方向がまた強まっているようだ。
やってみればわかるだろうけど、これは、いままでの経験に何も学んでいない。昔を美化しているだけだ。昔ながらの、無気力、反抗、いじめ、落ちこぼれがまた増えるだろう。我慢の美徳のあるところには、必ず陰湿ないじめがはびこる。
ほんとに教育改革をやる気なら、学校ぐるみで、なんであろうとよいと思ったことはやれ、まずいと思ったことはやめることのできるだけの自由と責任を負い、先生たちが「先生くささ」を漂わせていない学校を作らないといけない。今の制度の外側に作らないと、そういう学校はなかなかできないだろう。
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新潟市で、13名の子どもに出席督促が出た件で、親側に話を聞いていた。
新潟日報5月29日には市教委側のコメントとして「呼び掛けへの理解を得られずに悩んだ末の対応」と出ているが、親側は「学校の諒解が得られていたと思っていたら、いきなり出席督促が来てびっくりした」と言っている。
どうして、そこまで食い違うのだろう。
母親たちに経過を聞いていたら、お母さんの一人が
「そう言えば....」
校長や担任が、「元気になったらきてくださいね」とか「できるだけ来させて下さいね」というようなことをけっこう言っていたそうである。他のお母さん方も、「そうか、そう言えば...、そんなこと言ってた」
でも、みなさん、あれが”出席を促す呼びかけ”だったとは感じていなかった。
そうなることは、よく理解できるのである。
「できるだけ来させて下さい」は、不登校の子どもの親に対して、先生方がどんな場合でも言う。それは、ただの儀式みたいなものであって、ほんとうになにがなんでも連れてこいという意味ではない。
現在の制度では、不登校に対して、学校の内でも外でもいいからその子に合った教育を発生させよ、という法令はない。だから、「学校には出席しなければいけません。この場合やむを得ないけれど、できるだけ来させてください」という形を作ることがどうしても必要である。その形の中で、事態を収めなければならない。
「来て下さいね」が、法律の建前を取り繕うための形式的なものであることは、先生も親も承知しているのである。
しかし、今回の出席督促は、市教委が「こいつらは怪しい」とにらんで、校長たちをリードした。出席督促を出す前に、親たちに十分に出席を促せ、という指示は市教委から校長に対して出ていたと推測できる。
しかし、校長や担任は現場の教育者であり、現実の親たちとの関係がすでに存在している。教育者が、お役所的な命令指示を出せば、それだけで親に不信を買うものなのである。
もし私が校長だったら、私は気が弱いたちだから、親には強いことが言えなくて、「できるだけ来させて下さいね」というようなことを表現を、ちょっと多めにするだろう。いっぽう、市教委に現状具申するほどの勇気もヒマもないから、「かくかくの出席促しを、○月○日にいたしました」という報告書を出すであろう。これなら、親につつかれても「そちら様に立場があることはよくわかります。これ以上のことは市教委とお話になったら」と言えるし、市教委につつかれても「わたしは指示に従って、最善のことをいたしました」と言えるし。
そうすると市教委は「そうか、校長達がこれだけ出席を促しているのに子どもを出席させないとは、悪い親たちだ」と判断するであろう。
「伝言ゲーム」という遊びがある。列を作って一人から一人へと言葉を伝えていくと、最後にはとんでもなく変形していて、みんなで大笑いできるゲームである。親→(担任)→校長→(市教委担当者)→教育長と、この程度の参加者人数であっても、けっこうゲームになっていたのではないか。
校長たちを悪者にしてはいけないと思う。これは、権限をめぐるシステム問題である。
私は、親の教育権と学校裁量をもっと大きくして、ある子どもにどのような教育をなすべきかは、親と先生と専門家(心理、医療、教育など)だけで決められる柔軟なシステムを作らないと、悲劇があとを絶たないと思っている。
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秋葉原で、無差別大量殺人があった。
稀に起こるとんでもない事件があると、昔はなかったのに最近の世の中はひどくなった、そういう見方をしがちである。
少年犯罪についてであるが、戦前の子どものほうが人を殺していた、というデータを挙げているサイトがある。
「少年犯罪データベース 戦前の少年犯罪」
http://kangaeru.s59.xrea.com/senzen.htm
そこから例を引用すると、
昭和9年(1934).11.21〔小3ら3人が同級生を火炙り殺人未遂〕
北海道網走郡で、小学3年生3人が下校中に同級生を松林に連れ込んで裸にして木に縛りつけ、火あぶりにしようとしているところを教師に見つかった。授業中に筆を貸さなかったため殺そうと計画して友人2人に手伝わせたもの。
統計数値を引用すると、少年による殺人(検挙数) 人口10万人あたり
昭和11年 1.05。
平成17年 0.58。
そうなんですねえ。いちばん多かった時代が昭和25年~35年で、2.0を越えている。
では、相手が誰でもよかった無差別殺人については、戦前と戦後で違いがあるのだろうか。
わからない。
近年は、共同体が希薄になり、個人に内面化された「かくあるべし」によるコントロールが強くなった。だから、恨みの対象が不特定となりやすいのではないか、という仮説は持っている。でも、まとまったデータには、出会うことができない。
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世界に、学校を作るのがたいへん自由な国々がある。デンマーク、オランダ、ニュージーランドといった国々である。学校を作る自由は、民主主義のバロメーターと言えるものである。
ところが日本で学校を作る自由の話になると、多くの人に湧く疑問が
「でも、カルトが学校を作ったらどうするのですか」。
多くの人がそれを心配する。
これを聞くと、私は中国で議会民主主義を危険視する考え方があるのを思い出す。
辛亥革命のあと、北京の政府に国会ができた時期があった。この国会が、ものすごい買収と、脅迫の渦巻くところになり、大混乱をもたらした。
そこで中国の人たちが言う。「議会制民主主義は危ないです」
それと同じではないかと思う。
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新潟市の小学校が、13名の子どもの親に対して出席督促をしたとの報道があり、大きな波紋を投げかけた。
親側の人たちに直接話を伺う機会があった。事実関係で、報道とは大きな食い違いがある。
この問題を突き詰めると、日本の教育システムが戦後の仕組みそのままであり、未整備な部分がたくさんあることに行き着くと思う。
今後も、「親が悪い」、「学校が悪い」、「教育委員会が悪い」、「どうせカルトだろう」、などの悪者探しが横行するであろう。しかし、どの人も大きなシステムの中で、自分の立場を懸命に生きているだけと思われる。それぞれの人がなぜそうせざるを得なかったかを、暖かく視るべきだと思う。
実際の報道は次のようなものである。
新潟市の小学校が出席督促書 新潟日報 08年5月29日
http://www.niigata-nippo.co.jp/pref/index.asp?cateNo=1&newsNo=110713
朝日、毎日、読売の地方版も、この件を報道している。各社の新聞報道をさらりと読むと、たいていの人には「これはカルトが裏にある。市教委はその子どもたちを助けようとしている」という推測が湧くであろう。裏付け取材はないのに、匂わせるような記事になっているのはまずい。
私の知るところを書く。
・ このグループは、子どもの感情を尊重しようという幼児教室が発展した子育てグループである。宗教性、政治性はない。子どもの意見をどこまで尊重するかで、多数派の教育観との違いがあるが、常識の範囲内である。
・ 親側は、学校と話し合って不登校扱いとしてもらうことの通常のプロセスを踏んでいた。
・ 13名のうち4名が新一年生であり、当初から学校にいっていない。しかし、事前に学校側に諒解を取っていた。小学校にあがるときに「この子は、いま、学校は無理だ」と判断されるケースは多く、たとえばフィンランドでは就学年齢を遅らせることが認められている。しかし、日本では、「学校に一日も行きもしないで学校を忌避するのはおかしい。どうせ、カルトだろう」と判断されることが多い。
・ 「ホームスクール」あるいは「家庭で責任を持って育てます」の言葉が、当局側を大きく刺激したらしい。学校長→市教委と報告が伝わるうちに、親側の言った文脈とは切り離されて解釈されたようである。
・ 新潟市の教育委員会規則によると、出席督促は各学校長の判断で出すことになっている。そのため、親側にとっていったん話がついているはずの学校長から文書で出席督促がなされた。これは、親側に大きなとまどいと衝撃を生じさせた。実質の指揮者は市教委である。校長たちは板挟みの立場と思われる。
・ 新潟市教育委員会は、2006年4月からの「不登校未然防止プロジェクト」で、2008年までの3年間で、不登校の児童生徒を半減させることを目標にしていた。
・ 不登校に対する学校側の基本方針は、時代によって大きく揺れている。「学校復帰一本」→「容認、静観」を経て、現在は、「放置せず」の方針に変わり、マニュアルも存在する。これは、現場の教職員には、通常業務以外のたいへんな経験と判断力と時間的・体力的負担を生じさせる方針であり、積極的な実行は困難である。現場から市教委へは、ツジツマ合わせの報告が多くなり、市教委の判断が現実に立脚しなくなるのではないか。
また、「放置せず」は基本的には学校復帰策の一つであり、それでは無理な事例がかなりあると思われる。
・ 不登校は、大きな社会問題であり、学校に行かないことは事実上容認されている。しかし、そのための法的整備はなされていない。そのため、行政の対応が恣意的であるし、教職員も、親も、法律の援助なしのつらい立場を強いられることが多い。
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世界の義務教育には、いろんなものがある。アメリカ、イギリスなど、家庭で教育することが合法である国も多い。
「でも、日本は、憲法で就学義務を定めている」
と思っている人たちが、けっこう多いようである。
これが、違うのである。
憲法ではない。
憲法26条は、保護者が子どもに普通教育を受けさせる義務を定めているだけである。
だから、”家庭で受けさせる普通教育”や、”フリースクールで受けさせる普通教育”が法律で定められて義務教育とされても、かまわないのである。
教育基本法も、普通教育を受けさせる義務としていて、就学義務としてはいない。
『学校教育法』という法律で、はじめて就学義務が現れる。
日本の義務教育の構造そのものは、意外と柔軟なのである。普通の法律を作るだけで、いくらでも新しい義務教育を作り出すことができる。
『学校教育法』は1947年にできたもので、住み込み奉公に出されている子どもや、家業を手伝わされている子どもたちを就学させることを念頭に置いていた。それで、親に対して、教育委員会が就学を強制できるようにした。
当時のこととしては理解できる。ところが、数十年後に、学校ストレスのために学校に行けなくなる子どもたちが何万人も現れるということは、その時代にはまったく想定していなかった。
今の時代に義務教育が行き渡るようにするには、就学督促を定めるより、親側に「うちの子にあった教育を可能にしてください」という教育請求権を定めるべきだったのだ。
『学校教育法』ができた1947年には、『世界人権宣言』がまだ出されていなかった。『世界人権宣言』は、「親は、子に与える教育の種類を選択する優先的権利を有する」としている。
この、親側の立場の尊重が、その後も日本の教育システムにまったく取り入れられなかった。そのため、義務教育は、いつまでたっても教育の配給制度なのである。
『学校教育法』だけで、すべての親が教育義務を果たせるようにする、というのが無理であることは、不登校の子どもたちが現実に13万人近くもいることで、明らかである。
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いま世界を見渡して、スウェーデン、フィンランド、デンマーク、オランダといった北欧の国々の教育がよくできている。競争的でも、点数主義でもなく、子どもの発達を中心においている。なおかつ学力は高い。
いじめ、不登校なども、きわめて少ない。国は豊かで、国際競争力も高い。
この北欧型教育ができてくる基盤で重要なのが、教育を受ける側の人権意識、それと親の教育選択権である。
人権意識というのは、人間同士でこういうことは尊重するものだという道徳意識を結晶させたものだ。教育に欠かせない。
親側に教育選択権があるから、親のニーズに応えて、どんどんいろんな教育が沸き起こってくる。親が、子どもの教育に責任を負うし、教育に参加的、協力的である。
教育を選ぶ権利が保障されているので、内容の悪い学校は、改善を余儀なくされる。
学校設置の自由があるし、学校はそうとうな自由度を持っているが、東アジア諸国のような進学競争によるランク付けが起こっているわけではない。
「学校の内容が悪かったら、自分たちの学校を作ってよい」という保障は大事なものだ。これがなければ、学校は社会主義国の国営企業と同じである。学校は、いくらきれいな理想をとなえても、実体は規則と書類と責任逃れに、がんじがらめになる。
国際人権A規約(日本が批准している人権条約)は、保護者が国の設置する学校以外の学校を選択する権利を保障しているし、個人及び団体が教育機関を作る権利を保障している。
これが教育の国際水準である。
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不登校では、もっとも苦しんでいる者が非難され追い詰められてしまっている。
子どもが学校にいけなくなるとき、子どもはものすごいストレスを抱えている。反抗しているとか、怠けているとかいったなまやさしいレベルではない。たいていは、子どもが強度のストレスにさらされ、逃げたくても逃げられない状況に長く置かれ、ついに限界に達してしまった状態である。
多くの場合、不登校の子どもは、外界に対応するための中心が機能しなくなっている。
だから、「どうして学校に来ないの」と尋ねても答えが返ってこない。
「なにがあったの」と尋ねても答えが返ってこない。
理由や立場があるようだったら、人に訴えたり、闘ったりできたであろう。言葉などありはしない。赤むけにされたイナバのシロウサギが、洗濯機に入れられてガラガラ回されているような状態である。
ところが、従来型の義務教育では、頑張って学校に行くことそのものを教育だとしている。学校に来れないとしたら、やむを得ない病気か、そうでなかったら怠けやわがままなのである。そのどちらかに分類して考えるから、なかなか実情が見えてこないのである。
「学校でストレス状態にある子ども」という捉え方が確立していないことが大問題である。
また、「教育方法が子どもに合わない」という発想がない。日本では、教育機関を作る自由がないことに、あまりに長い間慣れてきたので、教育方法の比較対象がないのである。今の教育方法が、あまりに絶対視されている。
だから、子ども個人と家庭の要因ばかり探す。本人や家庭の要因は、誰だってあるに決まっている。だからそれで済まされてしまう。
不登校に対しては、学校への就学義務など頭から追い払って、「この子の心身の健康のために何が必要か」ということを白紙から考え、実行できるようにすべきだ。家庭でもいい、新しい教育機関ができてもいい、憲法がすべての保護者に対して教育の義務を定めたのだから、どうのような事情があろうとその子に合った教育が沸き起こるように、法令や組織を整えなければいけないのだ。
それは、憲法の要請なのだから、法令がとか予算がとか人員がとか、そんなことはすべて越えられるはずなのである。
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先週、「子どもたちが威圧されていること」を書いたが、子どもたちが学校ですさんでいくのに、別なコースがある。
これは、先生がリーダーシップを発揮することができない教室で起こる。子どもがとても他人迷惑なことをしたときに、「だめだよ」と注意することができない。そのうち、教室の中での、他人に迷惑な行動がどんどん広がる。だんだんと、教室の中が力づくの世界、押しの強さがまかり通る無法地帯になっていく。
その中で、子どもたちはなにが正しいのやらわからなくなり、他の子どもたちに圧迫される。まわりで起こっていることがあたりまえのことだと思い、自分もけっこう他人迷惑なことをする。
このコースは、先生の直接の威圧でひしゃげていくのではなく、子どもどうしの力ずくの世界によってひしゃげていくのである。
教育に直接たずさわっていない人たちは、教育問題があると聞くと、
「管理しすぎるからそうなるのだ」
か
「規律がないからそうなるのだ」
のどちらかの答えを出すことが多い。
しかし、実際はどちらもあるし、そんな単純な問題ではないことが多い。
でもなによりも、あの学校の雰囲気には、基本的に威圧的なものがあると思う。その雰囲気の中で緩めると、子どもたちが逆襲に出たり、わがままになったりする。
学校で当たり前になっている、講義形式の授業を次々とこなしていくタイプの教育にも、基本的な無理があるように思う。あれは、大人なら通用する教育スタイルを、そのまま子どもにも持ってきただけだ。その基本的な無理から、教師側も無理を重ねるようになって、権力型や放任型が現れるのではないかと思う。
もっと、家庭的な雰囲気が必要だと思うし、教科書より作業が中心になったほうがいい。個人として集中する時間、遊び的な時間、祝祭的な時間などでリズムを作っていったほうがいいと思う。
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不登校は、教育難民だと前回に書いた。
特定の学校に合わないことは誰にでも起こる。それは、会社や役所でも、どうしても合わなくて辞める人がいるのと同じである。もし辞職という手段が残されていなかったら、深刻な心身の病気や、自殺が頻発する。
学校は、たくさんの人たちの集まりであり、いろんな人間が居ていろんな人間関係が生まれているところである。非常に追い詰められてしまうケースがあると想定しなければいけない。
学校がそういう事態を想定していないのである。
教育委員会もそういう事態を想定していないのである。
文科省もそういう事態を想定していないのである。
どこも、「当面はやむを得ないでしょう」と言うことしかできない。
なぜかというと、「学校教育法」という法律が、就学義務だけ定めて罰金まで用意しているのに、もし子どもが学校に合わない場合の救済策にまったく触れていないからである。
学校も、教育委員会も、文科省も、法律に忠実でなければいけない公務員達の集まりである。
学校だけで教育を担うのは無理という状況があっても、
「学校だけが教育である」
「学校には行かなければいけない」
「勝手に教育機関を作ってはいけない」
と法律を繰り返すしかないのである。
それでも現実に、学校に来ない子どもたちがいる。そこで、そのうちに学校が改善されて、どの子も学校を嫌がらなくなる、という希望が広まっている。どこかでうまくいった例が、たちまち日本中に広がるように思い込む。
これは幻想である。
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義務教育の考え方を変える必要があると思う。
親には子どもを教育する義務があることである。
これが、義務教育というのは、国が提供する教育を受けなければならないことだ、と誤って解釈されている。だから、義務教育は、教育の配給制度になってしまった。
配給といっても、受け取らないわけに行かない強制配給である。この配給に要望を出すと、じきに「そこまで対応するのは無理です、当方も忙しいことをご了解ください」とか「お子さんが特別です。家庭でしっかり育ててください」というような答えが返ってくる。
この答えの多くは、学校の現実としては正当である。しかし、保護者の立場が見えていない。保護者には他の教育手段がないのに、そういう現実論ばかりいうから、保護者側に不安と不信がたまるのである。
結果は、攻撃的な保護者がたくさん発生する。他の公共領域では、こんなにクレームが発生しない。学校と同じように子どもを扱う保育では、こんなにクレームに悩まされていない。
個別の学校の対応に限界があることは当然である。問題は、教育行政のほうにある。教育行政が学校と一体化しすぎているのである。保護者の立場が軽んじられている。
保護者の教育義務を定めたなら、それに対応して「教育を請求する権利」と、柔軟に教育が発生してくる仕組みを作っておかないと、教育難民が発生してしまう。それが、不登校である。
民主主義が発達した国の多くでは、国が提供する以外の教育を親が選べるようになっている。国は、本当の意味での最低基準を設定しているだけである。学校教育を提供するのは自治体や私立学校である。学校に合わない子ども達が発生すると、それに応じた教育が、なんらかの形で発生してくる。どこを選んでも、無償であるようにしている国が多い。
その柔軟性が、必要なのである。
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