キョロキョロすること

 だれでも、考えごとにふけって、心ここにあらずという状態になっていることがありますね。
「あいつにあんなことを言われたけれど、その本心はこういうことだろう」、
「あしたの発表は、こう言おうか、ああ言おうか」
というようなことを考えていて、周りの物音も聞こえないし、周りの状況も最低限しか見ていない状態です。

 そういうとき、目は何を見ていますか。

 目をつぶっていますか。

 そうではないはずです。
 もし、自分が考えにふけっているとき、目が何を見ているかに注意できたら、視点がひんぱんに動いていることを発見されると思います。0.1秒くらいの単位で、ひゅっ、ひゅっと見ているものが移動しています。
 視点が固定されると、見ているものに注意が行ってしまうので、思考にふけることができないのです。だから、ひんぱんに見ているものを変えているのです。

 この自己観察は簡単ではありません。観察しようとすると、思考にふけった状態ではなくなってしまうからです。でも、思考に入り込みかけたときなどに発見できると思います。

 そうしたら、授業中にキョロキョロしている子の状態が理解できるはずです。

 あの子たちは、あなたが考え事をしている時の、あの状態にいるのです。

 考え事にふけるのはどういうときでしょうか。怖いことや心配なことがあるときですね。考えている内容は、いろいろです。過去の出来事を反芻していることもあります。おもしろかったテレビドラマのことかもしれません。とにかく、考えているときは、怖いことや心配なことを感じなくてすむのです。

 授業中にキョロキョロしている子は、だめな子、いけない子ではないのです。彼らは、恐怖、不安、から逃れようと必死になっている状態なのです。体調不良のこともあります。
 そうとわかれば、その子を責めなくなるはずです。その子の恐怖や不安を取り除くにはどうしたらよいかを、観察し、研究するようになるはずです。 

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危機の時代だからこそ

 私は、政治にも経済にもいつも興味津々です。思うことは多いです。でも、人間が結論を覚え込んでは自分や他人を指揮しているかぎり、人間は孤独であり、傷つきやすく、戦いから抜け出せないでしょう。そういう人間たちが社会改革をしても、暴力や欺瞞にとりつかれるでしょう。
 そこをなんとかできるのは、教育だけです。教育だけが希望だと思って、政治経済にはほとんど触れずに、教育で発言しています。

 なのですが、今の世界状況は危機的だと思います。

 ギリシャの国債問題に発した欧州の経済危機は、不良債権の誘爆をつぎつぎと起こして、世界的金融恐慌にまで発展しそうです。各国政府も中央銀行も、リーマンショックのときに全力出動したので、救済する余力は大きくない。

 イスラエルとイランがいつ戦争勃発となってもおかしくありません。この戦争が起きたら、核兵器が使われそうです。おそろしいことになるかもしれません。
 世界には、他にも紛争の火種だらけです。

 2012年は、激動の年になると思います。世の中は騒がしくなるでしょう。

 そう言っているからといって、警鐘を鳴らしたいのではありません。

 「だからどうした」、を改めて言いたいのです。

 恐慌も戦争も、社会の慢性病が症状となって吹き出すだけです。その時になって「けしからん」と騒いでも手遅れです。
 恐慌? 戦争? だからどうした。
 

 それより、なにが根源的なのか、です。第一次大戦、第二次大戦であれだけ懲りたのに、人類はまだ搾取と戦争をやめない。

 教育だけが希望を持っています。
 人間自体が深く変容しないといけない。

 理解力に富み、愛に満ちた次世代を育てることです。子どもが欺瞞を見抜く目を大事にすることです。教育さえしっかりしていれば、どんな廃墟からでも立ち上がれます。30年後は、かえって明るいのです。

 子どもたちの野心をかき立て、賞罰で誘導し、競争で走らせる教育をやめましょう。教育を人材養成だと考えるのをやめましょう。教育とは、子どもたちといっしょに、世界の驚異と美に目を見張り、幸せに生きる道を発見することです。
 平和を教えても、平和は訪れない。平和に教えたときだけ、平和がやってきます。

 迂遠だって? 
 いえいえ、とんでもない。唯一の道です。

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子どもは現在に生きている

 けさ起きて、すべてが美しく、新鮮でした。そういう日があるものです。
 壁の木目がおもしろくて、模様をたどりたくなりました。床の上のゴミを拾うだけで楽しく過ごせそうです。
 あ、これが子ども時代の気分だ。そのことを思いだしました。

 何かをせねばが先にあるのではなく、世界が美と驚異に満ちているから世界と戯れる。気がついたときには、なにかをいじっている。

 計画や目標が先にあるのではなくて、事物が先にあるのです。
 

 そう言うと、注意力欠陥障害みたいに自分の置かれた立場がわからないことを思い浮かべてしまうかもしれません。でも、実際の私は大人です。きょう、しなければならないことは知っています。
 大人としての責務を持って生きることと、この世界が美と驚異に満ちていると感じられることは両立できるのです。

 月並みな言い方ですけれど、頭とハートが調和していること。自分の言葉の部分が、他の部分をいつも命令指揮している関係ではないこと。自分の命令に従うロボットではないこと。

 それが教育の目指すところだと思います。

 子どもは現在に生きています。
 そして、現在だけが実在なのです。人間としての充実を感じられる感覚や感情は、すべて現在にだけあります。思考だけが、過去や未来に入り込んで行きます。でも、過去も未来も、素材は記憶と思考でできています。
 過去や未来で生きると、生きることの大事な部分が抜け落ち、美と驚異が見えなくなるのです。

 それなのに、今の教育は、思考ばかりに重点を置き、外部から与えられた目標に従って行動させることにばかり目がいきます。

 思考には思考の、しかるべき役割があります。
 それが見えている人がカリキュラムを作り、教育法を編み出し、子どもと接することです。それがすごく大事なことなんですね。人間全体として生きている人間が、人間全体としての子どもと接する。教育は、そういう関係の中から、いつも生まれ出るものです。

 教育を、官僚機構が管理してはいけない。官僚機構というのは、「決められたことをきちんとやる」ためにある組織なんです。精神の躍動を支援するには向かないのです。学校をお役所にしてはいけない。教育は、教育を実際にやっている人たちから生まれるようにしないといけない。教育が責任をとる対象は、こどもと保護者です。官僚機構ではない。

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大阪市教委と橋下市政

 大阪市の教育長が、大阪市長選挙で橋下氏が当選したあと、教職員の発言を「指導監督」するようにという通知を、校長や園長宛に出しました。
 教職員のどんな「不見識」の例があったのかは知りませんが、この通知はもっとまずいと思います。教職員一般の、橋下市政に対する批判封じとして働くからです。政治的には、大阪市教委が橋下市政への恭順の意を表した、と読めます。教育委員会は、教育を政治から独立させるための機関のはずです。

 批判の自由は大事なことです。自由に批判させる度量のないところは、問題のあるところが多い。
 大阪府教育基本条例が提出されている現在、当事者である教職員に自由に発言してもらわないと、現場の実情と意見がどうなのかがわかりません。「日教組が....」と言う人たちもいますが、大阪府の日教組組織率は20%くらいです。
 
 

 通知はつぎのようなものです。

教委校(全)第83号
平成23年12月28日
各 校園長 様
教 育 長

民意、選挙、公選首長と公務員、行政と政治についての基本認識の徹底について

去る11月27日の大阪市長選挙の後、本市職員が報道各社からの取材を受ける機会が多数生じておりますが、その際の本市職員の不見識な発言について、市民から厳しいご意見を頂戴しているところです。
本市の政策方針は市民の総意によって選挙で選ばれた市長及び議会が各々その権限を行使することにより決定されるものであり、また、市長は本市を統括し、代表するものです。
公務員である以上、これらのことを十分理解しなければならず、これに反する軽率な行為は、社会通念上も極めて不見識と評価され、本市の信用失墜に繋がるものであることから、厳に慎まなければなりません。
ついては、軽率な意見の表明や行動により本市行政に対する市民の信頼を損なう事態を招くことのないよう万全を期すため、校園長におかれましては、教職員一人ひとりに対し周知徹底を図っていただくとともに、指導監督に一層努めていただきますよう要請します。

(資料)
http://blog.goo.ne.jp/kimigayo-iran/e/86d1f087534c17941d200d0ab47965d4

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教育委員会の政治的中立と民意反映

 教育は、政治から中立でなければなりません。
 なおかつ、教育は、民意を反映しなければいけません。

 だからどうするかというと、政治とは別に、教育のための自治組織を作ります。それが、自然ですよね。

 教育委員会というのは、その教育のためだけの自治組織なんです。....もともとは。

 発祥の地アメリカでは、教育委員は住民によって公選されます。
 民意に基づいて選ばれた教育委員ですから、知事や市長にも指揮されない。それによって、政治介入を防いでいます。

 日本では、1948年にアメリカ型の教育委員会制度ができました。ところがこの制度の意味も理解されないうちに、1956年に教育委員の公選制をやめました。

 そのときに、「民意を反映しない教育委員会」という不思議な組織ができたんです。だもので、教育にいろいろ問題があっても、とにかく対応がよろしくない。

 そこで、大阪府教育基本条例みたいに、権限を首長部局に移そうとする動きができてきます。

 しかし、大阪府教育基本条例は危険だと思います。こんどは、教育が政治から中立でなくなってしまいます。橋下ブームみたいなのに、教育が巻き込まれてはいけない。

 教育行政は、政治から中立で、なおかつ民意を反映していないといけないのです。

 どうしたらいいかというと、方法が二つあります。

 1 教育委員を公選制に戻す。

 2 教育委員会を解体して、学校単位で自治組織を作る。学校ごとの協議会に校長任命権を渡す。

 どちらも外国に例があります。どちらでもいいのですが、教育というのは、親と学校のきめ細かい協力関係があるようにするのがいい。2の学校自治の方向に行くべきだと思っています。

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祈り

子どもたちが、罵声を浴びることなく育ちますように。

子どもたちが、怯えることなく育ちますように。

子どもたちが、他人と比較されずに育ちますように。

子どもたちが、どんな種類の兵士にもされませんように。

子どもたちにとって、世界が理解可能なものでありますように。

愛と理性が、つねに子どもを取り囲みますように。

 

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知識・技能とその人自身

 教育の最大問題は、どんな知識・技能を持っているかではなく、知識・技能とその人自身の関係なのだと思います。

 権威・権力によって知識・技能を注入されると、権威・権力をふるうために知識・技能を使うようになります。

 賞罰で誘導されると、自分のほんとうの動機がわからなくなって、目先の利害に果てしなく巻き込まれていきます。

 競争で誘導されると、他人に優越するために知識・技能を使います。うまくいかないと、嫉妬したり、劣等感にとらわれたりします。

 私たちは、このようなことで苦しんでいるのではないでしょうか。

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「学校教育法」について

 拙著「変えよう!日本の学校システム」で、さまざまな教育問題を生み出しているのは、「学校教育法」と「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」が創り出しているシステムにあるということを述べました。

 日本の学校の規格を定めているのが「学校教育法」という法律なのですが、これは1947年に制定されました。60年以上も前の法律です。

 「学校教育法」は、戦後、中学が義務化され、これから高等教育も普及させていこうという時代に、「国家主導で標準的教育を確立し普及させる」ための法律です。
 その時代の要請にはよく応えていたと思うのです。

 しかし、大きな問題を持っています。

1 ひとりひとりの人間、という視点が入っていません。

2 まずいことがあったときに、どのようにフィードバックするかの視点がありません。

3 教育は柔軟なものであり、新しい教育が湧き起こってくる余地を作っておかなければならない、という視点がありません。

 
 教育改革を考えるなら、「学校教育法」を徹底的に疑わなければいけないと思います。

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大阪府教育基本条例案って

 大阪府教育基本条例案って、
  http://osakanet.web.fc2.com/kyoikujorei.html

....凡庸だなあ。

人にやる気を起こさせるには、競争と賞罰を持ち込めばいいって思ってます。
それって、人間の品位を貶めます。競争と賞罰は、エゴを膨らまします。

まずいことがあったら、規則で取り締まればなんとかなると思ってます。
それは、人に働きかける力をもっていない人の夢想みたいなもの。規則に頼るほど、大組織病に蝕まれるのに。

けっこうな目標を掲げて、努力させればいいと思ってます。
だから学校は学びの場ではなくなって、学力生産工場になってしまう。

「教育行政に民意が十分に反映されなかった」は、その通りだと思いますが、教育が政治に牛耳られるのはもっと怖いです。校長や先生たちが政治家の顔色をうかがうようになってほしくない。

もっと、ちゃんとね、保護者と教員がいっしょになって学校を作れるようにするのがいいです。
保護者が校長を選ぶようにすると、もっとサービスがよくなりますよ。住民が市長を選ぶのとおなじでしょ。

それから、今の教育だけでなんとかしようとしないで、オルタナティブ教育を解禁するといい。トットちゃんの学校みたいなのが、どんどんできるといい。いまの学校は、規則で慣習でがんじがらめ。

政治家やお役人がおせっかいするほど、教育は悪くります。政治家や役人は、学ぶ権利を守るのが仕事。教育を指揮することじゃないです。

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テストはなぜするの

 テストはなんのためにするのですか?
 先生にそう尋ねますと、たいてい

 「理解を確実にするためだ」

 「できないところを見つけて、ちゃんと学習するためだ」

 という答えが返ってきます。

 ほんとうかなあ。ほんとにそのように使っているのかなあ?

 いちおう、算数・数学を念頭において考えます。
 できた子が、「この理解でよかった」と確認できるのはいいとしてです、できなかったときの対応が問題なのです。
 たいてい

 「頑張って、自分でやっておきなさい」

でしょ。
 それじゃ、だめだって。
 それが落ちこぼれの山を作る原因です。

 授業でもわからなかった子なんですよ、さらにテストで「できない」という実感を味合わせているのです。そこで先生が放り出してしまって、
「自分でやっておきなさい」

 それで、自習できるはずがないじゃないですか。落ちこぼれるだけです。
 

 テストをやったなら、そのフォロー体制ができてないといけない。これ、大事なことです。フォロー体制を作ってないなら、テストなんかするな。

 せっかく「何ができないのか」をみつけたわけでしょ。その子にあった指導やワークを提供できないといけない。それも、親切に、暖かく。

 そんなことをしているヒマが先生にないって?
 もちろんそれが現実です。テストのあとのフォローをやっていたら、教科書を終わらせることができません。教科書を終わらせなければ、保護者からも校長からもクレームがきます。

 だからしょうがないって?

 そこが、しょせんは官営学校であり、教育の配給制度なんです。与えられた教科書を教えるのが学校なんです。明治時代の感覚を、まだ引きずっています。そう法律で統制してしまったから、身動きできないのです。
 発想が逆です。いちばん大事なところで発想が逆だと思うんです。

 「この子はどういう子で、何を必要としているか」から出発しないといけない。そこから、授業方法もテキストも学校の体制も組み立てないといけない。
 根本的な教育革命が必要なんです。

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ある高校受験

 高校受験の、おもしろい経験談がありました。

 阿部俊郎という人のブログ「いまここ」

  母のこと http://abetoshiro.ti-da.net/e3254559.html

 彼は、中学2年生のときに、母親の日記を読んでしまった。母親は結婚して満州に渡ったのだが、終戦時に夫に先立たれ、3歳と生まれたばかりの子どもを抱えたまま避難民になった。子どもたちは衰弱して死に、葬ることすらできなかった。その後再婚して彼が生まれた。彼は、知らない兄姉がいたことを知り、自分は母親を幸せにするために生まれてきたのだと直感した。

 あるとき、その母が、遊んでばかりいる彼を見かねて、涙ながらに訴えた。「お願いだから勉強してほしい。」

 母のためならばと、彼は猛勉強をし、最難関校に合格した。

 いい話だと思います。
 人間、若いうちのどこかできっちりした勉強をするのは大事なことだと思います。

 ところが、こういう話を読むと、「そうか、誰だってその気になって勉強すれば、できるようになるんだ」とか、「うちの子に、この阿部さんの話を聞かせてみよう」というふうに受け取られることも多いだろうと思います。それはよくない。くれぐれも真似をなさって、我が子と阿部俊郎さんを比較なさらぬように、とついつい思うんです。

 中学の後半くらいから、急に勉強をして成績が急上昇する子は、たしかにいます。男の子に多いです。

 ところが、それには条件があります。
 その条件というのは、心から信頼できる人が誰でもいいからいることと、それまでよく遊び込んでいることなのです。信頼があると、知識や技能を受け止める中心があります。よく遊び込んでいるといろんな感覚も、自発性も十分に育っています。そこまで基盤ができた上に、最後に言葉や数式が上載せされれば、あっという間に成績が伸びるのです。

 でも、小学校の高学年くらいからムチが入ってしまっている子では、これが効きません。それどころか、中学の後半になると、頑張っても頑張っても、ずるずると成績が落ちていくことが多いのです。

 がむしゃらに勉強すると、一時的には成績が伸びます。でも、こういうがむしゃら勉強は、長くやると、人間としての狭さが出てきます。生きること全体と切り離されてしまうからでしょうね。

 阿部少年は、高校に入ってから勉強に興味が持てず、学校もつまらなくなりました。それで、自分から作曲の道に入ります。

 この人は、ほんとにマトモだったと思います。
 数学ができることも、難しい本が読めることも、それ自体は良いことだと思います。それ自体が良いことなら、その良さ自体を伝えていくのが、教育というものです。

 賞罰や競争で動機づけることは、人間を動物に貶めています。

 ちなみにこの阿部俊郎という人、悟りを開いています。ホンモノです。
 

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お前の兄貴はできたのに

 私の妹が中学生のときでした。担任が数学の先生でした。私もその先生に教わったことがありました。

 あるとき、その先生が妹に言ったんです。

「お前の兄貴はできたのになあ。お前も頑張れよ」

 それで妹が頑張ったかって? とんでもない。
 すっかり落ち込んで、数学嫌いになってしまいました。妹は理数系の頭脳じゃないけれど、そう頭が悪いわけでもなくて、声のかけ方、手ほどきの仕方しだいで、やる気はどうにでもなるようなタイプです。

 当たり前でしょ。「私は兄とは違います」、「どうせ、私はダメです」となるほうが普通です。

 その普通の感覚を持っていない先生が、昔も今もけっこういるんです。けっこうどころか、どうもたくさんいるんじゃないか。
 

 他人との比較で言われると、人格を否定された感じがするんですよ。これ、誰でも当たり前です。自分は自分で生きているんだから。

 人間同士の比較って、それ自体が暴力です。

 そういうと、「なんだ、極端なことを言うな」と思われるかもしれないけれど、会社で「○○くんはちゃんとできるのに、きみはねえ...」と言われて、「どうせ私は○○くんとは違います」と心の中で反発したり、「嫌みな言い方する奴だねえ」と反感を持つほうが普通だと思います。

 小学生以下くらいの子どもに、「誰々ちゃんをみてごらんなさい、ちゃんとやってるでしょ」と言えば、たいてい子どもがふくれっ面をします。

 どうしてそうなるかって、説明しますとね、感じ方も能力も全然違う他人を持ってきて、「あんなふうになれ」なんて言われても、やり方も感覚もまったくわからない。どうしようもないんです。実行しようのない結論を押しつけられているだけです。絶望的な気がします。
 「お前はだめだ」と言われた感じしかしないんです。

 数学をやらせたいなら、数学を親切に教えればいいんです。数学で褒めればいいんです。それを「お前の兄貴は...」なんて持ち出すから、落ち込ませちゃう。

 人間同士の比較って、それ自体が暴力です。

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よい競争と悪い競争

 競争的な教育が、浅薄な人間を大量に作り出しています。競争的な教育をやめるべきです。

 そういうと、「競争によって人間が磨かれる」という声が出てきます。
 もちろん、もちろん、そういう面はあります。競争のすべてが悪いわけではありません。

 よい競争は、相撲をとったり、鬼ごっこをしたりするようなことです。よい競争は、

 
   任意参加です。

   ゲームのルールが決まっていて、時と場所を限定して競争します。

   敗者を追い詰めません。

 でも、たとえば、学校で成績の順位を付けるのは

   任意参加ではありません。

   学校生活、家庭生活のすべてを巻き込みます。

   人格全体の優劣とみなされます。

 成績の順位付けは、ムチとニンジンで走らせる手段として使われています。

 「成績が悪ければ発憤するからいいのだ」
 ほんと? そういう人が何%いますか? それに、誰かが発憤したら、ほかの誰かがずり落ちるのではありませんか。
 勝者もいつずり落ちるかわかならい。そこで、みんなが走り続ける。

 みんなを走り続けさせるのが目的で、競争させているのですから。

 学ぶ動機付けとして、競争をさせる人はずるいです。自分は高見に立って、「みんな頑張れ! 負けるんじゃないぞ」と言っていればいいのですから。

 任意参加ならいいです。プロ野球球団ならいいです。レギュラー選手になれるのはほんの一握り。それを承知した上の入団した人たちであり、だめだったらほかの生きる道を探せる。そういう競争ならかまいません。大いにやればいいです。

 でも、普通教育に持ち込むべきではないと思います。とくに、いまの高校入試は、実質的に全員参加の成績輪切りをやっています。立場の弱い者まで、みんな巻き込んでいます。
 高校入試は、つまらない授業を維持するための支配手段になっています。「どんなにつまらなくても、ここで頑張らないと将来がたいへんなんだよ。」

 こいうことをやっておいて、「学ぶ意欲がない」、「自発性がない」。
 それは、あたりまえじゃないですか。

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学習指導要領、教科書検定、入試

 学習指導要領、教科書検定、入試、この三点セットが日本教育を狭い枠の中に閉じ込めていると思います。

 すべての教育をそんなに狭く限定しなくていい。もっといろんな教育があっていい。しかし、学習指導要領をなくすと、「入試の出題範囲が広がって競争が激化する」と怖れるのですね。

 現実は逆で、米国や、ヨーロッパの国々の例を見ると、授業内容も教科書も多様であるために、画一的入試を行うことが不可能になって、スキル重視や平常点重視になっていきます。

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いまの教育が唯一の形態か

 学校に強制的に来させて、机に無理矢理座らせて、決められた教科を教え込む。
 これは、訓練であって、教育ではないと思っています。

 私は大嫌いでした。なぜ、この非人間性を疑わないのかと、子どもの時は感じていたし、大人になったら考えました。
 こういう教育では伸びなかった子供たちをたくさん知っています。

 学校は、1人1人を大事にしていると言うし、決して一方通行の授業をしていないと言います。たしかにそういうことを学校と先生は考えているし、よい試みもあります。ときたまには、いい感じの教室運営もあります。
 でも、全体としては建前です。

 学校の様子を見ると、どんな試みも、個人的なもので終わっていきます。学校は規則と慣習でがんじがらめです。

 教育というのは、国家に起源があるのではありません。義務教育が普及したのは19世紀後半からです。人間がいれば、教育が存在するのです。
 教育は学術、文化そのものでして、法律や行政に内容を統制させると、しなびてしまいます。
 教育は、人々が担い、人々の間から自然発生するものです。寺子屋みたいなものや、遊び中心のものがあっていい。あったほうがいい。

 ホームスクールを含め、教育機関を作る自由と、選ぶ自由が必要です。

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黒板を消すのが早すぎる

 ある大学生が言っていました。

 先生が黒板で計算をどんどんやって、どんどん消す。ノートに写しきれないので、携帯のカメラを使って撮影する者が多い。
 そうしたら先生が、機嫌を悪くして、撮影してはいけないと言った。

 私が、「授業評価はやっているんでしょ」と尋ねると
 「やってます」と大学生。
 「そこに、先生が黒板を消すのが早いから撮影するのです、と書いて伝えたら」
 「あ、でも、書けないよ。授業評価も、点数に入っているから」

 そう、まあね。
 日本の教育風土では、なかなか伝えられないだろうな、というのわかります。

 「その先生、なんで学生が撮影するのかわかってないよ。伝えてあげるといいんだけどね」、と私は言いました。
 その先生、昨年もそうだったというから、学生は誰も事実を伝えようとしないのでしょうね。

 授業評価でよく思うのですが、半期まとめてやっても、効果は薄いです。学生は抽象的なことばか書いてきます。先生が黒板を消すのが早すぎる、というような一番大事な具体的なこと、がわからないのです。
 授業を良くするのは、「そこでわからなくなった」、「その図で混乱した」というようなことを、ひんぱんにフィードバックできることです。具体的なことがわからないと、改良しようがないです。

 それと、授業評価を評価してはだめです。ほんとうのことを書いてもらえなくなります。

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達成主義ではなく

 子どもが学ぶとき、あらゆる感覚を動員し、どうなっているかを自分で納得し、それを臨機応変に使いこなそうとします。これは、幼児が物事を学んでいるさまを見ると、よくわかります。

 でも、大人たちは、いつのまにか結論の塊になっています。この学びのプロセスを忘れてしまっています。
 子どもが、九九が言えたとか、難しい漢字を書けたとか、ご挨拶がちゃんとできたかとか、そんなことばかり見るようになります。

 そういう大人たちが教育をどうするかを決めると、何を達成すべきかの一覧表を作ります。

 教育は、いつのまにかその一覧表を達成することになってしまいます。
 学校は、その一覧表を教え込むために作られ、教師たちが雇われます。一覧表達成の、義務も、見栄も体面も生まれます。

 目標が先にありますので、どうしても教育は訓練的、注入的になります。
 子どもたちに、賞罰に訴えてでも、競争させてでも、結果を出させようとします。

 さらに、入試競争もあります。
 さらに、社会そのものが地位・序列と、競争でできています。子どもたちは、生き延びるための知識・技能だけをかき集めます。
 虫の動き、雨の音にも感動できていた子どもたちが、いつのまにか、点数を気にし、借り物の人生訓の丸覚えで生きるようになります。

 それで、結局、結論の塊である大人たちが育ちます。
 そして、ちょっと修正された一覧表を作ります。それもしょせんは一覧表です。

 悪循環が続きます。

 学びは、雨の音に聞き入ることの中にあります。自転車に乗れるようになる身体の動きの一つ一つの中にあります。言葉にならないたくさんの感情に、静かに浸ることにあります。
 教育は、一人一人の学びを援助し、保護することです。それは、一人一人が生きていることに対する気遣い、愛情の中から生まれてくるものです。

 集団訓練を基本とする近代義務教育と、入試による競争主義は、部族社会を乗り越え、近代産業を興すための必要悪だったと思います。その成果も大きかった。けれど、不安で攻撃的で、権威に弱い人間をたくさん生み出しました。

 そんなことをしなくても、われわれの社会は、幸福な個人と高度な科学技術を両立させられるだけの文化的成熟に達していると思うのです。

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教育の56年体制を抜けだそう

 日本の教育にとってもっとも不幸だったことは、文部省と日教組の闘いでした。これによって、学校運営から、教員と保護者を排除する仕組みができました。教育の56年体制です。

 それって、根本的におかしくないですか?

 学校の当事者は、いったい誰なのですか?

 学校の主役は生徒です。子役だからとバカにしてはいけません。生徒が主役です。学校は生徒が学び育つための場です。
 学校の当事者は、まず生徒、そして直接に生徒に関わる教職員、学校に教育を委任している保護者です。

 当事者を運営から排除して、「あなたたちは、決められた目標に向かって邁進してください。口出ししないように。しかし達成に協力するように」と言っているのが、現在の学校運営体制です。
 文句が出にくいから表面はうまくいきます。でも、問題が蓄積しては破裂します。

 当事者を抜きにして、どうして自律的な問題発見とその自律的解決ができるでしょうか。
 自分で問題を発見して解決することは、国語や数学の教科の中だけでなく、学校の当事者の生き方でなければいけません。

 生徒と、教員と、保護者をもっと信用しないといけません。学校に自治がないと、民主社会を担うことのできる人間が育たないのです。自治は体得しないと身につきません。

 文部省vs日教組の図式は、90年代には終わらせるべきでした。新しい発想が必要です。学校にもっと権限を委譲し、教員と保護者、そして年齢に応じて生徒を参加させる仕組みが必要です。

 大阪府議会に「大阪府教育基本条例」が出されました。これは、教員と保護者を運営から排除するのを強めようとするものです。教育の56年体制の枠の中です。

 教育は、生々しい場です。ものすごくたくさんの洞察と工夫なしにはやっていけません。「世を憂いる」人たちが抽象的な法律や行政権力でなんとかしようとするから、かえって悪くなるのです。

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大阪府教育基本条例について

 大阪府議会の「大阪維新の会」が、大阪府教育基本条例の案を出しています。

  この案は「教育に対して、政治に口を出させろ」というものです。あぶない、あぶない。

 教育の政治からの独立は非常に重要です。時の利害に過ぎない政治が教育を左右してはいけません。国家主義の熱狂ごときが教育を侵してはいけない。
 教育は、人格を育てます。その人格が、政治や経済を作ります。政治より、教育のほうが優位なのです。どういう人間を育てるべきかを、政治家や実業家が決めてはいけません。知事は選挙で政治代表に選ばれましたが、教育に関する識見で教育の代表として選ばれたわけではありません。

 しかし、教育委員会に関しては、橋下知事の言うことは的確です。
「教育もサービスなわけだから、保護者の納得するようなサービスにもっていくのが本当の政治。それができていないのは、今の教育委員会制度が原因」

 そのとおりです。教育行政は民意を反映しなければなりません。
 しかもなおかつ、教育は政治から中立でなければならないのです。

 そこでどうするかというと、政治とは別立てで、教育のための民意反映組織を作らなければいけない。それが、教育委員会の本来の発想なのです。
 教育を、市長や議会の利害にまみれさせてはいけない。教育は教育で、自分たちの代表を選んで運営してもらおう。そういう考えでアメリカで教育委員会が発生しました。現在もそうなっています。教育委員は、選挙で選ばれた住民代表なのです。

 日本の教育委員会はアメリカの制度を真似たものですが、実質はまったく違います。1948年の当時は公選制でしたが、1956年に教育委員会の公選制は廃止されました。
 教育は保護者に責任を負って行われるべきものだから、それを公選制で担保していたのです。その公選制をはずした日本の教育
委員会には、民意反映のルートがまったくありません。閉鎖的でお役所仕事が目立つようになった。教育は、おかしいと思っても、誰も変えようがない仕組みなのです。

 橋下知事の、教育委員会批判は正しいです。
 しかし、教育を政治の指揮下に置くのは、間違っています。教育が、首長の人気取りの手段にされます。政治的に過激な首長が現れれば、教育が振り回されます。校長たちが、知事や市長の顔色を見ます。

 改革の筋道は、教育を政治に支配させることではありません。教育と学校の自治が大事なのです。改革方法には、二つの道があります。

  ・ 公選制
教育委員会(アメリカ型)

  ・ 法律で学校自治の独立性を高める(ヨーロッパ型)

 
  私はヨーロッパ型が本筋だと思っています。教育の当事者は、生徒、教員、保護者です。現在の日本の、当事者を抜きにする発想で、うまくいくはずがありません。

 日本の教育委員制度が形骸化し、「中央集権無責任体制」ができていたことは、拙著「変えよう!日本の学校システム」に詳しく書きました。一読を頂ければ幸いです。

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学ばなくなる理由

 人が学ばなくなる理由、それは降り積もったたくさんの小さな恐怖が、たくさんの固定パターンを作っているためです。他にも学ばなくなる理由はありますが、これが最大だと思います。大人でも子どもでも同じです。

 私自身、高校生くらいまで、人の話を傾聴できていました。自分の考えの枠組みなしに、相手が言っていることの中になんの留保もなく入り込み、その話を成り立たせているバックグラウンドや、話す人の人格まで感じ取る。これをやっていれば、格別の努力なしに、物事はすうっとわかってくるのです。
 それは、自分の考えがないということではなくて、自分の意見をいう時がくれば、自分の意見はまたすうっと生まれてきます。

 でも、私も大人になってから、相手がしゃべっているときに自分の考え事をしているようになりました。「これは、こういうことだ、ああいうことだ」と。そうしたら、ほんとうに頭が悪くなりました。

 それは、外から見ると「鈍くて、人の話をよく聞いていなくて、型にはまっている」という状態なのです。そうであることを、自分でよく確かめました。
 他人の前で考え事をしている私の状態は、外から見ると、あの物わかりの悪い人と同じなのです。
 あの物わかりの悪い生徒は、私のあの状態と同じなのです。

 しかし、それは、なんとかしようと思ったくらいでなんとかなるものではない。
 でも、いったい、なぜそうなるのだ。

 クリシュナムルティが、著作でいろいろ教えてくれていました。この人は「ご自分で見つけないかぎり、見つかりません」ということを説き続けている人です。答えは用意してくれていない。あらゆる感情と思考を、どんな非難も正当化もなく観察なさい、それだけです。

 自分の観察を続けると、理由がわからないたくさんの悲しみ、憎しみ、がありました。悲しみや憎しみがなんであるか、ぜったいに借り物の説明をすまい、わからないまま持ちこたえようと思いました。何年かそうやっていました。

 そのうちにわかりました。いろんな感覚や感情が理解できてきたら、どのように思考が浮かぶのかわかってきました。

 なぜ思考が湧くかというと、怖いときや心細いときに、すでに知っている良いことを思い起こせば、安心できるからです。思考は、怖いときや心細いときに安心するための条件反射になっている。だから、同じことを繰り返し繰り返し考えている。

 ちょっとでも恐怖や不安があると、たちまちお馴染みの思考がわき起こって、恐怖を遮断します。それは条件反射になっています。そもそも、思考の動機を感じないために、思考がわき起こる仕組みなのです。ですから、思考の動機は、なかなか発見できません。

 これは、他人からだとよくわかるのです。「あの人は、怖がっているから、知識をひけらかしている」と。ところが、本人にはわからないものです。本人は怖がっていることを感じないために、しゃべっているのです。
 条件反射が多くなって、思考リピーターになってしまうと、人とも、事物とも、交流が不完全になり、トラブルが多くなる。それでいっそう恐怖や不安が湧いてくる。これが、学ばなくなる理由です。いっそう、抱え込んだ結論を大事にし、条件反射を強化します。

 これらの条件反射ができるのに、躾と教育が関係していることは、言うまでもありません。

 しかし、過去にできてしまった条件反射からどうやって自由になれるのか。
 自分自身への、十分な注意深さがあれば、この条件反射がほぐれるのです。それはまた、人から人へと伝わるものでもあります。
 十分な注意深さ、それは愛情と呼ばれるものでもあります。全面的な理解の光が差し込むとき、脳に新しい回路が出来るとしか思えません。

 子どもの小さな怯え、それに共感し慈しむことができるとき、子どもを助けているだけでなく、自分の中の頑ななものもほぐれていくのだと思います。

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結論を覚えるのではなく

 結論を丸覚えするのではなく、いつも理解と発見によって生きること。
 その重要性は、単に教科学習ではなく、一人一人の幸福と社会のあり方そのものにとって重要なのだと思います。

 われわれは、空虚さと恐怖から、
 けっこうな結論に身を寄せて生きています。そのため、夫婦であっても本当に心を通わせることは稀です。結論のぶつけ合いだけが行われているのです。
 
われわれは、空虚と恐怖から身を守るために、自己イメージを作ります。それは虚栄であったり、自己破壊であったりして、いっそう恐怖と孤独をつのらせます。
 われわれは、
結論を同じくする人たちと付き合い、合わない人を排除します。そのため社会は、狭い身内意識の壁で身動きのとれないものになっています。さらにわれわれは、イデオロギー、宗教、国家を信じ、集団に分裂して互いに争います。それが戦争の原因です。

 よい結論を身につければ、なんとかなる。そう信じて、私たちはいつも結論を探しては蓄えて生きています。 その結論が、お互いの間に立ちはだかる壁なのです。この生き方は、受験勉強で答えをたくさん蓄えたのと同じではないでしょうか。
 
 
子供たちが、どうやって虚栄や逃避を身につけていくか。どうやって、暴力的になっていくか。それが社会に何をもたらしているか。 そのことが見えたら、私たちのしつけと教育に、根本的な変容がはじまると思います。脅してでも競争させてでも知識や技能を身につけさせようとすることは、できなくなると思います。

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生きる力

 人間はたくさんの感覚を持っています。視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚、熱感覚、運動感覚、平衡感覚、人格を認識する感覚・・・・。それらの感覚によって、世界と交感して生きています。多くの感覚を使って生きていると生命が充実している感じがします。

 生きる力を失っているときは、このうちのわずかな感覚しか使っていません。特定のイメージを作り出し、それにすがりついているのです。

 生きる力を取り戻すには、たくさんの感覚を使い、現在だけを生きるとよい。自然と親しむ、スポーツをする、人と親しむなどです。
 すべての感覚を使って現在のあるがままを知り、そこから行動しているとき、生命の充実感があるのです。これはエネルギーに満ちている子どもの生き方そのものです。

 しかし、われわれの文化、そして教育は、目標とそれに向かっての努力が万能であるかのように我々に教えています。何かを達成すれば力が湧くだろうと。
 その何かを追求しているうちに、われわれは目標イメージを模倣するだけになり、方式に捉われ、「現在」を見失ってしまうのです。

 そしてわれわれの文化と教育は、思考が万能であるかのように教えています。教師たちの多くは、権威ある教科書や書物の伝授者になることで、自分たちの立場を得ています。
 困ったとき、われわれは権威を求めます。権威者の言葉、本に書いてある言葉、家族友人の「こうすればいいよ、ああすればいいよ」という方式にすがります。そして、思考だけでなんとかしようとするのです。

 思考に頼るとき、われわれは現在のあるがままとの交感を失っています。思考だけが「自分」だと思い込み、独裁者の孤独と、被支配者の苦しみの両方を味わっています。
 方式は、技術的な方面では有効です。しかし、心理的な苦しみに関しては無力です。

 われわれが現在の教育を続けるならば、生きる力を失った人たちがたくさん現れます。われわれは、感覚を絞り込んで、特定の目標を達成することしか教えられていません。

 賞罰、野心、競争に訴えた教育は、たくさんの人間を不安定にしています。

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セルフ・エスティームを失うこと

 更新がとどこおりがちですみません。でも、アクセス数が意外と落ちていないことに驚いています。皆様に感謝しています。
 すでに書いたものを読み直していたら、自分でも「いいことを言う」と思うことに出会いました。「放射線、原子力、核兵器」の一部です。

> 教育だけが、人類を恐怖から解放する可能性を持っています。
> あまりにも単純なことです。子どもを恐怖に訴えて動かそうとすることをやめましょう。賞罰、競争、脅しに訴えた教育をやめましょう。子どもに対する、心ないド突きやからかいをやめましょう。

> 恐怖がないときに、人間は、事物とも他人とも、心を通わせて生きることができます。それは、欲しい物に目を血走らせたエネルギーではありません。理解と共感の中に、とてつもないエネルギーがあります。

 なぜ、恐怖があるのでしょうか。小学生のとき、そして中学生のとき、この問題と真剣に向き合っていたときの感覚を、想い出します。あのくらいの年齢は、実際に感じていることをごまかすのがうまくないのです。内面に嵐があるなら、その嵐のなすがままです。
 学校は、恐怖の場でした。学校の秩序はただの賞罰秩序で、なんの潤いもない。先生が見ていなければなにが起こるかわからない。

 なぜ恐怖があるのか、子どもの時はわかりません。
 私は、学校では適応できていました。明るく元気なほうでした。学校からは逃げられないから、そこで明るく生きるしかないのです。
 でも、一人になったときに、無価値感や寂寥に襲われる。そんなとき、押し入れに閉じこもるときもあるし、虫や草を相手にするときもあります。
 いまになると、その無価値感や寂寥をごまかさずに生きていたのは大事なことでした。それで、大事なものは失わないですみました。大事なものというのは、自己欺瞞なしに生きるということです。

 享楽的なものや強い刺激によって無価値感や寂寥を紛らすようになると、その人は偏見や先入観が多くなりますし、人とのコミュニケーションも独善的になりがちです。これは、子どもでも大人でも同じです。理想や将来像によって紛らすのも同じです。

 私も、大学生くらいになって、自分に対して言葉でいいくるめることができるようになったら、深い迷路に入り込みました。

 教育関係の仕事に携わって発見したことがあります。子どもの恐怖は、騒がしい行動が多くなるか、セルフ・エスティームの低下となって現れることです。
 小学生も、中学生も、生きるのがつらくなったとき、学校に問題があると思うことはできません。なにかトラブルがあると、自分が悪い子だから、と思うものなのです。これは、家庭生活でもそうです。親が悪い、と思えるのは中学生くらいの年齢で、それまでは、自分のせいだと思うものなのです。十歳にもなると、親に向かってずいぶんと憎まれ口をきくものですが、でも親への基本的な信頼は失っていません。

 小学生くらいまでの年齢は、依存の中で生きています。もし依存できる人がいなくなったら、親や先生がろくでなしの人間だと思わなければならなかったら、それはたいへんに不幸なことだと思います。

 子どもは大人を批判するかわりに、セルフ・エスティームを失ってしまうのです。子どもが自分はいけない子だと思っていたら、その子は恐怖に囚われているし、「忘れられた子」になっています。ほんとうのその子自身のほとばしりのところを、生きられなくなっているのです。
 「忘れられた子」に甘んじる子もいます。「問題児」のほうがまだましだと、トラブルを起こす子もいます。

 先生たちも親たちも、「よい子だったか」と「達成したか」に捉われすぎているのです。あるいは、他のなんらかのマニュアルに捉われすぎているのです。
 あるいは、ただ単に忙しくて子どものことを忘れているのです。

 生きる真実も、生きるエネルギーも、教育目標として実現することはできません。子どもとの現実の関係の中でしか、お互いの心の素早い動きの中でしか、見つけることはできません。「生きる力」を高所から言ってもしょうがないのです。
 セルフ・エスティームを失った子どもに、関心を注ぎましょう。いっしょに生きましょう、いっしょに戯れましょう。学校はたくさんの子どもを見ていてそれは不可能だというなら、見ることのできる人数にまで減らしましょう。学校に頼らずに、教育が街の片隅からでも生まれることが出来るようにしましょう。

 われわれが恐怖から解放されないかぎり、集団や個人間の闘争、憎しみ、殺し合い、からの解放は難しいのです。

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デューイの教育思想と日本

 ジョン・デューイというと、哲学者として有名であるが、この人が教育思想家でもあったことはあまり知られていない。

 デューイは、1890年代、シカゴ大学の哲学科主任教授であったときに、実験学校を作り、子どもの主体性を尊重する教育方法を実践している。1890年代と言えば、欧米においてもようやく義務教育が普及しつつある時代でもあるし、訓練的な教育に疑問が出されてくる時期でもある。

 デューイの教育思想は、その後の世界の教育に大きな影響を与えている。
 そして、1945年、日本がこれから大きな教育改革を行おうというとき、まず、米国から教育者使節団を呼ぼうということになった。団長として、まず白羽の矢が立ったのは、デューイであった。デューイは、アメリカ側からも日本側からも、「なんといってもこの人」だったのである。ところがこのときデューイはすでに85歳の高齢で、日本に来れるような状態ではなかった。

 1946年春にやってきた米国教育使節団は、なかなかよろしい事を報告書にしている。しかし、どうも抽象的である。新機軸の実験学校を容易に作れるようにしておけ、ということは言っていない。

 デューイが日本教育改革に直接に関係してたら、教育の自由は、大事なテーマの一つに入ってきたのではないかと思う。デューイは、押しつけの教育を嫌った人で、学びの主体は子どもであるという、教育方法上の大転換をやりたかった人である。
 別にデューイでなくてもよい、アメリカ人でも日本人でもよい、そういう主張の人たちがもっといてよかったのにと思う。

 日本の戦後教育は、教育理念を変えただけで、教育の配給制度は変えなかったのである。

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英知ある人間を育てられるか?

 英知のある人間を育てられるのだろうか? これは教育にとって大きな問いだと思います。

 育てる方法はないと思います。「これが英知だ」というものがあって、それを習得しようとすれば、型にはまった凡庸な人間になってしまいます。

 しかし、英知を損なわないようにする道はあります。

 英知があるというのは、感受性があることと、先入観がないことです。全身全霊で、ウソのない生き方をすることです。
 感受性も先入観のなさも、恐怖や利害に訴えた教育によって損なわれます。

 権威者と違うことを言う恐怖に捉えられたら、自分の頭で考えずに、受け入れられそうなことばかり言うようになります。

 恐怖があると、新しいことに取り組もうとしなくなります。いつも、お気に入りのイメージで意識をいっぱいにして、心理的安全を確保するようになります。 
 恐怖に捉えられた子供たちは、享楽や刺激を追い求めるようになりますし、学習では根気のなさと先入観の多さになります。

 野心や競争に訴えた教育は、知ったかぶりや、浅薄な言葉ころがしを助長します。

 人間の英知はもともとあります。子どもは全身全霊で生きることができます。しかし、大人になるまでに、習得した知識・技術や、経験した快楽にしがみついて生きることを覚えます。
 恐怖や欲で生きるようになってしまうと、どんな知識・技術も経験も生きないのです。

 これがわれわれの文明の姿だと思います。恐怖は尽きず、争いもつきません。

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放射線、原子力、核兵器

 大地震のあと、原発と放射線がどうなっているのかを、固唾をのんで見守ってきました。放射線と原子力のブログを別に作りました。どうか、こちらもご覧ください。
http://economyhuman.blog88.fc2.com/

 原発は、もうやめたほうがいい。

 でも、もっと大事なことがあります。核兵器の廃絶です。
 原子力発電は、原子力を平和に使おうとしています。たまたま想定不足で事故が起きたけれど、目的は発電だった。

 ところが、核兵器は、わざわざ人に危害を加えるために作ったものです。
 核戦争が起きたら、勝者などいない。すべての人間が苦しむだけです。人類全滅の可能性もあります。
 でも、核兵器は廃絶できない。「自分が使わなくても、相手が使うから」、怖くて手放せないのです。それほど、人類は深く恐怖にとらわれています。

 核兵器に対して、反戦運動は無力です。平和のための戦いが、平和をもたらすことなどありえません。
 どんなお説教も平和条約も無力です。それで、戦争がなくなるくらいなら、とっくに世の中から戦争はなくなっています。
 人類が恐怖にかられているかぎり、戦争はなくなりません。恐怖にかられた人間は、どんなことでもしてしまうのです。

 教育だけが、人類を恐怖から解放する可能性を持っています。
 あまりにも単純なことです。子どもを恐怖に訴えて動かそうとすることをやめましょう。賞罰、競争、脅しに訴えた教育をやめましょう。子どもに対する、心ないド突きやからかいをやめましょう。

 恐怖がないときに、人間は、事物とも他人とも、心を通わせて生きることができます。それは、欲しい物に目を血走らせたエネルギーではありません。理解と共感の中に、とてつもないエネルギーがあります。

 そのエネルギーを知っている人は、原子力より大きなエネルギーを手に入れています。

 

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雑念と恐怖

 私は小心者で、ちょっとのことですぐに怯え、虚勢を張ったり、しどろもどろしたりする。他人の怯えや虚勢はよく見えるが、自分のものはなかなか見えない。

 もう60歳だ。時が経てば自然に成熟する、などということはなかった。相変わらずだ。このまま死ぬのも、しゃくだ。なんとかならないかと、他人が言うことを聞き、万巻の書を読んだが、みんな役に立たない。そんなことをしていてもしょうがない。自分の中で実際に起こっていることだ、自分で実物を見るしかない。

 内面に関しては、言葉にせずに観察すること。
 言葉に置き換えるときに、ほんとうに起こっていることを見失う。感覚、感情のほとんどは言語化不可能だ。言葉にするとき、浅薄になる。
 しかしそれは簡単ではない。私はすぐに、覚え込んだ言葉に置き換えてしまい、注釈をつけ、結論としてため込む。でも、何年もやっていれば、自分の言葉の檻の中に陽が差し込むこともある。

 それは、子ども時代の、感受性だけで生きていたときの再現でもある。

 そうすると、たくさんの条件反射があることが見つかる。恐怖があるときに、私は条件反射的に言葉を紡ぎ出している。「きのうのあの映画はおもしろかった」、「政府の対応はなってない」、その他ありとあらゆる、希望や正義や気晴らし。

 それらは、恐怖を感じないですませるための言葉なのだ。けっこうな言葉が反射的に出てきて、恐怖を感じることを防いでいるのである。だから、私はその言葉がわいてくる理由を認識できない。そのときは、よいことを思いついたとしか思っていない。

 それが、いわゆる雑念の正体である。
 恐怖だけではない、悲しみも、空虚感も、身体の不調も、雑念を引き起こす。ようするに、あってはならない感覚・感情が雑念を引き起こすのである。雑念というのは、それを引き起こした原因を感じないための条件反射である。だからなかなかその原因がわからない。

 雑念でいっぱいで、集中力がないし、コミュニケーションがうまくとれない子どもたちを見てご覧なさい。たくさんの感覚や感情がケアされないままになっている。
 ところがその様子を見ると、学校も親も、条件反射的にもっと恐怖に訴えて訓練するのである。目先の結果だけは出る。それで、訓練が万能の処方箋だと思い込んでしまうのである。

 愛があるときだけ、われわれは真実に直面できる。
 愛とは、どんな正当化も非難もないことである。

 いわゆる雑念でなく、信条、ドグマに頼るようになると、弊害はもっと大きい。~主義や、国家に安心を求める人たちは戦争を引き起こす。

 結果を出すことにとらわれた躾けと教育は破壊的だと思う。それは、子供たちを虚栄や攻撃性や逃避に追いやる。それが、個人レベルではさまざまな不安と恐怖を生み出すし、集団レベルでは戦争を生み出す。

 しかし、世を憂いる警世の言葉などにたいした意味はない。
 私の雑念が、ほんとうは恐怖や悲しみの条件反射で引き起こされていることを見る、そのとき真実探求の第一歩があり、いつのまにやら安心と幸福感がやってくる。
 そのとき、私は、生徒や家族に、すこしはまともなことができていいる。不思議なのだ。ふっとタイミングよくジョークがでたり、うまい説明を思いついたりする。
 社会に関しては、結論から始めるのは暴力の一種だ。自分の感受性と自分の周りの人たちからはじめたときにだけ、何事かをなしえる。

 子供たちが、どうやって虚栄や逃避を身につけていくか。どうやって、暴力的になっていくか。それが社会に何をもたらしているか。
 そのことが見えたら、私たちのしつけと教育に、根本的な変容がはじまると思う。自分の足下から始めると思う。私たちは、子供の感受性を大事にし、優劣意識を煽ったり、競争させたりはしなくなると思う。

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教科書検定制度が崩れる日

 福島原発の事故があり、原子力発電の安全性の神話が崩れた。電力業界と政財界の複合体制が俎上に載せられるようになり、発電と送電の分離が真剣に議論されている。

 こういう日が来るのだ。いくら盤石に見えても、おかしなものは、いつかは崩れる。
 それと同じように、教科書検定制度も崩れるだろう。おかしなものは、いつかは崩れる。

 国の力があり、金の力がバックアップし、寡占体制ができれば、理屈など後からついてくるものだ。
 原子力がそうだった。政策と財力がまずあって、あとから「安全だ」、「割安だ」という理屈がついていった。
 教科書検定も同じだ。法律の力があり、教科書無償制度があり、広域採択による寡占体制がある。「変な教科書ができるとたいへんだから」という理屈で守られている。変かどうかを決めるのは、使う側なのに。

 私塾をやっていてしみじみ感じた。教科書検定制度は、教育水準の向上を妨げている。
 教科書が、子どもの学び感覚に沿って作られていない。
 教科書の見た目は美しい、誤植もない、間違ったことはいっていない、しかし、センスが悪いのである。実際に使ってみて、はじめてわかる。せっかくいい図をつかっているのに、どうしてこんなにぎゅうぎゅう詰め込むのか。練習問題がステップを踏んでいないので、たくさん落ちこぼすではないか。はたして、本という形式でよいのか。英語で、なぜCDを生徒に配布しないのか。etc.

 教科書問題というと、歴史解釈をめぐっての問題ばかりクローズアップされた。そんなことより、使いやすい、センスの良い教科書がほしいのである。

 現代史で解釈がいろいろ生じるのは当たり前のことだ。それで、教育の奪い合いなどしないでほしい。教育を政治に従属させないでほしい。生徒には、各論にどのような根拠があるのか示して、考えるようにするのが教育の仕事であろう。生徒に結論を教え込むことではない。
 検定教科書があるから、国の解釈が生まれ、その奪い合いになる。

 教育は文化現象である。人間が生きることそのものから生まれてくるものである。教育を、国が人々を教化する手段に押し込めないでほしい。

 自由に作れば良い。採択も自由である。問題があるなら、自然淘汰されるものである。教科書評論家という職業ができて、さまざまな視点から評価すればよい。
 外国から内容に文句がつくなら、「我が国は、貴国と違って言論、出版の自由を保障している。」と主張すればよいではないか。

 「この教科書ならわかる」、という評価が生まれれば、教師たちは争って採用するに決まっている。そうすると、他社がまた新機軸を打ち出して、よりよいものを作りだす。くすぐり的なおもしろさの教科書が生き延びるとは思えない。どんどん競争させればよい。

 生徒を点数競争させてはいけない。生徒は商品ではない。
 しかし、商品は競争がないといけない。教科書は競争させるべきである。

 先進諸国では、教科書は自由出版自由採択が常識である。

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不登校とオルタナティブ教育

 不登校とオルタナティブ教育の関係について思うことが多い。

 日本の現実の学校は、ある年齢になった子供たちを集めて、知的なものと社会的なものを中心に、訓練を施すところである。
 それがが学校のすべてだと言ったら間違いになる。学校により先生によりさまざまな工夫がなされている。しかし、やはり学校の骨格は「訓練」である。

 ところが、実際の子どもは、さまざまな肉体的欲求、感情、で動いている。子どもは特に、よくケアされ、暖かい人間関係に包まれ、探索行動をバックアップしてもらうことを必要としている。大勢の子どもを預かっている学校で対応しきれない問題は非常に多い。

 そのために、学校という訓練的な場で、やっていける子とやっていけない子がいる。
 学校というのはそもそも集団の場であり、訓練の場なのだから、子どもがそれに耐えられるところまで家庭や地域でちゃんと育ててほしい。学校にそれ以上のことを要求されても、対応することは不可能である。それが学校側の言い分である。

 学校でやっていけない子が、先生たちには「その子が特別なせいだ」と見える。
 それはその通りではある。不登校の児童・生徒たちは全体の1%にすぎず、もともと学校生活に困難を感じるようなものがあったから来れなくなる場合が多い。

 先生たちには「家庭要因が大きい」とも見える。 
 家庭がしっかりした生活習慣と共感のある人間関係を作っていれば、子どもは家庭外でのストレスがあっても、を吸収できることが多い。それも事実である。

 保護者の側からすると、個別の教員や学校に問題があるためとも見える。行政からもそう見える。それも事実である。教育というのは、”人”の要素が大きく、児童・生徒と教員がもつれてしまったケースも多いのである。

 しかし、もともと日本の学校そのものが持っている問題があって、それが特に敏感な子たちに現れているのだ、とも考えられる。

 私は、そちらが事実だと思う。
 学校に適応しにくい子は世界中どこにでもいるが、1%もの不登校が生じているのは、日本に特有の現象なのである。
 子どもにも親にも普通の意味での問題はないが、子どもが学校に行けなくなる例も多い。
 教員の質だって、日本は高いほうである。

 現実に、不登校の数は12~13万人程度で横ばいを続けている。
 90年代に不登校の急上昇があったため、学校も行政も手を尽くしている。そして、総数の横ばいにまではなった。しかし、それ以上は減らないのである。
 不登校問題を子ども個人の問題、家庭の問題、教員個人の問題で済ませている限り、解決しないであろう。

 教育を狭く考えなくてもいいのではないか、学校が訓練の場であることを根本から見直していいのではないか、そういう教育観がある。
 世界を見渡せば、いろいろな教育がある。発想も方法も違う。
 子どもが自発的にやろうということだけで学校を作ってもいいではないか。
 そもそも学校なしでも、子どもを育てられるのではないか。
 そういう教育すら、世界に存在している。

 それらの教育は、オルタナティブ教育と総称されている。私は、オルタナティブ教育への道を開くことが、不登校へのもっとも根本的な対応だと思う。日本教育を根本的に問い直すものが実在しないと、日本教育は比較の対象がなくて、子どもと家庭と教員個人ばかりに問題を見つける。

 ただ、不登校に関して、長期と短期の両方の取り組みが必要であると思う。
 オルタナティブ教育を興すことは、不登校に関して長期的な取り組みである。一気にいい学校がたくさんできてくることなどあり得ない。

 短期的には、不登校を不登校として対応する、いろんな場が必要だと思う。公立でも民間でもなんでもいい。暴行・監禁等の人権侵害以外は、どんなやり方でもいい。いっさい、人々の創意工夫に任せたほうがよい。
 不登校は、原因もさまざま、解決もさまざま、としか言いようがない。いろんな人が「不登校はこういうものであり、こうすればうまくいく」と言う。しかしそれは、そういう例もあったと言うだけのことだけである。どんなやり方をしても、そのやり方に合わない子もいるし、やりそこないもある。「一律の道などない」、ということを前提にすべきである。

 どのような道でもよい、現実的に対処すべきである。そのために、学校に行かなくても、子ども1人1人に教育費がついてまわるような仕組みをつくるべきである。そうでないと、家庭で途方に暮れるしかない人たちがたくさん生じてしまう。

 そういう現実的な場と、長期的にオルタナティブ教育を興すこと、その両方が必要だと思う。

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生きる力を得る二つの道

 生きる力を得るやり方に、大きく言って二つある。

 一つは、何か特定のイメージを持ち、それを実現しようとすることである。努力と獲得と言ってもいい。実現したときの興奮は大きい。その興奮を味わおうと、繰り返しチャレンジが行われる。
 多くの学校の教育者が、これだけが生きる力を得る道だと信じ、このタイプの生き方を生徒に身につけさせようとする。

 もう一つの生きる力を得る道は、特定の目的に絞り込まず、感受性を開け放って流れに身をまかせていくことである。あらかじめイメージがあるのではなく、まず事物や人との関係があって、その中できらめくものに招かれている。
 子どもが何かをおもしろがって夢中になっているのは、これである。突然絵を描き出したり、虫や草と飽きもせず戯れているのがこれである。

 子どもが疲れると、親の膝の中に入り込んで眠るのもこれである。ほんとうに流れに身を任せている。だからエネルギーがわくのである。

 いわゆる「クリエイティブ」な生き方は、後者である。その中に、常に新しいものがわき出してくるからである。
 明晰さも、後者に属する。物事が、あるがままに見えるからである。

 学校教育では、目標と努力だけが生きるエネルギーをもたらすと信じられている。しかし、ちょっと冷静にみれば、それは、欲望をかきたてて生きる道ではないか。
 「目的に向かってひたむきになる」ことは「欲望に目がくらんで他のことが目に入らない」ことでもある。

 ”教育者”不在のためだと思う。教師たちは、特定の目標を達成するために雇われ、給料を払われているのである。
 クリエイティブな道をとったら、期日までに指導要領を達成させられるかどうかわかりはしないし、テストのことなどそっちのけでクラス中で家作りを始めるかもしれないのである。

 しかし、既存の道に反発しただけで、クリエイティブになれるかというと、そんなものでもない。「自由」とか「生きる」とかのイメージに目がくらみ、言葉に酔ってしまえば、それは欲望の道である。美しい結論が先行して、それによってしかモノが見られないなら、ただの愚鈍である。

 だが、クリエイティブであることは、別に難しいことではない。子どもを見ればそれがわかる。自分のイメージと思考に酔ってしまわず、事物と交感できれば、たちまちクリエイティブになれるのである。
 こどもはまだ、肉体感覚と感情をそのままに生きている。言葉が介入して、いつも他人と比較したり、特定のこと以外に目を向けないようにはされていないのである。

 もちろん、大人でないと使いこなせない知識も技術もある。それを子どもに伝えることも大事なことである。それがないと子どもは、この世界とうまく噛み合えない。
 具体的なところでは、目標と努力はもちろんある。もっとおいしいカレーを作ろうとして工夫するのは、当然のことである。

 だが、教育の根本を「目標を立て、それに向かって邁進すること」に置くべきではないと思う。それは、一面で有能さを育てはする。しかし、その同じカードの裏には「欲に駆られた愚鈍な人間を育てる」と書いてあるのである。そして、挫折して無気力になったたくさんの若者を生み出すのである。

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20ミリシーベルト 学校だけの問題ではない

 学校の放射線基準の20ミリシーベルトが適切かどうかを取り上げる新聞記事が多くなった。反対する声も上がってきた。よいことだと思う。いままで「ただちに危険はない」でみんな済まされてきたのが、ようやく議論になってきた。

 ところが私は、単純にこの数値を引き下げろ、という問題ではないと考えている。
 私は、年間20ミリシーベルトは安全な基準ではない、ということには全く賛成なのであるが、これは深く考える必要のあることだと思っている。

 どういうことかというと、今回の福島事故の場合、学校に行かなければ安全かというと、そんなことはないのである。家庭にいても同じくらい被曝することが予想される。

 放射性物質は、いたるところに降った。校庭が危険なら、庭も、公園も、道も危険である。
 木造家屋では、屋内と屋内の線量がほとんど同じということも言われている。私の自宅(千葉市)で、知人の計測器を使ったときも、屋内と屋外が同じ0.20マイクロシーベルトだった。(高級機器ではないので、数値の精度は不明)

 年間20ミリシーベルトを避けるのは、学校だけをなんとかすればいいという問題ではない。もっとトータルな、子供の生活すべてに関わる問題である。子ども一人一人の問題としてとらえないといけない。

 有効な手段としては、疎開を検討しなければならないだろう。
 ところが、家族ぐるみの疎開生活をする、あるいは子供を親元から離すとなると、それ自体がストレスを生み、子どもの健康を損なう恐れがある。

 ガンになる危険と、疎開するストレスとどちらが大きいか、その見積もりもしなければならない。
 政府は、いったん基準を決めると、それを超える場合に無策というわけにはいかないから、疎開させないといけない。それを杓子定規にやると疎開の害のほうが大きいということもあり得る。

 年間20ミリシーベルトが具体的にどの程度の危険かというと、確率的に200人に一人程度が後年がんになる。(数値に諸説あるが、BEIR VIIの数値を基に、子供の危険率を2.5倍した。中庸を得た数値のつもりである)
 低線量放射線の害は、集団食中毒で、ばたばたと子供たちが倒れるようなものとは違う。似ているのは、むしろ交通事故である。交通事故の確率が突如上がったようなものである。

 もう一点、大事なことがある。それは、食品を通じた内部被曝がどの程度になるかの、実測による見積もりが出されていないことである。

 政府も新聞も、食品に関しては「ただちに危険はない」と「風評被害」にばかり気を取られていた。もちろん、パニックが起こるのはよくないし、生産者の立場も考えなければならない。しかし、実害の危険のあるなしを徹底的に調査するのが、まず基本であろう。食品の検査体制ができていなくて、ごくわずかなサンプル調査しかされていない。

 どの食品が危険かは、同じ県内でも、地域により、土壌により、作物によりまったくまちまちなはずだから、丹念に計測するしかない。しかし、検査体制は追いついていない。すでにかなりのヨウ素131を取り込んでしまった子供たちがいると想定して対策を立てるべきである。ヨウ素131による甲状腺がんは、外部被曝とはまったく別な経路で起こる。

 いまなら、まだ甲状腺にヨウ素131が残っているから、放射線計測機器で検出できる。量もわかる。減衰曲線から、どの程度を摂取したかが推測できる。もう一か月もするとヨウ素131が消滅して検出できなくなる。はやく検査をしないといけない。

 いま20ミリシーベルトは、学校の基準の問題として取り上げられているが、問題はもっと大きい。
 子どもがどのくらい被曝することになるのか、総合的にはやく見積もりを出し、それに対して対策を出さなければいけないだろう。
 学校と学童も心配である。しかし、学童以上に乳幼児のほうが、放射線に対する感受性が高い。

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原発 子供たちに今だからできること

 原発周辺地域の子供たちに、今だからできることがある。

 チェルノブイリの事故の後、目立って多かったのは子供の甲状腺がんだった。
 福島原発の周辺地域でも同様のことが起こる可能性がある。しかし、いまなら防護策を打つことができる。心ある方が動いてくれることを願う。

 甲状腺がんの増加は、原発から放出されたヨウ素131による。ヨウ素131が食品を経由して体内に入ると、甲状腺に集まってくるためである。

 防護策とは次のようなものである。

1 子供の甲状腺へのヨウ素131蓄積のチェック

 ガンマ線スペクトラムの出せる機械なら、ヨウ素131とその量が一発でわかる。安価なカウンターしかない場合でも、喉のところで線量が増加するかどうか調べればおおまかなことはわかるはずだ。要注意の場合だけ、精度の高い機器で調べればよい。

 ヨウ素131の半減期は8日である。いまなら、まだ体内に残っているから、その子に危険があるかどうか、調べることができる。
 体に蓄積されているとすると、3月下旬から4月上旬くらいに食べた食品に付着していたものである。それ以来ちょうど1か月くらいたつから、5%くらいに減っているであろうが、それならじゅうぶん検出できる。
 もう一か月くらいすると、微量になって検出するのが困難になってくる。

2 ヨウ素131の蓄積が確認された子供の健康管理

 ヨウ素131の蓄積が確認された子供に、いま、バランスのとれた食事とストレスのない生活を送らせることはたいへん重要である。
 ガン細胞は、発生した初期の段階では数が少なく、生体の免疫作用で多くは死滅する。しかし、健康が損なわれた状態だと、がん細胞が生き延びて増殖をはじめやすくなる。

 場合によっては、疎開させることも検討してよいが、親元を離れることによるストレスもあるので、ケースバイケースであろう。

 また、ヨウ素131の蓄積があった子供は、その後の定期的健診を続けていれば、発がんしたとしても、致命的になるまえに手を打てる。

 チェルノブイリの場合、子供の甲状腺がんは、事故後5年くらいから増えている。

 福島原発の事故により、大量のヨウ素131が放出され降下したことは各地のデータに出ているし、食品チェックでも基準値を超えたものが見つかっている。
 現地の野菜は、一つ一つ放射能のチェックなどしていない。気にせずに地元でとれたものを食べていた人たちはたくさんいるであろう。

 子供の甲状腺がんは、本来は稀な病気である。子どものガンは悲惨である。本来、一人でも出してはいけない。

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知識

 しばらく、教育の本題を離れていました。

 原発事故と放射線の研究にほとんどの時間を使っていた。外を歩くと、春たけなわ。

  Tulips_are_fun

 チューリップがやたらとおもしろく感じられた。
 美醜を感じ取ること、人の言うことの真偽を感じ取ること、子供時代にはそれができる。
 いつかそれが知識に置き換えられてしまう。
 「この絵は2億円するのです」と言われると、わけのわからない絵が美しく見えてしまう。

 教育にあたる人たちが、知識の悲しみを感じ取れたら、それは子供たちに伝わる。それが真実を伝えるということだと思う。

 知識には知識の役割がある。その役割を超えて、人間そのものがえらくなったように思い込めば、その人は浅薄だ。試験の点数が取れれば、子どもがえらくなったように思い込ませること。それは、その子の深いところに悲しみを背負わせる。
 子供は、独特の高い倫理をもっている。子どもは生きることがすなわち、学ぶことだ。しかし、賞罰で誘導されるうちに、その倫理が曇る。

 放射線について調べていくと、地道な研究を長年積み重ねてくれている人たちがいた。敬意を持たずにいられなかった。報われる仕事ではなかったろう。しかし、今役に立つ。学問は大事だ。

 学びについて思うことがあった。私は大学生のときに第一種放射線取扱主任者という資格を取った。その後、実務にもついていない。細かいことは全部忘れていた。
 40年もたって放射線の知識が必要なことになった

 にわか勉強だった。でも、なんとかなった。
 勉強って、これでいいのだと思った。どういうことになっているのか原理原則だけ理解していればいい。あとは、そのとき調べればいい。

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学校の許容被ばく量 20ミリSvは高すぎる

福島県の学校での、屋外活動の実施の可否をめぐって、文科省に放射線の基準値が求められた。

[読売新聞]
「同省などによると、基準は、児童生徒の年間被曝許容量を20ミリ・シーベルト(2万マイクロ・シーベルト)として、一般的な校庭の使用時間などを勘案して算定する方針。」http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110409-OYT1T00912.htm

 子どもに年間20ミリシーベルトは高すぎる。

 一般人の年間許容線量は大人で1ミリシーベルトである。

 許容線量は、放射線作業者で年間50ミリシーベルト(5年間で100ミリ)と決められている。20ミリシーベルトとなると、危険覚悟のプロに近い量を子供に対して設定するのである。
 正確には、呼吸による内部被ばく、食品からの内部被ばくも総計しなければならない。それらの数値を出すのは緻密な計測がないと困難だが、だいたい、外部被ばくと同じくらいあると考えてよい。そうすると、40ミリシーベルトくらい浴びることになる。

 放射線の害は、これ以下なら安全、これ以上なら危険というはっきりした線は存在しない。うすいグレイゾーンが続くだけなので、線は引きにくい。しかし、それを勘案して決めた年間1ミリシーベルトである。
 年間20ミリシーベルトだったら、子供を避難させることを考える数字だと思う。急性症状が出ることはない数字だ。しかし、放射線はDNAを傷つけるので、影響が心配である。

 許容線量が1ミリシーベルトだとして、それを超えたらどうするか。そうなった所、そうなりそうな所が続出しているのである。
 これがまた難しい。1ミリから20-30ミリシーベルトくらいは、要注意かつ現実的対処ゾーンと考えるしかない。

 原発もれの人工放射能など、できれば1マイクロでも浴びたくない。放射線としては人工も自然も同じではあるが、原発からの放出など、本来浴びる必然性がない。
 しかし、現実問題がある。避難するとなると、そのための苦労、避難先での安定しない生活による害もある。低線量の場合は、どれだけのリスクを引き受けるかは、考え方の問題でもある。現実的に対処するしかない線量である。

 放射線量の多い地域では、家庭にいても、子供は放射線を浴びるであろう。学校だけ考えてもしょうがない。そこは勘案しなければならない。
 これは、実際のデータが必要である。いま、測定機器が不足しているのだろうが、家庭生活と学校生活での被ばく線量の見積もり、早急に必要である。

 20ミリまで安全のように考えたら、それは違う。
 許容線量の1ミリシーベルトは動かすべきではない。1ミリシーベルトより上は、取り得る対策によってどのような得失が生じるか、それを考えて現実的に対処するしかないのである。もし、私に赤ん坊か妊娠中の妻がいたら、1ミリシーベルトの予測で避難させる。自分は、10ミリで逃げるだろう。ただ現実には、心臓の持病があって避難生活でかえって健康を害しそうなのと、高齢の父を抱えているので50ミリくらいまで耐えるしかないだろう。そういうのが、現実的に対処ということである。

 なお、東京近辺のデータとしては、日本分析センターというところが千葉市のデータとして、
3月中に
 外部被ばく        0.068 ミリシーベルト
 呼吸による内部被ばく 0.063ミリシーベルト
     計         0.131ミリシーベルト
http://www.jcac.or.jp/lib/senryo_lib/hyouka.pdf

 を算定している。これなら、年間1ミリシーベルトに達することはないであろう。単純に12倍すると1ミリを超しそうだが、線量の中心であるヨウ素131は減衰が早くて、3か月もすれば問題ではなくなるからである。

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7日はいちおう注意を ドイツ発シミュレーション

 ドイツ発シミュレーション情報に追加です。

 7日はいちおう注意していたほうがいいと訂正します。

 福島原発のデータを見ていたら、1号機の圧力があがりつつあるためです。
https://spreadsheets.google.com/ccc?key=0AgRxSmVlzFqvdDVWclRkTERaRGJYMzlZSy1pRmIwSXc&hl=ja&authkey=CP6ewJkO#gid=28
どこの部分の圧力なのか、よくわからないのですが、念のため。

これまで、圧力が上がるとベント(圧力抜き)がかなり行われています。

この数値の単位のMpa(メガパスカル)は、1メガパスカルが10気圧です。
0.6Mpaは6気圧。


 なお、ドイツ気象庁のシミュレーションは、「もしも放出があれば、こうなる」という仮想のものです。そのことははっきり書かれています。
 「もしも」の話であり、「こうなる」ではありません。 、
http://www.witheyesclosed.net/post/4169481471/dwd0329

 その「もしも」の可能性が、ないわけではない、という御報告です。

 放出を仮定してシミュレーションをするのは、国際原子力機関(IAEA)の基準であることが報道されています。
(毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20110406k0000m040086000c.html

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6日は安全そう ドイツ発シミュレーションの検証

 きょうの放射能の現実的な危険を知らせるサイトがあるので、内容を検証してみました。

「汚染・6日に日本全土に拡がる怖れ」
http://takedanet.com/2011/04/47_afa2.html
 武田邦彦さんによる発信で、この方は、現在原発、放射能関係について発信している方たちの中で、もっとも信頼できる一人です。 

「ドイツの気象サービス及びノルウェーの発表では、4月5日から7日にかけて、福島原発からの風が一旦、南に行き、四国・九州にまで南下し、そこからさらに偏西風で日本列島を縦断して、北海道に達する上ると予想されています・・・・(以下略) 武田邦彦(中部大学)」

 福島原発でのデータを調べてみました。
 原発から新規に大気中に放出されることはなさそうです。放射性物質飛来の可能性はほとんどなく、来ても微量であると予想されます。
 武田さんの記事も注意深く「風は」と言っています。「放射能が」ではなく。

 以下が理由です。

 もっとも気になるそれぞれの炉の温度と圧力は、爆発や噴出、ベント(ガス抜き)を予想させるものではありません。
https://spreadsheets0.google.com/ccc?authkey=CP6ewJkO&hl=ja&key=t5VrTdLDZDbX39YK-iFb0Iw&hl=ja&authkey=CP6ewJkO#gid=8
(原子力安全・保安院発表のデータをまとめているサイト)

 現在、冷却がそれなりにうまくいって、放射性物質のほとんどは冷却水のほうに出ています。その冷却水が溜まって処理に困っているという状況です。
(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110404-OYT1T00923.htm?from=main3

 現在の福島原発、およびその周辺での放射線量では、いずれのデータでも、一定線量がすこしずつ減衰する形になっています。これは、新しい放射能の追加がないことを示しています。
(東京電力)
http://www.tepco.co.jp/nu/monitoring/11040405.pdf
(文部科学省)
http://eq.wide.ad.jp/

 放射性物質は15日に大放出がありました。それが21-22日に雨となって関東一円に降り注ぎました。その影響が現在まで続いています。
http://plixi.com/p/88696182

 なお、この武田邦彦さんのサイト、基本的な哲学、専門的な知識ともに、優れています。
 ドイツ発の情報も十分に検討に値するものですので、これを発信して注意を促すことは、当然です。

ご本人からも
> ドイツとノルウェーの情報が、どのような基礎的な
> データに基づいているのかわからないので、...
>「絶対にそうなる」と断定的に考えないでください。

と述べられているとおりです。

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教育委員会 執行機関とチェック機関が一緒

 今度の原発事故で、原子力安全・保安院は原子力を推進する経済産業省の機関の一つなので、「執行機関とチェック機関が一緒だというのは良くない」という話が総理周辺から出ているそうです。(テレ朝ニュース 3.31 5:50)

 納得できます。組織面と予算面で分離していないと、どうしても利害共同体になってしまいます。

 「執行機関とチェック機関が一緒」ということでは、教育委員会がそうです。教育委員会は、公立学校に対して方針決定権も、人事権も、予算権も持っています。そして、学校に対するお目付け役でもあります。
 これは、いじめ、不登校など教育の問題がなかなか解決しないことが多く、うやむやに終わりがちなことの原因になっていると思います。

 学校の不祥事が見つかれば、それはそのまま教育委員会の不祥事になるのです。教育委員会が客観的なチェック機関になれるでしょうか。

 チェック機関を分離することが適切です。ただし、そのチェック機関は、文科省や自治体ではなく、できるだけ現場に持ってくることが大事です。本当のことは、受益者側にしかわかりません。
 親と生徒の代表を含む、学校ごとの評議会がよろしいと思います。
 校長任命者だけで固める現在の評議員制度ではいけません。

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屋外活動と放射線 東京近郊の学校の場合

 原発事故のため、東京および近郊の学校関係者より、学校での体育、外遊び、通学などに注意する必要があるかどうかの質問を受けました。
 そのため、危険度を見積もってみました。

 普通の人の屋外活動についても、まったくこれと同じです。
(東京、千葉、神奈川、埼玉あたりについてのことであること、ご注意ください)

 東京都の健康安全研究センター(新宿区百人町)の数値が、推定の基準として適切と思われるため、ここの1時間ごとの空間線量データから積算しました。
http://ftp.jaist.ac.jp/pub/emergency/monitoring.tokyo-eiken.go.jp/monitoring/index.html
以下、すべてここのデータを基にしています。

 3月15日から4月2日まで19日間の積算放射線量は
   約45μシーベルト
 でした。屋外にずっといたとすると、この程度の放射線を受けています。

 そのうち自然放射線量は20μシーベルト(推定)であり、原発由来の放射線は約25μシーベルトです。

 自然放射線が年間400μシーベルト、国の安全基準(一般人)が年間1000μ(=1ミリ)シーベルトですので、これまでのところ東京およびその近郊で、屋外で活動することによる危険はないと推定します。

 なお、現在(4月3日)、食品を通じた内部被曝は注意すべき状況です。 

(線量の推移)
Photo
 3月15日―16日に風に乗った飛来物が通過しました。高いピークができては、すぐに平常値近くに戻っています。この飛来物に由来する線量が積算して約3μシーベルトです。

 3月21日ー23日に雨が降りました。この雨と共に放射性物質が地面に降下しました。それ以後に高い線量が続くのは、地面に落ちた放射性物質からの放射線です。気象条件とまったく関係なく線量が継続しています。ヨウ素131の指数関数的な減衰が続いています。降下した放射性物質による線量の積算は、21日―4月2日(13日間)で約22μシーベルトです。

(場所による違い)
 これまでの積算線量は、雨と共に降下した放射性物質によるものが約8-9割です。そのため、地面の状況によって、線量は大きく異なるはずです。地面がコンクリートなどのため流れてしまったところは少なく、土にしみ込んだところは降下物がそのまま、周囲からの水が集まって溜まったところは多くなります。

 東京都健康安全研究センターのデータは、降下物がそのまま地面に滞留している(おそらく土の上)と思われるデータなので、このデータを元に、環境に合わせて増減することができます。

 場所によってたまり水になって、その後乾いたようなところでは、放射性物質が集まっていますので、念のため遊ぶことは避けたほうがいいです。(上を通り過ぎるくらいは気にしなくていい。危険なのは4月いっぱい頃まで)
 屋内での線量は、屋外よりかなり小さいです。(数値を推定できません)

(今後の見通し)
 現在(4月3日)の線量は、今後も減り続けますが、1ヶ月くらいするとあまり減らなくなります。年間量を見通すには、4月下旬ごろになったらデータを参照し、そのデータに単純に日数を掛け算すれば予測ができます。

 現在の線量の中心となっているヨウ素131は半減期が約8日と短いため、4月30日には、降下時の2%程度に減少します。もう一つの線源のセシウム134、セシウム137は、半減期が長いため、4月下旬くらいからはセシウムの影響のほうが強くなってそのまま続くためです。

 ただし、原発の状況により、雨には思いもよらぬ放射性物質が含まれることもあり得ますので、なるべく濡れない、濡れたら拭く、を心がけたほうがよいと思います。

 原発自体は、大爆発はないが、泥沼状況が続くとみています。発熱を止めることは原理上不可能であり、いっぽう作業環境が極端に悪くて、取り得る策が少ないためです。

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冷却水の蒸発が続いている

 下の記事を書いてから調べを続けていました。原子炉内で蒸気になった冷却水の多くが、タービン室で水になってたまっているようでもあります。どれだけが大気中に出ているのかは、不明です。その前提でお読みください。(3月31日 午前10時)

 原発に関する報道で、マスコミは、発電所内の汚染水に目を向けている。しかし空気中への放出は注目されていない。これまで空気中に大量の放射性物質が放出されているし、今も放出は続いていると思われる。

 これまで、環境に大量にヨウ素131とセシウム137が放出されている。この2種はいずれも水溶性であるから、蒸発した冷却水の中に含まれていたものである。

 福島原発から約25km北の地点のダストサンプリングで、29日に30ベクレル/立方メートルのヨウ素131が検出されている。これは、空気を吸引して測定した結果である。

 朝日新聞3月30日夕刊によれば、現在でも崩壊熱により毎分80リットルの冷却水が蒸発しているという。この蒸発した冷却水はどこにいくのか。これまでも放射性物質が大量に大気中に出ていることからして、かなりは大気中に出ていると思われる。

 一炉あたり80リットルとして、破損している4基の合計で毎分320リットルの冷却水が蒸発している。この冷却水は、燃料棒に直接触れて冷却している水であり、放射性物質を含んでいる。

 崩壊熱は今後も発生しつづけ、半年後でも約半分にしかならない。

 蒸発した冷却水中のヨウ素とセシウムは、目に見えない水蒸気や、空気中の水滴、に付いて浮遊し、風と共に移動している。
 雨が降ると、地上に落ちてくる。

 今夜から雨が降る。この雨には注意が必要である。また、その後の水道水中の放射性物質に注意が必要である。

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水道水中の放射線値上昇について

 3 月23日から関東一円と東北地方南部で水道水中の放射能値が急上昇しました。これは、21日から22日にかけて降った雨によるものです。

 原発から放出された放射性物質は、一部は地上に降下し、一部は空気中の水蒸気や水滴と結びついて漂っています。そこに雨が降りますと、空気中を漂っていた放射性物質が雨とともに地上に落ちます。すでに地上に落ちていた放射性物質ともども、一部は土壌にしみこみ、一部は河川や湖沼に流れ込みます。

 この河川や湖沼から水道水を採取している場合は、水道水中に放射性物質が現れます。実際、雨から2日程度たって、雨水が河川や湖沼に流れ込む時になって、水道水中の放射能数値が上がりました。

 今後、この数値は減少します。しかし、いったん土壌にしみこんでから河川に出てくる部分もありますので、ゼロにはならず、ある程度の数値が続きます。河川の場合は、どんどん海へと流れますので、減少するのは早いです。湖沼の場合は流入した水がたまっていますので、減少は遅いです。

 水道水中の基準値はヨウ素131の場合、300ベクレル/リットル、小児の場合は100ベクレル/リットルとなっています。放射線の場合、安全か危険かはすべてグレーゾーンでして、これ以下ならまったく安全というラインはありません。 この基準値は、他に代替手段がない場合、短期間なら、摂取しても問題は起こさないでしょうという数値です。なるべく身体に入れないほうがいいです。

 ヨウ素131は、原子炉事故があると大量に出てきます。しかし半減期が8日と短く、3ヶ月経てば4000分の1程度に減ります。やりすごすことができるものです。
 もう一つ問題となる放射性物質にセシウム137があります。こちらは半減期が30年と長いので、なかなか困る代物です。

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昆布は有効

 原子力発電所から放射性物質が環境に放出された場合、最初の2~3ヶ月くらいは、放射性ヨウ素がもっとも大きな問題になります。

 ヨウ素剤が有効であることは知られていますが、これは若干の副作用もあります。一般には手に入りにくいものです。
 もともと食品であるもので摂取することができれば、それにこしたことはありません。昆布がヨウ素を多く含むことは有名ですが、昆布の摂取で十分な量を取れるという説と、多量に必要なので食べきれるはずがないという説の両方を、ネット上で見かけました。
 そのため昆布のヨウ素含有量を調べてみました。

 昆布には、1gあたり1.3mg程度のヨウ素が含まれています。
 ヨウ素の食事からの一日あたり摂取量は1歳で0.05mg、大人で0.13mg、授乳婦で0.27mgです。

 一日に昆布1g程度で十分な量を摂取できます。

 主に、次の資料を参考にしました。昆布以外の食品についても含有量が出ています。よい資料です。
「ヨウ素とは」
http://hfnet.nih.go.jp/contents/detail680.html

 この中で、昆布の数値が飛び抜けて高いので、ミスプリントではないのか、学術論文で確認をとりました。大丈夫でした。
「日本で市販されている食品中のヨウ素含有量」
http://www.jstage.jst.go.jp/article/jjh/63/4/63_724/_article/-char/ja

この論文で、コンプ中のヨウ素は煮汁の中にかなり出ることもわかりました。煮汁まで飲むといいです。

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新規に放射性物質放出の可能性 今日中にも

 当ブログは教育に関するブログなのですが、多くの人にとっての緊急事態なので、原発を取り上げています。

 新たな放射性物質放出の可能性があることをお伝えします。今日起こる可能性もあります。

 日経新聞の記事をもとに解説します。

日経3月24日 夕刊
福島第一原発 3号機の注水を再開

 一方、1号機は24日午前11時半に中央制御室の照明点灯に成功した。原子炉建屋では原子炉格納容器の圧力が上昇。22日午後3時半に1.8気圧だったが、23日午後4時に3.6気圧に上がった。経済産業省原子力安全・保安院によると、設計圧力は5.28気圧だが上昇が続くならば、弁を開放して原子炉内部の蒸気を外部に放出する排気作業も検討する。
 排気作業はセシウムなどの放射性物質が外部に放出される恐れがある。東電は24日午前2時半から原子炉への注水量を1割減らし、原子炉の圧力や温度を調整している。保安院によると、圧力は24日午前5時には4気圧に上がったが同7時の時点でも4気圧と横ばいで、「圧力が少し落ち着き、(排気の必要性は)少し遠のいた」とみている。

 これによりますと、22日午後3時半から23日午後4時までのほぼ24時間の間に圧力は1.8気圧ほど上昇しています。また、24日午前5〜7時には4気圧程度で横ばいです。

 一日に1.8気圧という上昇が22〜23日に実際にありました。現在の発熱は放射性物質の崩壊熱であり人為的に止めることはできませんので、また圧力上昇が起こる可能性は大きく、そうしますと1号機格納容器はすぐに設計圧力である5.28気圧を超え、原子炉内蒸気の外部放出が必要になります。

 今日中にもそれが起こる可能性は大きいと思います。

 原子炉内の蒸気は、放射性物質を大量に含んでいます。

 やむを得ずこれを放出する場合、政府と東電は事情を説明し、ダムが放水するときに危険を知らせるのと同様に警告を出し、放出後の経過を監視しデータを報告すべきです。

 当面、役にたちそうな情報を紹介します。

リアルタイム風向風速 気象庁

http://www.jma.go.jp/jp/amedas/206.html?elementCode=1

ドイツ気象庁による風予測(日本列島、日本時間)http://meteo.sf.tv/sfmeteo/prognosen_japan.php?q=japan

 緊急時は、リアルタイムのデータでないと間に合いません。茨城県東部には東海村があるため、放射線データをリアルタイムで出すシステムがあります。これが役に立ちます。

放射線テレメータ・インターネット表示局

http://www.houshasen-pref-ibaraki.jp/present/result01.html

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危機はまだ脱していない

 原発の行方に関心があります。私は、第一種放射線取扱主任の資格保持者です。

読売新聞によれば(2011年3月24日01時21分)

 原子力安全委員会の班目春樹委員長記者会見。
 「(水素爆発した)1号機の核燃料はかなり溶融している可能性がある。2、3号機に比べて、最も危険な状態が続いている」と指摘。原子炉内の温度、圧力の異常上昇が続き、危険な状況にさしかかっているとして、「(炉心が入っている)圧力容器の蒸気を放出する弁開放を行い、炉の破壊を防ぐ検討をしている」ことを明らかにした。

 危機はまだ去っていません。

 私も原子炉がどうなってるかの資料を集め、検討しています。不思議なことが2点あります。

1 水素ガスと、放射性物質はどのようにして原子炉の外に出てきたのか。

 この水素は、圧力容器内で、核燃料棒と水が反応してできたものです。放射性物質も圧力容器内で発生したものです。(検出された放射性物質は、半減期の短いヨウ素131の比率が高いです。これは、運転した直後の燃料棒からでたことを示しています。使用済み燃料ならとっくに減衰していてごくわずかしかないはずです。)

 圧力容器は密閉されています。その周りを包む格納容器も密閉されています。それなのに建屋内で爆発がおこりました。外界で広く放射性物質が大量に検出されています。
 水素ガスと放射性物質は、どういう経路で、圧力容器と格納容器という2重の密閉された壁の外側に出てきたのでしょうか。

2 なぜ、圧力容器と格納容器は爆発しなかったのか。

 現在の発熱は、控えめに見て3Mw(メガワット)程度と推定されます。運転停止直後は、十数Mw程度あったはずです。冷却機能がない状態では、内部の水蒸気の圧力が高まり、圧力容器も、格納容器も耐圧限度を超え、爆発したと思われます。
 しかし、それは起こりませんでした。
 なぜなのでしょうか。

 報道されているのとは違う、未知の出来事が進行していると推測しています。

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危機は脱したか、まだか

 福島第1原発では、使用済み核燃料への消防車による放水が行われています。放水の姿と、何トンの水が入ったかが報道されています。

 しかし、もっとも重要なのは、原子炉本体の危険です。その時に、使用済み燃料に対策をしているのはなぜなのかという疑問を持ちました。
 見当違いのことをしているか(もちろん、使用済燃料の対策もしたほうがいいのですが)、原子炉本体は大丈夫と見極めがついたかのどちらかではないかと思います。

 そこで、原子炉本体の現在の発熱量の推定を試みました。
 福島第一原発2〜5号機の出力は1基あたり78万kwです。
http://www.tepco.co.jp/nu/f1-np/intro/outline/outline-j.html

 原子力発電は運転を停止しても、核分裂で生成した放射性物質の放つ熱で温度が上昇します。この発熱は時間とともに減衰します。
 広瀬隆という人が、テレビ番組で減衰のグラフを示していました。
http://www.youtube.com/watch?v=37sStCJjH14

 これによると100万kwの炉で停止直後で熱出力は18万kw、一日後に1万5千kwくらいです。78万kwの炉なら一日後で約1万2千kw。
 熱出力の最初の一日の減衰は早いのですが、これは半減期の短い物質が急速に崩壊するためで、その後の減衰は遅くなります。その後の発熱の中心となるヨウ素131の半減期は8.1日です。いろんな物質が入り交じって推定は困難なのですが、崩壊の早い物質がまだある時期なので、事故から7日後には、さらに3分の1になっていると仮定します。そこで、4千kwの熱出力とします。

 圧力容器の体積を計算すると約540立方メートルでした。この水は、タービンを直接回していますが、現在は循環が止まり容器内にとどまっているとして、約500立方メートルの水があります。
 計算すると水1gあたり、0.008ワットの熱を受けます。これは、毎秒約0.002度の温度上昇になる。一時間あたりだと約7度の上昇。
 つまり、冷却されていない場合、24時間で約170
度の上昇があり得ます。冷却は一切ないという仮定です。
(水当量を4.2J/cal としました。高圧の場合には変化するのかどうかの知識がありません)

 推定に頼るしかないデータが多く、最大での数字を見積もっています。誤差はたいへん大きいと思いますが、1桁違うということはないと思います。
 もし170度/日の上昇とすれば、まだ、安全とはいえない数字です。
 冷却できていて、発熱量より、運び出す熱量が多くなっていれば心配ありませんが、炉心への水循環が止まっている炉では、現在も高温による燃料棒溶融の危険があると推定します。

 現在、放水など使用済燃料への対策に回っているのは、炉本体が安全だからではなく、炉本体にできることがないので、対処可能なことをしているのだと推定します。

 危機があるとき、事実を示すデータなしに楽観することも、怖れることもよくありません。
 
おおざっぱでよいから、危機の大きさをつかむための計算をしています。事実との違いが大きい可能性があること、ご了解ください。

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原発事故 見通しと対策

 教育のブログなのに、いきなり原発事故の話で、申し訳ありません。私は大学は理系で、私塾では物理も化学も教えます。第一種放射線取扱主任という国家資格を持っています。
 理科の授業を始めたと思って、ご容赦ください。緊急に発信したいことがあります。

 大地震と津波のあと、冷却能力のなくなっている原発が数基あるとの報道に、びっくりしました。
 さっそく、調べ始めました。調べる目的は、「チェルノブイリみたいになるのか、ならないのか」でした。

 その危険はあります。大量の放射性物質が放出される可能性があります。
 現在、可能性は小さくなりつつありますが、まだ危機が去ったとは言えません。(3月19日15時)
 冷却システムが回復し、原子炉内の温度と圧力が低下に向かっているとのはっきりした数値が出るまでは、危険を否定できません。

 たいへんよい資料がネット上にあります。
 原子力発電所の仕組み、事故の可能性、事故時の対策について、的確に解説しています。専門家たちが練り上げたもので、これがベスト、と言える資料です。一般の人を対象に書かれています。

JSA福岡核問題研究委員会編
 『原発事故−その時あなたはどうするか!?』
 (合同出版,1989年)

日本科学者会福岡支部
http://jsa-t.jp/local/fukuoka/

にpdfファイルになっています。
この資料は、広める価値があります。
 

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教育の目的は学力か

 われわれがもっとも困っていること、苦しんでいること、それは多くの人が先入観の固まりで、理解力がなく、偽善的であることではないだろうか。これは、非難したいのではない。それらは、みな苦し紛れから生まれた行動であり、自分もやっていることだと理解したときにのみ、解決があるのだと思う。

 先入観、理解のなさ、偽善は、パターンを覚え込んで生きているために起こる。ほんとうに起こっていることを見ていない。
 自分の感受性で物事を見ることより、すでにできているイメージを呼び出して繰り返したほうが安心できるからだ。

 個人生活で私がもっとも苦しむことは、それは一緒に生きるしかない家族や職場の人間が、私のことを出来合いのパターンで見ていて、私がほんとうに感じていることやほんとうに考えていることを理解しないことだ。
 子どものときの孤独感を思い出す。大人は、理解しなかった。大人は結論しかもっていなかった。
 それは、多くの夫婦の孤独感でもあるだろう。

 仕事をする立場なら、私がもっとも苦しむのは、上司、同僚、部下などが、状況を見ずにパターンに従って不適切なことをし、それに対して意見することもできないことだ。

 先入観、理解力のなさ、偽善、それら解決するのが教育のはずだ。しかし、現実の教育は「〜をできるようにする」にとらわれて、考えもせずに利害や強制に訴えてしまう。そこに恐怖が生まれる。

 恐怖があるとき、パターンへの依存が生まれる。怖いから、やみくもにパターンを覚えて対応しようとするのである。学校での試験への対応ならまだよい。社会に出てから、自分にも他人にも大きな苦しみをもたらしてしまうのである。

 教育は、結果よりプロセスのほうがはるかに重要だ。教育の目的が学力とは思わない。

 親が、「なにやってんの、あんたは」と怒鳴るとき、教師が「内申に響くぞ」とチラつかせるとき、私はヤクザがドスをチラつかせているのを見るような気がするし、汚染をまき散らす工場を見るような気がする。

 教育が、露骨なあるいは微妙な形で恐怖に訴えて行われるとき、われわれは、個人と社会を壊しているのではないだろうか。

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大学入試問題漏出事件

 大学入試の問題が、試験時間中にネット上に漏れ、解答を求められたという事件が大きく報道されている。

 そんなに大騒ぎすることかなあ、と思う。
 このカンニングはすぐに明るみに出てしまう。やった本人が誰かもバレやすい。拙劣なカンニングだ。「ある受験生が携帯を使ってカンニングを試みたが、ネット上に公開で答えを尋ねたのですぐにバレてしまった」という、お笑い記事なのだと思う。

 それなのどうしてこんな騒ぎになり、コブシを振り上げることになのだろう、むしろそれが不思議で考えてみたくなる。
 もっと、巧妙にやれば、携帯とネットを利用して何が起こるかわからない、という不安。それもあるかもしれない。

 でも、やはり「入試は、公正かつ厳格に行われなければならない」から、こんな騒ぎになるのであろう。

 しかし、しかしである。
 ほんとうに入試は公正かつ厳格なほうがいいのであろうか。よく、考えてほしいと思うのだ。入試が公正であれば、人を見分けることができるのか。
 カンニングをしていいという意味ではない。そうではなくて、入試の意味を、もっと深く考えてほしいと思う。

 なぜ、入試が公正か厳格であってほしいのか。

 どんな入試をやろうが、人のほんとうの能力を見ることなど不可能である。おおよそのことの目安にはなる。だが、どんなに試験方法を工夫したところで、その試験方法に合うかどうかを見ているだけであり、まして、本人の将来性などわからない。それは教育界の常識であろう。
 ほんとうの能力などわかりっこないから、代用としてペーパーテストをしているにすぎないのである。


 入試の公正さ、厳格さが求められるのは、その大学の質を維持したいからとしか思えない。一流大学に、一人でもカンニングで入学したとんでもない学生がいると、その大学全体が信用を失う。特に大学関係者とその大学のOBは、大学の質の維持に敏感であろう。
 それから、「私達の指導に従って勉強すれうば報われる」とする、高校や予備校の関係者であろう。そして、その指導に従って労力を投資し、「まじめに勉強した者が損をするのは許されない」とする受験生であろう。

 ようするに、既得権益の維持ではないか。
 ○○大学卒ということをレッテルだけで通用させたい。一人一人を見なくてもいいようにしてほしい。レッテルを得た人たちの基盤を揺るがしてほしくない。大学を目指す人たちの希望を挫いてほしくない。

 入試が公正かつ厳格であるほどに、受験生を選別しレッテルを貼る作用が強くなる。その入試方法に合わせた勉学が流行る。学びが、歪曲される。いわゆる入試の弊害が大きくなるのである。

 「まじめに勉強すれば報われる」ことを大事にしたいという意見もあるだろう。しかしそれならばむしろ、入試主義をとるより、絶対点数によって入学資格を得る方式か、内申一本にすることを考えるほうが効果的であろう。

 私は、競争入試廃止論者である。

 競争入試なしで、たかい科学と文化の水準を維持している国が現実にたくさんあるのである。スウェーデン、フランス、ドイツ、オランダ、デンマーク‥‥‥

 教育を「選抜」にしてはいけない。
 学びは、人々の喜びであり基本的人権だ。学ばない人は没落する。学ばない社会は没落する。それだけのことだ。選抜されるための競争など、じつに、せせこましい。

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葛藤なしで生まれるエネルギー

 人がエネルギーを得るやり方に、大きく言って2種類ある。

 ひとつは、あるがままをよく認識しているために葛藤がなく、エネルギーに満ちていることである。子どもが、無限とも思えるようなエネルギーを持っていて飛び跳ねているのは、こちらである。瞬間瞬間の気付きが、出来事をよく捉えている。
 この中に、学びがある。、
 学ぶことができるのは、先入観がないときである。

 ふたつめは、なにかの目標を思い描いたり、あるいはなにかの恐怖から逃げるために出てくるエネルギーである。

 この後者のタイプのエネルギーは、人間の生き方、そして社会のあり方に大きな問題を持ち込む。「~でなければならない」が非常に大きくて、他のことに気づいていない。それで、大きな葛藤を自分にも他人にも生じさせるのである。

 教育と呼ばれる現象は、本来は学びがあるだけなのである。花の美しさ、水の流れの面白さ、身体を動かすことの面白さ、そのようなものを探ることである。
 学びがあるときには、共感がある。学びは、教師にとっても子どもと共感しつつの発見なのである。そして、学びにとって、教師はべつだん不可欠の存在ではない。

 学校と呼ばれる機関は、近代社会がもたらした、はなはだ未発達な教育機関なのだと思う。ある目標を達成させるためには、平気で、野心を刺激し、競争に訴え、辱め、懲罰を加えてしまうのである。
 そこでは、葛藤のなさから生まれるエネルギーのことは、理解されていない。
 そこでは、目標と恐怖を植え付けることで、エネルギーを引き出そうとする。

 違う。それは個人にも社会にも不幸をもたらす。人のなかに葛藤が生まれるのは、理解なき結論を取り入れるためである。
 教育は、もっと自然発生的なものだ。もっと、家庭に近い形のほうがよい。四角い教室に生徒が机を並べ、教師がレクチャーするタイプの教育をあたり前と思ってはいけない。

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全員参加復活は無意味 文科省学力調査

 文部科学省が、全国学力テストを数年に一度、全員参加方式にすることを検討しているという。
 朝日新聞
 産経新聞

 また、亡霊の復活だ。
 なんのメリットがあるのか理解に苦しむ。

・ 全国学力テストには現在も任意参加することができる。自校または各自治体の全国での位置づけや、経年変化を知りたいなら、任意参加すればそれでよいことである。

 これだけで、全員参加を復活させない理由は十分ではないか。現実に7割程度の学校が学力調査に参加しているのである。参加しないところは、それなりの理由があるのだから、それを尊重すればよろしい。

 文科省学力調査を全員参加とすべきでない他の理由もあげよう。

・ 学力レベルとその要因分析をするためなら、抽出調査で十分である。

・ 各県には、独自の学力調査がある。このほうが具体的で、どうしたらいいかがわかりやすい。これは秋に行われ、やったことの結果を授業に反映できる。文科省調査は4月である。

・ 文科省学力調査の内容は、「結果がこうだからこう対応する」という対応を検討するのには向かない。A問題はあまりに基本的であり、B問題はあまりに教材と離れている。文科省調査は、「自分の位置を知り、切磋琢磨」には、向いていないのである。マクロな分析はできだろうが、それは抽出調査で十分である。

・ 過度の競争をあおる。素人の首長が点数にとびついて干渉するためである。教育のうち、数値化が可能なのは、ほんの部分にすぎない。しかし、素人は数字に飛びつく。 

・ 教育の価値観を一元化させることになり、危険である

 教育は文化現象である。
 どうやったら美味しい料理を作れるかとか、どうやったら全員参加の劇を上演できるかとか、そういう次元の話なのである。
 それは、学問であり、芸術であり、技術であり、生き方なのである。
 官が基準を決めて全員に達成度を競わせるなど、まったく向いていない領域である。

 「切磋琢磨で全員向上」、これが亡霊である。発展途上国日本の教育に取り付いた亡霊である。
 競争で全員向上などするものか。競争は、一部の上澄みを得るのに向いているのであり、全体としてはストレスと落伍者だらけにしてしまうのである。
 「切磋琢磨で全員向上」に走る人たちは、ほんとうの指導力を持っていない。競わせて結果を出させようとするなど、卑しく、安っぽい。

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「何かになること」の影

 また、間をあけてしまいました。多忙と体調不良でした。

 先日電子辞書を買ったら、おまけで日本文学300選というのがついていた。その中に、太宰治の「東京八景」があった。ひょいと読んでみたら、思うところが多く、書かずにいられなくなった。

 太宰治というのは、どうせ、感傷と自己憐憫なのだろうと思って、食わず嫌いをしていた。
 読んでみたら、そうではなかった。醒めた目と的確な表現力も持っている。この「東京八景」は、いま、引きこもりをしたり、リストカットをしたりする若者たちが抱える「アレ」について書いているのである。生きることのどうしようもなさを、的確に描いている。
 「アレ」と言っていてもしょうがないのであるが、「アレ」がなんであるか簡単に説明できるくらいだったら、才能ある小説家の作品を引き合いに出す必要などない。ようするに、引きこもったり、リストカットしたり、自殺したりするしかしょうがなくなる「アレ」である。

 話は、東京の大学生になった筆者が、政治運動にかかわり、拘置され、学業は進まない。留年を繰り返し、「来年こそは卒業するから」と実家に頼み込んでは生活費をせびる。絶望的になったときに、女と心中を図り、自分だけ生き残る。卒業もできない、就職もできない。その後も借財、薬物中毒などを繰り返す。そういう顛末をさらりと書いているのが「東京八景」という作品である。

 太宰治は無頼派と呼ばれることもあるようだが、そうではないと思う。もしこの人がほんとうの無頼派だったら、自殺しないで済む。居直れない人なのである。太宰治は何度も自殺未遂を繰り返したあげく、けっきょく自殺した。あまりに真面目であるため、動きが取れなくなる。なんの申し開きをできる立場もない。逃避したり場当たりをやったりするが、悪人になりきることもできない。

 こんなエピソードがある。
 檀一雄と太宰治が熱海の旅館で支払いに困り、檀一雄を旅館に人質に残して太宰が東京の井伏鱒二のところに借金にいった。壇は、待ってもいっこうに音沙汰もないことにしびれを切らして井伏のもとに駆けつけると、太宰と井伏の二人はのん気に将棋を指していた。太宰は今まで散々面倒をかけてきた井伏に、借金の申し出のタイミングがつかめずにいたのであった。激怒しかけた檀に太宰は「待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね。」 と言ったという。
 借金の申し出ができない。気が弱いのである。

 なんの申し開きもできないこと、なんの立場もないこと、自責と逃避を繰り返すこと、それが「アレ」なのである。したがって、「アレ」で苦しむ人たちは、立場を表現できない。表現できるくらいなら、なんとかなっている。
 ときたま、才能ある芸術家が現れて、いささかは表現したりする。

 こういう溝にはまって身動きできなくなるのは、個人の資質と心理的な問題だと思われている。たしかにそれも一面なのだが、大きくは社会問題なのだと思っている。
 やはり、社会規範に柔軟性がなくて、生き方の自由がないところに、「アレ」が発生しやすい。 

 太宰治の一族は、青森県下有数の大地主。父は貴族院議員。太宰治は出世栄達の一族である。旧制高校を出て、東京大学に入学する。たいへんなエリートコースだ。大きな期待を掛けられている、かんたんに見捨てられることもない。だから、はずれるにはずれられなくなる。

 世間には、親戚一同がみんなエリートで、東大にいくのが当たり前というような一族がいたりする。そうすると、その中にかならずドロップアウトが居て、一族の汚点みたいに思われていて、ひた隠しにされたりするものである。
 それは、陽のあたる一族の影の部分を生き抜く人なのだと思う。生きることの局面は広い。出世栄達だけが人生ではない。失意、自堕落、享楽、無能などもまた人生である。
 「このようにならなくてはならない」という要請の強いところは、それに応えられない人がかならず現れる。その人は、陽のあたる一族の、影の部分を生き抜いている。

 心理学者のユンクが、「影」ということを言っている。なにか立派な価値観があると、それにともなって「影」が生じるということである。「影」は個人の心の一部としてもあるし、集団の一部成員としてもある。

 いまの教育体系そのものが、「なにかになる」ことを前提にしている。ほんとうの探索と発見の援助になっていない。そうすると「影」ができやすい。

 太宰治は、社会的体面を保って生きる人たちの「影」の部分を生きたのだと思う。
 いま、引きこもりや自傷行為に入り込んでいる人たちも同じだと思う。彼らは、この社会が作った「影」の部分を生きているのだと思う。

 ほんとうに探索の自由と感受性を保っていれば、「影」などできないで済むのである。しかし、教育が「かくなるべし」を中心にできている。「かくなるべし」の社会と教育は、それが明るいほどに暗い「影」を作る。多くの人が苦しむ。

 「達成」や「目標」ではなく、自由と感受性と共感の教育があればなあ、としょっちゅう思うのである。少なくとも、義務教育の年齢では、もっともっと個人にたいして援助的であるべきだ。
 社会で生きるには、もちろん職業教育も、社会規範を知ることも必要だ。しかし、生きることの土台があれば、それがすべてではなくなる。その中で軽やかに生きたり、あるいは社会変革を目指したりできる。

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