学びの最初で最後の一歩

 子育てと教育に関心を持つお母さんたちと勉強会を開くようになり、小さい子どもたちと触れ合うことが多くなりました。

 0歳児に近づいて、心の中で「ああ、お目にかかれて嬉しいです」と言いながら目を見つめることをよくやります。言葉で考えているのではなくて、気持ちそのものを向けているだけです。小さい子だと、大人相手のときみたいに礼儀に気をつかわなくていいから楽です。

 そうすると、その子とよく見つめ合うことになります。見つめ合っているうちに、子どもが微笑むことが多いです。嬉しいですねえ。
 それから手に触れてみる。手の大きさが違っていて、とてものことに握り合えないから、指で子どもの手に触れると、むこうで握ってくれる。

 じっと見つめ合って、手を握り合っている。頭の中は、からっぽです。
 まるで、恋人同士みたいですね。あるいは、再会した旧友みたい。

 普通の社会生活では、こんな深い次元で関係を持つには、いろんな警戒心や先入観をかき分けてかき分けて、やっとのことでたどりつきますが、0歳児だとかんたんにできます。

 そのとき0歳児が向けてくる注意力が美しいんです。
 母親は、いつもこれを向けてもらっているのだから、生きる力が自然に湧いてくると思います。

 言葉を獲得する以前の子どもは、物事を捉える先入観がまったくありません。そこには、純粋な注意力というようなものがあります。

 この純粋な注意力が、学びの最初の一歩であり、最後の一歩なのです。外界と内界の区別もない。それは、新たなものとの出会いそのものです。
 生きることは、常に新しいものと出会う喜びそのものです。

 最初の一歩であるというは、生まれてこの世界と出会うときに起こることだからです。それが最後の一歩でもあるというのは、人間がいっさいのとらわれを離れて究極の自由を得るのは、この注意力を通してだからです。
 ゼロ歳児は、この純粋な注意力を持っています。この注意力を損なうことなく、感覚、知識、技能を身につけること。すると、生きることの深いエネルギーと美しさの中で、すべてを捉えていくことができます。

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えこひいき

 特別支援系の学校で、二人の生徒をもっていた担任がいたそうです。
 その担任が、一人の生徒を「いい子だね、かわいいね」と褒めあげ、もう一人は「それに比べてお前ときたら」とけなし、しかってばかりいました。語調が違っていたそうです。

 そうすると、けなされ続けた子は、その”いい子”のことが憎らしくてたまらなくなり、折りがあれば攻撃しいじめるようになりました。いじめをやるわけですから、先生にはその子がとても悪い子に見え、もっと小言が多くなりました。その子は、どんどん手に負えない悪い子になっていきました。

 これは、その学校の他の先生から聞いた話です。これはいけないと思ったけれど、自分の立場から口を出すこともできなかったと。

 教育上、誰が考えてもこれはまずいと思うでしょうが、「しかる --> いっそう悪い子になる」の悪循環にはまってしまうのは、教師でも親でも、誰にでも起こりえることです。
 ここまで極端なのは、そう多くはないと思うけれど、学校システムでこういう事態が起こらないよう、対処システムを作らないといけません。教育養成のやり方、学校内の苦情処理システムなどを考えるべきです。

 多くは教室という密室で起こるので、子どもが訴えないとわからない。
 ところが、「子どもというのは、思い込みが多いものだ」、ということになっていて、子どもから「先生がえこひいきする」と言うと、「またか」ですまされてしまうでしょう。

 子どもの思い込みで針小棒大に言うということも確かにあるでしょう。でも、先生だって思い込みが多いです。大人になるほと言い抜けるのが上手にもなります。子どもの言うことと先生の言うことのどちらが正しいか、あらかじめ決めてしまってはいけないです。

 ほんとうに困っていることを訴えても取り上げてくれなかったり、もみ消されたりするときの恐怖と不信感というのはものすごいものです。いまのシステムは、教員が濡れ衣をきせられないようにということに重点が置かれていて、子どもの人格が破壊される危険については、甘いと思います。

 子どもか保護者から訴えがあったら、教室内にビデオを持ち込み、撮影したものを第三者を交えて検討するくらいのことをすべきです。もちろん当事者のプライバシーは保障しますが、このくらいのことをしたらいいと思います。

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社会問題の根幹と思えること

 これは社会問題の根幹に関わるんだ、と思える教育問題について。

 ストレスの大きい生き方をする人たちに、大きく言うと2種類あります。

 一つは、他人と摩擦を起こさないことを最優先させて生きる人たちです。他人と対立しそうになると、すぐに自分の考えを枉げます。世の中の多数派や、目上の者の言うことは全部正しく感じられる。内面の考えは、どこかで聞いた意見のパッチワークになっています。
 こういう生き方をしていると、物事そのものがどうなっているかの判断が育ちません。判断が悪くて、いろんな失敗やストレスを生じる。それでますます自分で考えなくなります。
 人間ジャングルの中で適応するためにはいいのですが、そのためだけに他の能力を捨ててしまったようなものです。

 もう一つは、自分の考えと自分の方式をかっちり築き上げて、他人が入り込むのを許さない人たちです。表面的な儀礼は守りますが、自分が正しくて他はみんな間違っていると思っています。孤立しやすく、世を恨みやすいです。きらっとしたものはあるけれど、多くのことで独善的になります。いったん指導的な立場につくと、他人に言うことをきかせようと、権威的、権力的になりやすい。そうなると本人もストレスを感じますが、それ以上に周囲の人のストレスが大きいです。

 社会問題はいろいろあるのですが、追従癖を身につけることと唯我独尊癖を身につけること、この二つは社会問題の根幹に関わる問題だと思うんです。人間たちが明晰さを失ってしまい、すべてのことに判断が悪くなるのです。

 私自身、この二つのどちらもやらかしましたねえ。どちらも、怖いからやらかすことなのだ、ということを身をもって学びました。正反対のことに見えて、実は同根なのです。

 十代のうちくらいは、どちらのタイプも、「愚かだなあ。自分があんなになるなんてあり得ない」くらいにしか思っていなかったんですけどね。
 会社勤めをして、年功序列、先輩後輩社会など気にせず生きてやろうとしました。そうしたら反発を買って、こんどは恐怖の塊になって何も主張できなくなってしまいました。

 子どもたちに勉強を教える立場になって子どもたちがつまづくのを観察すると、たいへん粗略な分けかたではありますが、この2種類が大きな原因になっています。
 間違っていると言われるのが怖くて、自分の答えを持とうとしない。
 すでに知っていることに固執して、新しい視点を獲得しようとしない。

 どちらも動物的な防衛本能から来ています。考えてそうしているのではなく、恐怖感から身につけてしまうのです。本人には見えない。他人のは見える。だから、指摘したくらいでは修正できなくて、動物的な安心感のところに働きかけなければならない。簡単ではありません。

 家庭でのしつけや社会組織の教育力まで含めて、強圧的な教育、賞罰・競争で動機づける教育が、恐怖をはぐくんでいるんです。

 目的は手段を選びます。物事がよく見える賢い人間を育てないなら、権威・権力に訴えてはいけない。賞罰・競争に訴えてはいけない。恐怖から身につけたものは、明晰さがない。
 教育は、本来は、何がどうなっているのか、よく観察し考える力をつけるためのチャンスなのです。ところが、結果を出すためによからぬ手段で動機づけるようになると、人間と社会に大きなダメージを与えます。

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「1Q84」 単純な世界観から抜け出すこと

 村上春樹の『1Q84』が文庫本になってコンビニに置かれていました。
 そろそろ読むか。
 1冊買いました。いったん読みだすと、もう、やめられない。けっきょく、文庫本になっていない単行本2冊まで買って、第三部まで一気に読みました。これまでの村上春樹の長編の中で、いちばん良かったです。

 『1Q84』はすぐれた芸術作品だと思います。すぐれた芸術作品は、それ自体が一つの世界になっています。解説や批評の枠の中に収めきれません。ちょうど、一人の人間をほんとうに理解したときのように。
 解説も批評もする気はないのですが、『1Q84』で私が刺激されたことを少し。

 70年代の終わり頃のことでした。私は東京の喫茶店にいました。店内BGMに、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」がかかっていました。ガールフレンドが、
「この歌詞は、一度入ったら出られないホテルのことを言っているの」
と言いました。
 私はぽつりと、「一度入ったら出られないものって、たくさんあるよ」
 と言い、彼女が深くわかったような顔をしました。

 私はそのころ、なんとか自由になろうともがいていました。会社勤めが苦痛だったけれど、まだ終身雇用制が全盛の時代です。どうしようか、悶々としていました。
 その後、エイヤと会社を辞めました。自分がやってみたいことに身を任せよう。
 しかし、自由感はない。
 そうか、自分の内面の問題なのかといろいろ探求しました。生育歴からもたらされるもつれや、社会のいろいろな文化的強制力を、それなり見抜いたとは思います。入ったことすらわからないでいる扉がたくさんあります。
 しかし、自由感はない。
 自分のことにかまけてもだめだ。人のためになろう。そう思って、私塾を開き、不登校の子どもたちを援助しました。人間の奥には「叡智」としか呼びようのないものが流れていることも知りました。
 しかし、自由感はない。

 「一度入ったら出られないところがある。そこから出られるか?」
 これが、『1Q84』のメインテーマでした。それは私自身のテーマでした。私は、『1Q84』に深く入り込みました。

 『1Q84』は、連合赤軍事件とオウム真理教事件を下敷きにしています。下敷きにしていますが、過激派やカルト教団を詳しく描写するという手法は取りません。カルト教団らしきものは、外部からの調査の対象としてしか登場しません。

 『1Q84』はいわゆるカルト問題を取り上げているのですが、村上春樹はことさら洗脳の問題としては取り上げていません。そうではなくて、「別世界に入り込むとはどういうことか」という一人一人の問題にしているのです。

 そこが村上春樹のすごさだと思います。
 これを”洗脳”の問題としてとりあげたら、洗脳をする悪い人とその被害者という善悪の問題になります。しかし、村上春樹は、過激派やカルトの問題を、善悪の問題として片付けたくなかったのでしょう。誰か悪人のせいにしてすむことではない。もっと深く、一人一人の人間の心の問題ではないかと。
「別世界に入り込んでいった人たちがいた。その人たちは、どのようにその世界に入ったのか」
「なぜそこから出られなかったのか」
を入念に描こうとするのです。

 思想統制の恐ろしさをとりあげたジョージ・オーウェルの小説『1984年』には、ビッグ・ブラザーという独裁者がいます。『1Q84』にも、「リーダー」というカルト教祖がいます。ところがこの「リーダー」は、リトル・ピープルという善か悪かもわからない得体のしれない小人たちに支配されています。「リーダー」は、自身も耐えがたい苦痛を抱え、自分の死を願っています。彼は暗殺者を迎え入れ、自分を殺させます。

 ビッグ・ブラザーではなく、リトル・ピープル。

 一人の凶悪な人間が仕組んでいるのではないのです。
 このリトル・ピープルたちは、善悪不明、正体不明です。正体不明のまま、物語は終わります。おそらく人間とはまったく違う次元の生き物で、ただ彼らの世界を生きているだけらしい、ということが暗示されています。

 『1Q84』には、カルト問題とは直接に関係ないサブストーリーがたくさんあります。そして、サブストーリーは、
「はじめは荒唐無稽に見えても、だんだん現実と感じられる」
「いったん別な世界に入ると、そこを出るのは難しい」
というメロディーを、さまざまに形を変えながら奏でています。

 もし、「カルトは悪だ」という結論に導くならば、それはまた別な単純思考とバッシングに行き着いてしまいます。だから村上春樹は、直接にカルトの悪を訴えない。われわれは社会のいろいろなフィクションにこのように入り込んでしまうのだ、というプロセスを入念に示すのです。

 はじめは、つたない空想物語だった「空気さなぎ」が、ついには1Q84の世界での現実になってしまいます。
 主人公天吾の父親が、NHKの集金人になりきってしまい、死の床でまで支払いの督促をしています。
 もう一人の主人公青豆が、だんだんプロフェッショナルな殺し屋になっていきます。
 そのような登場人物達のストーリーがあります。

 そして、読者一人一人に村上春樹が提示するストーリーがあります。それは「この小説世界をあなたはだんだん現実と感じて受け入れますね。それと同じように、あなたは社会のフィクションをたくさん受け入れているのではありませんか」と言っているように思えます。

 もう一つ『1Q84』が、盛りだくさんなエンターテインメントであり、焦点を絞れるようで絞れないことにも大きな印象を受けました。たくさんの視点を重層させることによって、「世界は、単純な結論では捉えきれないのではないですか」という問いかけをしているのです。

 そして、このように結論を嫌う構造になっているにも関わらず、『1Q84』の第3部は、「脱出可能である」という1点にまとまっていきます。

「この社会のフィクションから、脱出することは可能だ」

 
 その通り、可能です。
 最近になって、自分が思考によって自分をコントロールすることそのものが牢獄なのだということを感じ取れてきて、いささかは自由の空気を吸っているところです。

 人間性全体の中での思考の役割を見抜くこと。
 教育では、それが大事なのです。そうでないと、頭でっかちや、独善を育ててしまうのです。
 自由な人間であるためには、自由であろうと思うだけではどうにもなりません。教育の手助けが必要です。人間に結論を復唱させ、条件反射を創り出そうとする教育が、人間の自由を奪うのです。そこから脱出しようとしても、こんどは別な結論にがんじがらめにされてしまうので、別な穴に落ち込んで抜け出せなくなってしまうのです。

 村上春樹自身の言葉:
「僕が今、一番恐ろしいと思うのは特定の主義主張による『精神的な囲い込み』のようなものです。多くの人は枠組みが必要で、それがなくなってしまう と耐えられない。オウム真理教は極端な例だけど、いろんな檻というか囲い込みがあって、そこに入ってしまうと下手すると抜けられなくなる」
「物語というのは、そういう『精神的な囲い込み』に対抗するものでなくてはいけない。目に見えることじゃないから難しいけど、いい物語は人の心を深く広くする。深く広い心というのは狭いところには入りたがらないものなんです」

 私は、現在の教育が、人間性からあまりに離れたところに入り込んでしまったと感じています。
 索漠感や苦痛が、かえって「人間を鍛える」ものとして称揚される不思議な世界にわれわれは入り込んでいます。
 点数を稼げる人間になりなさいと、『精神的な囲い込み』がなされています。
 それは、だれか極悪人がいるためではなく、すべての人が制度の奴隷になり、それがなくなると耐えられなくなっているためです。

 しかし、
 「脱出可能である」
 と私は本気で考えています。それは手の届くところにあります。
 シュタイナー教育やモンテッソーリ教育などで代表される、試験で追い立てない教育はたくさん開発され、成果を実証されています。競争入試に依存せずに、1国の教育水準を高く保っている国もあります。

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入試による教育水準コントロールへの疑問

 春は高校別の大学入学者発表の季節です。週刊誌が売り物にしています。

 これがまた、実質的な高校ランキングとなっています。東大を頂点とする有名大学に何人入ったかがたいへん重要なのです。有名大学合格者数が増えたか減ったかで、自分のところの教育方針を考える学校も教育委員会も多いでしょう。

 よく、思うんです。どこかの高校が東大入学者を一人増やせば、どこかの高校が一人減らしているわけでしょう。これは、ただのゼロサムゲームです。お互いの奪い合いをしているだけ。どこかが伸びれば、どこかが凋落します。

 全体の教育水準が上がったのか下がったのか、ということとは関係ありません。自分の学校のことしか考えていないんです。

 日本の教育の質をコントロールしているのは、実はこの高校ランキングです。そしてランクの高い高校に入ろうとする競争があることで、中学の教育もコントロールされています。
 日本は学校査察があるわけではありませんし、生徒や保護者の参加による質の保証があるわけでもありません。大学入学者数がコントロールしているんです。

 でも、競争で人を評価していると、劣者は動機を失います。たくさんの人がやる気を失うんです。

 人がやる気を持つのは、自分のことを理解し、認めてくれる人がいるときです。教育に限らず、どんな分野でもそうです。どんな学力の生徒であっても、自分というものを理解し認めてもらっていれば、学ぼうとします。
 ところが、競争によるコントロールは、認められない生徒達をたくさん生み出してしまいます。現在、教育の舵取りをする立場にいる人たちの多くは、受験競争の勝者たちです。一部のランクの高い学校ばかり見ていて、全部をそうすればいいのにと思っているようです。競争の中では、それは不可能です。

 マネーゲームに支配された経済では、ほうっておくと貧富の格差が大きくなって、けっきょく全体の経済水準が落ちてしまいます。ひどいと、暴動や内乱にゆきつきます。
 いま、教育でそれをやっているのだと思います。

 教育内容も、入試問題で高得点を取ることにどんどん特化してしまい、「人を育てる」という本来の目的から、どんどんはずれていきます。

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集中力ではなく

 J.クリシュナムルティという哲学者がいます。この人の教育思想に基づいたクリシュナムルティ・スクールが、インド、アメリカ、イギリスに6校あります。

 クリシュナムルティ教育が、他の教育と異なる大きな特徴があります。
 それは、「集中力」(concentration)ではなくて、「気がついていること」(awareness)、をもっとも重要なものとしていることです。
 「気がついていること」が発揮されている場合、焦点となるものが特になく、外界内界をとわず、起こっていることすべてに気がついています。このとき、「英知」が働き出します。「英知」は、生きることの全体性から生まれるもので、特定のパターンに従うことではありません。

 通常、教育あるいは学びと呼ばれているものは、なにかに集中し、それに習熟することをいいます。このとき、意識が絞り込まれ、気がつかないことがたくさんできてしまう。そのため、個人は大きな不幸を背負い込むし、社会には葛藤が絶えなくなります。
 例を挙げれば、集中力で勉強して有名大学に入ったが、自分が競争意識に支配された俗物であることに気づかない、そんなようなことです。
 われわれの存在全体の一部に過ぎないものがわれわれを支配すると、われわれは愚かになる。単に数多くの課目を頭に詰め込むような教育をしてはいけない。それがクリシュナムルティの主張です。

 日本は、老荘思想の影響や、仏教の「空」や「悟り」についての理解がある程度はありますので、「アウェアネスが大事なのだ」というクリシュナムルティの主張は、比較的理解しやすいだろうと思います。

 しかし、クリシュナムルティ・スクールが「悟り」を目指す学校かというとそうではなく、学問を教えることが中心になっています。この現実の中で幸福に賢く生きることが大事であり、そのために、感受性と、客観的な観察と思考を育てようとしています。

 クリシュナムルティ教育は、特定のカリキュラムや教育方法を持ちません。しかし教師に対して、十分な自己知を持っていることが要求されます。自分の文化的制約、先入観などについて気付いていること、授業中に何が起こっているのか、生徒はどのような状態なのか、あるがままに知ることが大事なのです。そのような教師とともにあることで、生徒が触発されていきます。

 クリシュナムルティ自身の著作から引用します。

 わたしたちの大半は、集中するとはいかなることなのかを学びます。つまり、子どもの頃から何かに集中することを強いられているのですが、一般的に、わたしたちはそうすることが好きだとは思っていません。そのため、嫌いなことを無理強いさせられることに対してある種の反発を覚えるようになります。

 あなたは何のために教育を受けるのでしょう? あなたは一人の人間として、どんな存在になろうとしているのでしょうか? 今日においては、もっとも高度な政治組織から洗練を極めた宗教制度に至るまで、いずれも凡庸さに支配されています。あなたが教育を受けるのは、こうしたパターンに適合するためでしょうか? 情熱をまったくもたない、自分自身や周囲の世界との葛藤を抱えるような凡庸な人間になろうとしているのでしょうか。

(「アートとしての教育」 41注意深さ より)

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ニセの適応、ニセの自主性、ニセの学力

 小学生のとき、恥ずかしかったのが、先生の前だと「良い子」になる子たちでした。見ているだけで、私のほうが恥ずかしくなって、ジタバタしたくなるような気分になるのです。
 先生も親も、それが見抜けないのです。
 今となれば、そういう子にこそ愛情が必要だと知っています。でも、子どものときは、そこまでわからない。

 「良い子」だけではありません。学校は、作り物がまかり通るところでした。

  ニセの適応。 クラスの中にいても、問題さえ起こさなければ、適応できていることになります。後年、集団生活に疲れやすく息切れします。 

  ニセの自主性。 課題を与えられて、それをやったら自主的ということになります。後年、自分が何をしたいのかわからなくなります。

  ニセの学力。 丸覚えでも、あてづっぽうでも、点数を取らなければならないのです。後年、物事への洞察力が不足します。

 ホンモノの部分ももちろん形成されています。しかし、ニセモノが学校のフィルターにはひっかからないで素通りするのです。それどころか、むしろ、子どもが表面だけツジツマを合わせてニセモノになることが、称揚されています。

 どうしてそういうことになるのかなあ、と大人になってから改めて考えました。先生個々人や、個々の学校のせいではなさそうです。

 やはり学校が、「お役目」を遂行するだけの官僚組織であることに行き着くと思います。官僚制組織の中では、結果は、客観的なものでなければならないのですから。ニセでもいい、指標をクリヤーさせるところなのです。

 ニセモノが横行することを、学校のせいだけにしては申し訳ないと思います。でも、学校は「なにがほんとうのことか」を伝えるのに、いちばん希望を持てるところのはずです。利害や、力関係で動機づけることなら、家庭でも地域でもできることです。
 

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子どもが無力感を持つとき

 子どもが、すさんだ感じになるのは、家庭のせいでしょうか、学校のせいでしょうか?
 それはケースバイケースで、家庭も学校もどちらも影響しているとしか言いようがないのですが、しかし、子どもの無力感に関しては、学校の責任のほうが大きいと思います。

 先生たちが専門知識に閉じこもって、知識や技能を伝授する立場になると、子どもたちは自分たちが劣った人間だと感じるようになるのです。必死に先生の意に沿おうとし、それができないとなげやりになります。

 子どもたちが必要としているのは、まず、自分が十分な配慮の元に置かれ、関心を持ってもらっているという感覚です。それなしに「できたか、できないか」を迫るような教育をしますと、かなりの割合の子どもたちが無力感を持ちます。

 無力感を持った子どもから、いろいろな困った行動が出てきます。
 多いのが、人をバカにしたり、欠点をあげつらったりする言葉が多くなることです。これは、他の子を傷つけ、その子自身を孤立させます。
 もっと直接に、いじめに走ることもあります。
 自分は劣っているからだと、劣等感の泥沼に沈む場合もあります。

 なんだか落ち着かなくなり、ワーワーキャーキャーしていることもあります。強い子だと、授業の流れを妨げて、やらされなくてもいいようにします。
 それが押さえつけられると、白日夢にふけるようになります。
 気が弱くなって、自分の判断をしなくなって、誰かに頼ってばかりいることもあります。

 そういう現象が現れると、学校関係者は、「家庭でもっとちゃんとしつけてもらわないと、私たちにはどうしようもない」と考える方向にいきがちです。
 もちろん、家庭の問題もあります。
 しかし、子どもの無力感が学校で生じている場合は、学校に第一の責任があると思います。

 法律の強制力に依拠して子どもを集め、教室内に長時間座らせ、賞罰で動機付け、集団行動を取らせ、できれは「エラい」できなければ「頑張りましょう」。

 この教育方法そのものが内蔵する欠陥があります。それは子どもが無力感にさいなまれるようになりやすい、ということです。
 比較対象がないとなかなかそれが見えにくいのですが、シュタイナー教育、モンテッソーリ教育、サドベリータイプ校とかいった「人間性教育」と比較すると、何が問題点なのか、よく見えてきます。

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官僚制に冒された教育

 この3日ほど、食品中の放射性物質を測定するのに熱中していました。専用の器械は200万円くらいからです。それを約50万円の投資でなんとかしようと、工夫し、数式と格闘し、どうやら使い物になる方式を作りました。4月からの国の基準である100ベクレル/kgでも確実に検出できます。楽しかった。

 学びって、これなんだよな、と思いました。熱中する、工夫する、調べまくる。それは楽しいのです。今回、たまたまうまく結果が出ました。でも、失敗したかもしれない。それでも、自分が学べるものはたくさんあります。長らく文系の仕事をしていたので、標準偏差と誤差の問題など、大学時代にサボッたのを改めて学習できました。

 教育って、学びって、なに? ほんとうに何かを学べたときって、どういうときでしたか?
 先生がいる場合もある、いない場合もある。でも、とにかく自分が関心を持っていないことには学びはない。

 それを考えると、学校でやっていることって、無駄なこと、非効率なことがすごく多いと思います。

 なぜ?
 現状の学校は、官僚制に取り込まれた教育です。たいへん形式的になっている。

 教育を受けることが、学校に出席することに置き換えられている。
 先生が授業をすれば、教育が為されたことにされる。
 教室の椅子に座っていれば、教育されたことになる。
 習得したかどうかが、点数を取れるかどうかになっている。理解なしの丸暗記でも小手先のテクニックでもかまわない。

 現在の学校は、巨大な官僚機構の末端に位置しています。官僚制は、文書化と客観性を求めます。したがって、教育は、文書化できる客観的な結果を出すことを目的とするようになります。
 

 でもね、そうじゃなくてね、教育ってもっと柔軟だし、自由なものじゃないでしょうか。
 教育はすごく個人個人の内面に根ざしたものなんです。結果を文書や数値にできるものなんて、ほんの一部。そのほんの一部が自己目的になっているから、出席と点数が一人歩きします。



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生きるのに必要なこと

 新しい教育・子育ての文化が必要だと思います。
 昨日、小さな講演をしたときにしゃべったこと。少しプラスアルファしています。

 生きるのにほんとうに必要なことは何か。それは、われわれがほんとうに追い詰められたときに力になるのは何かを考えればいいです。

 一つ目は、心を通わせられる人。家族でも、友人でも、恋人でもいい、自分というものをわかってくれる人がいると生きられる。

 二つ目は、自然。自然は、大きな力を持っています。

 三つ目は、芸術。ほんとうに苦しいとき、われわれは、お気に入りの音楽に聞き入ります。

 四つ目として、自分の身体との調和。心が苦しいとき、手仕事や肉体作業に打ち込む人たちがいます。スポーツをする人もいます。知恵と呼ばれるものの半分は、身体に宿っています。

 教育の基盤も、これらに置くべきです。思考には思考の役割がありますが、15歳くらいまでの教育は、思考中心とすべきではありません。
 これらの基盤ができていれば、思考も生きたものになりますし、生涯にわたって学び続けることができます。

 それに比べて、思考にできることは小さいです。考えで解決することも多いのですが、ちょっと考えても解決しないことは、いくら考えても解決せず、堂々巡りします。われわれは、既に知っていることしか考えることができません。

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受験勉強が嫌いだった

 大学受験。
 自分にとっては40年以上も前のことになります。

 受験勉強が嫌いだった。ほんとに、ほんとに、嫌いだった。理屈抜き。

 学びというのはあらゆる不純な動機づけを見抜くことそのものである。プレッシャーによる学びに屈することは、真実を求める心の自殺である。なんて今だったらカッコよく言うんですけど、17歳や18歳ではなにがなにやらわかりません。
 勉強していると遊びが気になる、遊んでいると勉強が気になる。最悪ですね。

 大学受験は、徴兵制の一種なのだと思っていました。でも、脱走する勇気はなかった。
 親が勉強にうるさかったら反抗できたかもしれないけれど、親は成績のよい息子が嬉しいだけだから、私は期待に応えてしまう。
 ほんとうに、進学しか価値観のない時代でもありました。

 でも勉強は嫌いだから、「難しいところに入ってみせりゃ、それでいいんでしょ」
 それだけになってしまいました。

 東大に入るつもりだったら、学生争乱のためにその年の東大入試がなくなってしまい、京大に行きました。別になんの勉強がしたかったわけでもない。どうせ、自分の人生なんか持ちようがないのさ、みたいに精神的にグレています。

 グレると、ろくなことがないですね。
 70年の学園紛争のまっただ中でした。一切の既存の価値観を疑おう、ということには賛同できました。どんな権威も認めなくなった。そうしたら、授業は理解できなくなり、失恋し、学生運動に巻き込まれ、いつも不安の塊。付き合っている仲間が全共闘派だから、仲間とつきあっていたい一心で革命用語を覚える。いろんな本を読みあさり、仲間に対してひけらかす。

 ほんとうは、愛されたかっただけなんですけどね。その正反対のことばかりする。

 学生時代に仲間に流されたのがいやだったから、もう集団に流されるまいと思いました。会社勤めしても、資本主義に染まってなるかと自分の思想を固めて突っ張った。そうしたら集団に入り込めない、いわゆる「空気読めない」になりました。
 6年近くも頑張った。でもつらくて、辞めました。

 ほんとうは怖くてしょうがなかっただけなのに、思想で固めて強いふりをする。そういう他人にはうんざりするけれど、自分でやってみないとその心境はわからないものです。頑張っているうちに、自分の心も他人の心も感じられないモンスターになるんです。

 会社を辞めてぶらぶらして、いわゆる自分探しをやります。生きることの充実はどこにあるのか。
 そんなの、探して見つかるようなものじゃありません。だって、生きるエネルギーは自己欺瞞がないところにやって来るんです。本に書いてあることや誰かの言ったことを真似していること自体が、空虚感や恐怖から逃げ回っているんです。

 そうこうしているうちに、親戚や知人の子どもの勉強を見るようになり、こちらは自然にうまくいきます。集団に入り込めないつらさを知っているもので、不登校の人たちを援助していたら、これもうまくいきます。いつのまにか、教育をやるようになっていました。失敗も多いけれど、教育だと原因究明に熱心になれます。どうも、天職だったみたいです。
 

 いま、痛切に思います。

 自分の気持ちがわからなくなると、高くつく。最初は、気持ちを偽っていることがわかっていても、やっているうちに偽っていることがわからなくなる。
 生きていくのにもっとも大事なことは、自己欺瞞がないことです。自分の行為の動機に気付いていることです。それが叡智というものです。

 でも、それを助けてくれる教育には出会えなかった。動機を一切不問にして、とにかくこれをマスターしろという教育ばかりだった。他人と比較したり、うわべだけ取り繕うことを教える教育ばかりだった。
 全部を教育のせいにしてはいけません、自分のせいも半分です。でも、教育のせいも半分だぞ、なんてことしてくれやがった、と思います。

 シュタイナー教育のように感受性を大事にする教育とか、サドベリータイプのように自由を尊重する教育とか、自分の十代がそういう教育だったら、こんなに苦しまなくて済んだでしょう。そのように人間性を大事にする教育を受けていたら、なにかしら才能を発揮する人生になっていたでしょう。それはさぞかし気持ちよかったろう。

 ああ、でも、と思います。
 反抗、孤立、欺瞞、執着、そういうものをもうコリゴリだというところまで生ききり、その不毛を見抜くこと。そこから湧いてくる澄んだ感じと喜び。こればかりは、バカなことをやらないことには、やってきません。こういう人生だったのかねえ、それもいいねと思います。

 しかしやっぱり、人生の躓きの石はどこにでもあるものでして、教育でわざわざ転ばせるようなことをしてはいけない。教育は、人間性そのものをいつも見据えていないといけないと思うのです。

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聞くアート

 学びの本質的な部分に「聞くアート」があります。
 いまから思うと、子どものころの私は、すごいアートを身につけていたのだと思います。でも、そのときは気がつきませんでした。
 「聞くアート」を身につけていれば、一を聞いて、三も四も知ることができるのです。しゃべっている相手の人格、感情、思想的バックグラウンドまでみんな入ってきます。

 そのとき、自分の意識を、まったく相手の話しに明け渡してしまっています。相手の人が私の意識の中で生きているのです。私は、何も考えません。
 でも、相手の話が終わったら、私はたちまち「自分の意見はこうだ」と言うことができるのです。私は私、相手は相手、あたりまえです。

 いまは、たいしたことないです。
 私は、会合などで人の話をよく聞いていません。はっと気がつくと、自分の考え事をしてしまっているのがしょっちゅうです。その間に、他の人がしゃべっていたことは、聞いていないのです。

 高校生くらいまでは、そうじゃなかったです。誰の言うことでも、全身全霊で聞いていました。そうしたら、お勉強は全然苦労がなくて、授業を聞いていればいい成績を取っていられました。教師のしゃべることなんか、最初の少しを聞けば、だいたい何をしゃべるか予想がつきますし、実際にしゃべったときは「ああ、やっぱり予想通りだ」と復習をしているようなものです。
 友達との会話も、臨機応変で、ユーモアと機転が利いていました。

 なつかしいなあ、あの頃。
 まだ、心が不安と恐怖に覆われていなかったとき。

 大学生になってから、変わってしまいました。時代が時代でして、大学紛争の真っ最中。ほんとうに石や火炎瓶が飛び交っているのです。そこで、学生運動に巻き込まれたり、失恋したりして、自分が置かれた立場もなにがなにやらわからない。人間関係が安心できない。授業中にさっぱり聞いていない。当然、授業はさっぱりわからない。

 会社勤めしたときは、もっと自分の殻を作っていました。「会社に巻き込まれずに、自分でいる」という生き方を貫こうとしたのだけれど、自分はさほど強い人間でもなく、ストレスばかり大きい。学生時代は、友人たちの話は聞けていたけれど、会社員のときは、それすらも困難。主義主張の合う人間と、主義主張の話でだけ会話できる。

 そんなとき、人の話をきいていないですねえ。とうぜん、仕事のミスは多い。孤独感はつのる。ほんとうは自分はすごいんだと信じているけど、嫌われないようにそのことを隠している。いっそう孤独がつのる。

 その体験があったもので、人の話を聞けない子どもたち、お勉強がわからない子どもたち、落ちこぼれる子どもたちの立場は、こういうことなんだろうと見当がつくようになりました。できない子どもほどに親切を尽くす。そうすると、いい結果が出るんです。

 「聞くアート」が身につけられないのは、不安と恐怖のため。
 われわれの文化全体が、不安と恐怖から逃げ回るためにできているようなものだし。

 もちろん、物事はそんなに単純ではなくて、いろんな要因があります。でも、不安と恐怖があるために「おきまりの考え事回路」ができて、それが学びの邪魔になっているというのが、よくあるパターンです。大人たちの理解力がないのは、たいていその「おきまりの考え事回路」のせいじゃないですか。それは「自我」と呼ばれたりしますけれど。

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子ども時代の重要性

 子どものときの体験は無意識の領域に沈みこんで、裏から影響していると思われています。私には、そうだとは思えません。

 子ども時代は、いま私の中に生きていて、いま私を支えているのです。

 子ども時代の私がいま私の中で生きていなかったら、私は鬱病みたいになってしまうでしょう。私は、すべてどういうことであるかわかっています。なんでも説明できますし、何をしたらいいかもわかります。でも、私は「わかっているけど、どうしようもないんだ」とつぶやいたまま、部屋の中でごろごろしているでしょう。何の意欲も好奇心もなく、「こうすれば意欲が湧くだろうか」と、他人の生き方を真似したり、生き方の本に書いてあることを試し、得るところなくまた部屋の中でごろごろするでしょう。

 子ども時代が無意識になってしまうのは、言語化された部分だけを自分だと思っているからです。
 しかし、何を自分と感じるかは、すごく柔軟で伸縮性のあるものです。
 日々の生命感覚、肉体からのさまざまな訴え、物音や静けさ、そういうものに意識が届いていれば、それがまさに子ども時代に培われ、今も自分の中で生きているものであり、生きていることのもっとも重要な部分であることを発見できます。

 不注意な教育によって、われわれは、分析し結論を出し、自分を言葉で指揮して生きるようになっています。教育だけではありません、われわれが接する人たち、本やTVで出会う人たちがみなそうなのです。
 そのとき、自分の中の子どもは、意識の光が届かず、忘れられ、しおれています。ときたま、暴れます。

 子ども時代を忘れた文化。
 それが、個人の不幸の源泉であり、搾取や戦争の源泉でもあると思います。

 子ども時代は、重要なものです。
 私たちの中を探求することから、自分の中の子ども時代を見つけ、現実の子どもたちとよい関係を持つこともできます。逆に、現実の子どもと通じ合うことから、私たちの中の子ども時代を見つけていくこともできます。

 子ども時代の重要性を見つけたとき、われわれは、言葉で自分や他人を指揮しようとする戦いから解放され、自分の目と自分の手で創造的な社会を作っていくでしょう。

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人間の中で育つもの

 またまた、更新の間をあけてしまいすみません。例によって、多忙と体調不良です。

 子どもが成長するとき、「ぼくはこうなろうと思う。なれた」というように、育っていくでしょうか。

 明らかに違います。
 ある日、なにか新しいものが自分の中に芽生えているのです。なにか、新しい意欲が湧いてくるのです。

 それは、もちろん教育の結果でもあります。しかし、直接に覚えたものの結果ではありません。
 新しいものは、朝起きたときに芽生えています。

 眠りはたいへん重要なものです。眠っているときに、前日に体験されたことが消化され、新しい統合が生まれてきます。それは、生きている全身全霊が体験したことが、眠りの中で深い叡智と出会い、新たな統合を産み出しているのです。

 人間の成長の中で起こっていることは、教えられたことをいかにこなしているかではないのです。いかに頑張って結果を出すかとは、ほんの小さな部分にすぎないのです。

 この事実に気がつくなら、教育というのは学習指導要領をこなすことではなく、人間が成長することそのものに畏敬の念を持ち協力することであることがわかります。

 そう言っただけでは抽象的です。
 具体的な道として、シュタイナー教育、モンテッソーリ教育、フレネ教育、デモクラティック・スクールといった教育法が、子どもはどのようなものであるか、子どもがどのように学び成長するかについて、いろいろな知恵と知識を蓄えています。
 これらの教育を解禁して、選ぼうとすれば選べるよう人々の選択肢の中に加えることが、たいへん重要だと思います。

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キョロキョロすること

 だれでも、考えごとにふけって、心ここにあらずという状態になっていることがありますね。
「あいつにあんなことを言われたけれど、その本心はこういうことだろう」、
「あしたの発表は、こう言おうか、ああ言おうか」
というようなことを考えていて、周りの物音も聞こえないし、周りの状況も最低限しか見ていない状態です。

 そういうとき、目は何を見ていますか。

 目をつぶっていますか。

 そうではないはずです。
 もし、自分が考えにふけっているとき、目が何を見ているかに注意できたら、視点がひんぱんに動いていることを発見されると思います。0.1秒くらいの単位で、ひゅっ、ひゅっと見ているものが移動しています。
 視点が固定されると、見ているものに注意が行ってしまうので、思考にふけることができないのです。だから、ひんぱんに見ているものを変えているのです。

 この自己観察は簡単ではありません。観察しようとすると、思考にふけった状態ではなくなってしまうからです。でも、思考に入り込みかけたときなどに発見できると思います。

 そうしたら、授業中にキョロキョロしている子の状態が理解できるはずです。

 あの子たちは、あなたが考え事をしている時の、あの状態にいるのです。

 考え事にふけるのはどういうときでしょうか。怖いことや心配なことがあるときですね。考えている内容は、いろいろです。過去の出来事を反芻していることもあります。おもしろかったテレビドラマのことかもしれません。とにかく、考えているときは、怖いことや心配なことを感じなくてすむのです。

 授業中にキョロキョロしている子は、だめな子、いけない子ではないのです。彼らは、恐怖、不安、から逃れようと必死になっている状態なのです。体調不良のこともあります。
 そうとわかれば、その子を責めなくなるはずです。その子の恐怖や不安を取り除くにはどうしたらよいかを、観察し、研究するようになるはずです。 

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危機の時代だからこそ

 私は、政治にも経済にもいつも興味津々です。思うことは多いです。でも、人間が結論を覚え込んでは自分や他人を指揮しているかぎり、人間は孤独であり、傷つきやすく、戦いから抜け出せないでしょう。そういう人間たちが社会改革をしても、暴力や欺瞞にとりつかれるでしょう。
 そこをなんとかできるのは、教育だけです。教育だけが希望だと思って、政治経済にはほとんど触れずに、教育で発言しています。

 なのですが、今の世界状況は危機的だと思います。

 ギリシャの国債問題に発した欧州の経済危機は、不良債権の誘爆をつぎつぎと起こして、世界的金融恐慌にまで発展しそうです。各国政府も中央銀行も、リーマンショックのときに全力出動したので、救済する余力は大きくない。

 イスラエルとイランがいつ戦争勃発となってもおかしくありません。この戦争が起きたら、核兵器が使われそうです。おそろしいことになるかもしれません。
 世界には、他にも紛争の火種だらけです。

 2012年は、激動の年になると思います。世の中は騒がしくなるでしょう。

 そう言っているからといって、警鐘を鳴らしたいのではありません。

 「だからどうした」、を改めて言いたいのです。

 恐慌も戦争も、社会の慢性病が症状となって吹き出すだけです。その時になって「けしからん」と騒いでも手遅れです。
 恐慌? 戦争? だからどうした。
 

 それより、なにが根源的なのか、です。第一次大戦、第二次大戦であれだけ懲りたのに、人類はまだ搾取と戦争をやめない。

 教育だけが希望を持っています。
 人間自体が深く変容しないといけない。

 理解力に富み、愛に満ちた次世代を育てることです。子どもが欺瞞を見抜く目を大事にすることです。教育さえしっかりしていれば、どんな廃墟からでも立ち上がれます。30年後は、かえって明るいのです。

 子どもたちの野心をかき立て、賞罰で誘導し、競争で走らせる教育をやめましょう。教育を人材養成だと考えるのをやめましょう。教育とは、子どもたちといっしょに、世界の驚異と美に目を見張り、幸せに生きる道を発見することです。
 平和を教えても、平和は訪れない。平和に教えたときだけ、平和がやってきます。

 迂遠だって? 
 いえいえ、とんでもない。唯一の道です。

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子どもは現在に生きている

 けさ起きて、すべてが美しく、新鮮でした。そういう日があるものです。
 壁の木目がおもしろくて、模様をたどりたくなりました。床の上のゴミを拾うだけで楽しく過ごせそうです。
 あ、これが子ども時代の気分だ。そのことを思いだしました。

 何かをせねばが先にあるのではなく、世界が美と驚異に満ちているから世界と戯れる。気がついたときには、なにかをいじっている。

 計画や目標が先にあるのではなくて、事物が先にあるのです。
 

 そう言うと、注意力欠陥障害みたいに自分の置かれた立場がわからないことを思い浮かべてしまうかもしれません。でも、実際の私は大人です。きょう、しなければならないことは知っています。
 大人としての責務を持って生きることと、この世界が美と驚異に満ちていると感じられることは両立できるのです。

 月並みな言い方ですけれど、頭とハートが調和していること。自分の言葉の部分が、他の部分をいつも命令指揮している関係ではないこと。自分の命令に従うロボットではないこと。

 それが教育の目指すところだと思います。

 子どもは現在に生きています。
 そして、現在だけが実在なのです。人間としての充実を感じられる感覚や感情は、すべて現在にだけあります。思考だけが、過去や未来に入り込んで行きます。でも、過去も未来も、素材は記憶と思考でできています。
 過去や未来で生きると、生きることの大事な部分が抜け落ち、美と驚異が見えなくなるのです。

 それなのに、今の教育は、思考ばかりに重点を置き、外部から与えられた目標に従って行動させることにばかり目がいきます。

 思考には思考の、しかるべき役割があります。
 それが見えている人がカリキュラムを作り、教育法を編み出し、子どもと接することです。それがすごく大事なことなんですね。人間全体として生きている人間が、人間全体としての子どもと接する。教育は、そういう関係の中から、いつも生まれ出るものです。

 教育を、官僚機構が管理してはいけない。官僚機構というのは、「決められたことをきちんとやる」ためにある組織なんです。精神の躍動を支援するには向かないのです。学校をお役所にしてはいけない。教育は、教育を実際にやっている人たちから生まれるようにしないといけない。教育が責任をとる対象は、こどもと保護者です。官僚機構ではない。

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大阪市教委と橋下市政

 大阪市の教育長が、大阪市長選挙で橋下氏が当選したあと、教職員の発言を「指導監督」するようにという通知を、校長や園長宛に出しました。
 教職員のどんな「不見識」の例があったのかは知りませんが、この通知はもっとまずいと思います。教職員一般の、橋下市政に対する批判封じとして働くからです。政治的には、大阪市教委が橋下市政への恭順の意を表した、と読めます。教育委員会は、教育を政治から独立させるための機関のはずです。

 批判の自由は大事なことです。自由に批判させる度量のないところは、問題のあるところが多い。
 大阪府教育基本条例が提出されている現在、当事者である教職員に自由に発言してもらわないと、現場の実情と意見がどうなのかがわかりません。「日教組が....」と言う人たちもいますが、大阪府の日教組組織率は20%くらいです。
 
 

 通知はつぎのようなものです。

教委校(全)第83号
平成23年12月28日
各 校園長 様
教 育 長

民意、選挙、公選首長と公務員、行政と政治についての基本認識の徹底について

去る11月27日の大阪市長選挙の後、本市職員が報道各社からの取材を受ける機会が多数生じておりますが、その際の本市職員の不見識な発言について、市民から厳しいご意見を頂戴しているところです。
本市の政策方針は市民の総意によって選挙で選ばれた市長及び議会が各々その権限を行使することにより決定されるものであり、また、市長は本市を統括し、代表するものです。
公務員である以上、これらのことを十分理解しなければならず、これに反する軽率な行為は、社会通念上も極めて不見識と評価され、本市の信用失墜に繋がるものであることから、厳に慎まなければなりません。
ついては、軽率な意見の表明や行動により本市行政に対する市民の信頼を損なう事態を招くことのないよう万全を期すため、校園長におかれましては、教職員一人ひとりに対し周知徹底を図っていただくとともに、指導監督に一層努めていただきますよう要請します。

(資料)
http://blog.goo.ne.jp/kimigayo-iran/e/86d1f087534c17941d200d0ab47965d4

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教育委員会の政治的中立と民意反映

 教育は、政治から中立でなければなりません。
 なおかつ、教育は、民意を反映しなければいけません。

 だからどうするかというと、政治とは別に、教育のための自治組織を作ります。それが、自然ですよね。

 教育委員会というのは、その教育のためだけの自治組織なんです。....もともとは。

 発祥の地アメリカでは、教育委員は住民によって公選されます。
 民意に基づいて選ばれた教育委員ですから、知事や市長にも指揮されない。それによって、政治介入を防いでいます。

 日本では、1948年にアメリカ型の教育委員会制度ができました。ところがこの制度の意味も理解されないうちに、1956年に教育委員の公選制をやめました。

 そのときに、「民意を反映しない教育委員会」という不思議な組織ができたんです。だもので、教育にいろいろ問題があっても、とにかく対応がよろしくない。

 そこで、大阪府教育基本条例みたいに、権限を首長部局に移そうとする動きができてきます。

 しかし、大阪府教育基本条例は危険だと思います。こんどは、教育が政治から中立でなくなってしまいます。橋下ブームみたいなのに、教育が巻き込まれてはいけない。

 教育行政は、政治から中立で、なおかつ民意を反映していないといけないのです。

 どうしたらいいかというと、方法が二つあります。

 1 教育委員を公選制に戻す。

 2 教育委員会を解体して、学校単位で自治組織を作る。学校ごとの協議会に校長任命権を渡す。

 どちらも外国に例があります。どちらでもいいのですが、教育というのは、親と学校のきめ細かい協力関係があるようにするのがいい。2の学校自治の方向に行くべきだと思っています。

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祈り

子どもたちが、罵声を浴びることなく育ちますように。

子どもたちが、怯えることなく育ちますように。

子どもたちが、他人と比較されずに育ちますように。

子どもたちが、どんな種類の兵士にもされませんように。

子どもたちにとって、世界が理解可能なものでありますように。

愛と理性が、つねに子どもを取り囲みますように。

 

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知識・技能とその人自身

 教育の最大問題は、どんな知識・技能を持っているかではなく、知識・技能とその人自身の関係なのだと思います。

 権威・権力によって知識・技能を注入されると、権威・権力をふるうために知識・技能を使うようになります。

 賞罰で誘導されると、自分のほんとうの動機がわからなくなって、目先の利害に果てしなく巻き込まれていきます。

 競争で誘導されると、他人に優越するために知識・技能を使います。うまくいかないと、嫉妬したり、劣等感にとらわれたりします。

 私たちは、このようなことで苦しんでいるのではないでしょうか。

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「学校教育法」について

 拙著「変えよう!日本の学校システム」で、さまざまな教育問題を生み出しているのは、「学校教育法」と「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」が創り出しているシステムにあるということを述べました。

 日本の学校の規格を定めているのが「学校教育法」という法律なのですが、これは1947年に制定されました。60年以上も前の法律です。

 「学校教育法」は、戦後、中学が義務化され、これから高等教育も普及させていこうという時代に、「国家主導で標準的教育を確立し普及させる」ための法律です。
 その時代の要請にはよく応えていたと思うのです。

 しかし、大きな問題を持っています。

1 ひとりひとりの人間、という視点が入っていません。

2 まずいことがあったときに、どのようにフィードバックするかの視点がありません。

3 教育は柔軟なものであり、新しい教育が湧き起こってくる余地を作っておかなければならない、という視点がありません。

 
 教育改革を考えるなら、「学校教育法」を徹底的に疑わなければいけないと思います。

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大阪府教育基本条例案って

 大阪府教育基本条例案って、
  http://osakanet.web.fc2.com/kyoikujorei.html

....凡庸だなあ。

人にやる気を起こさせるには、競争と賞罰を持ち込めばいいって思ってます。
それって、人間の品位を貶めます。競争と賞罰は、エゴを膨らまします。

まずいことがあったら、規則で取り締まればなんとかなると思ってます。
それは、人に働きかける力をもっていない人の夢想みたいなもの。規則に頼るほど、大組織病に蝕まれるのに。

けっこうな目標を掲げて、努力させればいいと思ってます。
だから学校は学びの場ではなくなって、学力生産工場になってしまう。

「教育行政に民意が十分に反映されなかった」は、その通りだと思いますが、教育が政治に牛耳られるのはもっと怖いです。校長や先生たちが政治家の顔色をうかがうようになってほしくない。

もっと、ちゃんとね、保護者と教員がいっしょになって学校を作れるようにするのがいいです。
保護者が校長を選ぶようにすると、もっとサービスがよくなりますよ。住民が市長を選ぶのとおなじでしょ。

それから、今の教育だけでなんとかしようとしないで、オルタナティブ教育を解禁するといい。トットちゃんの学校みたいなのが、どんどんできるといい。いまの学校は、規則で慣習でがんじがらめ。

政治家やお役人がおせっかいするほど、教育は悪くります。政治家や役人は、学ぶ権利を守るのが仕事。教育を指揮することじゃないです。

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テストはなぜするの

 テストはなんのためにするのですか?
 先生にそう尋ねますと、たいてい

 「理解を確実にするためだ」

 「できないところを見つけて、ちゃんと学習するためだ」

 という答えが返ってきます。

 ほんとうかなあ。ほんとにそのように使っているのかなあ?

 いちおう、算数・数学を念頭において考えます。
 できた子が、「この理解でよかった」と確認できるのはいいとしてです、できなかったときの対応が問題なのです。
 たいてい

 「頑張って、自分でやっておきなさい」

でしょ。
 それじゃ、だめだって。
 それが落ちこぼれの山を作る原因です。

 授業でもわからなかった子なんですよ、さらにテストで「できない」という実感を味合わせているのです。そこで先生が放り出してしまって、
「自分でやっておきなさい」

 それで、自習できるはずがないじゃないですか。落ちこぼれるだけです。
 

 テストをやったなら、そのフォロー体制ができてないといけない。これ、大事なことです。フォロー体制を作ってないなら、テストなんかするな。

 せっかく「何ができないのか」をみつけたわけでしょ。その子にあった指導やワークを提供できないといけない。それも、親切に、暖かく。

 そんなことをしているヒマが先生にないって?
 もちろんそれが現実です。テストのあとのフォローをやっていたら、教科書を終わらせることができません。教科書を終わらせなければ、保護者からも校長からもクレームがきます。

 だからしょうがないって?

 そこが、しょせんは官営学校であり、教育の配給制度なんです。与えられた教科書を教えるのが学校なんです。明治時代の感覚を、まだ引きずっています。そう法律で統制してしまったから、身動きできないのです。
 発想が逆です。いちばん大事なところで発想が逆だと思うんです。

 「この子はどういう子で、何を必要としているか」から出発しないといけない。そこから、授業方法もテキストも学校の体制も組み立てないといけない。
 根本的な教育革命が必要なんです。

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ある高校受験

 高校受験の、おもしろい経験談がありました。

 阿部俊郎という人のブログ「いまここ」

  母のこと http://abetoshiro.ti-da.net/e3254559.html

 彼は、中学2年生のときに、母親の日記を読んでしまった。母親は結婚して満州に渡ったのだが、終戦時に夫に先立たれ、3歳と生まれたばかりの子どもを抱えたまま避難民になった。子どもたちは衰弱して死に、葬ることすらできなかった。その後再婚して彼が生まれた。彼は、知らない兄姉がいたことを知り、自分は母親を幸せにするために生まれてきたのだと直感した。

 あるとき、その母が、遊んでばかりいる彼を見かねて、涙ながらに訴えた。「お願いだから勉強してほしい。」

 母のためならばと、彼は猛勉強をし、最難関校に合格した。

 いい話だと思います。
 人間、若いうちのどこかできっちりした勉強をするのは大事なことだと思います。

 ところが、こういう話を読むと、「そうか、誰だってその気になって勉強すれば、できるようになるんだ」とか、「うちの子に、この阿部さんの話を聞かせてみよう」というふうに受け取られることも多いだろうと思います。
 それはよくない。くれぐれも、真似をなさって我が子と阿部俊郎さんを比較なさらぬように、とついつい思うんです。

 中学の後半くらいから、急に勉強をして成績が急上昇する子は、たしかにいます。男の子に多いです。

 ところが、それには条件があります。
 その条件というのは、心から信頼できる人が誰でもいいからいることと、それまでよく遊び込んでいることなのです。信頼があると、知識や技能を受け止める中心があります。よく遊び込んでいるといろんな感覚も、自発性も十分に育っています。そこまで基盤ができた上に、最後に言葉や数式が上載せされれば、あっという間に成績が伸びるのです。

 でも、小学校の高学年くらいからムチが入ってしまっている子では、これが効きません。それどころか、中学の後半になると、頑張っても頑張っても、ずるずると成績が落ちていくことが多いのです。

 がむしゃらに勉強すると、一時的には成績が伸びます。でも、こういうがむしゃら勉強は、長くやると、人間としての狭さが出てきます。生きること全体と切り離されてしまうからでしょうね。

 阿部少年は、高校に入ってから勉強に興味が持てず、学校もつまらなくなりました。それで、自分から作曲の道に入ります。

 この人は、ほんとにマトモだったと思います。がむしゃら勉強の限界に、自然に気付いています。

 数学ができることも、難しい本が読めることも、それ自体は良いことだと思いますが、それ自体が良いことならその良さ自体を伝えていくのが、教育というものです。
 賞罰や競争で動機づけることは、人間を動物に貶めています。

 ちなみにこの阿部俊郎という人、悟りを開いています。ホンモノです。
 

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お前の兄貴はできたのに

 私の妹が中学生のときでした。担任が数学の先生でした。私もその先生に教わったことがありました。

 あるとき、その先生が妹に言ったんです。

「お前の兄貴はできたのになあ。お前も頑張れよ」

 それで妹が頑張ったかって? とんでもない。
 すっかり落ち込んで、数学嫌いになってしまいました。妹は理数系の頭脳じゃないけれど、そう頭が悪いわけでもなくて、声のかけ方、手ほどきの仕方しだいで、やる気はどうにでもなるようなタイプです。

 当たり前でしょ。「私は兄とは違います」、「どうせ、私はダメです」となるほうが普通です。

 その普通の感覚を持っていない先生が、昔も今もけっこういるんです。けっこうどころか、どうもたくさんいるんじゃないか。
 

 他人との比較で言われると、人格を否定された感じがするんですよ。これ、誰でも当たり前です。自分は自分で生きているんだから。

 人間同士の比較って、それ自体が暴力です。

 そういうと、「なんだ、極端なことを言うな」と思われるかもしれないけれど、会社で「○○くんはちゃんとできるのに、きみはねえ...」と言われて、「どうせ私は○○くんとは違います」と心の中で反発したり、「嫌みな言い方する奴だねえ」と反感を持つほうが普通だと思います。

 小学生以下くらいの子どもに、「誰々ちゃんをみてごらんなさい、ちゃんとやってるでしょ」と言えば、たいてい子どもがふくれっ面をします。

 どうしてそうなるかって、説明しますとね、感じ方も能力も全然違う他人を持ってきて、「あんなふうになれ」なんて言われても、やり方も感覚もまったくわからない。どうしようもないんです。実行しようのない結論を押しつけられているだけです。絶望的な気がします。
 「お前はだめだ」と言われた感じしかしないんです。

 数学をやらせたいなら、数学を親切に教えればいいんです。数学で褒めればいいんです。それを「お前の兄貴は...」なんて持ち出すから、落ち込ませちゃう。

 人間同士の比較って、それ自体が暴力です。

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よい競争と悪い競争

 競争的な教育が、浅薄な人間を大量に作り出しています。競争的な教育をやめるべきです。

 そういうと、「競争によって人間が磨かれる」という声が出てきます。
 もちろん、もちろん、そういう面はあります。競争のすべてが悪いわけではありません。

 よい競争は、相撲をとったり、鬼ごっこをしたりするようなことです。よい競争は、

 
   任意参加です。

   ゲームのルールが決まっていて、時と場所を限定して競争します。

   敗者を追い詰めません。

 でも、たとえば、学校で成績の順位を付けるのは

   任意参加ではありません。

   学校生活、家庭生活のすべてを巻き込みます。

   人格全体の優劣とみなされます。

 成績の順位付けは、ムチとニンジンで走らせる手段として使われています。

 「成績が悪ければ発憤するからいいのだ」
 ほんと? そういう人が何%いますか? それに、誰かが発憤したら、ほかの誰かがずり落ちるのではありませんか。
 勝者もいつずり落ちるかわかならい。そこで、みんなが走り続ける。

 みんなを走り続けさせるのが目的で、競争させているのですから。

 学ぶ動機付けとして、競争をさせる人はずるいです。自分は高見に立って、「みんな頑張れ! 負けるんじゃないぞ」と言っていればいいのですから。

 任意参加ならいいです。プロ野球球団ならいいです。レギュラー選手になれるのはほんの一握り。それを承知した上の入団した人たちであり、だめだったらほかの生きる道を探せる。そういう競争ならかまいません。大いにやればいいです。

 でも、普通教育に持ち込むべきではないと思います。とくに、いまの高校入試は、実質的に全員参加の成績輪切りをやっています。立場の弱い者まで、みんな巻き込んでいます。
 高校入試は、つまらない授業を維持するための支配手段になっています。「どんなにつまらなくても、ここで頑張らないと将来がたいへんなんだよ。」

 こいうことをやっておいて、「学ぶ意欲がない」、「自発性がない」。
 それは、あたりまえじゃないですか。

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学習指導要領、教科書検定、入試

 学習指導要領、教科書検定、入試、この三点セットが日本教育を狭い枠の中に閉じ込めていると思います。

 すべての教育をそんなに狭く限定しなくていい。もっといろんな教育があっていい。しかし、学習指導要領をなくすと、「入試の出題範囲が広がって競争が激化する」と怖れるのですね。

 現実は逆で、米国や、ヨーロッパの国々の例を見ると、授業内容も教科書も多様であるために、画一的入試を行うことが不可能になって、スキル重視や平常点重視になっていきます。

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いまの教育が唯一の形態か

 学校に強制的に来させて、机に無理矢理座らせて、決められた教科を教え込む。
 これは、訓練であって、教育ではないと思っています。

 私は大嫌いでした。なぜ、この非人間性を疑わないのかと、子どもの時は感じていたし、大人になったら考えました。
 こういう教育では伸びなかった子供たちをたくさん知っています。

 学校は、1人1人を大事にしていると言うし、決して一方通行の授業をしていないと言います。たしかにそういうことを学校と先生は考えているし、よい試みもあります。ときたまには、いい感じの教室運営もあります。
 でも、全体としては建前です。

 学校の様子を見ると、どんな試みも、個人的なもので終わっていきます。学校は規則と慣習でがんじがらめです。

 教育というのは、国家に起源があるのではありません。義務教育が普及したのは19世紀後半からです。人間がいれば、教育が存在するのです。
 教育は学術、文化そのものでして、法律や行政に内容を統制させると、しなびてしまいます。
 教育は、人々が担い、人々の間から自然発生するものです。寺子屋みたいなものや、遊び中心のものがあっていい。あったほうがいい。

 ホームスクールを含め、教育機関を作る自由と、選ぶ自由が必要です。

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黒板を消すのが早すぎる

 ある大学生が言っていました。

 先生が黒板で計算をどんどんやって、どんどん消す。ノートに写しきれないので、携帯のカメラを使って撮影する者が多い。
 そうしたら先生が、機嫌を悪くして、撮影してはいけないと言った。

 私が、「授業評価はやっているんでしょ」と尋ねると
 「やってます」と大学生。
 「そこに、先生が黒板を消すのが早いから撮影するのです、と書いて伝えたら」
 「あ、でも、書けないよ。授業評価も、点数に入っているから」

 そう、まあね。
 日本の教育風土では、なかなか伝えられないだろうな、というのわかります。

 「その先生、なんで学生が撮影するのかわかってないよ。伝えてあげるといいんだけどね」、と私は言いました。
 その先生、昨年もそうだったというから、学生は誰も事実を伝えようとしないのでしょうね。

 授業評価でよく思うのですが、半期まとめてやっても、効果は薄いです。学生は抽象的なことばか書いてきます。先生が黒板を消すのが早すぎる、というような一番大事な具体的なこと、がわからないのです。
 授業を良くするのは、「そこでわからなくなった」、「その図で混乱した」というようなことを、ひんぱんにフィードバックできることです。具体的なことがわからないと、改良しようがないです。

 それと、授業評価を評価してはだめです。ほんとうのことを書いてもらえなくなります。

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達成主義ではなく

 子どもが学ぶとき、あらゆる感覚を動員し、どうなっているかを自分で納得し、それを臨機応変に使いこなそうとします。これは、幼児が物事を学んでいるさまを見ると、よくわかります。

 でも、大人たちは、いつのまにか結論の塊になっています。この学びのプロセスを忘れてしまっています。
 子どもが、九九が言えたとか、難しい漢字を書けたとか、ご挨拶がちゃんとできたかとか、そんなことばかり見るようになります。

 そういう大人たちが教育をどうするかを決めると、何を達成すべきかの一覧表を作ります。

 教育は、いつのまにかその一覧表を達成することになってしまいます。
 学校は、その一覧表を教え込むために作られ、教師たちが雇われます。一覧表達成の、義務も、見栄も体面も生まれます。

 目標が先にありますので、どうしても教育は訓練的、注入的になります。
 子どもたちに、賞罰に訴えてでも、競争させてでも、結果を出させようとします。

 さらに、入試競争もあります。
 さらに、社会そのものが地位・序列と、競争でできています。子どもたちは、生き延びるための知識・技能だけをかき集めます。
 虫の動き、雨の音にも感動できていた子どもたちが、いつのまにか、点数を気にし、借り物の人生訓の丸覚えで生きるようになります。

 それで、結局、結論の塊である大人たちが育ちます。
 そして、ちょっと修正された一覧表を作ります。それもしょせんは一覧表です。

 悪循環が続きます。

 学びは、雨の音に聞き入ることの中にあります。自転車に乗れるようになる身体の動きの一つ一つの中にあります。言葉にならないたくさんの感情に、静かに浸ることにあります。
 教育は、一人一人の学びを援助し、保護することです。それは、一人一人が生きていることに対する気遣い、愛情の中から生まれてくるものです。

 集団訓練を基本とする近代義務教育と、入試による競争主義は、部族社会を乗り越え、近代産業を興すための必要悪だったと思います。その成果も大きかった。けれど、不安で攻撃的で、権威に弱い人間をたくさん生み出しました。

 そんなことをしなくても、われわれの社会は、幸福な個人と高度な科学技術を両立させられるだけの文化的成熟に達していると思うのです。

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教育の56年体制を抜けだそう

 日本の教育にとってもっとも不幸だったことは、文部省と日教組の闘いでした。これによって、学校運営から、教員と保護者を排除する仕組みができました。教育の56年体制です。

 それって、根本的におかしくないですか?

 学校の当事者は、いったい誰なのですか?

 学校の主役は生徒です。子役だからとバカにしてはいけません。生徒が主役です。学校は生徒が学び育つための場です。
 学校の当事者は、まず生徒、そして直接に生徒に関わる教職員、学校に教育を委任している保護者です。

 当事者を運営から排除して、「あなたたちは、決められた目標に向かって邁進してください。口出ししないように。しかし達成に協力するように」と言っているのが、現在の学校運営体制です。
 文句が出にくいから表面はうまくいきます。でも、問題が蓄積しては破裂します。

 当事者を抜きにして、どうして自律的な問題発見とその自律的解決ができるでしょうか。
 自分で問題を発見して解決することは、国語や数学の教科の中だけでなく、学校の当事者の生き方でなければいけません。

 生徒と、教員と、保護者をもっと信用しないといけません。学校に自治がないと、民主社会を担うことのできる人間が育たないのです。自治は体得しないと身につきません。

 文部省vs日教組の図式は、90年代には終わらせるべきでした。新しい発想が必要です。学校にもっと権限を委譲し、教員と保護者、そして年齢に応じて生徒を参加させる仕組みが必要です。

 大阪府議会に「大阪府教育基本条例」が出されました。これは、教員と保護者を運営から排除するのを強めようとするものです。教育の56年体制の枠の中です。

 教育は、生々しい場です。ものすごくたくさんの洞察と工夫なしにはやっていけません。「世を憂いる」人たちが抽象的な法律や行政権力でなんとかしようとするから、かえって悪くなるのです。

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大阪府教育基本条例について

 大阪府議会の「大阪維新の会」が、大阪府教育基本条例の案を出しています。

  この案は「教育に対して、政治に口を出させろ」というものです。あぶない、あぶない。

 教育の政治からの独立は非常に重要です。時の利害に過ぎない政治が教育を左右してはいけません。国家主義の熱狂ごときが教育を侵してはいけない。
 教育は、人格を育てます。その人格が、政治や経済を作ります。政治より、教育のほうが優位なのです。どういう人間を育てるべきかを、政治家や実業家が決めてはいけません。知事は選挙で政治代表に選ばれましたが、教育に関する識見で教育の代表として選ばれたわけではありません。

 しかし、教育委員会に関しては、橋下知事の言うことは的確です。
「教育もサービスなわけだから、保護者の納得するようなサービスにもっていくのが本当の政治。それができていないのは、今の教育委員会制度が原因」

 そのとおりです。教育行政は民意を反映しなければなりません。
 しかもなおかつ、教育は政治から中立でなければならないのです。

 そこでどうするかというと、政治とは別立てで、教育のための民意反映組織を作らなければいけない。それが、教育委員会の本来の発想なのです。
 教育を、市長や議会の利害にまみれさせてはいけない。教育は教育で、自分たちの代表を選んで運営してもらおう。そういう考えでアメリカで教育委員会が発生しました。現在もそうなっています。教育委員は、選挙で選ばれた住民代表なのです。

 日本の教育委員会はアメリカの制度を真似たものですが、実質はまったく違います。1948年の当時は公選制でしたが、1956年に教育委員会の公選制は廃止されました。
 教育は保護者に責任を負って行われるべきものだから、それを公選制で担保していたのです。その公選制をはずした日本の教育
委員会には、民意反映のルートがまったくありません。閉鎖的でお役所仕事が目立つようになった。教育は、おかしいと思っても、誰も変えようがない仕組みなのです。

 橋下知事の、教育委員会批判は正しいです。
 しかし、教育を政治の指揮下に置くのは、間違っています。教育が、首長の人気取りの手段にされます。政治的に過激な首長が現れれば、教育が振り回されます。校長たちが、知事や市長の顔色を見ます。

 改革の筋道は、教育を政治に支配させることではありません。教育と学校の自治が大事なのです。改革方法には、二つの道があります。

  ・ 公選制
教育委員会(アメリカ型)

  ・ 法律で学校自治の独立性を高める(ヨーロッパ型)

 
  私はヨーロッパ型が本筋だと思っています。教育の当事者は、生徒、教員、保護者です。現在の日本の、当事者を抜きにする発想で、うまくいくはずがありません。

 日本の教育委員制度が形骸化し、「中央集権無責任体制」ができていたことは、拙著「変えよう!日本の学校システム」に詳しく書きました。一読を頂ければ幸いです。

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学ばなくなる理由

 人が学ばなくなる理由、それは降り積もったたくさんの小さな恐怖が、たくさんの固定パターンを作っているためです。他にも学ばなくなる理由はありますが、これが最大だと思います。大人でも子どもでも同じです。

 私自身、高校生くらいまで、人の話を傾聴できていました。自分の考えの枠組みなしに、相手が言っていることの中になんの留保もなく入り込み、その話を成り立たせているバックグラウンドや、話す人の人格まで感じ取る。これをやっていれば、格別の努力なしに、物事はすうっとわかってくるのです。
 それは、自分の考えがないということではなくて、自分の意見をいう時がくれば、自分の意見はまたすうっと生まれてきます。

 でも、私も大人になってから、相手がしゃべっているときに自分の考え事をしているようになりました。「これは、こういうことだ、ああいうことだ」と。そうしたら、ほんとうに頭が悪くなりました。

 それは、外から見ると「鈍くて、人の話をよく聞いていなくて、型にはまっている」という状態なのです。そうであることを、自分でよく確かめました。
 他人の前で考え事をしている私の状態は、外から見ると、あの物わかりの悪い人と同じなのです。
 あの物わかりの悪い生徒は、私のあの状態と同じなのです。

 しかし、それは、なんとかしようと思ったくらいでなんとかなるものではない。
 でも、いったい、なぜそうなるのだ。

 クリシュナムルティが、著作でいろいろ教えてくれていました。この人は「ご自分で見つけないかぎり、見つかりません」ということを説き続けている人です。答えは用意してくれていない。あらゆる感情と思考を、どんな非難も正当化もなく観察なさい、それだけです。

 自分の観察を続けると、理由がわからないたくさんの悲しみ、憎しみ、がありました。悲しみや憎しみがなんであるか、ぜったいに借り物の説明をすまい、わからないまま持ちこたえようと思いました。何年かそうやっていました。

 そのうちにわかりました。いろんな感覚や感情が理解できてきたら、どのように思考が浮かぶのかわかってきました。

 なぜ思考が湧くかというと、怖いときや心細いときに、すでに知っている良いことを思い起こせば、安心できるからです。思考は、怖いときや心細いときに安心するための条件反射になっている。だから、同じことを繰り返し繰り返し考えている。

 ちょっとでも恐怖や不安があると、たちまちお馴染みの思考がわき起こって、恐怖を遮断します。それは条件反射になっています。そもそも、思考の動機を感じないために、思考がわき起こる仕組みなのです。ですから、思考の動機は、なかなか発見できません。

 これは、他人からだとよくわかるのです。「あの人は、怖がっているから、知識をひけらかしている」と。ところが、本人にはわからないものです。本人は怖がっていることを感じないために、しゃべっているのです。
 条件反射が多くなって、思考リピーターになってしまうと、人とも、事物とも、交流が不完全になり、トラブルが多くなる。それでいっそう恐怖や不安が湧いてくる。これが、学ばなくなる理由です。いっそう、抱え込んだ結論を大事にし、条件反射を強化します。

 これらの条件反射ができるのに、躾と教育が関係していることは、言うまでもありません。

 しかし、過去にできてしまった条件反射からどうやって自由になれるのか。
 自分自身への、十分な注意深さがあれば、この条件反射がほぐれるのです。それはまた、人から人へと伝わるものでもあります。
 十分な注意深さ、それは愛情と呼ばれるものでもあります。全面的な理解の光が差し込むとき、脳に新しい回路が出来るとしか思えません。

 子どもの小さな怯え、それに共感し慈しむことができるとき、子どもを助けているだけでなく、自分の中の頑ななものもほぐれていくのだと思います。

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結論を覚えるのではなく

 結論を丸覚えするのではなく、いつも理解と発見によって生きること。
 その重要性は、単に教科学習ではなく、一人一人の幸福と社会のあり方そのものにとって重要なのだと思います。

 われわれは、空虚さと恐怖から、
 けっこうな結論に身を寄せて生きています。そのため、夫婦であっても本当に心を通わせることは稀です。結論のぶつけ合いだけが行われているのです。
 
われわれは、空虚と恐怖から身を守るために、自己イメージを作ります。それは虚栄であったり、自己破壊であったりして、いっそう恐怖と孤独をつのらせます。
 われわれは、
結論を同じくする人たちと付き合い、合わない人を排除します。そのため社会は、狭い身内意識の壁で身動きのとれないものになっています。さらにわれわれは、イデオロギー、宗教、国家を信じ、集団に分裂して互いに争います。それが戦争の原因です。

 よい結論を身につければ、なんとかなる。そう信じて、私たちはいつも結論を探しては蓄えて生きています。 その結論が、お互いの間に立ちはだかる壁なのです。この生き方は、受験勉強で答えをたくさん蓄えたのと同じではないでしょうか。
 
 
子供たちが、どうやって虚栄や逃避を身につけていくか。どうやって、暴力的になっていくか。それが社会に何をもたらしているか。 そのことが見えたら、私たちのしつけと教育に、根本的な変容がはじまると思います。脅してでも競争させてでも知識や技能を身につけさせようとすることは、できなくなると思います。

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生きる力

 人間はたくさんの感覚を持っています。視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚、熱感覚、運動感覚、平衡感覚、人格を認識する感覚・・・・。それらの感覚によって、世界と交感して生きています。多くの感覚を使って生きていると生命が充実している感じがします。

 生きる力を失っているときは、このうちのわずかな感覚しか使っていません。特定のイメージを作り出し、それにすがりついているのです。

 生きる力を取り戻すには、たくさんの感覚を使い、現在だけを生きるとよい。自然と親しむ、スポーツをする、人と親しむなどです。
 すべての感覚を使って現在のあるがままを知り、そこから行動しているとき、生命の充実感があるのです。これはエネルギーに満ちている子どもの生き方そのものです。

 しかし、われわれの文化、そして教育は、目標とそれに向かっての努力が万能であるかのように我々に教えています。何かを達成すれば力が湧くだろうと。
 その何かを追求しているうちに、われわれは目標イメージを模倣するだけになり、方式に捉われ、「現在」を見失ってしまうのです。

 そしてわれわれの文化と教育は、思考が万能であるかのように教えています。教師たちの多くは、権威ある教科書や書物の伝授者になることで、自分たちの立場を得ています。
 困ったとき、われわれは権威を求めます。権威者の言葉、本に書いてある言葉、家族友人の「こうすればいいよ、ああすればいいよ」という方式にすがります。そして、思考だけでなんとかしようとするのです。

 思考に頼るとき、われわれは現在のあるがままとの交感を失っています。思考だけが「自分」だと思い込み、独裁者の孤独と、被支配者の苦しみの両方を味わっています。
 方式は、技術的な方面では有効です。しかし、心理的な苦しみに関しては無力です。

 われわれが現在の教育を続けるならば、生きる力を失った人たちがたくさん現れます。われわれは、感覚を絞り込んで、特定の目標を達成することしか教えられていません。

 賞罰、野心、競争に訴えた教育は、たくさんの人間を不安定にしています。

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セルフ・エスティームを失うこと

 更新がとどこおりがちですみません。でも、アクセス数が意外と落ちていないことに驚いています。皆様に感謝しています。
 すでに書いたものを読み直していたら、自分でも「いいことを言う」と思うことに出会いました。「放射線、原子力、核兵器」の一部です。

> 教育だけが、人類を恐怖から解放する可能性を持っています。
> あまりにも単純なことです。子どもを恐怖に訴えて動かそうとすることをやめましょう。賞罰、競争、脅しに訴えた教育をやめましょう。子どもに対する、心ないド突きやからかいをやめましょう。

> 恐怖がないときに、人間は、事物とも他人とも、心を通わせて生きることができます。それは、欲しい物に目を血走らせたエネルギーではありません。理解と共感の中に、とてつもないエネルギーがあります。

 なぜ、恐怖があるのでしょうか。小学生のとき、そして中学生のとき、この問題と真剣に向き合っていたときの感覚を、想い出します。あのくらいの年齢は、実際に感じていることをごまかすのがうまくないのです。内面に嵐があるなら、その嵐のなすがままです。
 学校は、恐怖の場でした。学校の秩序はただの賞罰秩序で、なんの潤いもない。先生が見ていなければなにが起こるかわからない。

 なぜ恐怖があるのか、子どもの時はわかりません。
 私は、学校では適応できていました。明るく元気なほうでした。学校からは逃げられないから、そこで明るく生きるしかないのです。
 でも、一人になったときに、無価値感や寂寥に襲われる。そんなとき、押し入れに閉じこもるときもあるし、虫や草を相手にするときもあります。
 いまになると、その無価値感や寂寥をごまかさずに生きていたのは大事なことでした。それで、大事なものは失わないですみました。大事なものというのは、自己欺瞞なしに生きるということです。

 享楽的なものや強い刺激によって無価値感や寂寥を紛らすようになると、その人は偏見や先入観が多くなりますし、人とのコミュニケーションも独善的になりがちです。これは、子どもでも大人でも同じです。理想や将来像によって紛らすのも同じです。

 私も、大学生くらいになって、自分に対して言葉でいいくるめることができるようになったら、深い迷路に入り込みました。

 教育関係の仕事に携わって発見したことがあります。子どもの恐怖は、騒がしい行動が多くなるか、セルフ・エスティームの低下となって現れることです。
 小学生も、中学生も、生きるのがつらくなったとき、学校に問題があると思うことはできません。なにかトラブルがあると、自分が悪い子だから、と思うものなのです。これは、家庭生活でもそうです。親が悪い、と思えるのは中学生くらいの年齢で、それまでは、自分のせいだと思うものなのです。十歳にもなると、親に向かってずいぶんと憎まれ口をきくものですが、でも親への基本的な信頼は失っていません。

 小学生くらいまでの年齢は、依存の中で生きています。もし依存できる人がいなくなったら、親や先生がろくでなしの人間だと思わなければならなかったら、それはたいへんに不幸なことだと思います。

 子どもは大人を批判するかわりに、セルフ・エスティームを失ってしまうのです。子どもが自分はいけない子だと思っていたら、その子は恐怖に囚われているし、「忘れられた子」になっています。ほんとうのその子自身のほとばしりのところを、生きられなくなっているのです。
 「忘れられた子」に甘んじる子もいます。「問題児」のほうがまだましだと、トラブルを起こす子もいます。

 先生たちも親たちも、「よい子だったか」と「達成したか」に捉われすぎているのです。あるいは、他のなんらかのマニュアルに捉われすぎているのです。
 あるいは、ただ単に忙しくて子どものことを忘れているのです。

 生きる真実も、生きるエネルギーも、教育目標として実現することはできません。子どもとの現実の関係の中でしか、お互いの心の素早い動きの中でしか、見つけることはできません。「生きる力」を高所から言ってもしょうがないのです。
 セルフ・エスティームを失った子どもに、関心を注ぎましょう。いっしょに生きましょう、いっしょに戯れましょう。学校はたくさんの子どもを見ていてそれは不可能だというなら、見ることのできる人数にまで減らしましょう。学校に頼らずに、教育が街の片隅からでも生まれることが出来るようにしましょう。

 われわれが恐怖から解放されないかぎり、集団や個人間の闘争、憎しみ、殺し合い、からの解放は難しいのです。

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デューイの教育思想と日本

 ジョン・デューイというと、哲学者として有名であるが、この人が教育思想家でもあったことはあまり知られていない。

 デューイは、1890年代、シカゴ大学の哲学科主任教授であったときに、実験学校を作り、子どもの主体性を尊重する教育方法を実践している。1890年代と言えば、欧米においてもようやく義務教育が普及しつつある時代でもあるし、訓練的な教育に疑問が出されてくる時期でもある。

 デューイの教育思想は、その後の世界の教育に大きな影響を与えている。
 そして、1945年、日本がこれから大きな教育改革を行おうというとき、まず、米国から教育者使節団を呼ぼうということになった。団長として、まず白羽の矢が立ったのは、デューイであった。デューイは、アメリカ側からも日本側からも、「なんといってもこの人」だったのである。ところがこのときデューイはすでに85歳の高齢で、日本に来れるような状態ではなかった。

 1946年春にやってきた米国教育使節団は、なかなかよろしい事を報告書にしている。しかし、どうも抽象的である。新機軸の実験学校を容易に作れるようにしておけ、ということは言っていない。

 デューイが日本教育改革に直接に関係してたら、教育の自由は、大事なテーマの一つに入ってきたのではないかと思う。デューイは、押しつけの教育を嫌った人で、学びの主体は子どもであるという、教育方法上の大転換をやりたかった人である。
 別にデューイでなくてもよい、アメリカ人でも日本人でもよい、そういう主張の人たちがもっといてよかったのにと思う。

 日本の戦後教育は、教育理念を変えただけで、教育の配給制度は変えなかったのである。

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英知ある人間を育てられるか?

 英知のある人間を育てられるのだろうか? これは教育にとって大きな問いだと思います。

 育てる方法はないと思います。「これが英知だ」というものがあって、それを習得しようとすれば、型にはまった凡庸な人間になってしまいます。

 しかし、英知を損なわないようにする道はあります。

 英知があるというのは、感受性があることと、先入観がないことです。全身全霊で、ウソのない生き方をすることです。
 感受性も先入観のなさも、恐怖や利害に訴えた教育によって損なわれます。

 権威者と違うことを言う恐怖に捉えられたら、自分の頭で考えずに、受け入れられそうなことばかり言うようになります。

 恐怖があると、新しいことに取り組もうとしなくなります。いつも、お気に入りのイメージで意識をいっぱいにして、心理的安全を確保するようになります。 
 恐怖に捉えられた子供たちは、享楽や刺激を追い求めるようになりますし、学習では根気のなさと先入観の多さになります。

 野心や競争に訴えた教育は、知ったかぶりや、浅薄な言葉ころがしを助長します。

 人間の英知はもともとあります。子どもは全身全霊で生きることができます。しかし、大人になるまでに、習得した知識・技術や、経験した快楽にしがみついて生きることを覚えます。
 恐怖や欲で生きるようになってしまうと、どんな知識・技術も経験も生きないのです。

 これがわれわれの文明の姿だと思います。恐怖は尽きず、争いもつきません。

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放射線、原子力、核兵器

 大地震のあと、原発と放射線がどうなっているのかを、固唾をのんで見守ってきました。放射線と原子力のブログを別に作りました。どうか、こちらもご覧ください。
http://economyhuman.blog88.fc2.com/

 原発は、もうやめたほうがいい。

 でも、もっと大事なことがあります。核兵器の廃絶です。
 原子力発電は、原子力を平和に使おうとしています。たまたま想定不足で事故が起きたけれど、目的は発電だった。

 ところが、核兵器は、わざわざ人に危害を加えるために作ったものです。
 核戦争が起きたら、勝者などいない。すべての人間が苦しむだけです。人類全滅の可能性もあります。
 でも、核兵器は廃絶できない。「自分が使わなくても、相手が使うから」、怖くて手放せないのです。それほど、人類は深く恐怖にとらわれています。

 核兵器に対して、反戦運動は無力です。平和のための戦いが、平和をもたらすことなどありえません。
 どんなお説教も平和条約も無力です。それで、戦争がなくなるくらいなら、とっくに世の中から戦争はなくなっています。
 人類が恐怖にかられているかぎり、戦争はなくなりません。恐怖にかられた人間は、どんなことでもしてしまうのです。

 教育だけが、人類を恐怖から解放する可能性を持っています。
 あまりにも単純なことです。子どもを恐怖に訴えて動かそうとすることをやめましょう。賞罰、競争、脅しに訴えた教育をやめましょう。子どもに対する、心ないド突きやからかいをやめましょう。

 恐怖がないときに、人間は、事物とも他人とも、心を通わせて生きることができます。それは、欲しい物に目を血走らせたエネルギーではありません。理解と共感の中に、とてつもないエネルギーがあります。

 そのエネルギーを知っている人は、原子力より大きなエネルギーを手に入れています。

 

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雑念と恐怖

 私は小心者で、ちょっとのことですぐに怯え、虚勢を張ったり、しどろもどろしたりする。他人の怯えや虚勢はよく見えるが、自分のものはなかなか見えない。

 もう60歳だ。時が経てば自然に成熟する、などということはなかった。相変わらずだ。このまま死ぬのも、しゃくだ。なんとかならないかと、他人が言うことを聞き、万巻の書を読んだが、みんな役に立たない。そんなことをしていてもしょうがない。自分の中で実際に起こっていることだ、自分で実物を見るしかない。

 内面に関しては、言葉にせずに観察すること。
 言葉に置き換えるときに、ほんとうに起こっていることを見失う。感覚、感情のほとんどは言語化不可能だ。言葉にするとき、浅薄になる。
 しかしそれは簡単ではない。私はすぐに、覚え込んだ言葉に置き換えてしまい、注釈をつけ、結論としてため込む。でも、何年もやっていれば、自分の言葉の檻の中に陽が差し込むこともある。

 それは、子ども時代の、感受性だけで生きていたときの再現でもある。

 そうすると、たくさんの条件反射があることが見つかる。恐怖があるときに、私は条件反射的に言葉を紡ぎ出している。「きのうのあの映画はおもしろかった」、「政府の対応はなってない」、その他ありとあらゆる、希望や正義や気晴らし。

 それらは、恐怖を感じないですませるための言葉なのだ。けっこうな言葉が反射的に出てきて、恐怖を感じることを防いでいるのである。だから、私はその言葉がわいてくる理由を認識できない。そのときは、よいことを思いついたとしか思っていない。

 それが、いわゆる雑念の正体である。
 恐怖だけではない、悲しみも、空虚感も、身体の不調も、雑念を引き起こす。ようするに、あってはならない感覚・感情が雑念を引き起こすのである。雑念というのは、それを引き起こした原因を感じないための条件反射である。だからなかなかその原因がわからない。

 雑念でいっぱいで、集中力がないし、コミュニケーションがうまくとれない子どもたちを見てご覧なさい。たくさんの感覚や感情がケアされないままになっている。
 ところがその様子を見ると、学校も親も、条件反射的にもっと恐怖に訴えて訓練するのである。目先の結果だけは出る。それで、訓練が万能の処方箋だと思い込んでしまうのである。

 愛があるときだけ、われわれは真実に直面できる。
 愛とは、どんな正当化も非難もないことである。

 いわゆる雑念でなく、信条、ドグマに頼るようになると、弊害はもっと大きい。~主義や、国家に安心を求める人たちは戦争を引き起こす。

 結果を出すことにとらわれた躾けと教育は破壊的だと思う。それは、子供たちを虚栄や攻撃性や逃避に追いやる。それが、個人レベルではさまざまな不安と恐怖を生み出すし、集団レベルでは戦争を生み出す。

 しかし、世を憂いる警世の言葉などにたいした意味はない。
 私の雑念が、ほんとうは恐怖や悲しみの条件反射で引き起こされていることを見る、そのとき真実探求の第一歩があり、いつのまにやら安心と幸福感がやってくる。
 そのとき、私は、生徒や家族に、すこしはまともなことができていいる。不思議なのだ。ふっとタイミングよくジョークがでたり、うまい説明を思いついたりする。
 社会に関しては、結論から始めるのは暴力の一種だ。自分の感受性と自分の周りの人たちからはじめたときにだけ、何事かをなしえる。

 子供たちが、どうやって虚栄や逃避を身につけていくか。どうやって、暴力的になっていくか。それが社会に何をもたらしているか。
 そのことが見えたら、私たちのしつけと教育に、根本的な変容がはじまると思う。自分の足下から始めると思う。私たちは、子供の感受性を大事にし、優劣意識を煽ったり、競争させたりはしなくなると思う。

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教科書検定制度が崩れる日

 福島原発の事故があり、原子力発電の安全性の神話が崩れた。電力業界と政財界の複合体制が俎上に載せられるようになり、発電と送電の分離が真剣に議論されている。

 こういう日が来るのだ。いくら盤石に見えても、おかしなものは、いつかは崩れる。
 それと同じように、教科書検定制度も崩れるだろう。おかしなものは、いつかは崩れる。

 国の力があり、金の力がバックアップし、寡占体制ができれば、理屈など後からついてくるものだ。
 原子力がそうだった。政策と財力がまずあって、あとから「安全だ」、「割安だ」という理屈がついていった。
 教科書検定も同じだ。法律の力があり、教科書無償制度があり、広域採択による寡占体制がある。「変な教科書ができるとたいへんだから」という理屈で守られている。変かどうかを決めるのは、使う側なのに。

 私塾をやっていてしみじみ感じた。教科書検定制度は、教育水準の向上を妨げている。
 教科書が、子どもの学び感覚に沿って作られていない。
 教科書の見た目は美しい、誤植もない、間違ったことはいっていない、しかし、センスが悪いのである。実際に使ってみて、はじめてわかる。せっかくいい図をつかっているのに、どうしてこんなにぎゅうぎゅう詰め込むのか。練習問題がステップを踏んでいないので、たくさん落ちこぼすではないか。はたして、本という形式でよいのか。英語で、なぜCDを生徒に配布しないのか。etc.

 教科書問題というと、歴史解釈をめぐっての問題ばかりクローズアップされた。そんなことより、使いやすい、センスの良い教科書がほしいのである。

 現代史で解釈がいろいろ生じるのは当たり前のことだ。それで、教育の奪い合いなどしないでほしい。教育を政治に従属させないでほしい。生徒には、各論にどのような根拠があるのか示して、考えるようにするのが教育の仕事であろう。生徒に結論を教え込むことではない。
 検定教科書があるから、国の解釈が生まれ、その奪い合いになる。

 教育は文化現象である。人間が生きることそのものから生まれてくるものである。教育を、国が人々を教化する手段に押し込めないでほしい。

 自由に作れば良い。採択も自由である。問題があるなら、自然淘汰されるものである。教科書評論家という職業ができて、さまざまな視点から評価すればよい。
 外国から内容に文句がつくなら、「我が国は、貴国と違って言論、出版の自由を保障している。」と主張すればよいではないか。

 「この教科書ならわかる」、という評価が生まれれば、教師たちは争って採用するに決まっている。そうすると、他社がまた新機軸を打ち出して、よりよいものを作りだす。くすぐり的なおもしろさの教科書が生き延びるとは思えない。どんどん競争させればよい。

 生徒を点数競争させてはいけない。生徒は商品ではない。
 しかし、商品は競争がないといけない。教科書は競争させるべきである。

 先進諸国では、教科書は自由出版自由採択が常識である。

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不登校とオルタナティブ教育

 不登校とオルタナティブ教育の関係について思うことが多い。

 日本の現実の学校は、ある年齢になった子供たちを集めて、知的なものと社会的なものを中心に、訓練を施すところである。
 それがが学校のすべてだと言ったら間違いになる。学校により先生によりさまざまな工夫がなされている。しかし、やはり学校の骨格は「訓練」である。

 ところが、実際の子どもは、さまざまな肉体的欲求、感情、で動いている。子どもは特に、よくケアされ、暖かい人間関係に包まれ、探索行動をバックアップしてもらうことを必要としている。大勢の子どもを預かっている学校で対応しきれない問題は非常に多い。

 そのために、学校という訓練的な場で、やっていける子とやっていけない子がいる。
 学校というのはそもそも集団の場であり、訓練の場なのだから、子どもがそれに耐えられるところまで家庭や地域でちゃんと育ててほしい。学校にそれ以上のことを要求されても、対応することは不可能である。それが学校側の言い分である。

 学校でやっていけない子が、先生たちには「その子が特別なせいだ」と見える。
 それはその通りではある。不登校の児童・生徒たちは全体の1%にすぎず、もともと学校生活に困難を感じるようなものがあったから来れなくなる場合が多い。

 先生たちには「家庭要因が大きい」とも見える。 
 家庭がしっかりした生活習慣と共感のある人間関係を作っていれば、子どもは家庭外でのストレスがあっても、を吸収できることが多い。それも事実である。

 保護者の側からすると、個別の教員や学校に問題があるためとも見える。行政からもそう見える。それも事実である。教育というのは、”人”の要素が大きく、児童・生徒と教員がもつれてしまったケースも多いのである。

 しかし、もともと日本の学校そのものが持っている問題があって、それが特に敏感な子たちに現れているのだ、とも考えられる。

 私は、そちらが事実だと思う。
 学校に適応しにくい子は世界中どこにでもいるが、1%もの不登校が生じているのは、日本に特有の現象なのである。
 子どもにも親にも普通の意味での問題はないが、子どもが学校に行けなくなる例も多い。
 教員の質だって、日本は高いほうである。

 現実に、不登校の数は12~13万人程度で横ばいを続けている。
 90年代に不登校の急上昇があったため、学校も行政も手を尽くしている。そして、総数の横ばいにまではなった。しかし、それ以上は減らないのである。
 不登校問題を子ども個人の問題、家庭の問題、教員個人の問題で済ませている限り、解決しないであろう。

 教育を狭く考えなくてもいいのではないか、学校が訓練の場であることを根本から見直していいのではないか、そういう教育観がある。
 世界を見渡せば、いろいろな教育がある。発想も方法も違う。
 子どもが自発的にやろうということだけで学校を作ってもいいではないか。
 そもそも学校なしでも、子どもを育てられるのではないか。
 そういう教育すら、世界に存在している。

 それらの教育は、オルタナティブ教育と総称されている。私は、オルタナティブ教育への道を開くことが、不登校へのもっとも根本的な対応だと思う。日本教育を根本的に問い直すものが実在しないと、日本教育は比較の対象がなくて、子どもと家庭と教員個人ばかりに問題を見つける。

 ただ、不登校に関して、長期と短期の両方の取り組みが必要であると思う。
 オルタナティブ教育を興すことは、不登校に関して長期的な取り組みである。一気にいい学校がたくさんできてくることなどあり得ない。

 短期的には、不登校を不登校として対応する、いろんな場が必要だと思う。公立でも民間でもなんでもいい。暴行・監禁等の人権侵害以外は、どんなやり方でもいい。いっさい、人々の創意工夫に任せたほうがよい。
 不登校は、原因もさまざま、解決もさまざま、としか言いようがない。いろんな人が「不登校はこういうものであり、こうすればうまくいく」と言う。しかしそれは、そういう例もあったと言うだけのことだけである。どんなやり方をしても、そのやり方に合わない子もいるし、やりそこないもある。「一律の道などない」、ということを前提にすべきである。

 どのような道でもよい、現実的に対処すべきである。そのために、学校に行かなくても、子ども1人1人に教育費がついてまわるような仕組みをつくるべきである。そうでないと、家庭で途方に暮れるしかない人たちがたくさん生じてしまう。

 そういう現実的な場と、長期的にオルタナティブ教育を興すこと、その両方が必要だと思う。

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生きる力を得る二つの道

 生きる力を得るやり方に、大きく言って二つある。

 一つは、何か特定のイメージを持ち、それを実現しようとすることである。努力と獲得と言ってもいい。実現したときの興奮は大きい。その興奮を味わおうと、繰り返しチャレンジが行われる。
 多くの学校の教育者が、これだけが生きる力を得る道だと信じ、このタイプの生き方を生徒に身につけさせようとする。

 もう一つの生きる力を得る道は、特定の目的に絞り込まず、感受性を開け放って流れに身をまかせていくことである。あらかじめイメージがあるのではなく、まず事物や人との関係があって、その中できらめくものに招かれている。
 子どもが何かをおもしろがって夢中になっているのは、これである。突然絵を描き出したり、虫や草と飽きもせず戯れているのがこれである。

 子どもが疲れると、親の膝の中に入り込んで眠るのもこれである。ほんとうに流れに身を任せている。だからエネルギーがわくのである。

 いわゆる「クリエイティブ」な生き方は、後者である。その中に、常に新しいものがわき出してくるからである。
 明晰さも、後者に属する。物事が、あるがままに見えるからである。

 学校教育では、目標と努力だけが生きるエネルギーをもたらすと信じられている。しかし、ちょっと冷静にみれば、それは、欲望をかきたてて生きる道ではないか。
 「目的に向かってひたむきになる」ことは「欲望に目がくらんで他のことが目に入らない」ことでもある。

 ”教育者”不在のためだと思う。教師たちは、特定の目標を達成するために雇われ、給料を払われているのである。
 クリエイティブな道をとったら、期日までに指導要領を達成させられるかどうかわかりはしないし、テストのことなどそっちのけでクラス中で家作りを始めるかもしれないのである。

 しかし、既存の道に反発しただけで、クリエイティブになれるかというと、そんなものでもない。「自由」とか「生きる」とかのイメージに目がくらみ、言葉に酔ってしまえば、それは欲望の道である。美しい結論が先行して、それによってしかモノが見られないなら、ただの愚鈍である。

 だが、クリエイティブであることは、別に難しいことではない。子どもを見ればそれがわかる。自分のイメージと思考に酔ってしまわず、事物と交感できれば、たちまちクリエイティブになれるのである。
 こどもはまだ、肉体感覚と感情をそのままに生きている。言葉が介入して、いつも他人と比較したり、特定のこと以外に目を向けないようにはされていないのである。

 もちろん、大人でないと使いこなせない知識も技術もある。それを子どもに伝えることも大事なことである。それがないと子どもは、この世界とうまく噛み合えない。
 具体的なところでは、目標と努力はもちろんある。もっとおいしいカレーを作ろうとして工夫するのは、当然のことである。

 だが、教育の根本を「目標を立て、それに向かって邁進すること」に置くべきではないと思う。それは、一面で有能さを育てはする。しかし、その同じカードの裏には「欲に駆られた愚鈍な人間を育てる」と書いてあるのである。そして、挫折して無気力になったたくさんの若者を生み出すのである。

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20ミリシーベルト 学校だけの問題ではない

 学校の放射線基準の20ミリシーベルトが適切かどうかを取り上げる新聞記事が多くなった。反対する声も上がってきた。よいことだと思う。いままで「ただちに危険はない」でみんな済まされてきたのが、ようやく議論になってきた。

 ところが私は、単純にこの数値を引き下げろ、という問題ではないと考えている。
 私は、年間20ミリシーベルトは安全な基準ではない、ということには全く賛成なのであるが、これは深く考える必要のあることだと思っている。

 どういうことかというと、今回の福島事故の場合、学校に行かなければ安全かというと、そんなことはないのである。家庭にいても同じくらい被曝することが予想される。

 放射性物質は、いたるところに降った。校庭が危険なら、庭も、公園も、道も危険である。
 木造家屋では、屋内と屋内の線量がほとんど同じということも言われている。私の自宅(千葉市)で、知人の計測器を使ったときも、屋内と屋外が同じ0.20マイクロシーベルトだった。(高級機器ではないので、数値の精度は不明)

 年間20ミリシーベルトを避けるのは、学校だけをなんとかすればいいという問題ではない。もっとトータルな、子供の生活すべてに関わる問題である。子ども一人一人の問題としてとらえないといけない。

 有効な手段としては、疎開を検討しなければならないだろう。
 ところが、家族ぐるみの疎開生活をする、あるいは子供を親元から離すとなると、それ自体がストレスを生み、子どもの健康を損なう恐れがある。

 ガンになる危険と、疎開するストレスとどちらが大きいか、その見積もりもしなければならない。
 政府は、いったん基準を決めると、それを超える場合に無策というわけにはいかないから、疎開させないといけない。それを杓子定規にやると疎開の害のほうが大きいということもあり得る。

 年間20ミリシーベルトが具体的にどの程度の危険かというと、確率的に200人に一人程度が後年がんになる。(数値に諸説あるが、BEIR VIIの数値を基に、子供の危険率を2.5倍した。中庸を得た数値のつもりである)
 低線量放射線の害は、集団食中毒で、ばたばたと子供たちが倒れるようなものとは違う。似ているのは、むしろ交通事故である。交通事故の確率が突如上がったようなものである。

 もう一点、大事なことがある。それは、食品を通じた内部被曝がどの程度になるかの、実測による見積もりが出されていないことである。

 政府も新聞も、食品に関しては「ただちに危険はない」と「風評被害」にばかり気を取られていた。もちろん、パニックが起こるのはよくないし、生産者の立場も考えなければならない。しかし、実害の危険のあるなしを徹底的に調査するのが、まず基本であろう。食品の検査体制ができていなくて、ごくわずかなサンプル調査しかされていない。

 どの食品が危険かは、同じ県内でも、地域により、土壌により、作物によりまったくまちまちなはずだから、丹念に計測するしかない。しかし、検査体制は追いついていない。すでにかなりのヨウ素131を取り込んでしまった子供たちがいると想定して対策を立てるべきである。ヨウ素131による甲状腺がんは、外部被曝とはまったく別な経路で起こる。

 いまなら、まだ甲状腺にヨウ素131が残っているから、放射線計測機器で検出できる。量もわかる。減衰曲線から、どの程度を摂取したかが推測できる。もう一か月もするとヨウ素131が消滅して検出できなくなる。はやく検査をしないといけない。

 いま20ミリシーベルトは、学校の基準の問題として取り上げられているが、問題はもっと大きい。
 子どもがどのくらい被曝することになるのか、総合的にはやく見積もりを出し、それに対して対策を出さなければいけないだろう。
 学校と学童も心配である。しかし、学童以上に乳幼児のほうが、放射線に対する感受性が高い。

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原発 子供たちに今だからできること

 原発周辺地域の子供たちに、今だからできることがある。

 チェルノブイリの事故の後、目立って多かったのは子供の甲状腺がんだった。
 福島原発の周辺地域でも同様のことが起こる可能性がある。しかし、いまなら防護策を打つことができる。心ある方が動いてくれることを願う。

 甲状腺がんの増加は、原発から放出されたヨウ素131による。ヨウ素131が食品を経由して体内に入ると、甲状腺に集まってくるためである。

 防護策とは次のようなものである。

1 子供の甲状腺へのヨウ素131蓄積のチェック

 ガンマ線スペクトラムの出せる機械なら、ヨウ素131とその量が一発でわかる。安価なカウンターしかない場合でも、喉のところで線量が増加するかどうか調べればおおまかなことはわかるはずだ。要注意の場合だけ、精度の高い機器で調べればよい。

 ヨウ素131の半減期は8日である。いまなら、まだ体内に残っているから、その子に危険があるかどうか、調べることができる。
 体に蓄積されているとすると、3月下旬から4月上旬くらいに食べた食品に付着していたものである。それ以来ちょうど1か月くらいたつから、5%くらいに減っているであろうが、それならじゅうぶん検出できる。
 もう一か月くらいすると、微量になって検出するのが困難になってくる。

2 ヨウ素131の蓄積が確認された子供の健康管理

 ヨウ素131の蓄積が確認された子供に、いま、バランスのとれた食事とストレスのない生活を送らせることはたいへん重要である。
 ガン細胞は、発生した初期の段階では数が少なく、生体の免疫作用で多くは死滅する。しかし、健康が損なわれた状態だと、がん細胞が生き延びて増殖をはじめやすくなる。

 場合によっては、疎開させることも検討してよいが、親元を離れることによるストレスもあるので、ケースバイケースであろう。

 また、ヨウ素131の蓄積があった子供は、その後の定期的健診を続けていれば、発がんしたとしても、致命的になるまえに手を打てる。

 チェルノブイリの場合、子供の甲状腺がんは、事故後5年くらいから増えている。

 福島原発の事故により、大量のヨウ素131が放出され降下したことは各地のデータに出ているし、食品チェックでも基準値を超えたものが見つかっている。
 現地の野菜は、一つ一つ放射能のチェックなどしていない。気にせずに地元でとれたものを食べていた人たちはたくさんいるであろう。

 子供の甲状腺がんは、本来は稀な病気である。子どものガンは悲惨である。本来、一人でも出してはいけない。

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知識

 しばらく、教育の本題を離れていました。

 原発事故と放射線の研究にほとんどの時間を使っていた。外を歩くと、春たけなわ。

  Tulips_are_fun

 チューリップがやたらとおもしろく感じられた。
 美醜を感じ取ること、人の言うことの真偽を感じ取ること、子供時代にはそれができる。
 いつかそれが知識に置き換えられてしまう。
 「この絵は2億円するのです」と言われると、わけのわからない絵が美しく見えてしまう。

 教育にあたる人たちが、知識の悲しみを感じ取れたら、それは子供たちに伝わる。それが真実を伝えるということだと思う。

 知識には知識の役割がある。その役割を超えて、人間そのものがえらくなったように思い込めば、その人は浅薄だ。試験の点数が取れれば、子どもがえらくなったように思い込ませること。それは、その子の深いところに悲しみを背負わせる。
 子供は、独特の高い倫理をもっている。子どもは生きることがすなわち、学ぶことだ。しかし、賞罰で誘導されるうちに、その倫理が曇る。

 放射線について調べていくと、地道な研究を長年積み重ねてくれている人たちがいた。敬意を持たずにいられなかった。報われる仕事ではなかったろう。しかし、今役に立つ。学問は大事だ。

 学びについて思うことがあった。私は大学生のときに第一種放射線取扱主任者という資格を取った。その後、実務にもついていない。細かいことは全部忘れていた。
 40年もたって放射線の知識が必要なことになった

 にわか勉強だった。でも、なんとかなった。
 勉強って、これでいいのだと思った。どういうことになっているのか原理原則だけ理解していればいい。あとは、そのとき調べればいい。

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学校の許容被ばく量 20ミリSvは高すぎる

福島県の学校での、屋外活動の実施の可否をめぐって、文科省に放射線の基準値が求められた。

[読売新聞]
「同省などによると、基準は、児童生徒の年間被曝許容量を20ミリ・シーベルト(2万マイクロ・シーベルト)として、一般的な校庭の使用時間などを勘案して算定する方針。」http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110409-OYT1T00912.htm

 子どもに年間20ミリシーベルトは高すぎる。

 一般人の年間許容線量は大人で1ミリシーベルトである。

 許容線量は、放射線作業者で年間50ミリシーベルト(5年間で100ミリ)と決められている。20ミリシーベルトとなると、危険覚悟のプロに近い量を子供に対して設定するのである。
 正確には、呼吸による内部被ばく、食品からの内部被ばくも総計しなければならない。それらの数値を出すのは緻密な計測がないと困難だが、だいたい、外部被ばくと同じくらいあると考えてよい。そうすると、40ミリシーベルトくらい浴びることになる。

 放射線の害は、これ以下なら安全、これ以上なら危険というはっきりした線は存在しない。うすいグレイゾーンが続くだけなので、線は引きにくい。しかし、それを勘案して決めた年間1ミリシーベルトである。
 年間20ミリシーベルトだったら、子供を避難させることを考える数字だと思う。急性症状が出ることはない数字だ。しかし、放射線はDNAを傷つけるので、影響が心配である。

 許容線量が1ミリシーベルトだとして、それを超えたらどうするか。そうなった所、そうなりそうな所が続出しているのである。
 これがまた難しい。1ミリから20-30ミリシーベルトくらいは、要注意かつ現実的対処ゾーンと考えるしかない。

 原発もれの人工放射能など、できれば1マイクロでも浴びたくない。放射線としては人工も自然も同じではあるが、原発からの放出など、本来浴びる必然性がない。
 しかし、現実問題がある。避難するとなると、そのための苦労、避難先での安定しない生活による害もある。低線量の場合は、どれだけのリスクを引き受けるかは、考え方の問題でもある。現実的に対処するしかない線量である。

 放射線量の多い地域では、家庭にいても、子供は放射線を浴びるであろう。学校だけ考えてもしょうがない。そこは勘案しなければならない。
 これは、実際のデータが必要である。いま、測定機器が不足しているのだろうが、家庭生活と学校生活での被ばく線量の見積もり、早急に必要である。

 20ミリまで安全のように考えたら、それは違う。
 許容線量の1ミリシーベルトは動かすべきではない。1ミリシーベルトより上は、取り得る対策によってどのような得失が生じるか、それを考えて現実的に対処するしかないのである。もし、私に赤ん坊か妊娠中の妻がいたら、1ミリシーベルトの予測で避難させる。自分は、10ミリで逃げるだろう。ただ現実には、心臓の持病があって避難生活でかえって健康を害しそうなのと、高齢の父を抱えているので50ミリくらいまで耐えるしかないだろう。そういうのが、現実的に対処ということである。

 なお、東京近辺のデータとしては、日本分析センターというところが千葉市のデータとして、
3月中に
 外部被ばく        0.068 ミリシーベルト
 呼吸による内部被ばく 0.063ミリシーベルト
     計         0.131ミリシーベルト
http://www.jcac.or.jp/lib/senryo_lib/hyouka.pdf

 を算定している。これなら、年間1ミリシーベルトに達することはないであろう。単純に12倍すると1ミリを超しそうだが、線量の中心であるヨウ素131は減衰が早くて、3か月もすれば問題ではなくなるからである。

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7日はいちおう注意を ドイツ発シミュレーション

 ドイツ発シミュレーション情報に追加です。

 7日はいちおう注意していたほうがいいと訂正します。

 福島原発のデータを見ていたら、1号機の圧力があがりつつあるためです。
https://spreadsheets.google.com/ccc?key=0AgRxSmVlzFqvdDVWclRkTERaRGJYMzlZSy1pRmIwSXc&hl=ja&authkey=CP6ewJkO#gid=28
どこの部分の圧力なのか、よくわからないのですが、念のため。

これまで、圧力が上がるとベント(圧力抜き)がかなり行われています。

この数値の単位のMpa(メガパスカル)は、1メガパスカルが10気圧です。
0.6Mpaは6気圧。


 なお、ドイツ気象庁のシミュレーションは、「もしも放出があれば、こうなる」という仮想のものです。そのことははっきり書かれています。
 「もしも」の話であり、「こうなる」ではありません。 、
http://www.witheyesclosed.net/post/4169481471/dwd0329

 その「もしも」の可能性が、ないわけではない、という御報告です。

 放出を仮定してシミュレーションをするのは、国際原子力機関(IAEA)の基準であることが報道されています。
(毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20110406k0000m040086000c.html

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6日は安全そう ドイツ発シミュレーションの検証

 きょうの放射能の現実的な危険を知らせるサイトがあるので、内容を検証してみました。

「汚染・6日に日本全土に拡がる怖れ」
http://takedanet.com/2011/04/47_afa2.html
 武田邦彦さんによる発信で、この方は、現在原発、放射能関係について発信している方たちの中で、もっとも信頼できる一人です。 

「ドイツの気象サービス及びノルウェーの発表では、4月5日から7日にかけて、福島原発からの風が一旦、南に行き、四国・九州にまで南下し、そこからさらに偏西風で日本列島を縦断して、北海道に達する上ると予想されています・・・・(以下略) 武田邦彦(中部大学)」

 福島原発でのデータを調べてみました。
 原発から新規に大気中に放出されることはなさそうです。放射性物質飛来の可能性はほとんどなく、来ても微量であると予想されます。
 武田さんの記事も注意深く「風は」と言っています。「放射能が」ではなく。

 以下が理由です。

 もっとも気になるそれぞれの炉の温度と圧力は、爆発や噴出、ベント(ガス抜き)を予想させるものではありません。
https://spreadsheets0.google.com/ccc?authkey=CP6ewJkO&hl=ja&key=t5VrTdLDZDbX39YK-iFb0Iw&hl=ja&authkey=CP6ewJkO#gid=8
(原子力安全・保安院発表のデータをまとめているサイト)

 現在、冷却がそれなりにうまくいって、放射性物質のほとんどは冷却水のほうに出ています。その冷却水が溜まって処理に困っているという状況です。
(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110404-OYT1T00923.htm?from=main3

 現在の福島原発、およびその周辺での放射線量では、いずれのデータでも、一定線量がすこしずつ減衰する形になっています。これは、新しい放射能の追加がないことを示しています。
(東京電力)
http://www.tepco.co.jp/nu/monitoring/11040405.pdf
(文部科学省)
http://eq.wide.ad.jp/

 放射性物質は15日に大放出がありました。それが21-22日に雨となって関東一円に降り注ぎました。その影響が現在まで続いています。
http://plixi.com/p/88696182

 なお、この武田邦彦さんのサイト、基本的な哲学、専門的な知識ともに、優れています。
 ドイツ発の情報も十分に検討に値するものですので、これを発信して注意を促すことは、当然です。

ご本人からも
> ドイツとノルウェーの情報が、どのような基礎的な
> データに基づいているのかわからないので、...
>「絶対にそうなる」と断定的に考えないでください。

と述べられているとおりです。

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«教育委員会 執行機関とチェック機関が一緒