教育を、権威と権力から解放すること

ひさしぶりに記事を書いています。

人間には学習本能がある。それは、遊びの形で現れてくる。遊びと学びを切り離すのは間違いだ。遊びを充実させて、学びにしていく。

不登校は、「甘え、わがまま」ではない。人間が、逃げるもならず闘うもならずという状況に置かれると、人とまともにコミュニケーションもとれないような状態になる。回復にはどうしても時間がかかる。でも、正しく対処すれば、必ず回復する。

教育を、権威と権力から解放すること。そのとき、人の心に真実を見る力が育ってくる。

そんなことを考えつつ、フリースクールで講師をしたり、ホームスクールの人たちを支援したり、私塾で小人数を教えたりしています。

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公立学校はサラリーマン養成所

 子どもたちは教育を受けるうちに、どこかの時点で、自分の職業につながる教育を選択します。

 その選択の時点が、今の日本では、あまりに早い時点になっているのではないでしょうか。それも、選択ではなく、それしかないという形でコースを押し付けられます。どういうコースかというと、サラリーマンになるコースです。
 小学校が、まるでサラリーマン養成所のようなものになっているためです。
 
 このコースには、明示されていないカリキュラムがあり、次のようなことを子どもたちにまず身に着けさせようとします。
 
・休まない、遅刻しない。
・ノルマを達成する。
・評定をよくするために働く。
・無味乾燥さに耐える。
・命令に服従する。
・褒められたい、叱られたくない一心にさせる。
・仕事を家に持ち帰る。
 いずれもサラリーマン生活で、苦痛の大きい部分です。大人たちが、自分たちが耐えなければならないことを子どものときから耐えさせようとする。「社会に出れば厳しいんだから」が、この人たちの口癖です。
 
 しかし、休まず遅れず指示に服していることなど、簡単なことです。大人になれば当たり前にできます。子どものときはなかなかできませんが、それはもっと他にやりたいことがあるからできないだけです。その、もっと他にやりたいことが、人間発達の上からは重要な意味を持っています。
 
 中学生くらいまでの年齢は、もっと人間としての基本的な身体や感覚や情動を作っている時期です。子ども時代はかけがえがありません。
 いまの小学校、中学校は、結局のところサラリーマン養成所になってしまっています。そうではない、もっと人間の発達に即した教育が、切実に必要とされています。

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不登校は制度公害(9) 『学校教育法』の時代遅れ

現在の日本のもっとも緊急な教育問題は、画一的な学校教育を強制しているために、教育を受けられない子どもが大量に生じてしまっていることである。その最大原因は、『学校教育法』の不備である。 

『学校教育法』は、国によって標準化された学校に出席することだけを教育と認め、それに出席していないと就学義務違反になる仕組みである。この仕組みのために、日本の義務教育システムは不登校問題に対応できなくなってしまった。既存の学校では無理だ、という子どもたちが現れても、いかに既存の学校に戻すかの施策しか取りようがないのである。

『学校教育法』は昭和二二年の法律であり、子どもを無理やりにでも学校に行かせるのが恩恵だという考えのもとにある。その時代の子どもが学校に行かない主な理由は、教育に対する親の無理解だったり、家が貧しいためだったり、子どもが住み込み奉公に出されているためだった。そういう時代の法律である。 

現代で学校に行かなくなる理由は、学校と子どもが合わないことである。子どもに恐怖反応がある場合が多い。しかし、教育運営では、戦後になっても民主主義原則がなかったために、実情がなかなか把握されなかった。生き地獄と言ってよいものが多発していた。

 民主主義原則がないと、言いたいことが言えなくなるのではない。権威者の言うことが鵜呑みにされるようになるのである。学校に行けない子どもたちは、学校に適応できない自分たちが悪い、と信じ込んでいた。親たちは、自分の育て方が悪かったと信じ込んでいた。不登校の問題認識はきわめて遅かったし、その深刻さが認識されなかった。
 

遠からず不登校問題は、水俣病など公害病と同列に扱われることになるだろう。不登校問題は、民主主義原則がないとどんなことが起こるかの見本として、何百年も語り継がれると思う。 

『学校教育法』は、六・三制教育のスタートが急に決まったため、原案作成から国会通過まで二ヶ月足らずで制定された。文部省原案がそのまま通ったため、戦前と同じ義務教育観が、『学校教育法』に残った。国会は、深い審議をしなかった。法案を早く通してやって、新しい教育をスタートさせてやろうという一心だった。たしかに、それまでに比べれば画期的な法律だったのである。 

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不登校は『制度公害』(8) 就学義務のない国デンマーク

就学義務のない国デンマーク


 デンマークに住んだことのある人に話を聞いた。デンマークでは、保護者、住民に「教育は自分たちのもの」という意識が定着している。不登校問題のようなものはないそうである。

デンマークの教育制度は、たいへんに柔軟で、いかようにも教育が生まれるようになっている。

親が公立学校に満足できない場合もある。そういう人たちのためには、私学がいろいろとある。自由主義系、各種宗教系、シュタィナー教育、学力系などさまざまある。親たちのさまざまな教育観に応じて、できていったのである。私学には運営費の七五%の補助金が出ている。だから、富裕な家庭でなくても、子どもを私学に通わせることができる。生徒の一二%が私学に行っている。

親が自分たちで学校を作ってしまう道もある。学校を作ること自体はまったく自由である。学校を作りたい親たちが教育省に相談すると、教育省は「こうすればいいんですよ」というマニュアルをくれて、なにかと面倒を見てくれる。学校を作ることに許可は必要ない。その上、ごく緩い基準を満たしていれば補助金をもらうこともできる。敷地や校舎はなんでもいいし、親が自分たちで先生をやってもかまわない。

気にいった学校がなければ、家庭で子どもを育てることもできる。それは法的に保護されている。

ところがおもしろいことに、デンマークでは、家庭で子どもを育てる人の数は、統計の数字にも表れないほど少ない。学校に行かない自由があるからこそ、子どもが来たくなるような学校ができていくのである。

高等教育も、大学まで無償である。

デンマークでは、一八世紀前半に、グルントヴィという"国父"とも言うべき人物が現れて、一国の文化に大きな影響を与えた。グルントヴィは、民衆教育の父とも言われ、「義務教育は怠惰と無関心を生む」「親の教育権を国家に侵されてはいけない」というような主張をした。グルントヴィの教育思想に呼応して、フリースコーレと呼ぼれる暗記や訓練によらない自由な学校を作る運動が起こり、現在にいたるまで一世紀半の歴史を持っている。このフリースコーレの運動が、公立学校にも大きな影響を与えている。

現在でも、デンマークの教育では、競争をさせず、点数評価に重きを置かない教育哲学が広まっている。=二歳までは、点数の試験を課してはいけないという法律すらある。ところが、国際的な学力調査をやると、デンマークは先進国の平均的なレベルにあるし、成人の学力となるとさらに高い。

世界中を旅し、人々と暮らしぶりを見てきた友人が言っていた。

「おそらく、デンマークは世界でも一番暮らしやすい国じゃないですか」

それは、教育のためだと思う。子どもたちを、自分自身と社会を信頼し、知恵を出し合って生きていけるように育てているのだと思う。

なお、国ではなく親に教育権があるというのは、欧米諸国では常識である。だから、公立学校の教育に問題があっても、親がなんとか別の教育を手配できるのである。

(拙著「変えよう!日本の学校システム」からの引用です)

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不登校は『制度公害』(7) 将来の心配

将来の心配

保護者の側に、子どもをなんとしても学校についていかせなければならない理由がある。日本の義務教育制度は、毎年一本の列車だけ用意して、そこに全員を乗り込ませようとしているようなものだ。「頑張りましょう。ここで勉強についてゆけないとたいへんですよ」なのである。なんとしてもこの列車に掴まっていないと、教育の機会を失ってしまう。

そのために、配慮の必要な子どもたちへの教育が、あまり発達しなくなった。普通なら「うちの子に合った教育を提供してほしい」という声が出てきて当然の人たちから、「みなと同じにしてくれ」という要求が出てくる。

学力不振、不登校、障害児などで、学校が別なクラスを用意しようとすると、親たちに不安と恐怖が走る。列車に乗れないことが確定するからである。

普通学級がよいか、別な道がよいかは難しい問題である。ケースバイケースとしか言いようがないし、教育方法にもよる。しかし、なんでも普通学級でいっしょがいいということはない。

保護者側は、うちの子に合った教育を提供してほしいと思い、またみんなと同じにしてほしいとも思う。そこで、学校がなにもしないでいると「画一的だ」という批判が起こり、なにか別の教育を作ると「差別だ」という批判が起こる。

それは、年齢ごとに一本の列車しか仕立てない、という構造を変えずに、ついてこれない場合にその列車に乗らなくていい措置だけを作るからである。「無理しなくていいよ」と、途中駅で降ろされてしまうようなものである。そのため保護者側に、「将来を閉ざされてしまう」「切り捨てられる」という恐怖が生じる。

もっと具体的に言えば、小中学校で皆と同じに勉強させてもらわないと、後で再履修できるチャンスがないのである。それは、進学の可能性を閉ざされることでもある。

欧米諸国にはたいてい、何歳になっても義務教育の内容を無料で教えてくれるシステムを作ってある。そのようなセーフティ・ネットが日本にないためである。

義務教育と脅す教育とは、まったく別のことである。
 

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不登校は『制度公害』(6)

 不登校は『制度公害』です。制度の不備が原因で、たくさんの親と子どもたちが苦しんでいます。学校復帰策だけでは解決できません。教育を多様化して、フリースクールやホームエデュケーションを合法化すべきです。
 以下は、拙著「変えよう!日本の教育システム」からの引用です。


ついてこないとたいへんだぞという脅し

 小学校と中学校は義務教育なので、不登校をすると「学校に行っていないことを責められる恐怖」がつきまとう。子どもたちが外に出なくなる大きな理由は、近所のおばさんにばったり出会って「ああら、○○ちゃん、学校はどうしたの」と言われることである。答えれば、もっと詮索されお説教される。答えなければ、「変な子、社会性のない子」と言われる。「お巡りさんに見つかったら、捕まる」とほんとうに思っている子もいる。

 さらに、不登校の子とその親が追い詰められる理由がある。義務教育にまつわるたくさんの固定観念のためである。

 義務教育を普及させる時代に、教育関係者は「学校に来ないと将来はたいへんなことになるぞ」と、脅しに訴えてでも、子どもを学校に来させた。その脅しというのは、次のような教育哲学である。こんなようなことを、先生たちが話のはしばしで言うのである。同じようなことをけっこう言う親たちもいる。

 学校に来ないことは、人間としてあるまじきことである。病気と忌引き以外には、決して許されない。学校に来ないことは、たいへんなわがままである。そんなわがままを許したらその子がまともな人間ではなくなり、将来が破滅する。学校に来ないなら、その子はまったくの無知無学のままであり、人とつき合う能力も育たず、常識も育たないであろう。社会の落伍者となるであろう。
 学校にもいささかの問題はあるかもしれないが、そのくらいは我慢する力をつけなければいけない。我慢して努力することがなによりも大切なことなのだ。そうでないと、その子は社会で生きていけなくなる。

 すべての先生が言うわけでもないし、言う先生でもこれだけいっぺんにまとめて言うわけではない。しかし、子どもの中にはこのような総計ができる。すくなくとも私は、学校でこのような教育哲学を刷り込まれた。どんなに学校がいやなときでも、恐怖におびえて学校に行った。

 この教育哲学は、学校に子どもを来させ続ける効果がある。しかし、もしも子どもが現実に学校に行けなくなった場合には、たいへんな事態を引き起こしてしまう。子どもは自分が世の中で生きていけないのだと思い、自分を責め続けて、奈落に落ちていくのである。

親もまた、この教育哲学を刷り込まれて育った。それで、自分の子どもの不登校に直面したとき、大きな恐怖と不安に襲われる。

 この教育哲学にはデータの裏づけがない。就学義務の法律がまずあって、子どもをどうしても来させるために生まれた教育哲学であろう。ようするに、子どもが休まないように大人が気軽に牽制球を投げているのである。
 この教育哲学は、生徒側にも信じ込まれた。つまらなくてつらい学校であっても、この教育哲学を信じれば、学校が意味のあるものになる。

不登校やホームスクールで育つ子どもたちが増えているので、学校に行かなくても子どもは育つということは幾多の事例が証明している。学校には多くの長所があるが、学校に行かないことは、社会的生存そのものまで危うくするものではない。脅しに訴えて吹き込んだことは、恐怖や固定観念になる。義務教育に関して、「なんとしても行かせなければ子どもが破滅する」ということが広く信じられている。

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不登校は『制度公害』(5)

 社会的問題になるほどの「不登校」が生じるのは日本だけです。 「不登校」の原因は、いじめでも学力不振でもありません。それだったら、世界中にあるのです。子どもと学校が合わないときに、日本には他の教育手段がないことが原因なのです。不登校は『制度公害』です。

学校しかない 

 ある不登校の女子中学生とその母親が、私の私塾に来ていた。その子は、どこかに居場所と仲間を探していた。

 その子は、髪を茶色に染めていたが、地味な服装をしていた。彼女は無表情だったし、ほとんど無言だった。初対面による緊張ということもあるだろう。しかし、彼女からは、人とつき合いを持っていくためのオーラのようなものが消えていた。人と人が出会うとき、お互いの見えない手のようなものが出てきて、関係を探るものだ。彼女からは、その見えない手のようなものが出てこない。

 このような不登校の子どもたちに、何人出会ったことだろう。

彼らは、生きていくためのもっとも大事なところが、かじかんでしまっていた。強い恐怖と不安にさらされ続けたに違いなかった。

 母親が、おおまかな状況を説明してくれた。その子は、中学一年の秋から学校に行けなくなったという。

 私は本人に「どうして学校に行かなくなったの?」を尋ねない。詮索する関係になりたくはない。それに、本人が行かなくなった原因を説明できるくらいなら、こんなに追い詰められはしないものだ。時がたつと、「実は学校でこういうことがあった」と、本人から話してくるものだ。

 目の前にいる女の子の事情がなんであるか私は知らない。しかし、その子は「居場所と友達がほしい」のだった。それだけ聞けば十分だった。仲間ができると、次の一歩もおのずと出てくるものだ。

 だが、現在の教育システムでは、不登校の子どもの「居場所と友達がほしい」に応えることがとても難しいのだ。

 その親子は、教育委員会が提供する「適応指導教室」にも行った。

 そうしたら、指導教室側は、彼女が髪を染めていることを問題にした。それを直せと。彼女は、教室を続けられなかった。適応指導教室は、中学校にどう適応させるかだけしか考えていなかった。

 私も、ある適応指導教室を見学させてもらったことがある。それは、ミニ中学であり、時間割と制服があり、学校の先生たちが教えていた。授業内容だけは、緩やかだった。こういうやり方がちょうど合っている子どもたちもいるだろうと思った。「自由でいいよ」と言われるより、時間や制服で形を作ってもらうほうが安定するのだ。しかし直感的に、それは少数派だろうな、と思った。その後統計資料を調べたら、適応指導教室を利用する生徒の数は、不登校のだいたい一割だった。適応指導教室にはほかのタイプもあるが、どのようなタイプであっても、それに合っているのは一部の者だけである。

 親子は、民間でなにか道はないかと探していた。

 私のフリースクールは手狭で、新規の生徒を受け入れられる状態ではなかった。心あたりのあるところが二、三あったが、どこもすでに閉鎖していた。民間のフリースクールの多くは、経済的事情の苦しいところが多い。閉じる場合に一番多い理由は、経済的な理由だ。草の根フリースクールは、場所とサポートの大人を確保する割に生徒数が少なく、場所代、光熱費、人件費を捻出するのがたいへんなのだ。

 私は、とりあえず、居場所を紹介してくれそうな団体を紹介した。そして、たくさんの人が不登校経由でちゃんと育っています、ということを言う。

「中学時代は、欲をかかず、とにかく生き延びることですよ。高校の年齢になると、ぐっと楽になって道が拓けてきますから」

 ほかを探そうにも、中学段階では教育を学校が独占して、ほかの教育が存在しない。高校年齢になると、義務教育ではないし、教育手段がけっこう複線化しているし、プレッシャーがなくなるので、生きやすくなるのである。そのうちに、本人がアルバイトを見つけたり、進学の道をつけたりしてなんとかなっていくものだ。

このような親子に、たくさん出会った。

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不登校は制度公害(4)

 大量の不登校という現象は、日本に特有のものです。決して世界的なものではありません。不登校は、制度の不備が多数の子どもを追い詰めている『制度公害』です。
 以下は、拙著「変えよう!日本の学校システム」 一 不登校は制度公害 からの引用です。

とことん追い詰められるメカニズム 

義務教育の小中学校に子どもが合わないと、その家庭はたいへんな思いをする。行けない、しかし行かせなくてはならないという、抜き差しならない状況になる。

「泣く子と地頭には勝てない」ということわざがあるが、不登校の子どもを持った親には、泣く子と地頭(就学義務)の両ほうがいる。どうにもならないのである。これは、学校の先生にしても、同じような状況である。

不登校は、怠けやわがままと捉えられやすい。子どもは、なぜ学校がいやなのかなかなか表現できないからである。しかし、子どもの様子を見ればわかる。明らかに、強い恐怖や不安に捉えられているのである。 

どのような団体であっても、そこに合わないケースは生じるものである。人間どうしがいっしょにいる以上、雰囲気にどうしてもなじめないということは生じるし、いじめや誤解や反目がなくなることはあり得ない。それは、人の世の常であろう。ましてや、子どものことである。与えられた教育方法にどうしても合わないことも起こる。 

そういうケースのために、その団体を離脱する自由と、ほかの道が柔軟に沸き起こるようにしておくのが、知恵というものだ。そうしないと、心身の重大な病気や、自殺に追い込まれるケースが頻発してくる。どんな会社でも役所でも、最後の最後は辞職するという手段がある。夫婦でも離婚という手段があるではないか。 

ところが、学校には離脱する自由がない。病気以外の理由で学校に行かないと、すなわち就学義務違反なのである。それで、不登校の子どもと親の立場がなくなってしまう。現在の日本の義務教育制度には、一本道しかない。その一本道を、子どもをほめたり脅したりで頑張らせて渡らせるだけなのだ。その綱はそう細いわけでもないが、落ちたらそれまでである。 

不登校が増えたので、学校に行かないことも現実的には容認されている。しかしそれは、「どうしようもない場合は、大目に見ます」と言っているだけである。そこで、学校に行かないことの不安感、罪悪感がいつもつきまとう。抑うつ状態に拍車をかける。 

不登校の子どもの立場は、離婚が罪悪であった時代の離婚女性の立場によく似ている。離婚した「出戻り」女性が、人間として欠陥があるように見なされ、実家で人目をしのんで生きるしかなかった時代がある。それと同じような状況なのである。 

日本の義務教育は、コースをはずれたときの安全装置を作ろうとしなかった。それどころか、「子どもたちが『今落ちこぼれてもかまわない』と考えたら、子どもたちが努力しなくなる」と発想したのである。これには、実際に落ちこぼれてしまう子はどうするのだ、という思慮が欠けていた。

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不登校は制度公害(3)

 不登校は、制度が不備であるために、自分に合った教育に出会えない子どもたちがたくさん生じ、学校に行かないことを非難され、追い詰められていったという現象です。不登校は『制度公害』です。
 以下は、拙著「変えよう!日本の学校システム」からの引用の続きです。


 教育方法が狭い

小学校低学年の例である。

ある母親が、人の紹介で、私のところに教育相談に来た。その人は、しばらく子どものことを説明すると、涙を流し始めた。息子は、小学校一年生の秋までで学校に行かなくなったのだ。息子は、顔にチックが出ていた。

母親が、なんとか学校に行かせようとした時期もある。そのため子どもは親の言うことに素直でなくなっていた。先生からは、「親離れができていない」と言われた。相談に行った公的機関のカウンセラーは、幼児期の育て方に問題を見つけた。

「私の育て方が悪かったんです」

 と母親は涙をぬぐう。カウンセラーに言われたことは、重く受け止めている。しかし、実際はどうしようもないのである。過去の原因を見つけたところで、タイムマシンで過去に飛んで解決できるわけではないのだから。 

このままだと将来はどうなることか、日々自分が子どもをダメにしているのではないかと、不安な毎日が続く。そのため息子にあたってしまうこともある。それで、また自責の念にかられる。

いっしょにやってきたその子は、隣の部屋で遊んでいた。工作が好きで、工作用紙をたちまち切ったり貼ったりしてなにかを組み立てていた。一人でよく遊ぶし、そうとうにクリエイティブだと母親が言った。よく行き来する友達もいるとのことだった。

 この子に、そう大きな問題があるわけでもない。障害と分類されるようなものを持っているわけではない。母親からの話を聞くと、かなり感受性の強い子だし、自分のやり方を通そうとする子でもあった。そのため、なにかのきっかけで担任の先生とこじれてしまったようであった。たぶん、学校にとっては、その子はなんらかの問題児であったろう。先生には先生のご苦労があったろう。しかし、それだけのことである。
 

学校と教育方法に合わなかっただけで、この親子がここまで追い詰められることはないだろう。親は、転校も考えたが、次の学校でも同じことになる可能性が大きいと考えた。

一方通行的な集団授業に対する反省は、世界中で起こっており、各種のオルタナティブ教育(画一的な教育の代替として第一次大戦後頃から起こってきた新しい教育法の総称。フリースクール、シュタイナー教育、モンテッソーリ教育などが有名)が存在している。それが、日本で解禁されていれば、ずいぶんと選択肢がひろがっていたろう。そこまで本格的な教育でなくても、とりあえず、親切な大人が接して信頼関係を作り、好きな工作でもやらせ、友達ができやすい環境を作るくらいだったら、私でもできる。 

ホームスクールが制度的に認められていれば、世間の目をしのぶような立場を余儀なくされなくても済む。

現在の学校だと、まず集団授業があり、それについていけるかいけないかの二者択一である。そして、現状の教育に合わないと、生徒または親の心理学上の問題にすぐに飛んでしまう。心理学上の問題がすぐに浮上するのは、教育方法のオプションが狭いということでもある。 

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道徳教育の無責任体制

道徳を教科にすることに反対です。

むかしむかし、ある国の王様が、すべての人をよい人にしようと思いました。
王様は、それは子どもたちの教育から始めなければならない思いました。王様は教育にくわしい学者たちを呼んで
「何を教えれば、よい人間になるのか」
と尋ねました。
学者たちは、頭を寄せ合って一生懸命に考えて
「自主、自立、自由と責任、向上心、個性の伸長、希望と勇気、相互理解、寛容、....」
とたくさんのよいことを言いました。
「どうやってそれを教えるのか」
そう王様は尋ねました。学者たちは
「それは私たちは知りません。私たちが知っているのは何を教えたらいいかだけです」
と言いました。

そこで王様は大臣に、
「どうやって、こどもたちによいことを教えたらいいのか」
と尋ねました。大臣は
「法律を作って、学校の先生たちに教えさせればいいのです」
と言いました。
「先生たちはどう教えたらいいのかね」
と王様が尋ねると、大臣は
「それは私も知りません。でも、法律で目標を決めて、あとは先生たちが工夫しなさいと言えばいいのです」
と言いました。

そこで王様は先生を呼んで
「どういう工夫をすればいいのかね」
と尋ねました。先生は
「そんな難しいことは、私は知りません。でも教科書を作ってもらえれば、その通りに教えることはできます」
と言いました。

それでその国がどうなったか、ですって?
子どもたちが大人の真似をして、みんなが「誰かさん任せ」にする国になったとさ。

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不登校は制度公害(2)

 不登校が小中学校で12万人も生じる現象は、個々の子どもと家庭の問題であると捉えている限り、解決しません。
 不登校は、制度が不備であるために、自分に合った教育に出会えない子どもたちがたくさん生じ、学校に行かないことを非難され、追い詰められていったという現象です。不登校は『制度公害』です。

 不登校を学校システムの問題として捉えるべきです。以下は、拙著「変えよう!日本の学校システム」からの引用の続きです。


制度が違う国では発生しない ── 続き

 もし、アメリカやヨーロッパで、日本の不登校問題と同様のことが起こったらどうなるだろうか。
 たちまち、民間に新しい学校がたくさんできて、子どもたちを吸収していくだろう。家庭で子どもを育てる親も増えるだろう。新しい教育運動がたくさん起こるだろう。公立学校の改革運動も起こるだろう。学校に行けない子どものためには、サポート体制ができるだろう。学校や教育行政が十分な教育を提供しない、と訴訟が頻発するであろう。

 現実に、このような柔軟な動きがすぐに起こるから、アメリカやヨーロッパでは、問題が小さいうちに解決されていくのである。

 日本では、不登校を、学校に適応できない子どもたちがいる、としか捉えられなかった。子どもたちをなんとか学校に適応させようとした。だから、不登校問題は解決不能な問題になってしまった。

 そんなことを話してから、私は言った。

「私は、不登校問題は制度公害だってよく言うんです。自分に合った教育を提供されないまま、学校に行くことを強制され、行かないことを陰に陽に非難され、追い詰められた子どもたちがたくさん出たんです。新しい教育が柔軟に生まれてくる構造がないんです。これは、制度の問題なんです」

 おびただしい数のこどもたちと家族が、学校に行けないことがもとで深刻な抑うつ状態になった。


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道徳の教科化に反対

道徳の教科化がなされそうです。
反対です。偽善を助長するだけです。
それより、学校がしている不道徳を改めてほしい。

子どもを点数稼ぎの世界に投げ込んで競わせるのが、たいへんな不道徳です。
命令して点数をつけて、ご褒美を出したり罰を与えたり。
これなんですよ。モノの見えない人間を大量生産しているのは。

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不登校は「制度公害」(1)

 不登校が小中学校で12万人も生じる現象は、個々の子どもと家庭の問題であると捉えている限り、解決しません。
 不登校は、制度が不備であるために、自分に合った教育に出会えない子どもたちがたくさん生じ、学校に行かないことを非難され、追い詰められていったという現象です。不登校は『制度公害』です。

 いま、文部科学省が「フリースクール等に関する検討会議」を開いています。超党派の国会議員が「フリースクール等議員連盟」を作っています。学校外の教育を認める方向で立法を含めた施策を検討しています。

 不登校を、学校システムの問題として捉えるべきです。以下は、拙著「変えよう!日本の学校システム」からの引用です。

制度が違う国では発生しない

 ある大学院生と話をしていた。その人は私に尋ねた。

「不登校の原因はなんだと思いますか?」

「制度問題なんですよ」

と私は答え、続けた。

「たとえばアメリカだったら、不登校問題は生じないです」

これはもちろん一面的な話であるが、ウソではない。

「え?」

と相手の若い女性は驚く。私は続ける。

「もちろん、アメリカには、学校恐怖もいじめも非行も学力不振もあります。学校をいやがる子どもはたくさんいますし、行かなくなる子どもたちもいます。それは、日本と同じなんです。でも、日本のような不登校問題は生じないんです」

 相手の人は、ちょっと理解できないという顔をしている。

「アメリカだと、学校に行かなくても、ホームスクールという道があります。子どもを学校に行かせないで育ててもいいんです。すべての州で合法です。だからアメリカで、子どもが学校に行かなくなっても、日本で『うちの子が幼稚園に行かなくなったが、困った』と同じ次元の問題なんですよ。それで、日本みたいに親子が追い詰められないで済むんです。私立学校も、かなり多種多様なのがあります。それに、もし今学校についていけなかったとしても、コミュニティカレッジという、タダかタダ同然で、義務教育段階を再履修させてくれるところがありますから、将来を深刻に心配しなくてもいいんです」

「なるほど、学校に行かないこともありということなんですね」

「ええ、そうなんです。単純な話ですよ。もし、子どもと学校が合わなかったら、合った学校を探すか、家庭で育てるかになるのがあたり前でしょう」

「そうですね」

「多くの国で、そのあたり前が、あたり前として通っています。だから、子どもが公立学校に合わないなら親が育てるなり、教育方針の違う学校を探すなりします。また、タイプの違う学校が見つけやすいんです。学校を作るのが自由だから、いろんな学校ができてます」

「へえ、そうですか」

 私は、欧米諸国の教育を研究していた。日本のように教育が規制されている国はない。

「スウェーデンなんか、生涯教育が発達していて、義務教育を満足に受けられなくても、後でいくらでもなんとかなるようにしています。ということはですよ、スウェーデンで子どもが学校をいやがっても、親も先生もあわてないで済みます」

ここらへんまで話すと、相手の人にも、不登校問題は制度問題なのだと私が言っている意味が通じてきたようだ。私は続ける。

「日本の場合、画一的な義務教育学校の中でなんとかするしかしようがない構造なんですね。子どもが小学校や中学校に行かなくなったらもうたいへんです。親はお先真っ暗になります。『ここでついていけなかったら』と親も先生も大あわてします」

「ええ、そういう圧迫感って、たしかにありますよ」

「極端な話、学校に行かせる義務がなければ、不登校問題は起こらないです。たとえば、デンマークなんか就学義務がないんです。不登校問題の起こりようがないですよ」

「それって、義務教育がないってことですか」

「いえ、親が子どもを教育する義務はあるんです。でも、それは、学校に行かせることとイコールではないんですね。学校に不満があれば、学校に行かせなくていいんです。家で育ててもいいし、親たちで学校を作ってもかまわない」

「なるほどね」

「ええ、日本は現在の学校を基本的に変えないまま、学校恐怖やいじめを根絶して、不登校をなくそうとしているんですね。そんなの不可能です」


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おバカさんにならないでね

あのね、世の中を見ていて、素晴らしいこともたくさんあるけれど、ああいうことになってはいけないな、ということもたくさんあるよね。

その中でも、これはほんとうに不幸をもたらしてしまう、というがある。それは、人々が集団を作って対立し、憎しみ合い、ののしりあい、殺し合うことなんだ。

たくさんあるよね。イスラム教もキリスト教も平和を言っているよ。でも、イスラム教徒とキリスト教徒は、昔からたくさん殺し合いをしてきた。

国同士の戦争がたくさんあった。いまも、たくさんある。自分の国の悪口を言われると殺したくなるんだ。それで、ほんとうに殺し合いをはじめてしまうんだ。

やっている人たちは、自分の国が絶対に正しいと思っている。それが、相手から見ると、すごいおバカさんだってわかる。それで、相手をののしる。ほんとうは、どちらもおバカさんなのにね。

遠くの国のことを見ていると、どちらもおバカさんだってこと、よくわかるんだけど、自分の国のことになる、頭が熱くなってしまう人が多いんだ。頭が熱くなった人たちは、自分の国の人は、自分の国に味方しなければいけないって、思うんだ。子どもにまで、「自分の国を愛しなさい」って言うんだ。

もし、お父さんとお母さんが喧嘩して、「私の味方だと言いなさい」って言ったらどうする? 悲しくなっちゃうよね。「もっと賢くなって」って、言いたくなるよね。

だれの味方をするか最初から決めたりしないで、どんなこともよく考えないといけないよ。それが賢いってことなんだ。

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多様な学び保障法の意味

 現在、民間から「子どもの多様な学びを保障する法律」(略称「多様な学び保障法」)を作って、すべての子どもの学ぶ権利を保障しようとする動きがあります。  この法律について説明します。
 骨子案が公開されています。

 1947年以来、子どもの「学ぶ権利」を護ってきたのは、「学校教育法」でした。「学校教育法」は、すべての保護者に子どもを「学校」に通わせる義務を課しました。市町村には「学校」を作る義務を課して、誰にでも通学範囲に学校が存在するようにしました。これによって、誰でもが学校に行けるようになりました。

 しかし、20世紀の終盤になると、「学校教育法」では子どもの学習権を保障しきれなくなってきました。

 80~90年代に急増した不登校は、21世紀に入っても10万人以上で高止まりしています。

 「いじめ」や「学級崩壊」などでは、学校に行くことで子どもの学ぶ権利が損なわれています。

 さまざまな障害を持った子どもたちに対して、既存の学校の対応には、限界があります。

 多文化社会化やグローバル化に対応して、インターナショナルスクールやブラジル学校などが急増しました。

 もっと子どもの主体性を尊重する教育が必要なため、無認可の学校や、ホームエデュケーションが民間に広がっています。

 そのため、民間から「多様な学び保障法」を作ろうとする動きが生まれました。これは、義務教育を「学校教育法」と「多様な学び保障法」の二本立てとして、すべての子どもの「学ぶ権利」を護ろうとするものです。

 「学校教育法」と「多様な学び保障法」の特徴を対照させて、表にしたものがあります。

 

            「学校教育法」      「多様な学び保障法」

・保護者の義務  就学義務         教育義務

            「学校」に通わせる   子どもに合った学びの
                           機会を確保

 

・質の確保     事前規制中心      事後チェック中心

            行政の基準で認可   保護者が登録・届け出

                           互助的な支援推進機構

                           助言や相互認証

 

・公費支出対象  制度化された学校   学習者個人(保護者)

           私立学校は私学助成  保護者に「学習支援金」を
                           給付

                           登録学習機関による代
                           理受領も可

 

・理念の志向性  制度が個人に先立つ  個人が制度に先立つ

          システム、公共圏が起点  生活世界、親密圏が
                            起点

 

(表は、吉田敦彦 大阪市大教授による)

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2015年、教育に変化が始まる年になりそう

 長らくご無沙汰していてすみませんでした。m(_ _)m

 健康問題と多忙でした。
 いま、元気です。(^^)/
 2015年は、日本教育にほんとうの変化が起こり始める年になると思います。
 理由は二つあります。
・ 「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」が改正されて、教育に対する首長の権限が強まった。
 教育に、より民意が反映されるようになる。
 もっと、わかりやすく言うと、知事、市町村長の選挙のときに、教育方針が争点になる。その結果も問われる。
 私は、教育は教育で民意反映の道を作れ、という意見です。教育が、首長や議会の人気取り政策に左右されてはいけないから。
 でも、民意反映がないよりはいい。
 みなさん、これから、どういう教育を望んでいるのか、どういう不満があるのか、どんどん言うべきです。
・ 不登校とフリースクールへの公的支援を、国が検討し始めた。民間側も、「多様な学び保障法」を準備している。
 いままでとは、まったく違ったタイプの学びの場が可能になってきます。
 たとえば、自宅で育つホームエデュケーション。授業を強制しないサドベリータイプ。などなど。
 今年はまだ、議論が起こってくる段階です。しかし、義務教育というのは、学校で授業を受けることとは限らない。他の道もあるということが、ということが浸透しはじめます。
 すべてが急に変わるわけではありません。
 でも、試行錯誤ができるようになって来ます。

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教育委員会の歴史(5) なぜ文部省は解体されなかったのか

 日本の教育委員会の歴史について、途中で止まっていました。申し訳ありませんでした。

 健康問題でした。
 じつは、心臓の手術を受けて、退院してきたところです。

 今療養中の身ですが、おかげさまで、日常業務から離れて書き物に専念できます。教育委員会の歴史について続けます。

なぜ文部省は解体されなかったのか

 アメリカが日本を占領したとき、すでに軍国主義一掃の方策はまとまっていて、解体すべき省庁のリストはできていた。内務省、文部省は、とうぜん、そのリストに載っている。内務省は秘密警察権力の元締め、文部省は軍国主義教育の元締めなのだから、眼をつけられるのは当然のことであろう。

 じっさいに、内務省は解体されてしまった。しかし、文部省は解体されなかった。

 この経緯はまことに興味深い。

 文部省が存続したことは、戦後教育行政の大きな分岐点の一つであり、その後への影響は大きい。このとき文部省がいったん解体されていたら、その後の流れは大きく違っていたであろう、とある文部官僚は述懐する。
 文部省が解体されなかった理由は、文部省がどのような官庁であるかを、よく示すものだと思う。文部省が解体されなかった理由を詳しく追ってみよう。

 1945年の終戦を迎え、文部省の方針転換は早かった。この最大の理由は、1945年8月18日、(終戦の3日後)東久邇内閣の文部大臣に就任した前田多門の政策にある。前田は、内務省から東京市助役、朝日新聞論説委員、ニューヨークの日本文化会館館長、という経歴の持ち主で、国際感覚と行政手腕を併せ持った人間である。

 前田文相は、いち早く、文化日本の建設を打ち出し、軍国主義の払拭にとりかかる。国際感覚を持つ前田にとっては、念願のチャンスが巡ってきたものである。
 前田文相はさっそく人事に手を付ける。文部省の局長クラスに田中耕太郎(東大教授)、関口泰(朝日新聞論説委員)、山崎匡輔(東大教授)という人たちを招聘して、文部省の指導層を一気に改革派に入れ替えた。こんな緊急時だからできたことである。

 とりあえず教科書にスミを塗らせたのもこのときの改革である。スミ塗り教科書はアメリカの指示によるとされることもあるが、そうではない。日本側の自主的な転換政策である。スミ塗り教科書はいかにも下策であるが、紙の手配もつかない状況では、やむを得なかったであろう。

 アメリカ側に占領行政の態勢ができて、教育における軍国主義一掃の指示が出てくるのは10月になってからである。
 その指示が出る前に、文部省は軍国主義一掃の基本的な方針転換を終えていた。

 アメリカ側は、文部省の転換を「改革の先手を打って、存続しようとする戦略だろう」と疑っている。しかし、その見方は違っている。前田は時代がよく見えている人間で、戦争が終わったのだから一刻も早く軍国主義を脱却しなければならない、という当たり前を実行していただけである。

 しかしながら、この前田改革のおかげで、結果的に文部省は「改革の先手を打って、存続する」ことが可能になった。従来の感覚で、アメリカ側の指示に抵抗しながら不承不承従っていたりしたら、あっけなくバッサリと切られたであろう。

 アメリカ側にしても事情がある。文部省を切りたくても、教育は、間接統治するしかないのである。占領軍が、学校を直接統治するなど不可能である。全国の学校に兵士を送り込み、銃を剥き出しにしたりすれば、抵抗運動に火をつけるようなものである。ましては、言語の壁がある。学校の教師たちがなにを教えようが、アメリカ人たちにはさっぱりわからないのである。全国5万に近い学校、40万人の教員、1600万人の生徒、これが反米抵抗運動の温床になったりするのはアメリカの悪夢である。

 軍隊や財閥は、解体すればそれでコトが済む。しかし、教育は解体してそれっきりというわけにはいかない。文部省を解体するなら、替わりの教育行政組織を作り出さなければならなくなる。

 実際にとられた政策は、文部省という中央省庁を分割したり、他の中央省庁に置き換えるというやり方ではなかった。教育を中央集権から、地方自治に転換するという方式をとった。この地方自治組織がすなわち教育委員会なのである。

 そのため、文部省の廃止は絶対に必要というものではなくなった。中央に文部省、地方に教育委員会と平行して別組織が存在することが可能であった。文部省は、権限縮小だけで済ませることができた。

 これが内務省の場合だと、建設省、厚生省、自治省などに分割したあとにも内務省が残るということはあり得ない。しかし、教育の場合は、地方分権にするという方針をとったために、アメリカ側は、文部省を実権のない援助機関とすることで足りるとしたのである。

 教育委員会はたいへんな難産で、なかなかすんなりと生まれなかった。生まれても当面は文部省に後見させないとやっていけないものだった。

 教育において、形式上は教育委員会が主役だが、実質的には文部省が教育の指揮を取っているという体制が、このときにできる。昭和23(1948)年のことである。

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教育委員会の歴史 番外編

 教育の歴史を調べていて、つくづく思うことがある。

 「何を教えるか」より、「ほんとうに子どもの感受性と観察力を尊重したのか」がはるかに重要であると。

 日本の戦前の教育は、小学生のときから「忠君愛国」を叩き込んでいた。それでさぞかし私心のない人たちが社会にあふれただろう、と思うと、とんでもない。「お国のため」をカサに着て威張りちらす人たちと、卑屈に権力者に迎合する人たちが、社会にあふれた。

 日本は無茶な戦争をやったあげく、1945年の敗戦を迎えた。日本人は「天皇陛下万歳」を叫んでいたから、アメリカに占領されても、激しい抵抗運動が起こる可能性はあった。そうしたら、あっさりと「マッカーサー万歳」を叫んだ。
 シベリアに抑留されていた人たちは、「スターリン元帥万歳」を叫んだ。

 アメリカやソ連がうまく日本人を支配したとも言える。しかし、権力に対して従順な日本人が育っていたから、うまくつけ込むことができたのである。
 なんのことはない、戦前の義務教育は、強い者に迎合することを教えこんでいただけのことである。

 戦後日本教育の最大の悲劇は、東西冷戦に巻き込まれて、文部省vs教員組合の対立を起こしたことだと思う。このときの国家側も教員組合側も、言うことが教条的だと思う。
 なんのことはない、戦前の教育は、党派的な結論を振りかざすことしかできない人たちを育てていたのである。その教育を受けていた人たちが、戦後に闘いを繰り広げた。 

 西欧の学校教育史は、教会と国家が教育権を奪い合った歴史である。どちらも相手の欠点はよく捉えている。
 「神」を敬うことを子どものときから叩き込んだらさぞかし敬虔で利己心のない人たちが育つかと思うと、「神」を持ち出してすべてを解決しようとし、宗教戦争を起こす人たちが育つのである。
 「国家」への忠誠心をもった人たちを育てれば、社会がさぞ良くなると思うと、国家権力に依存し、偏狭なナショナリズムを煽る人たちが現れるのである。

 教会だろうが国家だろうが、忠誠心を養成しようとする教育は、社会にとって破壊的である。

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教育委員会の歴史(4) 戦前の視学制度

 戦前の教育行政は、一般行政と分離していなかった。国の方針が、教育内容にそのまま反映していた。

 教育内容は、国定教科書によって定められていたが、もう一つ教育内容を統制するものとして視学制度があった。視学は、学校を巡回して学校の様子や授業を視察する役職であるが、教員人事にも発言力を持っていた。

 ある教員の体験記がよく実情を伝えているので、引用する。
 「ある教師の昭和史」 荻野末著 一橋書房 1970

<人事は「新聞辞令」>

 他校への転任については、これはその作業を視学官がすることで、「新聞辞令」が普通でありました。朝おきて新聞をみたら、自分はふっとばされていたというわけです。

 わたしは、新聞販売所の近くに住んでいたことがありますが、三月三十一目の夜になりますと、自分のつとめている学校ばかりでなく他校の教師もあつまって、終電車で朝刊のくるのを待っていたものです。
 はじめは、どこへとばされようとも、などと気炎をあげていた連中も、時刻が迫るにつれてひっそりとしていきました。

 終電車がつくと、いちはやく新聞販売所にとび、「新聞辞令」をみてホッとしたり、あるいは「こんちくしょう」「バカたれ校長め」と、くやしがりました。くやしがり悲しんでいるものがあったとしても、それをはねかえす連帯も組織もありませんでした。弱い者は泣きねいりをし、強いものも、せいぜい歓送迎会などで酒の力をかり、校長に毒舌を吐くぐらいのものでありました。

 その校長も、いわゆる大物はとにかく、おおかたの校長にいたっては、やっぱり新聞辞令組であったわけです、この元凶は視学官であったわけですが、じつはこの視学官を左右に動かすのは、上級官僚であり、ボス的在在の大物校長もそれぞれの地区にいて、「大御所」といわれ、校長や教頭になるにはこのせまき門を通過しなければならなかったし、視学官も、この「大御所」の意見をきかずには、だれかを校長にも教頭にもできなかったようです。(「ある教師の昭和史」 36~37頁)

<視学の来校>

 ある日、突然、視学がやってきました。
 校長は、茶をいれ、学校経営について概略説明して視学をすわらせ、間をとる──このわずかな間の時間に「視学来校」の小さなメモが小使さんによって各級へとぶ。こういうことは、視学来校のときはいつも同様でありました。

 …この日は、どういうわけか説明なしにわたしをよんで、「研究授業をやれ」ということでした。こういう場合は、校長か教頭に抜擢するための首実験か、思想や行動調査の一つとして、あるいはいじめる一手段としておこなわれるのがつねでした。

 わたしは、研究授業をやれと高飛車にいう視学に抗議することもならず、地理の授業をしました。題目は「アジア」、学級は六年生。

 (中略) 授業も、こういうところにくると、実際には子どもの理解はあいまいになってくるのですが、しかし、子どもたちとしては「なんとなく」うなずいてみせることが、ひとつの習慣となって、いかにも「帰一し奉る」雰囲気となるわけです。

 校長室でお茶をのんでいる視学に、おそるおそる「ありがとうございました」とあたまをさげると、「やあ、ご苦労、国民科としての統合、国民精神をもった統一した授業であった」と、たいへんごきげんで、賞賛されたことをおぼえています。

 この日は、さらに恥しい経験をさせられました。教室でつぎの授業をはじめているわたしを、校長は廊下によびだして、小豆をみつけてきてくれとたのみました。
 こういう視察のあった場合、米などの食料を「おみやげ」としてもたせることが校長としての常識となっていて、なかには、米がほしいなどと要求するものもあることが、一般的にしられていました。わたしは自転車であちこちの農家を走りまわらなければなりませんでした。(同書 46~48頁)

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教育委員会の歴史(3) 戦前の教育行政

 日本の教育委員会は、1948年に、アメリカの教育委員会制度を模倣してできました。制度の形式はよく似ています。しかし、その中身はまったく違っています。

 単純な言い方をすれば、アメリカの教育委員会は住民による自治組織であり、日本の教育委員会は政府の教育施策に沿って学校を管理する組織なのです。

 教育委員会の管轄する日本の学校システムは、全国に一律の水準の教育を普及させ、日本の高度経済成長を支えることに役立ちました。
 しかし、このシステムは、現場の当事者からのフィードバックが満足に行われない、という大問題を抱えています。さまざまな教育問題を自律的に発見し解決する能力に乏しいのです。

 教育委員会は、建前としては、地方自治のためにあります。しかし、それが機能していません。なぜそうなるのか。それが、私が教育委員会の研究を始めた大きな理由です。

 戦前の教育行政との比較から始めます。

*****************************

 戦前の義務教育学校の指揮系統は次のようなものだった。

  内務省
       >→ 道府県 → 市町村 → 学校
  文部省

 ここでの注目点は、学校も一般行政の中に組み入れられていることである。

 頂点の一つに内務省が現れているのを、不思議に思われるかもしれない。これは、戦前は地方自治がなくて、地方は内務省が指揮していたためである。学校は市町村が直接に作って運営していた。
 その市町村の総元締めが内務省だから、内務省は学校に対しても、大きな権限を持つのである。

 内務省は、現在の、国土交通省、厚生労働省、総務省、警察を全部いっしょにしたような官庁で、権限は絶大である。県の学務課長は、内務省から派遣された若いキャリア官僚であり、彼らには校長たちも頭が上がらない。

 戦前だって気骨のある校長たちはいたろうに、なぜ若いキャリア官僚の前に這いつくばるのか、と思われるかもしれない。その理由は、県の学務課長は、教育全般を監督していて、人事と予算に容喙できることにある。気骨のある校長でも、学務課長に睨まれれば自分の学校運営はできないし、トバされてしまえばそれで終わりなのである。

 文部省は、主に教育内容にたずさわっている官庁で、内務省に比べれば権限が小さい。文部官僚の半数は、内務省からの出向だった。

 この仕組みだと、国の政策遂行と教育が一体化する。日本で軍国主義教育が容易に行われたのも、政治が教育を指揮していたためである。その反省が、教育委員会の導入につながる。

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教育委員会の歴史(2) 広義と狭義の教育委員会

 教育委員会。

 いったい、なんでしょう。わかりにくいですね。「行政委員会」という、政治の手が及ばないようにしてある行政機関なのだ、ということは前回述べました。

 さらにわかりにくくしている理由に、「教育委員会」という言葉が指し示す組織が二つあることがあります。それについて解説します。

****************************************

 「教育委員会」という言葉に、二つの意味がある。

 狭い意味では、数名からなる教育委員の合議体のことをいう。この合議体が、教育委員会の最高決定機関である。

 教育委員の合議体の下に、教育委員会事務局がある。地方の学校教育と、社会教育を管轄している。
 教育委員会は、公立学校の管理がもっとも大きな仕事であるが、他に図書館、博物館、スポーツ施設などの管理もしている。そのため、多数の常勤職員のいる事務局を持っている。この事務局を含めた機関が、広義の「教育委員会」である。

  ┌────── 教育委員会(広義) ───────┐
  │ ┌──────────┐              │
  │ │ 教育委員会      │ 教育委員会事務局  │
  │ │ (狭義)          │              │
  │ └──────────┘              │
  └──────────────────────┘

 事務局の長が、教育長である。教育長は常勤であり、その自治体の教育部門の実質的な責任者である。教育長は教育委員の一人である。

 おおざっぱに言えば、自治体の学校教育と社会教育を管理する部門が「教育委員会」と呼ばれていると考えればよい。 教育委員は、教育長を除いて非常勤である。教育委員の合議は、月1~2回程度行われることがふつうである。

 なぜ、このような組織形態を取っているのか、その歴史的経過はどのようなものなのか、現在どのような役割を果たし、どのような問題を抱えているのか、それを明らかにしていきたい。

 これから本稿では特に断らないかぎり、「教育委員会」は事務局を含んだ広義の意味で使うことにする。

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教育委員会の歴史(1) 行政委員会

 教育委員会は存廃も含めて、議論がなされています。

 日本の教育委員会について、広い視野から正確な資料を提供したく、拙著「変えよう!日本の学校システム」(平凡社 2006)から、教育委員会について書いた部分を、多少の補足をしつつ公開します。

********************

 教育委員会は、なんのためにあるのかわかりにくい組織である。ところが、この教育委員会がなぜ存在するのか、どのように機能しているのかを見ていくと、日本の教育の姿が浮き彫りになってくる。

 まず、教育委員会のことを簡単に見てみよう。「委員会」と名前がついているが、教育委員会は審議会のようなものではない。実態は、地方自治体の公教育と社会教育を管理している部門である。

 教育は、知事や市長が指揮できる一般行政とは分離させて、行政委員会の形にしてある。
 行政委員会というのは「独立性の高い合議制の行政組織」である。教育委員会に対して、知事も市長も指揮できない。

 教育が時の政治に左右されてはいけない。教育方針が政党や首長の色に染まってはまずい。そのため、地方行政から教育部門が独立し、教育委員の合議で運営されているのである。
 教育委員を政治的圧力から守るため、教育委員は任期の途中で罷免されないようにしてある。教育委員の下に事務局があり、教員人事、就学事務などの仕事をしている。

 行政委員会をなぜ作るかというと、「政治家の手が及ばないようにしたい」からである。このことは、日本に実際に存在している行政委員会の例を見るとわかりやすい。

 公正取引委員会。独占禁止法を運用している。これが、政党の手の及ぶものだったら、たちまち利権の巣窟になるであろう。

 労働委員会。労働者と使用者の粉争の調停にあたっているところ。ここは中立であることに細心の注意を払わないと、機能しない。

 選挙管理委員会。選挙運営に政治家が介入したら公正が保てない。中立の人たちが、政治の手の及ぽない組織を作って、選挙の運営をする。

 そして、教育の分野にも教育委員会という行政委員会を作っている。やはり、教育を政治から切り離すためである。

 教育委員会は、それぞれの都道府県にある。また、それぞれの市区町村にもある。仕事は、公立学校の管理運営と、社会教育、文化財の保護などである。

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ソ連を怖がったため、ソ連と同じになってしまった体制(2)

 前回の続きです。なぜ、日本の教育は民意反映システムを作っていないのか、についてです。

*************************

 戦後の社会システム作りに大きな影響を及ぼした自由民主党は、自他ともに認める反社会主義の政党であった。自民党は、経済・文化活動の自由、言論の自由、多党制民主主義の原則に立って、社会システム作りをしている。

 ところが教育に関しては、とんでもないシステムを作った。教育システムには、民主主義原則が存在していないのである。文科大臣から一教員にいたるどこにも、民意によって任命される役職が存在していないのである。

 どうして自民党は、こんな社会主義国と同じような体制を作ったのだろうか。

 具体的に2点あると思う。一つは、自民党に、教育の国家管理が必要であるという人たちが多かったことである。もう一つは「学校が、左翼思想を吹き込むことに使われる」ことをたいへんに警戒していた。

 教員組合を封じ込めることが、自民党にとっての大きな政治課題であった。そのため、自民党はあまりに無原則なことをした。教員の発言権を削ぎ、教育の地方自治を侵し、保護者・住民の発言権を奪ったのである。

 これは、教育に問題があったときの自律的回復能力を奪ったに等しい。

 それをやったのが「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」(昭和31年)という法律である。この法律ができたときに、半世紀後の教育崩壊が決まったようなものだと思う。

「これでは、民意反映システムのない社会主義国と同じ仕組みになってしまう」という発想が、この法律を作った人たちになかった。

 日教組憎しで、ここまでやってしまうのである。
 人は、自分の持つ欠点に気付いていないと、同じ欠点を持つ人や団体を嫌悪し怖がるものだ。

 国家主義教育をやりたかった自民党は、社会主義国の国家主義教育がたまらないものに見えるのである。
 ソ連のような”洗脳教育”を怖れるなら、民意反映システムと教育選択の自由を教育に作るべきだったはずだ。ところが、自民党は「教育の中立性を守る」ために、国が教育を監督するシステムを作ったのである。

 それは、ソ連を怖がったために、ソ連と同じになってしまった体制である。

 それはまた、屈折した権力欲の現れでもある。「あんな悪い奴がいるから、私がコントロールするしかない」は、子どもを支配する親から、会社の派閥闘争、国家の国民統制にいたるまで、権力欲を自覚できない権力者の自己欺瞞なのである。

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ソ連を怖がったため、ソ連と同じになってしまった体制(1)

 拙著「変えよう!日本の学校システム」(2006)を書いたとき、内容をコンパクトにするために結局使わなかった原稿がたくさんあります。読み直したらけっこうおもしろいので、多少手を入れてブログに出します。

 「ソ連」が崩壊してもう20年になります。若い人たちは、「ソ連」のことをあまり知らないかもしれません。でも、日本の教育システムが作られるにあたって、ソ連とアメリカの冷戦体制に日本が巻き込まれていたことを抜きにしては、説明がつかないのです。

*****************

 日本の教育システムを見ていると、「ソ連社会とよく似ている」と思う。どこが似ているかというと、

 官僚運営で杓子定規である。

 いつもうまく行っていることになっている。

 本音と建て前が大きく分離している。

 いつまでたっても同じことを繰り返す。

 サービスが悪い。

と、日本の教育システムは、社会主義国並みなのである。

 どちらも、官僚組織による上意下達体制なのである。方針とノルマを中央が決定して、下部に降ろす体制である。こういう体制は、「決まりだから」と「長いものに巻かれろ」が蔓延し、現場の実状から発想しなくなる。たいていのことは「すべてうまくいってる」ことにしてしまう。

 ソ連経済と日本の教育にもう一つよく似ていることがある。

「問題の早期発見ができず、問題が噴出したときは、大問題になっている」
ことである。不登校しかり、いじめ問題しかり。

 現場の自主性がないのだから、当然である。これは、上意下達体制の宿命である。人々の自主性ばかりは、どんな強力な体制でも、というより強力な体制ほど、どうしようもないものだ。

 ソ連だって、経済の行き詰まりがはっきりしてから、働くモラルを上げるキャンペーンをやった。まるでだめ。個人の意欲を刺激しようと報奨金を出したり、罰則を作ったりした。まるでだめ。自主運営の企業を作ったりした。まるでだめ。
 日本の教育が同じところにいると思う。

 文科省や教育委員会は、教育指針、運営方法を変えて解決できると信じているようだ。ソ連が計画経済を変えないで、経済活性化をやろうとあがいていたのと同じである。

 私は、決して、営利企業に参入させて競争させればいい、と考えているわけではない。また、性急な上からの改革は危ないと思っている。教育には教育の論理があり、経済と同一視してはいけないと思っている。

 しかし、根本的な病弊は教育を官僚ピラミッドで運営していることにあることは、強調しすぎることはないと思う。

 その仕組みを作ったのが、「地方教育行政の組織および運営に関する法律」(1956)という法律である。
 この法律には、自治という考え方がまったくない。そんな法律を作ったのは、当時の自民党、文部省が、学校に社会主義者が入り込むことを怖れて、学校自治を許そうとしなかったためだ。誰も表だっては言わないけれど、当時の人は、右の人も左の人も、このことはよくわかっていた。

 学校の本質は、国家統制でもなく、市場原理でもなく、自治にある。明日の社会を担う人たちを育てたいと思ったら、学校が自治的に運営されて、参加と責任の雛形にならなければならない。

 世界を、特に先進民主主義国とされる国々を見てご覧なさい。教育がこんなに統制されている国なんかありませんから。

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いじめ防止対策推進法

「いじめ防止対策推進法」が6月21日に成立しました。

http://www.shugiin.go.jp/index.nsf/html/index_gian.htm

内容を一読しまして、かなりの効果があるだろう、しかし限界も大きい、と思いました。

かなりの効果があると思うのは、現在いじめがはびこるのは、

・ 学校関係者に「いじめはいけない」という共通認識が十分でなく、「いじめられる側にも問題がある」というような風潮が残っている。

・ いじめは「あってはならない不祥事」なので、発見すると学校の責任を問われることになる。うやむやになりがち。

・ 事故があったときの調査が不十分。
 調査のためには、生徒、家庭、教師などに十分な聞き取りをする必要があるが、それをやれるだけの専門知識、事務局と要員、第三者に依頼すれば謝礼などが、確保しにくい。

・ 防止対策を取るのに、予算、人員、時間を割くことが簡単ではない。たとえば、生徒のためににいじめのワークショップを開こうとしても、ただでさえ忙しいところに授業を潰しにくい、外部講師を招くとして予算がない、などの問題が生じる。

こういうことが、いじめがあっても「いけません」と訓示することしかできなような学校にしてきた大きな原因だと思います。
学校があまりにお粗末な対応しかしていない現実に関しては、この法律によって解決すると思われます。

限界があると思うのは

・ 学校設置者や管理者だけで解決できると思い込んでいる。
子どもや保護者がもっと発言できるようにすることが必要。そうでないと、現状認識も、改善策も深まらない。
 学校と教育委員会の隠蔽体質がそうかんたんに払拭できるとも思えない。第三者機関が必要であるが、それには触れていない。(民主党案には、そのような発想があった)

・ ただし、地方によっては、あるいは学校によっては、保護者、地域、生徒、第三者の専門家などを含めた、かなりよいものが出来てくる可能性がある。この法律は自治体、学校設置者、学校などに対策をとることを義務づけているだけで、対策の内容は丸投げしている。 

・ いじめの根本原因は、理不尽なことに従順になるように訓練する体質にある。(典型は軍隊) 理不尽なことを他人に強要して楽しむゲームがいじめ。
 いじめは、管理社会の副産物。
 規則、命令、伝達ではなく、話し合いと理解に基盤を置く学校運営が必要。とくに中学の「校則体制」を俎上に載せる必要がある。「校則体制」がそのままでは、自分で火をつけて、自分で消すのに追われているようなもの。
 教育方法そのものの検討も必要。

・ 人権保障の視点が薄い。
 学校を休む権利、学校から逃げ出す権利、他の教育機関を作る権利などがないと、学校は、根本から変わろうとしない。モグラ叩きに終始する。

でも、この法律はかなりの効果を上げると思います。
それは、いままでの学校の対策があまりにお粗末だから。

しかし、誰かをいじめたくなるような風土まで改善の手が届いているわけではありません。いじめというのは巧妙に行われるものです。いじめの方法は、それぞれの現実に即して、「こうすればあいつ困るぞ」ということが目ざとく開発されるものです。

今後、深刻ないじめは、暴力系から、シカト系と嫌がらせ系へと移行していくと思います。

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未来の教育

私が思い描く未来の教育の姿です。近未来の、実現可能な範囲で考えています。

〇 コンピュータですむことは、コンピュータソフトでの習得が主流になる。計算練習、パターン認識、シミュレーションなどの学習ソフトが発達する。一流ソフトハウスが教育に参入し、ゲームとサシで勝負できるほど熱中できる学習ソフトを提供する。学習ソフトは、主に家庭やクラブ活動で行う。

〇 学校は、人と人が触れ合わないと伝えられないことに特化していく。共同作業、対話、討論が多い。黒板とチョークの集団授業は、最小限になる。大人と子ども、子ども同士の相互理解を育てることが、学校の重要な役割になる。

〇 学校は週4日、午前中だけ。ムチとニンジンの原理で子どもを動かさない。賞罰に頼らずに学びに導く研究が十分になされている。小中学校は試験をしない。宿題に依存する学校は無能な学校と見なされる。

〇 午後の時間は、地域有志やNPOなどが、さまざまなスポーツクラブ、趣味のクラブ、工作・工芸、実験・研究などの活動を用意する。この活動は、学校横断的で、異年齢構成。優秀なリーダーが、有給で配置されている。学校がこの活動に参入してもよい。

〇 教員は、研究、研修、準備のための十分な時間がある。教員同士の研究会が、たくさん組織される。
 優秀な幼児教育、初等教育の先生は、社会の宝として大学教授と同等以上の待遇を受ける。子どもと接することと、後進を育てることに専念できるようにする。

〇 教員養成は、実技中心で行われる。現実の子どもを理解することと、どのように援助するかを学ぶすることが中心になる。

〇 学校は、基本的に設置自由である。さまざまな教育方針の学校があって、保護者と子どもが選択できる。人気校はウェイティングリスト方式を採り、学力試験は行わない。

〇 ホームエデュケーションが発達し、学校や地域活動と連携しながら、カスタマイズされた教育を手配することができる。ホームエデュケーション家庭の相互援助組織が発達する。

〇 障害を持つ場合、割り増しの教育費が支給され、その子にあった教育を手配できる。どのような教育を受ける場合でも、その教育費が本人について回る。

〇 語学、数学、理科実験など、各種の技能認定制度が発達し、誰でも年齢、学校在籍に関係なく、社会的な証明を得ることができる。

〇 いちど取得すれば生涯有効な大学入学資格をもうける。この資格があれば、原則として大学には願書を出すだけで入れる。医学部など、定員オーバーが予想されるところは、適性検査とくじ引きで調整する。

〇 大学はきちんと試験をする。落第は多くなるが、願書を出すだけで他に移れるので、学生も学校も落第の負担が少ない。自分の適性を見つけるまでには試行錯誤が必要であることを、学校も学生も理解している。

〇 教育費はすべて無償とする。入学資格制度なので、大学にいつでも入学することができる。ほんとうに学び必要を感じたときに学ぶことができる。生涯教育システムが発達する。

〇 このようなシステムを実現した場合、教育での必要人員は増え、雇用は大幅に増える。教育費は現在の5割増し程度かかる。消費税アップでまかなう。どのような経済活動も教育システムのおかげで成り立つのだから、教育費は財物やサービスの原価の一部と考える。

(付記 税は再分配であって、増税しても経済は縮小しない。むしろ、積極的に教育での雇用を増やすべきである。消費税ならば、輸入品にも同等に課税される。日本で売られる輸入品には、消費税で日本社会のシステム維持費を負担してもらう。)
 

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利己的な人間を育てたくなかったら

利己的な人間を育てたくなかったら、理解と共感の場で育てることです。

利己的な人間を育てたいのなら、いつもその人の欠点を見て「おまえときたら」と指摘することです。

賞罰で行動を誘導していると、自分の利害しか考えない人間を育てます。

自分の利己主義から抜け出したいなら、利己的な行動を取るときの裏にある恐怖を抱きしめることです。

なんか、えらそうな箴言になってしまいました。
利己的というのは、その人が悪い人だということではないんです。
恐怖や不安にかられた行動を取っているだけなんです。


 

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子ども時代の感受性

3ヵ月近くも、ブログを更新していませんでした。

体調が悪かった? 心臓に持病があってちょっと無理をするとヘバるのですが、ブログを全然書けないほどでは...。

忙しかった? たしかに忙しかったのですが、ブログを全然書けないほどでは....。
ということでして、原因は別です。なにか新しい次元がちらちら見えると同時に、いったんサナギになっている必要があるような感じでした。

子供時代の感受性が戻ってきたんです。ああ、人間の発達について、そういうことだったのだ、ということの連続です。
子供時代の感受性が戻るということは、大人の使う言葉が浅薄に感じられてしまうことでもあります。ということはつまり、自分の紡ぐ言葉が浅薄に感じられるということでして、このブログも何回も書こうとしたのですが、書いても書いても、消してしまいました。

大人になって、言葉がいつも自分をコントロールする生き方をしてきました。私だけでなく、ほとんどの人がそのような生き方をしています。これが、人間の自己中心と暴力性の根源なんです。でも、いまの社会と教育がこれを推奨しています。そうではなくて、もっとクリエイティブな、別なエネルギーがあることを感じていました。
これは、たくさん実例を出したり、芸術的な表現を使ったり、もっと気の利いた文体を開発したりしないと、いったい何を言いたいのかすら、通じにくいですよね。
言葉で自分をコントロールして、なんでそれでいけないんだ、という反論もすぐに返ってきそうです。

だもんで、かんたんにサラッとまとめることができなくて、いろいろ書いては消しています。
きょうは、消さないでアップしますね。なにか、言いたいことをほんとうに表現できるはじまりになるといいのですけれど。

それにしても、当ブログへのアクセスが減らないことに驚いています。いろいろ書きためたので検索にひっかかっているのだと思いますが、読んでくださる方々に深く感謝です。

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「自信がない」こと

 20歳くらいのときだった。
 理系の大学生だったが、自分のしたいことがわからなかった。そのうち、自分がほんとうに情熱を燃やせるのは、人間と社会がいったいどうなっているかなのだと思った。
 語られる言葉がすべて、ほんとうのことを映しだしていないと感じられた。言葉にすることで抜け落ちていくものがたくさんあった。その抜け落ちるものの中に、自分の生があった。でも、それを表現することも、伝えることもできなかった。
 無駄だと知りつつ、たくさんの書物を読んだ。

 実際に生きてみるしかないと思った。
 いちおう社会人になった。「ああはなりたくない」というものをたくさん見た。権力欲、追従、猜疑心、ゴシップ、.....。そして、自分がまたそれになってしまうのだった。それに反抗しても、また別の独善性に落ち込むのだった。
 自由に生きたかった。人間の根本にかかわらないとだめだ。自分に抜け落ちたものは、自分の受けた教育にも大きな問題があると思った。いつのまにか、教育関係に手を出していた。

 現実の中で転げ回っていると、なんとかはなるものだ。
 とくに、子どもと戯れること。子どもの感覚がわかってくると、人間の本質的な部分が感じ取れてくる。人間を実際に動かしているさまざまな力、それと言語の関係。それが見えるには、まだ言語の中に入り込んでいない子どもたちと関係を持っていることが重要なのだ。子どもたちがいなかったら、われわれの社会は、とてつもなく偽善的で独善的なものになってしまうと思う。

 けさ、目を覚まして静けさの中で物音や感情に注意を澄ませていたら、自分に自信のない感じそのものが、意識に上がっていた。主に、背中から肩・首を中心とした緊張と、呼吸の浅さ。それに伴うあるいたたまれなさ。そのとき、条件反射的に湧き起こるけっこうな言葉の数々。

 それが「自信のなさ」そのものなのだ。
 私が言葉ばかり紡ぎ出すことそのものが、自信のなさなのだ。その自信のなさが、立派な言葉を集め、その言葉が自分だと思い込む。それがいわゆる「自我」である。その自我が、マッチ売りの少女みたいに、ささやかな暖を取っている。でも、このやり方では、いずれ凍死するのである。

 現代の教育問題の最大のものは、この「自信のなさ」だと思う。原因は、教育と躾が、子どもの感覚と感情を忘れて、目に見える達成を求めるためである。

 自信というのは、自分の感覚に根ざせるかどうかなのだ。総合的なものだ。自信がないと、子どもたちは、同調過多になるか、独善的になる。自分を慰撫するために知性を使うようになり、物事が見えなくなる。
 でも、現代の教育は、これを知識や技術の伝達で解決しようとする。解決するはずがない。もっと、感覚と感情を大事にしないと、人間が断片化してしまう。
 人間として生きている身体感覚と感情から、子どもたちを切り離してしまうこと。それはとてつもない過ちだと思う。

 受験勉強的な机と書物での学習は、20歳を過ぎてからやることだと思う。学位論文を書くとか、弁護士になりたい人が法律の勉強をするとか。そういうタイプの勉強は20歳を過ぎてからがやりどころだと思う。それまでに、もっともっと大事なことがある。子供時代でないとできないこと。全身全霊をあげて、遊びとも学びともつかないことをすること。
 その話し自体は、けっこう通じると思う。ところが、「でも現実は」、誰も学校を変えようがないしくみになっている。それは、官僚機構が、学校の上に乗って指揮しているからだ。学校を教師と親と子どもたちの手に取り戻すことだ。
 子どもと接していない人たちに、教育の舵取りをさせてはいけない。どうしても抽象的になって子どもを見逃す。

 教育は、生きる営みそのものであり、文化現象そのものなのだ。学術や芸術に認められている自由を、教育にも与えよ。

 と、これが「変えよう!日本の学校システム」という本を書き、このブログを始めた理由だ、というところにたどり着くのである。

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智恵の源

 人間の中に、自分の安全を図るために、手段の限りを尽くしている中枢があります。
 目立とうとしたり、隠れようとしたり、自分を良くみせたり、他人を責め立てたり・・・・、とこの中枢は動物的な狡猾さを持っています。

 ほんとうは、この中枢が、生きる力と智恵のエンジン部分を担っているのです。

 でも、同調の強制や、能力競争の中で、この中枢は表に出ることができなくて、すっかり動物的次元に退化しています。それで、われわれはお互いに、ごまかしや、逃避や、権力欲や、攻撃性に悩まされるのであります。

 この中枢がちゃんと育てば、いつも全状況を判断して、愛と智恵をわき出させてくれるようになります。

 それには、脅しや、賞罰や、競争に訴える教育をしないこと。
 大事な、大事なエネルギーが、自己保存の動物的狡猾さに退化してしまうからです。

 もし、自分の中の怯えているものが、いかに動物的狡猾さを発揮しているか、非難も理論付けもなく認知できたら、慈愛の想いが自然に湧いてきます。その慈愛が、自分にも他人にも、広々とした空間を作っていくのです。
 そのとき、動物的な狡猾さだった中枢は、恐怖への反射的行動に限定されなくなり、考えと気持ちと行動を調和させる大広間のようなものになっています。

 子どもを理解しましょう。
 自分を理解することから子どもの理解に向かうこともできますし、子どもを理解することから、自分を理解することもできます。

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いじめが発生しやすいところ

 黒沢明監督の映画「どですかでん」(原作山本周五郎「季節のない街」)に、女房の尻に敷かれてこき使われているみじめな亭主が登場する。あまりのことに、他人がその女房の批判をする。そうしたらその亭主が、「よくもうちのカアちゃんの悪口を言ったな」と剣幕を変えて怒るのである。

 人間て、不思議なものだ。こんなことがよくおこる。

 「共依存」という現象がある。ある人間関係に囚われ逃げられない者を言う。夫に暴力を振るわれ続けているのに逃げ出そうとしない妻。親の価値観に囚われて自立できない子どもなどいる。
 なんで逃げないの、と他人からは思うのだが、その人間関係にあまりに深く入り込んでいてその関係でだけ自分が存在しているので、逃げることなど思いもよらないのである。あまりに深く自尊心を壊されると、相手の価値観の中でだけ生きるようになる。

 学校でのいじめで、この関係が発生していることがよくある。被害者が、いじめられていることを訴えることもしないし、逃げ出すこともしない。それで自殺が起こったりする。

 学校と生徒の関係に共依存的なものがよくある。教師が権力に訴えるほどに、生徒を侮辱するほどに、生徒が教師にしがみつくのである。生徒が、自分が能なしで邪悪であることを受け容れ、だから学校と先生なしでは生きられないと信じる。そうすると、けっこう管理しやすくなる。
 そのかわり、集団が荒れて、雑草のようにいじめがはびこるのだが、それが「管理教育」の結果であることに、教師たちが気付かない。

 人間としてあんまりだとういうことをされたら、訴えることができる。自分の身の周りに泣き寝入りを許さない。これを現在の社会の法律と司法制度が保障しているし、常識にもなっている。
 しかし学校は「よい先生、よい生徒」で人間関係の問題を解決しようとする。司法手続きが整備されていなくて、領主時代と同じ構造になっている。すべてがそうだというわけではないが、問題をはやいうちに見つけて自律的に解決する能力に乏しい。とくに中学で問題が大きい。

 そうすると、泣き寝入りが多くなる。
 正義が存在することが信じられなくなり、誰についたらよいか、誰の価値観に合わせたらよいかの力関係で生きるしかなくなる。
 それで、奇形的な依存関係がたくさんできてしまうのである。

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善が人間の中に根付くこと

 教育を、子どもの肉体と精神の発達の観点から捉えること。
 何をできるようにさせるかの教育ではなく。

 シュタイナーの教育論を読み直しています。「現代の教育はどうあるべきか」(人智学出版社)から、一部を要約します。第2章から。

 これをすべき、あれはすべきではない等々を絶えず教条的に聞かされてきた人は、善に対して無味乾燥な感覚しか持てない。

 7歳~14歳のときに、敬愛する教師が、自然な感情から示してくれる真であるもの、美しいもの、正しいものに共感することが、真、善、美への衝動を形作る。
 善を形成するのは知性ではない。

 9、10歳のときに、大きな変化がある。子どもは外界とうまくやっていけなくなり、おずおずして落ち着かなくなる。子どもは、この問題を概念化することも、言葉で表現することもできない。あるのは感情ばかりである。
 この時期、子どもは、教師が敬愛に値する存在であることを何らかの形で示して欲しいと感じている。子どもが教師から愛されており、要求に対応してもらっている、と気付くことが重要。

 人間は、14、5歳になって初めて、教師が判断力によって影響を及ぼすことにできる地点に到達する。それ以前に理詰めで教育されると、子どもの全人的発達が阻害される。

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それぞれの人が学びに噛み合えること

 50代の半ばに体調を崩し、いったん塾・フリースクールの仕事のほとんどをたたみ、研究や評論の仕事を中心にしていました。
 ここのところ、それなりに体調がよくなってきました。休んでいる間に見えてきたことも多いです。
 今年の9月から、週に一回ですが、算数・数学の寺子屋を開きました。自主保育で子どもを育てたが、画一的・訓練的な学校に行かせなければならなかった母親たちの要望に応えたものです。

 小学校五年生から、高校1年までの異年齢で構成しています。当然、一斉授業は不可能です。基本は個別学習にしています。
 といっても、一人一人がそれぞれのプリントをやる公文タイプは採用していません。あれも一つのやり方であり、使いこなしようであるとは思いますが、プリントをやるだけだとどうも学力生産工場のような感じがします。

 そこで、生徒には学校でわからなかったところをチェックしてきてもらい、それを自習し、お互いに教え合い学び合うことを基本にしています。

 何ができたからエライ、ではない。それぞれの人が、自分の感覚で、自分に噛み合えるものに取り組んで、自分で理解することが重要なのです。
 学者が、未知の領域を研究することと、子どもが自分がまだ知らない領域に取り組むことは、同等の価値があります。子どもたちは、研究者なのです。

 割合、座標とグラフ、文字式...、すべて人類の最高の文化遺産ではありませんか。それらが学問の最前線だった時代もあるのです。
 教科書ですっと理解できればそれでよい。しかし、つまづいている場合に、そのつまづいていることで、非難したり、不利益を与えたりしてはいけません。つまづいているところで、どう援助できるかなのです。

 どうしても必要なのが、お互いの個性尊重、人間尊重です。現実の子どもたちは、大人からや生徒同士の心ないやっつけや、不満の吐き出しに晒されています。それで、お互いにウニみたいに棘を出したり、カキみたいに殻を作ったりしています。そのため、またお互いの信頼がなくなるという悪循環が起きています。とくに、中学がよろしくない。

 場作り、集団作りがたいへん重要です。
 子どもたちが安心できる場を作り出すのが、教育者の最大の仕事なのだと思います。

 毎回、まず「ゆる体操」というのをやって、身体と頭をほぐすのに時間をかけています。それから、輪になってゲームをします。ゲームは、だれもが対等な立場でやれるのがいいです。身体を動かすタイプがよい。最近は、輪になって、手でウェーブを作り出して遊ぶのをやっています。
 お互いに、この1週間の生活で印象に残ったことを話し、傾聴し合うということもやっています。
 お互いはニックネームで呼び、先輩、後輩序列は持ち込まないようにお願いしています。

 個別学習だけだと、足りないものもあります。冴えのある授業も少しはほしい。「ワンポイントレッスン」と言って、私の授業も少し入れている。教えたあと、「わかったことを二人の人に教えてください」と、相互コミュニケーションを促しています。

 子どもたちがほぐれてきました、お互いにむつみ合うことが多くなりました。「わかった!」という声がよくあがります。楽しいからと早い時間から来るし、終わってもぐずぐずと帰らなくなってきました。

 そうしたら、週に一回、数学自体は1時間くらいしかやっていないのに、こちらもびっくりするような結果が出てきます。学校の成績が上がったとか、数学がおもしろくなったとか言うのです。

 私のほうは、数学自体はツールだと思っています。それぞれの子どもが自分らしく居られるか、自分を表現することができているか、「理解できた」という実感を味わっているか、それが私の最大の関心事であって、何ができるようになったかは、ただのおまけだと思っています。

 学校は、「何ができるか」にこだわりすぎていると思います。学校システムそのものが、成果主義に傾きすぎています。学校が、官庁や企業みたいになってしまって、子どもは成果を出すために労働させられています。
 「その子にとっての学び」を尊重することが大事です。それには教科書だろうが、授業だろうが、学校だろうが、みんな白紙から検討すればいいのに、と思います。

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多様な学び保障法

「子どもの多様な学びを保障するための法律」(仮称)という法律を作ろうという動きがあります。そのための「多様な学び保障法を実現する会」があり、私も発起人の一人です。

 どういう法律かというと、現在の学校以外の学びの場を選択できるようにしようというものです。いま行われているフリースクールやホームエデュケーションが合法化され、多様な教育が可能になります。

 世界にはいろいろな教育があります。シュタイナー教育、モンテッソーリ教育、フレネ教育、デモクラティックスクールなど、いろいろあります。家庭で育ててしまう、ホームエデュケーションもあります。ところが、このような教育を日本でやろうとしても、制度の壁が厚くて、なかなかできません。

 しかし、実際には、法律上の学校以外に、草の根のたくさんの学校ができて、現在の学校に合わない子どもたちや、他の教育を求める人たちの受け皿になっています。
 その現状を、きちんと制度化しようというものです。

 マイノリティ保護のための法律ですが、従来型とは違う教育が選択肢に加わるようになり、「教育とはなにか」の視野を広げることになるでしょう。

 まだ、骨子案を作っている段階であり、難しい問題もいろいろあるのですが、国会議員によるフリースクール議員連盟もあり、かなりの実現可能性を持っていると思います。

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個性を失うということ

 不登校の子どもに、「どうして学校にいかなくなったの」と尋ねても、答えなど返ってきません。

 お勉強がまったくわからなくなった子どもに、「どこがわからないの」と尋ねても、答えなど返ってきません。

 心がかじかんでしまうと、なんの言葉も浮かばなくなる、なにが自分の気持ちかもわからなくなる。

 個性を失うということは、単に行動や思考を他者に合わせていることではありません。他者の言葉に出会うと、それが自分の内面で圧倒的な力を持ってしまうことなのです。

 個性を失うということは、目上の者や権威者の言葉がみんな正しいと感じられてしまうことです。
 どこかで、強者に圧倒されてしまったのです。

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生きるアート

 秋の日差しが窓に差し込んでいます。カーペットに光の模様ができています。

 ヒヨドリがピーピー鳴いています。壁に掛けた時計が、かちかちいっています。

 疲れを貯めていたので昨日たっぷり休養し、整体にもいきました。きょうは身体が穏やかです。

 それから、「やらねばならないあれやこれや」を想い出しました。それで頭をいっぱいにしてそこから一日の行動を組み立てそうになります。
 でも...。ああ、ここに住みたいのではないのだよ。
 考えがいつも中心にあって、すべてを説明し、方式をいつも蓄積し、命令を出している状態。
 そこが、不幸の元なんだよ。

 考えは、生きることにとって大事なパーツの一つです。
 でも、パーツの一つにすぎないものにしがみつくから、人間が考えの奴隷になります。さまざまな教条主義が発生します。

 人間がそうだから、人間関係のすみずみで、たくさんの無理解と強引さが発生する。それが社会構造になっていく。社会問題が限りなく発生する。

 そうではなく、「生きるアート」とでもいうようなものがあります。あたりの事物の刻一刻の移り変わり、身体の声、さまざまに移り変わる感情、事実を的確に映す思考、他人の言うことの傾聴......、それらすべてが大事なものです。生きることは、そういうものがパーツとなって、一つのメロディーになり、祝祭になっていくものです。

 考えで自分や他人を支配することを訓練している教育は、人間と社会を不幸にしています。

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教育委員会について本気で考える

 8月29日に、シンクタンク構想日本が主催する「JIフォーラム 教育委員会について本気で考える」にパネリストの一人として参加しました。

 構想日本代表の加藤秀樹氏が司会役で、パネリストの「教育委員会廃止論」の元志木市長穂坂邦夫氏、事業仕分けで活躍中の元教育委員会職員新倉聡氏、といっしょに言いたい放題を言ってきました。
 言いたい放題、といっても、よくあるように悪口を並べたわけではないんです。登壇した4人とも、事実に基づいてしゃべったことだけが通じるということを知っている人間で、何が問題であるか客観的に指摘しているんです。

 議事録が公開されています。読んでいただけるとありがたいです。日本の教育がいかに教育行政に制約されているかに関心のある方たちには、たいへん役に立ちます。

 加藤さんがはじめに、
「今日来ていただいた古山さんの言葉ですが、教育問題の本質は『中央集権型無責任体制』というのが、一言で表したわかりやすい言葉だと思います。」
と拙著『変えよう!日本の学校システム』の内容を紹介してくれました。

 そうなんです。
 昭和30年代から、文部省(当時)が実権を持ちつつ、形式的には教育委員会が責任者という『文部省院政体制』だったんです。そのため、ほんとうの責任者が誰なのかわからない。問題があったときにどこが責任を持って解決にあたるのか、わからない。
 現在、地方分権が少し進んだのですが、基本構造は昭和30年代のままです。

 時代は、もう、「教育」から「学び」に転換しつつあります。国が「~を教えなければいけない」なんて行政を通じて指揮しているような時代じゃなくて、一人一人がのほんとうに自分の学びに出会えたかどうかなんです。「教育」は、文化や技術の領域のものでして、内容は人々に任せるべきなんです。

 ついでだけど、私は大阪の橋下改革みたいな、別の権力で教育を監視するのには反対です。教育の本質は自治にあります。自分たちで問題を見つけて、自分たちで解決を考える。そうしないと、考える人間が育ちません。
 児童・生徒、教員、保護者、この三者が学校運営に参加する。行政は、その調整役に退く。それが学校のあるべき姿だと思います。

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思考と身体

 整体法を教えている方に、「力の抜き方」を教わった。理論ではなく、体験講座である。

 これは、「脱力」とは違う。身体は普通に機能する状態のまま、余分な力が抜ける。「力み」が抜ける、という表現が近いかもしれない。

 そうしたら、身体を動かすのが楽しい。受講者同士で手を振り回してもらうと、自分の手が自然についていく。これはおもしろい。
 子どものときの遊び感覚で動いているときを想い出す。
 力を抜いて動いていると、いつも身体とお友達でいるような、身体がオーラを放っているような感じがする。
 いつもの「~をせねばならない」から身体を動かしていると、身体は思考の奴隷になってただの機械になり、いつも悲しみが漂っている感じがする。

「人間がその肉体を重荷のようにひきずり回っているのが現代の特徴である。芸術に基づく真の教育は、一つ一つの歩みや手振りが子どもに内面的な喜びと満足を与えるものでなければならない。」 (R.シュタイナー 『現代の教育はどうあるべきか』より)

 シュタイナーのこの言葉は、深く人間性を捉えていると思う。いわゆる、「やる気」の問題に深く深く関わっていると思う。

 私自身、「しなければならないことがあるけれど、やる気がおこらない」、これで数十年間ずっと悩まされてきた。自分から望んだこと、やり遂げたいと思っていることでも、そうなってしまう。
 原因は、思考と身体の関係なのだと思う。

 学校教育の
・ ラジオ体操的な、形から強制していく体育。
・ じっと座っていなければならない授業。

 この二つが、そうとうな悪さをしていると思う。私自身、思考と身体の葛藤を植え付けられたのは、学校教育であることを実感している。
 シュタイナー教育だと、オイリュトミーという、不思議な踊りのような体操のようなものを持っている。
 サドベリータイプの教育だと、子どもの自発的な遊びに任せて、強制を避けている。

 このように、思考と身体の関係を深く問い直している教育も存在するのである。

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”教育”と呼ばれるこの野蛮な風習

 ブログの更新の間をずいぶんとあけてしまいました。いつも読んでくださる方々、すみません。健康は大丈夫か、とご心配いただきました。大丈夫です。

 多忙でした。
多忙でしたが、でも、ブログをまったく書けないはずなどありません。
なにか新しいものが感じ取れるけれど、表現の道が見つからないんです。

 言葉が及ばないところに入っていく道を見つけた。十代のうちは住んでいることのできた王国に、少しは戻ることができるようになった。

 そうしたら、すべての結論は浅薄だと感じられてしまう。

 人間の中に、クリエイティブそのもの、感受性そのものみたいな世界があって、言葉はその影みたいなものです。
 もちろん、言葉には言葉の役割があります。言葉は役に立つものです。欲をかかずに、有用性に徹して、言葉を使うべきです。

 たとえば、ふっと言葉が浮かびます。
「”教育”と呼ばれるこの野蛮な風習」
 お、いい言葉だ。あるイメージを強烈に喚起するでありましょう。
 いわゆる教育って、ほんとに野蛮だな。
 子どものときも思った。大人になっても思った。今も思う。
 で、「”教育”と呼ばれるこの野蛮な風習」みたいな言葉をたくさん思いついて、それを言うとそれなりに喝采してくれる人たちがいて....、みたいなことをしてきたのですが....。
 それは、それでいいのですが....。
 それだけじゃなくて、責任を持って日本教育の分析をして、処方箋も書いて来たのですが....。

 タゴールの詩を想い出します。
「私が歌いにきた歌は、まだ歌われていない」
(「ギタンジャリ」 第13歌)

 6年前に体調を崩して仕事を絞っていたのですが、今年の春から、また新しく子どもたちと関わっています。自主保育的な幼児教育と、中学生相手の寺子屋。

 子どもを相手にしていると、少しは、自分の歌を歌った気がします。

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ほんとうは強制力で成り立っている学校

 公立小中学校は、法律のバックアップで、強制的に生徒を集め、生徒が聞いていようがいまいが、授業を遂行するところです。生徒が学ばないと、生徒個人個人の無能力や家庭の努力不足のせいにされます。
 それだけだと言っては申し訳ない、楽しい授業がないこともありません。一部、いい先生もいるし、いい学校もあります。でも、やはり、それはほんの一部。
 学校は基本的に強制力で成り立っています。
 「学校に来ないとたいへんなことになるぞ」という暗い脅しが底流に流れていて、その頭上に、「明るい、生き生き、自主的」というような垂れ幕や銘板が飾られています。

 学校が強制力をなくしたら崩壊することを、やっている人たちは予感しています。だから、「強制しないと勉強しない」、「勉強はさておき、社会性が必要」、とさまざまな理屈をつけます。それによって、強制力でも振るわないと存続できない教育が、存続します。

 そういう強制力で成り立っているところで、「ゆとり教育」をやろうとしても、「ゆるみ教育」になります。

 それではまずいと強制力を強めると、また「思考力不足」、「学力格差」の問題が浮上するでしょう。落ちこぼれが増える問題が再びクローズアップされるでしょう。新学習指導要領が実施された今年度から、不登校はまた増加に向かうと予想しています。

 現体制を温存したまま、「ゆとりだ」、「学力だ」と、上から指揮していても、どうしようもないのではないでしょうか。教育というのは、泥臭いものでして、官僚組織に指揮できるようなシロモノではないです。
 ゆとりを実現するには、それなりの学校運営体制と教師力が必要です。学力を追求するのでもそうです。もっともっと現場感覚と自由が必要なのです。

 大事なのは、学びです。子どもの学びを知っている人たちが、教育を作っていけるようにしないといけない。子どもに接していない官僚組織が、教育内容にまで口出ししていばいけないです。
 なによりも、志を持った人たちのために学校を作る自由が必要です。

 教育は、職務の遂行から生まれるのではありません。
 子どもの学びに対する理解、子どもと教師の共感から、常に新しく生まれるものです。、

 「子どもと保護者のための最善を為してください。細かいことは言いません」
 そう言って、資金と施設の手配をし、関係者をコーディネートすることが、教育行政の仕事だと思います。

 幼児を見ていると、自発的によく学ぶものです。教えなくても、さまざまなスキルを身につけ、知識を増やしています。あんな力を持った子どもたちが、学校に行くようになると、どうしてあんなにダルになるのでしょうか。どうして落ちこぼれがでるのでしょうか。
 学校に出席しているけれど、学ぶ権利(教育を受ける権利)を損なわれている子どもたちがたくさんいます。


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自己知と感受性

 自己知というのは、一生続く、もっとも価値ある学びなのだと思います。
 自分がどのような動機で動いているのか、それは全存在、全感覚を使ってのみ、理解できるものです。言語でのみ自分を捉えていると、どんなに反省したつもりでも無意識領域が大きくなり、自己知が浅くなります。

 その例です。
 さっきちょうど、あるメーリングリストに思うことを存分に書いていて、自分がちょっと調子に乗りすぎていないか、みなさまから「あいつ一人のための場じゃないぞ」と言われそうな気がして不安になりました。

 ....と書けば、頭で考えて自己反省したみたいです。
 そうじゃありません。実際に起こったことは、言語を介していないのです。

 「自分がちょっと調子に乗りすぎていないか」は、他人が私に対して、あいつめ、と思う場面を瞬間的にイメージしています。思い浮かべていますが、言葉としては何も浮かんでいません。思考の一種ではありますが、野生動物は、たぶんこんなふうに思考しているだろうな、という思考です。

 そうしたら、条件反射的に、胃のあたりに不快な感じがします。まずい、やばい、という感じです。これは言語が出て来るよりはるかに速く、瞬間的に起こります。

 それは、サッカーの試合をしていて、あっちから敵が来る、と見て、やばいと瞬間的に向きを変えるようなものです。言語の介在なしに、きわめて短い時間で起こります。

 これは、私の中にできている条件反射です。生まれて育ってくる過程のどこかで刷り込まれています。
 この条件反射があるために、わたしは臆病です。人前で遠慮が多くてのびのびしない感じになります。でも、ときどき、意識的に臆病さを乗り越えようとして、こんどはほんとうに反感を買うようなことをしてしまいます。
 と同時に、この条件反射は日本人の文化そのものでもあります。他人の中にも、同じものを見つけることが多いのです。

 場面を想定しては、条件反射的に反応する。
 私の中に、この、膨大な堆積があります。でも、私はそれに気付かないまま行動しています。

 人間の自由を奪っているものはたくさんありますが、その最大原因は、この条件反射だと思います。

 子どもは、このような言語を介さない世界を生きています。感受性によって生きているのです。
 ですから、子どもが何かしたときに理由を尋ねてもわかりません。子どもは、ただ、そうしただけなのです。でも、子どもにとって瞬間瞬間の判断というのはちゃんとあるのです。それは、子どもを見ていれば、わかることです。

 問題は、これがただの条件反射であるか、感受性で受け止めた上での主体的判断であるかなのです。

 恐怖に訴えて結果を出させるだけの躾は、条件反射作りです。その子の自由を奪います。その子は、自分の中の何が起こっているかのプロセスに関与することなく、さまざまな気分が湧き出てしまうのです。それがなぜか理解できなくて、他人のせいにしたり、自分のせいにしたりします。

 そうではなくて、どんな感覚も避けることなく、怖いことを怖いと感じ、やるせないことをやるせないと感じる、そのような感覚に対する全面的受容があれば、その子は判断に基づいて生きることができます。

 あるがままを認める愛が必要なのです。それが人間を自由にします。

 言語過程の外側にあるが、生き物としては当然に感じていること、それを感じ取れることが、知恵そのものなのです。

 場面を想定しては、条件反射を起こしていること。それはあまりに素早く起こっていて、言語でフォローできない。
 そのため、私は内面で何が起こっているのか知らないのです。

 これは、そのプロセスを感じ取ることができると、消えます。感じ取れれば、条件反射ではなくなります。子どもの時の負の刷り込みが大きかったとしても、誰でも自由になることができます。自分の中でほんとうに起こっていることを感じる勇気さえあれば、自由になることができます。

 これは不思議なことなのですが、全感受性をあげて、一切の言語化をせずにあるプロセスを生きることができると、それは条件反射ではなくなって、私の自由を邪魔しなくなるのです。
 これは、大人にも子どもにも共通です。

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読書感想文の宿題をやめましょう

 夏休みの読書感想文の宿題をやめましょう。
 強制されても苦痛なだけです。得るところがありません。感想文は書きたい人だけ書けばよい。

 「感想を書きなさい」と言われても、「おもしろかった」と書けば、それ以上書くことなどないのです。誰でもそうだったはずです。
 強いておもしろさを書こうとすれば、「主人公がこうしてこうなった」というような場面やあらすじを書くことになります。そうするとそれは「感想ではない」と先生に言われますので、書けない。
 「おもしろかった」と1行書いたあとは、どうしようもなくて、苦しむのであります。

 優秀作に選ばれた感想文を読んでごらんなさい。感想文を書くというのは、本を読むのとはまったく違う技術なのです。ぐっと自分に引き寄せてしまって、自分の想い、考えを書くのです。

 よい感想文を書けるようにするなら、子どもが生活の中でほんとうに感じたことを言葉にする機会をたくさん作る、その子が発することによく耳を傾ける、きらりとしたことを言ったら反応してあげる、そのような地道なことをし続けることです。作文の指導が上手な先生は、それをやっているはずです。親たちでも、上手な人たちがいます。
 話し上手、書き上手は、心から聞いてくれる人がいるときに育つのです。

 ぽーんと宿題だと強制されたら、いやになるだけです。

 読書をさせてなにか能力を伸ばさせようというなら、あらすじを書くことのほうが大事です。物事を要約することは大事な能力で、日常生活でも、国語の勉強でも、役に立ちます。

 読書感想文の全国コンクールが、毎年開かれています。
 あれに出させようと、全国津々浦々の小中学校が、読書感想文の宿題を出すわけでしょう。

 りっぱなご褒美を数少なく出して、みんなに競わせる。
 上澄みに素晴らしいものが現れればそれでよい。強制してでもみんなにやらせて、裾野を広げる。陰で苦しむ人間、やる気をなくす人間が出ることは、まったく視野に入っていない。

 いまの教育の縮図じゃないですか。

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旗ふるな

こんな詩に出会いました。

『旗』 作・城山三郎

 旗振るな 
 旗振らすな 
 旗伏せよ 
 旗たため 
 社旗も校旗も 
 国々の旗も 
 国策の旗も
 運動と言う名の旗も
 ひとみなひとり
 ひとりには
 一つの命

学校というのは、旗を振りたい人たちや、旗の前に直立不動したい人たちが、思い通りにしたがるところです。
学校には、素直で信じやすい若い人たちがたくさんいますから。

旗をかざす人たちの空虚さがわかりますか。旗は、体裁の良い自己崇拝なのです。
その虚しさを見抜く目を子どもたちに失わせないことができますか。

大義や権威をまぶしく感じないだけの充実した生を、子どもたちに保障できますか。

新たな旗を振ることなしに、それができますか。

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ささやかな恐怖。学校で植え付けられた

けさ、自分がいつもひたされていた恐怖のことを意識できていました。
ささやかな恐怖。何十年もずっとひたされてきたものです。
身体全体で感じる、ちょっとすくんだような感じ。子どもが怯えて、物陰に隠れるような感じ。

この恐怖があるから、いつも考え事をします。その考え事をするということが、物陰に隠れること。
他人から見てどうであるか
自分が承認されているかどうか
いまのままで自分ではだめだと考えたり
もっとほんとうの自分があると考えたり
あのときああすればよかったと悔やみ
こうなったらどうしよう、こうなったらどうしようと、いつも思いをめぐらす

この恐怖で、
つい、自分を自分以上に見せたり
よく知らないことを吹聴したり
逆に、ひどく卑下したり。
他人の欠点をいつも見つけ
なににつけても論評します。
言葉を頭の中で回転させているときは、他の事は全部忘れてしまえる。

間違えるのが怖いから、誰か権威者の言ったことだと注釈をつけるし。それも、誰もが認める権威より、ちょっとマイナーな権威を利用するし。

20代のときに、他人から見てどうであるかを気にするのがいやになって、気にしないと決意したら、他人に迷惑ばかりかけるKYになってしまったし。

この恐怖、学校で植え付けられています。
家庭ではもっと自由だったし、親には言いたい放題が言えました。恐怖にはならないです。小学校に行きだしてから、恐怖に満ちた内面生活が始まったことを、よく覚えています。3年生くらいになったら適応でき、明るくしていましたが、この恐怖があったために、かえって明るかったのだと思います。

集団生活には、たしかにそれなりの取り決めや規律が必要です。
でも、先生たちは、それを、恐怖や辱めに訴えて植え付けようとしていた。
授業を成立させるためには、先生たちは、手段を選んでいなかった。
自分勝手で暴力的な子どもたちは、押さえつけられただけで、なにがまずいかの感受性を発達させてはいなかった。

私は、学校の雰囲気に怯えて、何をするとしかられるか敏感に察知している子どもでした。

この恐怖は、ささやかではあるけれど、虚栄や、偽善の根源になってます。

こういう恐怖で自分が動いていることは、考えればわかることだし、他人を見れば一目瞭然です。でも、感じ取れないうちは解放されない。
それをやっと見つけた。説明ではなく、言葉に置き換えてしまうのではなく、身体の実感として。

とりとめがなくてすみません。思いつくままに。

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できるあんたとできないあんた

 グループに対して、何かを教えたり、ワークをやったりするとき、とても単純な法則があります。

 いっしょに一つのものを完成させる作業や、役割分担で成り立つ作業をしていると、お互いの仲がよくなってきます。自己表現がたくさんできると、もっとよくなります。

 「あんたはできるけど、あんたはできない」と差別や順位をつけていると、お互いの仲が悪くなってきます。人間は、比較されるたびに孤独感を味わうものです。優越感を味わう側も、劣等感を味わう側も、どちらも実は孤独なのです。

 学校の勉学では、「あんたはできる、あんたはできない」というメッセージがたくさん出ています。学校は、社会に出て個人のポイント稼ぎをして生きることの練習になっています。
 もちろん、生徒も先生も、その上に仲のよい関係を築こうと努力しているのですが、差別や順位づけをそのままにしているので、どうしても効果が薄いです。
 いじめのはびこる土壌になります。

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管理社会といじめ

 大津市のいじめ自殺事件が大きく報道されています。
 新聞やネット上に、被害者に呼びかける声、加害者に呼びかける声、自分の体験を赤裸々に語る声、それぞれ真摯なものがたくさんあります。でも私には、いじめは、個人の性格や心の問題だけではないと思えます。
 ここでは、違う視点からいじめについて思うことを書きます。

 いじめは、管理社会で多発します。
 管理社会というのは、人を見ていなくて、成果だけ見ている社会です。
 管理社会は、多くのことにやり方と手順が決まっています。やり方と手順を守らない人間がいたら、お互いにジロリと睨み合う社会です。
 管理社会では、すべてのことに「それはこういうことだ」という答えが用意されています。誰もが、それに沿ってものを言っています、それに合わせていないと孤立します。

 管理社会では、だれもがなかなか認められません。満足した人間が働かなくなることを怖れているのです。いつも目標を持ち、達成に向かって努力することが推奨されます。でも、認められるのは、達成された瞬間だけです。どの人も「自分が認められている」という実感を持っていません。

 管理社会というのは、どの人も、認められるためにあがかなければならない社会です。うぬぼれ屋や、利己主義者が増えます。他人をバカにすることで自尊心を保つ人が多くなります。多くの人が、自分は欠点や問題の多い人間だと思っています。そして、他の人の欠点や問題がたまらないものに感じられます。

 管理社会では、誰もが仮面をつけて生きています。自分で感じたことは心の片隅においやって、しなければならないことをし、言わなければならないことします。誰もが、空虚でやるせないものを持っていて、なにかで紛らして生きています。

 管理社会では、仲間と同調しないと生きて行けません。仲間による承認以外に基準はないのです。

 いじめは中学で多発します。中学が典型的な管理社会です。
 成績、行動、すべて目に見える成果があるかどうかで測っているのです。校舎、教室は標語だらけ、 「中学生らしく」と要求される、服装、態度、言動。
 つまらない授業。私語と居眠りだらけ。
 頭ごなしの教師たち。
 うまくいかないほどに、教師たちは、目標と態度を管理しようとするのです。

 それでも、多くの中学生はけっこう明るく生きています。比較の対象がないから、それを当たり前として生きているのです。 友人とのバカさわぎや、ふざけあいが、最高の息抜き。
 でも、しわ寄せが集中的に現れるところがあります。

 日頃がみじめだと、誰かをからかったり、困らせたりするのは、楽しいことです。
 「あいつはたまらない」という奴に、制裁を加える場合もあります。
 誰かを自分の言うなりにする喜び。

 先生たちは、生徒たちをなんとか「~ねばならない」の世界に引き戻そうとします。でも、教師たちも管理社会に生きているのです。教師同士もいじめがあるし、「あいつよりマシだ」とか「あいつさえいなければ」とか内心でため息をついています。

 管理社会というのは、誰もが自分の心を生きることができなくなってしまった社会です。
 何か違う、と誰もが思うけれど、誰も変えようがない。ただ、それが当たり前だから、そこで生きている。

 いじめを根本的になくしたいなら、管理社会を見直さないといけません。
 貧乏なために盗みの絶えない国があったとします。犯罪者の取り締りは必要だし、盗みに対する備えも必要です。でも、国全体を豊かにすることを考えなかったら、いつまでたっても盗みはなくなりません。それと同じです。


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情熱と理解が湧き出る泉

 われわれは、わけのわからないものに取り囲まれて生きるようになっています。

 テレビの原理をどれだけの人が知っているでしょうか。自動車は? 冷房は? コンピュータは?
 根本的な仕組みがわからないものの中で暮らすと、われわれは、なにか落ち着きの悪さを感じ、表面的な行動だけ合わせて生きるようになります。

 社会の仕組みについても、われわれはわけのわからないものにこづき回されて生きています。とにかく、試験があるのだ、落ちこぼれてはいけないのだ....。

 学校は、1時間ごとに、数学、国語、理科、と目まぐるしく科目を変えます。生徒は、授業が始まるたびに、自分の関心を捨てて教師の差し出すものに合わせることを要求されます。ある科目に関心を持ったとしても、50分後にはそれを捨てることを要求されます。家庭生活にまで、宿題や塾が入り込みます。
 このような教育を行っていると、どうしても生徒の自発性が低下します。そこで学校は、強制、賞罰、競争を使って生徒を動機づけます。ますます、生徒の自発性が低下します。

 このような教育は、浅薄ではないでしょうか。結論に固執する人間や、政治煽動やゴシップに弱い人間を、大量生産しているのではないでしょうか。

 そうではなく、人間の深いところに、情熱と理解が湧き出る泉があります。それは、騒がしさや強制の中にはありません。静けさと感受性によって、その泉から水を汲むことができます。教育は、その泉との交流を助けることができるでしょうか。
 

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自主高校があっていい

 中学生のお子さんを持つ親と話していたこと。
 子どもに詰め込み勉強をさせたくはない。しかし、現実に高校受験があるのでどうしたらいいか。私はこう言いました。

 「自主高校があっていいじゃないですか。」

 学びは、自分たちのものです。生徒と親たちで高校に相当するものを作ってしまえばいいのです。自主保育があるのと同じです。

 高校は義務教育じゃありません。「高校卒業程度認定試験」という文科省管轄の試験があって、これに合格すれば、高校卒業と同じに通用する資格が得られます。進学にも就職にも通用します。
 高卒認定試験は、難しくありません。そのための勉強に、さほど時間はいらない。あとの時間は、好きなことをするのに振り向ければいいです。勉強だろうが遊びだろうがスポーツだろうがなんでもいい、好きなことに打ち込むとき、人間はいちばん伸びます。

 自習が難しい科目は、自分たちで先生を雇えばいいではありませんか。
 どうして、教え下手な教師に甘んじなければならないのですか。学期ごとか、1年ごとくらいに生徒が信任投票をして、教わりたくない先生とは再契約しなければいいです。
 スポーツ指導者、話し合いのファシリテーター、社会活動コーディネーターのような人を雇ってもいい。
 公共施設とそのサービスは、利用できるものはなんでも利用すればいい。
 年限を3年と区切ることもない。

 やろうと思えば、たいして難しくないと思います。

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「オルタナティブ教育法を実現する会」ができます

 ”学校”だけが教育でしょうか?
 これまで”学校”は、大きな役割を果たしてきました。しかし、”学校”だけでは、自分に合った学びができない子どもたちがたくさん生じてしまうのではないでしょうか。

 学校になじめなくて、たくさんの子どもたちが不登校になっています。
 既存の学校にあきたらず、シュタイナー教育とか、サドベリータイプ校などの新しい学びを作っている人たちがいます。
 ホームスクールをやっている人たちもいます。

 だったら、新しい法律を作って、多様な教育をを合法にしたらいいではないですか。多様な教育が認められていることは、その国の民主主義が成熟していることのバロメーターです。

 ということで、「オルタナティブ教育法を実現する会」が発足します。これまで、フリースクール全国ネットが中心になって新しい法律案を作ってきました。こんどは、より広範な人たちを集めて実現を目指します。
 私も発起人の一人です。
 7月8日にオリンピックセンターで設立総会があります。

 これまで私が見てきた教育多様化の動きで、もっとも内容が本格的ですし、集まっている人たちが広範です。また、時代は従来の枠にはまらないクリエイティブな人たちが育つことを求めています。
 有望な動きだと思います。

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オルタナティブ教育法を実現する会 設立総会
   7月8日(日) @国立オリンピック記念青少年総合センター
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この日が、日本の教育の未来にとって、必ずや大きな意味をもつときがきます。

【日 時】  7月8日(日)
【場 所】  国立オリンピック記念青少年総合センター
       ( 東京都渋谷区代々木神園町3-1)
【交 通】  小田急線参宮橋駅下車徒歩約7分
【対 象】  教育に関心のあるすべての方
【定 員】  120名
【参加費】  500円
【連絡先】  
●お問合せ先「オルタナティブ教育法を実現する会 発起人会 事務局」(フリースクール全国ネットワーク内)
電話:03-5924-0525 メール:ae@aejapan.org
http://www.aejapan.org/ ※参加のお申し込みは、こちらまでお願いします


==<◆ 設立総会開催趣旨 >========================

 みなさんは、日本の教育について、今、どうお考えでしょうか。自体の変化とともに、新しい教育が必要となってきているのではないでしょうか。
 70年台半ばより増え続けた不登校は、ここ10年小中学生だけでも12万人という大台で、横ばい状態が続いており、現在の学校システムに合わない子、苦しんでいる子は増え続けていると言えます。
 その背後には、価値観や学校への期待、子どもの状態や志向性すべてが多様化しているのに、学校や教育システムが一向に多様化していないという事実があります。生物の多様性の大事さは、この間みんなが認めるところとなっていますが、子どもの多様性、教育の多様性、学校の多様性は、どうしてか認められていないのです。
 不登校の子供たちは、そのため、市民、民間で作った学校外の居場所、フリースクールで学んだり家庭を中心に成長したりしていますが、これらは正規の教育機関と認められず、公費支援も殆ど無いばかりか、いわれない差別や不利益に晒されてさえいます。これはシュタイナー教育、デモクラティックスクール、外国人学校などにも共通しており、学校教育関係者の努力ばかりでなく、学校や教育の仕組み自体を変えていくことが、今真剣に求められてきています。
 私たちはそのために、ひとりひとりの大切な子どものいのちがどのような教育の場でも輝き、誰もが本当に安心でき、個性をのびのびと発揮して育っていけるようにするための、多様な教育をつくることを目指しています。そして真に子どもの学ぶ権利が保証される新しい法律、「(仮称)オルタナティブ教育法」の制定を求めます。また、この法律の内容はどうあればいいのか、これから大いに議論していこうと思っています。
 関心のある方、まずは設立総会にお出かけください。出席可能な発起人はすべて登壇いたします。ともに日本の未来をつくる子供の幸せな育ちについて、考えあってみませんか。お誘い合わせの上、どなたも気楽にご参加ください。

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   実現する会発起人会
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【共同代表】

奥地圭子 フリースクール全国ネットワーク代表理事/東京シューレ理事長
汐見稔幸 白梅学園大学学長
喜多明人 子どもの権利条約ネットワーク代表/早稲田大学教授

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明橋大二 精神科医/NPO法人子どもの権利支援センターぱれっと理事長
朝倉景樹 シューレ大学/東京シューレ理事
江川和弥 フリースクール全国ネットワーク理事/寺子屋方丈舎代表理事
大田 堯 教育学者
小貫大輔 チルドレンズ・リソースインターナショナル運営委員/東海大学教授
加瀬進 東京学芸大学教授
加藤彰彦 沖縄大学学長
門眞一郎 京都市児童福祉センター/児童精神科医
亀貝一義 フリースクール札幌自由が丘学園理事長
亀田徹 PHP総研教育マネジメント研究センター
木村清美 フリースクール全国ネットワーク理事/フリースクールヒューマン・
ハーバー代表
児玉勇二 弁護士
杉山まさる 東京サドベリースクール 代表理事
高岡健 精神科医/岐阜大学准教授
坪井節子 弁護士/カリヨン子どもセンター理事長
天外伺朗 作家/元ソニー上席常務
十時崇 元日本型チャータースクール推進センター/多様な教育を推進するため
のネットワーク
永田佳之 聖心女子大学准教授
中林和子 フリースクール全国ネットワーク理事/ふぉーらいふ理事長
中村国生 東京シューレ理事・事務局長
中村尊 フリースクール全国ネットワーク理事/フリースクールクレインハー
バー理事長
西原博史 早稲田大学教授
古山明男 多様な教育を推進するためのネットワーク代表
増田良枝 フリースクール全国ネットワーク代表理事/越谷らるご理事長
矢倉久泰 教育ジャーナリスト
山下英三郎 日本スクールソーシャルワーク協会/日本社会事業大学特任教授
吉田敦彦 大阪府立大学教授/京田辺シュタイナー学校顧問
若林実 小児科医

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なぜ数学が必要なの?

 「なぜ数学が必要なの?」

 そう尋ねる中学生がいます。

 「それって、数学をやりたくないから言う、逃げなんだよね」
 そう言う先生たちがいます。「こいつ、うまいこと逃げようとしやがって」、そう内心思う先生もいるだろうし、はっきり口で言う先生もいるでしょう。たしかに、この問いは、目先の数学から逃げるために使えます。

 「なぜ数学が必要なの?」
 真剣にそのことを考えている中学生もいます。
 これに、先生がまともに答えようとすると、

 「将来、役に立つよ」
 「思考力を育てる」
 「現実問題なんだ。受験に必要だ」

 そこらへんが、代表的な答えでしょう。どれも、みんな正しい。

 それに対して中学生が、「先生は、数学をやるものだと決め込んでいて、きれいごとの理屈を付けているだけ。ほんとうには考えていない」と反論する。それも正しい。
 先生は、学習指導要領で数学をやることに決まっている学校に雇用されている立場です。深く追求されると、「いいから、これは現実なんだ。考えているヒマがあったら勉強しろ」と逃げる人も多い。

 学ぶということ。
 それは、まず、現実に起こっていることをあるがままに知ること。
 数学から逃げ回っている生徒たちがいること。職務に規定された先生たちが、とってつけたような理屈を言うこと。

 それが現実です。では、なぜ、生徒が逃げ回らなければならないのか。なぜ、先生がきれい事を言わなければならないのか。それを非難もせず、正当化もせず、見ること。
 そこから湧き起こる悲しみ。
 余儀ない行動をとっている人たちに対する慈しみ。生徒に対しても、先生に対しても。
 そのようなものだけが、解決への道を作ると思っています。


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