不登校とオルタナティブ教育の関係について思うことが多い。
日本の現実の学校は、ある年齢になった子供たちを集めて、知的なものと社会的なものを中心に、訓練を施すところである。
それがが学校のすべてだと言ったら間違いになる。学校により先生によりさまざまな工夫がなされている。しかし、やはり学校の骨格は「訓練」である。
ところが、実際の子どもは、さまざまな肉体的欲求、感情、で動いている。子どもは特に、よくケアされ、暖かい人間関係に包まれ、探索行動をバックアップしてもらうことを必要としている。大勢の子どもを預かっている学校で対応しきれない問題は非常に多い。
そのために、学校という訓練的な場で、やっていける子とやっていけない子がいる。
学校というのはそもそも集団の場であり、訓練の場なのだから、子どもがそれに耐えられるところまで家庭や地域でちゃんと育ててほしい。学校にそれ以上のことを要求されても、対応することは不可能である。それが学校側の言い分である。
学校でやっていけない子が、先生たちには「その子が特別なせいだ」と見える。
それはその通りではある。不登校の児童・生徒たちは全体の1%にすぎず、もともと学校生活に困難を感じるようなものがあったから来れなくなる場合が多い。
先生たちには「家庭要因が大きい」とも見える。
家庭がしっかりした生活習慣と共感のある人間関係を作っていれば、子どもは家庭外でのストレスがあっても、を吸収できることが多い。それも事実である。
保護者の側からすると、個別の教員や学校に問題があるためとも見える。行政からもそう見える。それも事実である。教育というのは、”人”の要素が大きく、児童・生徒と教員がもつれてしまったケースも多いのである。
しかし、もともと日本の学校そのものが持っている問題があって、それが特に敏感な子たちに現れているのだ、とも考えられる。
私は、そちらが事実だと思う。
学校に適応しにくい子は世界中どこにでもいるが、1%もの不登校が生じているのは、日本に特有の現象なのである。
子どもにも親にも普通の意味での問題はないが、子どもが学校に行けなくなる例も多い。
教員の質だって、日本は高いほうである。
現実に、不登校の数は12~13万人程度で横ばいを続けている。
90年代に不登校の急上昇があったため、学校も行政も手を尽くしている。そして、総数の横ばいにまではなった。しかし、それ以上は減らないのである。
不登校問題を子ども個人の問題、家庭の問題、教員個人の問題で済ませている限り、解決しないであろう。
教育を狭く考えなくてもいいのではないか、学校が訓練の場であることを根本から見直していいのではないか、そういう教育観がある。
世界を見渡せば、いろいろな教育がある。発想も方法も違う。
子どもが自発的にやろうということだけで学校を作ってもいいではないか。
そもそも学校なしでも、子どもを育てられるのではないか。
そういう教育すら、世界に存在している。
それらの教育は、オルタナティブ教育と総称されている。私は、オルタナティブ教育への道を開くことが、不登校へのもっとも根本的な対応だと思う。日本教育を根本的に問い直すものが実在しないと、日本教育は比較の対象がなくて、子どもと家庭と教員個人ばかりに問題を見つける。
ただ、不登校に関して、長期と短期の両方の取り組みが必要であると思う。
オルタナティブ教育を興すことは、不登校に関して長期的な取り組みである。一気にいい学校がたくさんできてくることなどあり得ない。
短期的には、不登校を不登校として対応する、いろんな場が必要だと思う。公立でも民間でもなんでもいい。暴行・監禁等の人権侵害以外は、どんなやり方でもいい。いっさい、人々の創意工夫に任せたほうがよい。
不登校は、原因もさまざま、解決もさまざま、としか言いようがない。いろんな人が「不登校はこういうものであり、こうすればうまくいく」と言う。しかしそれは、そういう例もあったと言うだけのことだけである。どんなやり方をしても、そのやり方に合わない子もいるし、やりそこないもある。「一律の道などない」、ということを前提にすべきである。
どのような道でもよい、現実的に対処すべきである。そのために、学校に行かなくても、子ども1人1人に教育費がついてまわるような仕組みをつくるべきである。そうでないと、家庭で途方に暮れるしかない人たちがたくさん生じてしまう。
そういう現実的な場と、長期的にオルタナティブ教育を興すこと、その両方が必要だと思う。
ブログランキングに参加しています